ぶらぶら人生

心の呟き

パークロードから (鳳翩山)

2007-03-24 | 旅日記
 パークロードの欅並木は、芽吹きの季節を迎えていた。
 繊細な枝が、新芽で少し色めき、膨らみ始めていた。
 立ち止まって梢を見上げ、その目で遥かを望むと、鳳翩山が、小さくかすんで見えた。(写真)
 山口駅に降り立つと、必ず鳳翩山を眺めることが長年の習慣になっている。この日も、まだ芽吹く気配のない銀杏並木の遥かに、まずは鳳翩山を眺めて、パークロードへと歩を進めたのだった。

 国木田独歩が『山の力』という短編を書いていて、鳳翩山を扱っているはずなのだが、昔読んだ作品の内容が思い出せない。
 私の蔵書から独歩の作品集を取り出してみても、小品なので掲載されていない。
 鳳翩山を見ると、いつも気になりながら、『山の力』を本気で探すこともせず、読み返すこともしないまま、もう随分長い歳月を過ごしている。
 (そういう類の本は、『山の力』だけに限らない。いつの日にか、と思いつつ、結局、気になる本を読み返すことなく、生涯を終わってしまう場合が多いのだろう。)

 山口に暮らしていたとき、お隣の医師夫妻が、天気のいい日曜日の朝、よく登山された。
 「鳳翩に行ってきます」
 と。近所に出かけるかのような気軽さで、登られたものだ。標高700メートル余りで、登山道も整備され、楽に登れるらしいが、心臓と足に自信のない私には、無理な話である。
 山を眺めて、医師夫妻を思い出した。今は仕事をやめて、マンションに移られ、お会いすることもなくなった。
 目の前の鳳翩山が、日ごろ意識にない人をふと思い出させた。

 先日、湯田温泉の「セントコア山口」に友人と宿泊したとき、
 「夕食は、ホウベンの間でお願いします」
 と、宿泊受付の女性が案内するや、同行の友人は、
 「嘘も方便、と覚えておきましょう」
 と、すかさず言った。
 「鳳翩山の鳳翩よ、きっと」
 と、私は言った後、人が耳にした言葉を、各自の意識がどう受け止めるかに個人差のあることを、面白く思った。
 私ほど、鳳翩山に関心のない友人は、山口の地にあっても、<ほうべん>=<鳳翩>とは結びつかず、ことわざの、<嘘も方便>の方を思い出したらしい。
 目路遥かな鳳翩山が、「ホウベンの間」で、河豚料理をいただいた日のことまで、思い出させた。
 意識の連鎖反応は、思いがけない場所にまで、心を遊ばせる。
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パークロードの椿 (山口)

2007-03-24 | 旅日記
 パークロードの山桜のすぐ傍に、べっとりと赤い、八重の椿が咲いていた。
 珍しいという意味では、目をひきつける椿であった。(写真)
 歩道を染めた落椿の赤い模様も、木にあるときの赤を保ち続け、妙に生々しかった。

 今年は、一体、幾種類の椿を見たことになるのだろう?
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パークロードの山桜 (山口)

2007-03-24 | 旅日記
 パークロードを県庁の方向に、辛夷を求めて歩いている途中、山桜が咲き満ちているのに出会った。昔から、この木はここにあったなと、思い出す。
 飴色の葉と淡紅色の花が、同時に梢をにぎわしていた。(写真)

 その傍にソメイヨシノの木もあったが、開花には、まだ日数を要する感じだった。
 図書館の傍を通って後河原に出た。川沿いの桜並木も、気の早い桜が、一つ二つほころびているだけだった。
 夜桜を楽しむための、照明の準備は既に整っていたけれど。
 そして、昨日の陽気は、夜の散策を楽しむのに十分な暖かさであったけれど。
 桜の蕾の方は、気象の変化にまだ戸惑っている様子であった。

 ぶらぶらと一ノ坂川を上って下った。
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パークロードの辛夷 (山口)

2007-03-24 | 旅日記
 週末はお天気が崩れると予報していた。
 そこで、昨日は、思い立って、山口に出かけた。
 辛夷の花が咲いていることを期待しながら。

 天空を仰ぐと、パークロードの辛夷も、赤煉瓦脇の辛夷も、梢々に、白い蝶のような花をひらつかせていた。
 あゝと、ひとり花を見上げる。
 幾十年も、人と眺めてきた辛夷の花を、今はひとりで眺めるしかない寂寥が、たまゆら心をよぎる。
 「今年も辛夷が咲きました」
 と、語りかけるように、心の中で呟いてみる。

  山なみ遠に春はきて
  こぶしの花は天上に
  雲はかなたにかへれども
  かへるべしらに越ゆる路

 
三好達治の詩を口ずさむ。
 「山なみとほに」と題した詩である。わずか4行の七五調の詩。
 (昭和19年刊・詩集『花筐』(はながたみ)より)
 辛夷を見れば、ひとりでに口をついて出てくる愛誦詩である。
 三好達治の心境も、心寂しいものであったに違いない。 
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哀れなるかな!

2007-03-24 | 身辺雑記

 水仙の末路。(写真)
 花茎は首を垂れ、白い花冠は既に萎び、黄色の副花冠だけが健在である。

 水仙の里を彩った花々は、みな零落の一途を辿りつつある。
 命あるものの最期は、すべてが似たような運命をたどるに違いない。
 自分の残生を考えながら、花の前にしゃがみこんだ。
 まだ副花冠の黄は色鮮やかで、それなりの美を保っている。
 私の今に、<それなりの美、ありや否や?> と、水仙に問いかけてみる。
 答えは、「否」。
 哀れなるかな!

 現在もあちこちで、水仙の花に会う。そては大方が、黄水仙ばかり……。

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