おねえちゃんの独り言

「おねえちゃんの独り言」のブログ版
(・・・って、そのまんまだけど)

祖母の一周忌

2017-05-29 21:17:50 | Weblog
 今日は祖母の一周忌である。こちらはまだ29日だが、日本ではすでに5月30日だから、一周忌。それにしても、まさか祖母の一周忌を待たずして母が亡くなるとは、夢にも思わなかった。きっと本人だって、祖母の納骨や合同慰霊祭の前に自分が死んでしまうなんて、夢にも思っていなかった。6月に日本に来たついでに祖母のお墓参りをしてくれたら祖母も喜ぶだろうと思う、なんて少し前のメールに書いていた(実際には、母がこのメールを書いた時から状況が変わり、納骨は分からないが合同慰霊祭は10月のようだ。納骨の場所も当初思っていた三鷹ではなく、八王子のお寺になったので、お参りするのもなかなか大変である)。
 本当に人生というのは、分からないものである。
 当初に比べれば随分と落ち着いて、ことあるごとに涙がこぼれるような心理状態ではなくなったものの、やはり「どうして?」「なんで?」という言葉が頭の中をぐるぐるしていることに変わりはない。そもそも正確な死因も分からず仕舞いだし、具合が悪くなってから亡くなるまでに数日の間があったようなのにどうして自分で救急車を呼ばなかったのかも謎だ。なによりも、どうしてあと3週間、子どもの学校が夏休みに入って遊びに行くまで、待っていてくれなかったのか・・・。このことは、私が死ぬまでずっと思い続ける。悔やみ続ける。
 祖母は亡くなる前日から突然様子がおかしくなり、間もなく死ぬことを悟ったように急に母に会いたがったそうである。どうして母は、私を呼んでくれなかったのか。そりゃベタベタ仲良しの親子じゃなかったけど、祖母と母の関係に比べたら、私と母の関係のほうがまだ良かった・・・なんて、実は私の勝手な思い込みだったのか。
 魂になってでも、どうして会いに来てくれないのか、どうして知らせてくれなかったのか。確かに胸騒ぎはしていたが、それはあくまで、しばらくメールの返信が来ないという状況からの判断である。高校三年生の時に祖父が亡くなった時だって、死亡推定時刻に私はふと目覚めた。ちゃんと知らせてくれた。亡くなった数日後にも、「(私が)泣いてばっかりいるから」と、ちゃんと会いに来てくれた。例え魂になってでも、アメリカは遠すぎる? 遅くなっちゃったけど、それでも精一杯急いで実家に戻った後も、一向に会いに来てはくれなかった。やっぱり怒っているのか。それとも、早々に地上から消えてしまったのか。あまりにも予想外で、自分でも自分が亡くなるとは夢にも思っていなかったから、会いに行こうと考えもしなかったのか。
 とりあえず今は、手先が器用で昔からいろいろなものを手作りしていた祖母が晩年に縫った人形を握りしめて、祖母の冥福を祈ろう。

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日常生活に戻る・・・?

2017-05-26 21:50:31 | Weblog
 23日に、無事にアメリカに戻ってきた。日本からアメリカまでの飛行機の中では、ほとんどずっと意識朦朧。熟睡もしない代わり、すぐに意識が飛ぶので映画を見ても途中で分からなくなる。自宅に着いてからも、ダンナが子どもの送り迎えに行っている間に、片付けをしながら気を失う。自宅に戻って気が抜けたか、体力の限界か。
 夜も、睡魔に勝てずに10時に寝てしまい、夜中にふと目覚めて今自分がどこにいるのか分からなくなる。自分の腕のすぐ隣に、寝相の悪い子どもの足があり、一体全体これは何だろうと夢うつつに触ってみて人間の体であることに気付き、どうして他の人間が隣にいるのか?!と、相変わらず夢うつつのまま「幽霊?!」とおののき、しばしの後にすでにアメリカに帰ってきていることを思い出し、安心して再び深い眠りに落ちる。
 翌24日は目覚ましが鳴る7時の1分前に起床。約10日ぶりに質量ともにまともな睡眠を取る。これで復活! 時差ボケなし!というか、そもそも日本にいた間も日本の時間帯で生活していなかったけれど・・・。
 日本にいると、ずっと何かを「やらなくては!」との思いに取り付かれて休めない。アメリカにいてもやることはあるが、実家の片付けなど、やりたくてもできないことがたくさんあり、仕方なくでも休息できる。学校に通っている子どもがいるから、生活のリズムもイヤでも戻る。いったん帰って来て本当に良かった。
 とはいえ、次の日本行きは6月4日。それまでもかなり多忙だ。当初は私と娘と二人だけで日本に行く予定だったところ、事情が事情なので急遽、夫も行くことになり、お陰で夫も多忙。
 留守中、夫が面倒を見てくれることになっていたモルモットも、どこかに預けなければならない。それにこの先も、私は(夫にモルモットの世話を任せて)何度も日本に行くことになるだろうし、気持ちの余裕もあまりない。これ以上モルモットが増えても困るので、ついに、オスのモルモット(ラッシー)を以前から考えていた去勢手術に連れて行く。以前問い合わせた獣医の電話番号が携帯に残っていたので、アメリカに戻ってきた日に速攻電話して予約。金曜日に手術と相成った。
 予約した時、前夜6時以降は何も食べさせるなとの指示。実はこれが一番かわいそうでつらかった。6時と言われたものの、少しおまけして7時半頃、ラッシーだけ別のケージに移す。他のモルから見えない場所に置いて、何度も「ごめんね」と謝る。
 当日は朝の渋滞を見越して早めに家を出たところ、9時の予約なのに8時過ぎには獣医に着いてしまう。幸い獣医も早めに診てくれて、ラッシーを預けていったん帰宅。予想外に早く11時頃に手術終了の電話があり、空腹で放置してはかわいそうなので取るものも取りあえずあわてて迎えに行く。ちゃんとレタス(モルの好物)も持って行ったのだが、まだ痲酔が残っているのかボーッとして食べない。家に着く頃にようやく少し覚醒してきて、処方された抗生物質や痛み止めも気が抜けるほどあっさり食べてくれて、一安心。
 夕方にはかなり普通に戻り、餌もそこそこ食べてくれて本当に良かった。ただ、手術前と比べて超おとなしいのが、疲労と痛みのせいなのか、去勢して性格が変わってしまったのか、よく分からなくてチト気になる。何にしても危険はもうないので本当にほっとする。
 さてと、我が家の現在のモル、大人のメス3匹、オス1匹、子どものメス1匹。2週間弱預けるとなると結構な出費だが、そんなことを言っている場合ではないので仕方がない。

 夜、トイレの鏡に向かい、ふと視線を上に移して愕然とする。白髪増えてるし・・・。今まで、年の割に白髪がほとんどないのが自慢だったのに・・・。

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とりあえず離日

2017-05-23 15:01:09 | Weblog
 寝たのが10時半ぐらいなのに、目覚めたら11時45分。さすがに頭も重く、もう一度寝ようとするが、眠れず。時間がもったいないのであきらめて12時頃に起き出し、活動開始。
 さすがに帰りの飛行機の中では、よく眠れるだろう。そういえば、座席を選んでいないのだった。また往きのように窓際に座れるだろうか・・・?

 とりあえずは、スーツケースがどのぐらいの重さになるか、試してみる。ほんとギリギリ、22キロ以上23キロ未満でセーフ。あとは手提げの旅行カバンに適当に荷物を入れるだけ。

 この1週間の慢性的な睡眠不足に加え、前夜は1時間しか寝ていないからかなりヘロヘロ。もうすっかり明るいというか、すでに暑い6時頃、重い古紙の束を抱えてゴミ集積所まで何往復もして、早くも汗だく。せっかくさっき、眠気覚ましにシャワー浴びたのに、ゴミ捨ててから浴びれば良かったよ。まあ、次のシャワーはアメリカの自宅に戻ってから。

 大量のゴミを出したことで玄関周りがかなりすっきり、通りやすくなったところで、再び荷物片付けに戻る。それにしても、エンドレスな作業だなぁ・・・
 7時半頃、やる気の糸がぷっつり切れて強烈な睡魔が襲ってくる。もうこのまま空港に向かって、空港のロビーで居眠りしていたい気もするが、我慢我慢。ここにいられるのもあと数時間だ、がんばろう!
 今回、母(のお骨)といられるのもあと数時間だぞ。いろいろ、本当にごめんね。また待たせることになって申し訳ないけど、もうすぐ子どもと一緒に帰ってくるから、あとちょっとだけ、ここで待っててくれる? 一人で待たせて、本当にごめんね。帰って来たら、一緒にお出かけは難しいけど、久しぶりに家で3人で食事しようね。「おばあちゃんに見せるんだ」って、この1ヶ月ほど子どもが一生懸命けん玉練習してるから、見てやってね。
 やっぱり本当にこれは現実なのだろうか。わずか1週間前のことが、はるか昔に感じられる。アッという間に母がいなくなって、アッという間に実家もなくなり、アッという間に帰る家がなくなる。東京に一週間単位で滞在できるのだって、あと2回の予定だ。その後は、東京に来ることがあっても、ごく短期間。ゆっくり遊ぶなんて、とてもできなくなる。
 自分で好きで、自分で選んでアメリカに渡ったんだから、遅かれ早かれ、いつかはこうなること、分かってたでしょ? うじうじすんじゃね~>自分

 それにしても・・・!!! である。しつこいけれど、どうして今なのか。どうしてあとちょっと、あと1ヶ月、待ってくれなかったのか。

 8時頃、駅の近辺を一回りして用事を済ませて帰って来てからは、もう眠さの極致で思考能力ゼロ、やる気ゼロ。それでも寝過ごすのが怖いのでなんとか寝ずにがんばって、頭使わないで体使って過ごす。

 そういえば、子どもが生まれて以来、常に子どもと一緒だったから、一晩でいいから一人で寝たい、一人で過ごしたい、一人で出張でも旅行でもいいから行きたいと、ずっと願っていた。それが、こんな形で叶うとはね。普通の状況だったら、とても心配で私一人で旅行などできないのが、今回は事情が事情なのでやむを得ずに一人旅。そうしたら、実は子どもも私がいないならいないでなんとかなってしまう、ということに気づき、嬉しいような寂しいような・・・

 実家から空港に向かう時、昔は母と祖母が見送ってくれた。実家の前でタクシーを待ちながら、そんなことを思う。そもそも、この家から出発すること自体、あと2回だけか。時は流れる、時は進む、時は決して戻らない、もう二度と昔には戻れない。
 バス停でタクシーを降り、空港行きのバスに乗る。私に子どもが生まれてからは、母はいつも一緒にタクシーに乗ってバス停まで見送りに来ていた。バスの窓から、見送りの人の中に母の姿を探す。在りし日の母のように、バスの中に向かって手を振る人たち。涙がこぼれないように目を閉じ、そのまま羽田まで爆睡する。

 羽田では、手荷物検査官が私のバックパックを何度もX線にかけている。その様子を、位牌が入っているせいかな、と、ぼんやり眺める。位牌を持って飛行機に乗る人も少ないだろうから。
 そして搭乗口前のベンチでくつろでいる時、はたとレンタルしていたWiFiルータを空港で返却するのを忘れて出国エリアに入ってしまったことに気付く。X線検査は、位牌じゃなくてWiFiルータをチェックしてたのかも。ってか、X線検査のためにバックパックからパソコン出した時とか入れた時とかに気づけよ!>自分。まあ、幸か不幸か2週間後にはまた来る。もちろん延長料金は取られるけれど、特に手続きは不要とのことでほっとする。開き直って、出国エリアでインターネット・・・

 6月の来日時の復路便は、今日とまったく同じ便だ。今日は予行演習みたいなもんだな。さて、とてつもなく長い1週間だった。とりあえずいったんアメリカに戻って、一休みしよう。もうすぐ、今度は子どもと一緒に行くから、あとちょっと待ってて!

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5月の東京ってこんなに暑かったか?!

2017-05-22 21:46:36 | Weblog
 迷惑メールに起こされないよう、ちゃんと携帯の電源を切って寝たが、2時40分頃に自然に起きてしまう。睡眠不足なのか、酒が残っているのか、頭が重い。珍しく朝シャワーを浴びてから活動開始。
 ゴミの種類と収集日の関係で今まで捨てられなかった、冷蔵庫の中の古い食品を、せこせことゴミ袋へ。異臭を放つ肉に閉口。まだ食べられるけど明日にはいったんアメリカに戻ってしまうから、今、捨てざるを得ない野菜に「ごめんなさい」と謝罪。
 常日頃、なんでもかんでも「もったいない」と、どんなものでも可能な限り無駄にしないように生活している身にとって、まだまだ使える物を大量に廃棄せざるを得ない今回の作業は、かなりつらい。すべて業者に任せてしまえば楽ではあるが、せめて分別リサイクル、と、ちまちまちまちま、すべての荷物を確認する予定でいるもので、時間がいくらあっても足りない。
 反面、すごく適当でおおざっぱなアメリカのゴミ収集は、本当に楽だなとも思う。日本国内でも自治体によって違いはあるのだろうが、実家がある市は分別が細かくて、大変な手間である。本当にみんな、こんなにていねいに分別してるのか???
 ふと、台所の床下収納の存在に気付き、試しにちらっと蓋を持ち上げてみる。何年も開けてすらいない様子で、ものすごいほこり! 見なかったことにしよう、と、速攻で蓋を戻すも、後で冷静に考えて祖母のへそくりでも隠してあったら大変だから、一応がんばってチェックしようと思い直す。
 それにしても母の印鑑が未だに見つからない。ずっと印鑑の類いがまったく見つからず、昨日ようやく印鑑がたくさん入った引き出しを発見してやった!と思ったのもつかの間。今日、改めて探してみたら、銀行や保険などの大切な書類に使っていたと思われる実印が入っていない。一体全体どこにあるのか???

 今日は昼前に南青山に用事がある。その前の用事の関係でかなり早めに家を出ることになってしまい、ヘロヘロなので各駅停車で座って行こうと思っていたのに、駅に着いたらすぐに急行が到着、ついつい乗ってしまう悲しい性(サガ)。山手線の駅に着いたところで無性にモスバーガーが食べたくなり、駅前の交番で場所を聞いて行ってみるも、以前その場所にあったモスバーガーはなくなっていた(たまたまその辺にいたヤクルトレディに聞いた)。駅から結構遠く、ただでさえ暑さと心身疲労と慢性睡眠不足と空腹でヘロヘロなのに、無駄なエネルギーをさんざん使ってしまった。こんなことなら、実家の最寄り駅近辺のモスバーガーで食べてから電車に乗れば良かった。後悔先に立たず、後の祭り、なにもかも・・・
 仕方ないので山手線で渋谷に向かい、センター街ならあるだろうとハチ公口から出る。渋谷なんて、何年ぶりか。で、肝心のハチ公の像はどこに行っちゃったのさ??? 今度は交番に聞かずセンター街をうろつくが発見できず、結局駅に戻って交番に聞く。今度のおまわりさんはちゃんと電話帳で住所を調べて確認してくれた。やっぱりセンター街近辺にあったのだが、入り口が非常に分かりにくく、言われなきゃ分からんところだった。超久々のモスチーズバーガーとポテトでエネルギー補給。しかし、最近まともに食べてないから意外にお腹に入らない。食べ物を残すなんて許しがたい行為なので、がんばって完食してから駅の反対側を青山方面へ。
 あの辺、歩道橋が多くて疲れるのは昔からだった気がするが、あちこち工事中だし新しいビルはできてるし、まったくもって浦島太郎。それにしても東京に外国人観光客が増えたなぁ、びっくり。明らかに観光客と分かる白人をたくさん目撃した。
 帰りはさすがに疲れ切って、座席で居眠りしているうちに実家の駅到着。駅ビルでいろいろお世話になった隣家への手土産を買ってから実家に戻る。
 家に戻ったら郵便受けに「不動産を売るならうちで!」という不動産屋のちらしが束になって入っていて、びっくり。どこで聞きつけたのか、耳が早いというか何というか、恐ろしい・・・。とっとと売りたいのは山々だけど、相続が終わらないと売れないんですよ~ん。

 なにはともあれ、引き続き、面倒な片付けや手続き作業に戻る。
 うちの家族はみんな基本的に几帳面だ。母も、平均的な人よりは分かりやすく情報を残してくれたとは思う。それでも、それまで存在を聞いていなかった、手続きが必要な書類があちこちから次々に出てくる。これ、やっぱ1週間が限界。明日いったんアメリカに戻る予定で良かった。ここにずっといたら、ひたすら作業が続いてどんどん消耗していくから、いったんアメリカに戻って「作業やりたくてもできない」状態にして強制的に休息しないと、身が持たない。

 夜は、親友が忙しい中を無理して実家の最寄り駅まで来てくれたので、駅前のファミレスでしばし話し込む。ドリンクバーでコーヒー紅茶など、カフェインをたっぷり摂取して最後の夜にそなえたつもりが、10時前に眠くなってきてちょっと寝ることにする。どうせまた夜中に目覚めるし、いつものように深夜からがんばろう!

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暑い⋯

2017-05-22 06:37:46 | Weblog
 今日も実に暑い。なんだか汗だらだら。どうやらロサンゼルスも今週末はいきなり暑いようで、太平洋のこっちと向こうで天気がシンクロしているのもなんだか不思議。
 それにしても、今回来日して以来、普通の食事をしたのは叔父叔母と一緒にファミレスの日替わりランチを食べただけである。あとはひたすら、冷蔵庫の中身処分。それも、料理なんてとてもする気にならないので、生卵飲むとか、生の人参やピーマンをかじるとか、豆腐そのままとか・・・。我ながら、なんだかなぁ。まあ食欲もないから、どうでもいいけどね。
 さてさて、今日もがんばって片付ける。旅行の記録を書いたノートがたくさん出てくる。とっておいてあげたいけれど、すべてアメリカに持って帰ることは不可能なので、ごめんなさい、と謝りながら古紙の袋へ・・・。「千の風になって」の全歌詞を書いた全面広告が保存してあるのを発見し、しばし号泣。
 そのうち荷物引き取り業者が見積もりに来る。曰く、3年以上経った家電はすべて廃棄処分になるらしい。もったいない!!! うちに3台もある大型冷蔵庫、1台は相当古いが、2台はそこそこ新しくて問題なく使えているのに、廃棄?! しかしなぁ、大型冷蔵庫なんて個人では運べないし、どうしようもない・・・。ドラえもんのスモールライトがあったら、買ったばかりの洗濯機ともどもアメリカに持って帰るのに。この洗濯機はさすがに買って半年も経たないので、買い取りになるらしいが。
 母が普段使っていたと思われる財布を調べていたら、お守りが2つ入っていた。しかも一つは長生きのお守り・・・。迷わず燃えるゴミの袋に投げ込む。ひとっつも、まったく、守ってくれなかったじゃん!!! 別にお守り持ってたからって死なないわけじゃないのは分かるけど、あんな最悪な死に方、どんな人にもしてほしくないような死に方・・・。
 母の部屋のクローゼットの奥隅に、22年前のペットボトルの水と避難用リュックを見つける。年代物の水もすごいが、リュックの中身もなかなかすごい。なんでフリフリのブラウスとか時代を感じるワンピースとか、入ってんのさ??? 微妙に変色した22年前のティッシュとか、なかなか感動的。台所の流し下の収納の隅にも、謎の水ボトルが大量に。緊急時用???とも思うのだが、何かの空き瓶に水を入れたらしく、さらに日付が書かれている。そして毎年1本ぐらいずつ増えている。毎年、入れ替えるのではなく、増えているようだ。一体全体何の意味があるのか不明。母だか祖母だか知らないが、何かのおまじないか??? 英語で緊急用と書かれた箱(おそらく海外で生産されたもの)を開けてみれば、これまた20年前のアルミパック入りの水。なんだかなぁ。
 あまりの暑さと、火葬以来の脱力で、しばしまったりしていたら、大学時代の友人が二人、車でやってきたので、テレビとDVD/HDDレコーダーのセットをもらってもらう。細々した日用品や生活用品も適当に持って行ってもらう。電子レンジやトースター、体重計とか血圧計とか、他にもいろいろあるよん。放っておいたら廃棄処分になっちゃうんだから、どんどん持ってって!
 7時前に友人達が帰って行ったので、シャワーを浴びてから、来日以来初めてビールを飲む。暑さと、久々のキリンラガーの濃い味に、ついついお代わりしてしまう。そして、「どうぞ持って行ってください」ボックスに入っていたビールの6本セットを、そそくさと冷蔵庫に入れる。まあ、今夏は頻繁に日本に来るから、このぐらいは軽く飲むでしょう。
 ほろ酔いに涼しくなった外からの風を受けて、いい気分でメールチェックしたら、こういう時に限って仕事が入っていた・・・。睡魔と戦いながら、しばし仕事をする。
 ついついビールを3缶も飲んでしまい、最後は睡魔と酔いで意識朦朧としながら何とか仕事を終わらせ、10時頃ベッドに横になった瞬間に眠りに落ちる。(21日のお話でした)

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脱力・・・

2017-05-21 08:20:29 | Weblog
 今回来日して以来、携帯電話への迷惑メールの数がものすごい。一日中、何回も何回も、何通かずつまとめて届き、イライラする。3年半の留守中に溜まっていたものが少しずつ届いているのかと思い、サーバメールの削除というのをやってみたり、メールアドレスの変更もしたのに、何故か古いアドレス宛の迷惑メールがまだ届く。詳しく調べる時間も思考能力もない。誰か助けて・・・
 昨日の10時前に泥のように眠ってからも、何度も携帯メール着信に起こされる。マナーモードにしても振動音で起きてしまう。いっそ電源を切って寝れば良かった。結局、1時40分の迷惑メール以来眠れなくなり、2時過ぎにあきらめて起き出して活動開始。こんな時間に起きることになるのなら、夕べ、素直に7時頃にベッドに入っておけばよかった。
 皆が起きている時間帯になり、週末ということで、古くからの友人と電話で話したり、中学時代の友人が様子を見に来てくれたりで、少し気が紛れる。わざわざ神社に寄って厄除けのお守りを買ってきてくれた。なんと気が利く。今の私に一番必要なものをよく分かっていらっしゃる。
 それにしても今日は暑い。東京は湿度が高いから、真夏のロサンゼルスより暑い気がする。

 火葬場に向かうため、まずバスに乗ったら、途中からさっきまでうちに来ていた友人が乗ってきて、びっくりする。一緒にJRの駅で降りたら、目の前で杖を持った、おじさんとおじいさんの中間ぐらいの男性が転んで、びっくりする。周りの人があわてて起こしてあげていたけど、なんだかもう他人のことと思えない。みんな転倒が原因で、ボケたり具合が悪くなったり死んだりするんだよ、特に高齢者の場合・・・
 JRの駅からはタクシーで火葬場へ。祖父の時も確かここだったが(火葬場なんて、そうそうないからね)随分と新しくなって雰囲気が違う。30年以上も経ってるんだから、当たり前か・・・。30秒前に到着したという父と合流、叔父叔母も時間前に到着。
 父は、歩行補助の手押し車につかまりながら、ゆっくりゆっくり歩く。曰く、転ぶのが一番あぶないからね、転ばないようにゆ~っくり歩いてるよ。はい、是非そうしてください。
 最後の面会を済ませ、これが現実であることが信じられない気分で焼却炉に送られていく棺を見送る。本当に本当に本当なのか?! 半ボケの父は、「私のほうが絶対に先に逝くと思っていたのに、信じられない」「こんなことになるとはまったく思っていなかった」といった話を繰り返す。まったくその通り。私だって一番最初に頭をよぎったことは「順番が違う!」だったよ。でももし順当に(?)父が先に亡くなっていたら、その際の面倒な各種手続きはまた母が背負い込まされていた。私に、お前がやれ!お前が苦労しろ!って言ってるんだよね。
 待合室でぼそぼそとはずまぬ会話をする。父の口から初めて、新婚旅行の時の話を聞かされる。こんな父でも、少しは感傷に浸っているのか。そして二言目には「最近もの忘れが激しくてねぇ」「でも本当に惚けると、忘れたことも忘れるそうだから」。確かにそうかもしれないね、「思い出せない」と自覚しているうちは、まだマシなのかも。そのうちに葬儀社の人が呼びに来る。焼却炉が開き、すっかり小さな骨のかけらになってしまった母が出てくる。胸が苦しい。これって、本当に本当に現実のことなのか???
 骨壺とその箱を見た瞬間、レンタカーで来なかったことを深く後悔する。あんなに大きかったとは! いや冷静に考えればあのぐらい大きいことは予想できたはずなのだが、思考能力がないし、慣れてないから(慣れてるヤツもあまりいないだろうけど)。
 お骨を拾う時、係の人が「これは○×の骨で」「これはどこの部分で」などと説明してくれる。なんだか小学校の理科室にあった骨格模型を思い出す。去年の最後の手術で腕の部分に装着された金属と長いボルトが、まるで櫛か歯ブラシのような形でそのまま残っていて、投げ捨てたい衝動に駆られる。こんなもの、天国でまでしていたくないだろう、こんなものはめられて・・・若い男が母にぶつかってこなければ、リハビリ医が医療ミスをしなければ、こんなことになっていなかったのに、今も生きていたはずなのに!!! ・・・父の背骨に埋め込まれたボルトとステイは、もっとずっと大きいのだろうなぁ。
 歯茎に埋めたインプラントの支柱も、そのまま見事に残っていた。私のもあんな感じで残るんだろうな・・・。
 巨大でずっしりとしたお骨の箱をしっかり前に抱き、今度は父と共にタクシーに乗って八王子の有料老人ホームへ。父の後見人を誰にするかとか、通帳や証券の預かりをどうするかの相談。関東にいる父の妹も高齢で具合が悪くて身動きとれないし、他にどうしようもないので司法書士にお願いすることになったのだが、司法書士が後見人に正式に就任するまで数ヶ月かかるそうで、父の件のほうも面倒くさそう・・・。6月にまた来る約束をして、延々とタクシーにゆられてうつらうつらしながら実家に戻る。八王子は、遠いわ・・・。
 家に戻ると、たくさんの郵便物。生協の解約書類や生命保険の書類がもう届いてる。早っ。でも生保の書類は書留なので、月曜日に郵便局まで取りに行かねば。タイミング良く届いていたクレジットカードの請求書を見て、はたと気付く! NHK! 今までまった思いもしなかった! 日本にはそんなものもあったっけね、これも解約しなくちゃ。ネットで調べると土日も受ける電話番号があったので早速かけるも、延々と保留音で待たされ続けて挫折・・・。
 必要になった書類のコピーをしにコンビニに行った後は、超々久しぶりに湯船にお湯をためて入浴。しばし脱力してお湯に浸る。その後のことは、よく覚えていない。心身共に限界に達し、ベッドに倒れ込む・・・

 よく寝たような気がして目覚めたら夜中の1時。さすがにもう1回寝て、今度は2時20分頃起きる。そして活動開始。今回は本当にどこの時間帯で生活しているのやら、わけが分からん。

 それにしても、昨日も30度超、今日(日曜日)も朝7時台からガンガンに暑い。東京は湿度も高いから、砂漠地帯のLAから来た私には真夏のように暑く感じる。先週末がこんな陽気でなかったことに感謝。この上、発見された時には遺体が腐敗して・・・なんてことにもしなっていたら、私はもう生きていけなかった。
 火葬が終わったら、なんだか脱力してしまって、夕べからあまり片付けの手もはかどらない。今日は日曜日、大抵の会社が休みなので電話をかけたり出向いたりといった作業はできないし、予定も家財道具整理業者が見積もりに来るぐらいである。今日は少しのんびりやるかな・・・

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かなりの疲労

2017-05-19 21:12:31 | Weblog
 木曜日の夜7時過ぎにベッドに倒れこみ、深夜1時過ぎに目が覚める。久しぶりにまとまった睡眠を取れた気がする。というか、一体全体どこの時間帯で生活しているのやら。まあいい、やることとは山積だ。深夜でもできることが、いくらでもある。今日も深夜に活動開始。
 死ぬことをまったく予期していなかったのだから当たり前だが、物理的にも手続き的にも、ものすごいとっ散らかりようである。いや、祖母の面倒も父の面倒もすべて母におしつけて自分は好き勝手に生きてきた私に、お前もたまには苦労しろ!と言ってるんだよね。きっと、わざと私に仕返ししてるんだよね。分かったよ、がんばるよ、自分にできることを全力でやるよ。
 そうやって考えると、病気であらかじめ死期が分かっているケースは、あまりに若い場合は別として、本人も周りも準備ができるだけ、比較的幸せな死に方だよね。

 それにしても、東京は本当に夜明けが早い。時間帯の西の端にあるから日の出も日の入りも遅いロサンゼルスに慣れてしまうと、5月の東京が朝4時頃から明るいのにびっくりする。東京の夜明けの空を見ると、夜通し遊んでいた学生時代が懐かしく思い出される。

 処分するもの、整理するもの、確認するものは無限にあるが、まずは飲食物を最優先。それにしても、必要最低限の物しか買いたくない私からすると、信じられないような買い置きの量である。食べ物も飲み物も薬やサプリの類いも。それなのに、トイレットペーパーが見つからない。なんで? と思っていたら、意外なところに、これまたたくさん買い置きしてあった。
 あまりにも物とやることが多すぎて、「あれって、どこで見たんだっけ?」「あれは、どこに置いたんだっけ?」と、ほとんどトランプの神経衰弱状態である・・・
 それにしても、カバンも衣類も靴も、たくさんあるなあと感心。私が持っていなさ過ぎか・・・???
 母の遺品のチェックはもちろんなのだが、後で自分の荷物も整理しなければならない。四半世紀近くアメリカに住んでいるが、実家に置きっぱなしだったものもかなりある。特に写真は無数にあるし、これだけは絶対に捨てたくない。アルバムをすべて持って帰ることは不可能なので、今のところ、写真だけはがして持ち帰る予定なのだが、それにしても数が半端ない。気が遠くなる。

 今日は午後1時から納棺。前にも書いたが遺体を安置している施設が変な場所にあるので早めに家を出たところ、12時過ぎに着いてしまう。まあ、遅れるよりいい。
 葬儀社の人も少し早めに来てくれて、私一人のお見送りの儀が始まる。親族以外がいたら変だし、でも母は弟も夫も好きじゃないんだから、私一人。
 葬送にまつわる行事なんて、まったくもって生き残った人間の独りよがりだなとは思う。葬儀もやらずに直葬(直接火葬)なのに死に化粧なんかしたって、おそらく本人にはもう何も分からないし、誰かに見せるわけでもない。それでも、そうせずにはいられない、きれいな姿に戻してあげたい。遺された人間がしてあげられることって、そのぐらいしかないから。旅装束を着せてあげて、今度はもう転ばないで誰にも邪魔されないで天国まで着けますようにと祈る。天国なんて、あるかどうかも分からないのに。中学生の頃に愛読していた漫画に出てきたセリフ、「死んでから何をしたって、生きている人間のエゴ」。まったくその通り。でも、やらずにはいられない。
 訃報に接して以来、頭の中は「どうして」「どうして」の繰り返し。腕の手術から退院した後は、何もなくても毎日メールしてもらう約束をしていれば良かった。しばらく返信がなくてものすごく胸騒ぎがしていたくせに、気を遣って考えすぎてしまって何も行動できなかった。まさかこんなことになっているとは夢にも思わず、何か気分を害するようなことを私がしたのではないかと、そういう風に考えてしまったから。母はそういう性格の人だったから。あんなに弱ってしまっていたと、全く気付かなかった。もしそれを分かっていたら、もし母の異変に最初に気付いた配達の人が誰かを呼んでくれていれば、もし偶然母の知り合いが電話をかけて異変に気付いてくれていれば・・・。今さら何を言っても、何の意味もない。
 私に「人生に『もしも』はない」と教えてくれた先輩は、30過ぎで突然死してしまった。
 もしこれを読んだ人に、75才以上の一人暮らしの親族がいたら、元気そうに見えてもいつ何が起こるか分からないと肝に銘じてほしい。是非とも、毎日決まった時間に連絡をするとか、いざという時の連絡先(市の地域担当者とか)を控えておくとか、準備を怠らないでください。そうしないと、自分が死ぬまで後悔することになるかもしれない。
 別に長生きしてほしかったわけじゃないけど、こんな死に方、絶対にしてほしくなかった。

 3時過ぎに実家に帰り着く。心身共にかなりヘロヘロになりつつも、貴重な平日の日中を無駄にはできない。速攻で着替えて市役所へ。不動産登記について質問したら、法務局へ行けと言われ、急いで移動。法務局では、相談は本来は予約制らしいのだが、たまたま担当者に空き時間があり相続登記についてさくっと説明してもらえてラッキー。で、結論、こんなん自分でやるの、不可能! 地元に住んでいてもかなり面倒だと思うが、アメリカ在住者には不可能。12才から死ぬまでの戸籍を集めるって、なんじゃ、そりゃ? いや、他にもいろいろ・・・そりゃ普通、司法書士に頼むわ。
 でもって、相続はまた別で税務署だと。確か税務署もどこか近くにあったハズだが、記憶があいまいで歩き回って探す元気もない。もう日米間の相続の専門家に相談するって決めたから、どうでもいいや。法務局も市役所も税務署も、全部まとめてやってもらおう。
 前日は夜7時過ぎに就寝したもんで、6時半頃から強烈に眠くなってくる。なんとか普通の生活時間帯に直したいので気合いで起きていようとするものの、力尽きたのでもう寝よう・・・。

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聞きたくなかった話

2017-05-19 03:54:48 | Weblog
 アメリカで母の訃報に接して以来、ロクに寝ていない。さすがに疲れてよく眠れるだろうと12時過ぎにベッドに転がり込んだのに、なんと2時過ぎには目が覚めてしまう。もっと寝ようと試みるも無理そうだし、やらねばならぬことは山積。時間はいくらあっても足りない。夜中から活動開始。
 大して広くないとはいえ一軒家、それも30年も住んだ一軒家の片付けなんて、並大抵の作業ではない。感傷に浸ったり、もったいないなどと考え始めたら、100年かかっても終わらない。しかも、自分の部屋以外、何がどこにあるか分からない。まずは不要な物を捨てるだけでも数日かかりそうな作業。必要なものは見つからないし、ある作業をしている間にも次々と他のやることが見つかって、あれもこれもと訳が分からない。
 朝9時になるのをじりじりと待ち、片っ端から電話をかけまくる。定期配布物の停止、契約解除、生命保険・・・などなどなどなど。
 その間にも、何十年ぶりかに会う叔父叔母が訪ねてきたり、葬儀屋が打ち合わせに来たり(葬儀はやらずに火葬。司法解剖が入ってしまったので、生前希望していた献体はできず)、叔父叔母と共に今日も母の遺体に面会に行ったり(遺体を安置している施設が不便な場所にあり、昨日はタクシーで行ったが、叔父叔母が車で送ってくれて助かる)。
 3人で母の顔を見た後、久しぶりに叔父叔母と一緒に食事をする。亡くなる直前まで元気だったのに、来週、祖母の一周忌を兼ねて一緒に食事することになっていたのに、など、ひとしきり故人を偲んだ後で、なぜか祖母の悪口を聞かされる。本当に家族というものは、どうしてこうも仲が悪いのか。こんな状況でなければ、母の悪口も出てきそうな勢い。いやまあ生前、母からもさんざん愚痴は聞かされたからお互い様。私はいつも聞き役に徹するし、もうどうでもいいけれど、家族って本当に面倒くさい。ってか、どうしてみんな、そんなに祖母の悪口を言うのか? もしかすると本当にわがままで自分勝手な人だったのかもしれないけど、私には優しくていい祖母だったよ。一年前に祖母が亡くなって以来、3日と空けずに祖母との楽しかったこと、思い出してる。
 今朝、母が発見された寝室を掃除した時、あちこちに血が飛び散っていることに驚いた。さらに、血をふいたティッシュがゴミ箱に捨ててあった。転んで打ち所が悪くてすぐに亡くなったわけではないようで、血なんか拭いてる暇があったらどうして自分で救急車を呼んでくれなかったのかと、やるせない。自分では大丈夫だと思ったのか。叔母曰く、ハンドバッグが投げ捨てられたように落ちて開いていたので、警察も事件性を少し疑い、現場の写真も細かく撮影していったそうである。買い物から帰ってきて、転んだのか・・・
 叔父叔母に地元の駅まで送ってもらい、警察が預かっていたものを返してもらいに警察署へ向かう。担当の警官はとても親切で、アメリカから慌てて電話した時からずっとよく対応してくれた。しかしそこで、聞きたくなかった話を耳にする。母は、部屋に飛び散っている出血の原因になった転倒から、数日間は生きていたらしい。11日12日の新聞もお弁当も手つかずに残っているのに、死体検案書の死亡推定日は13日だ。顔に転倒した時にできたと思われるあざや傷があるが、いずれも致命傷ではなく、原因は不明ながら脳に血栓(だったかな?)ができていたそうだ。11日にお弁当を配達に来た人が、普段と様子が違うことに気付いたと言うが、どうしてその時に市にでも連絡してくれなかったのか?!・・・なんて、今さら言ってもどうしようもない。司法解剖をしても正確な死因は不明ながら、脳の障害を遠因とする衰弱死とでも言えばいいのか。胃の中は空っぽだったそうである。どうして誰かに助けを求めてくれなかったのか。脳の障害で何も考えることができなくなっていたのか。そんな話、本当に聞きたくなかった。どうして?という言葉しか出てこない。
 自宅で死にたいとはよく聞くが、こんな形でひとりぼっちで何日もかけて弱っていってから死ぬなんて、絶対に納得できない。少なくともひとりぼっちではないだけ、病院で死ぬ方がまだマシだ。どうして誰か呼んでくれなかったのか?
 祖母みたいに106才まで生きてほしいなんて、私も母自身も思っていたわけではないけれど、こんな風に何の準備もできないまま、孤独に死んでいってほしくなかった。
 去年の10月から12月にかけての長期入院と度重なる手術以来、すっかり体重が落ちて弱っていた。亡くなった時の体重は35キロだったと言う。去年10月に、若い男にぶつかられてせっかく治りかけていた手首を再び痛めることがなければ、こんなことにはならなかった。おまけに入院中にもリハビリ担当者のミスで、入院延長してさらなる手術をすることになった。母というのは、どうしてそんなに運が悪いのか!!! 母が「これが限界」というところまで回復した時点で、余分にかかった費用や後遺症による損害などを計算して病院を訴えてやろうかとまで考えていたのだが、今となってはもうどうでもいい。
 父はもう、目に見えてどんどんボケボケになっていく。会話などは普通なのだが、すぐに忘れる。火葬の時間と場所を電話した後、父がいる施設のスタッフにも内容を伝え、ちゃんと時間にタクシーに乗せてくれるようお願いする。それでも、同じ内容を聞くために、何度も何度も電話してくる。「最近、物忘れがひどくてねぇ」と、必ず、照れ隠しのように言いながら・・・。
 朝、叔父が来た時に、父が表に貼っていたので、叔父が慌ててはがしたという張り紙を見せてくれた。そこには大きな字で「○×(母の名前)は亡くなりましたので、新聞その他、すべての配達は止めてください」というような内容が書かれていた。
#こんなもの、門の外の通行人から見えるところに貼ってたのかよ・・・?!
 コントじゃないんだから・・・。苦笑するしかない・・・。
 長い長い一日があっという間に夕方になり、基本的にほとんどの会社が対応しなくなる午後5時。今日は今までの人生で一番たくさん電話をかけた日だ、などと思いながらメモを見ていて、年金を止めるのを忘れたことに気付く。・・・はぁ、明日もがんばろう・・・!
 夜7時、何日もロクに寝ていないので限界になり、ベッドに倒れ込む・・・

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3年半ぶりに訪日

2017-05-17 23:57:02 | Weblog
 訃報に接した月曜日の夜は、まんじりともせずにほとんど眠れず。顔には出さずとも動揺しているのか、娘も4時頃から目を覚ましちゃって、結局家族全員で超早朝から活動開始。(明日から、夫が一人で学校に送る予行演習も兼ねて)夫と一緒に娘を学校に送ったその足で、私は空港行き電車の駅まで送ってもらう。空港までの高速道路が混んでいそうなことと、一度電車で行ってみたかったこと、荷物も軽いことから、今回は電車で空港へ。
 車を降りて一人で歩き出した瞬間に強烈に心細くなる。今まで数え切れないほど、仕事でも個人でも一人で世界中を旅してきたくせに。
 普段乗り慣れないことと、動揺しているせいで、電車の改札口のどこにプリペイドカードをタッチするのか分からず、変な場所に何度もタッチして首をかしげて隣の改札に移動したりしている私を見かねて、近くにいた兄ちゃんが「そこじゃない」と教えてくれる。恥ずかしい・・・
 電車の中では人に降りる駅を教えられ、駅から空港までのシャトルバスでは近くのおっちゃんがスーツケースを荷台に乗せてくれ、親切にされる旅にこぼれ落ちそうになる涙を止めるのに苦労する。前日に予約したにもかかわらず窓側の席を割り当ててくれて、思わずお礼を言いながら、そんなことですら泣きそうになる。
 全身スキャン検査が導入されたせいで以前にも増して長くなった荷物検査の列を抜け(実に国際線搭乗3年半ぶり、浦島太郎状態)、搭乗開始より2時間も早くゲートに到着。やることがなくなると泣きそうになるから、雑誌を読んで気を紛らわすが内容がちっとも頭に入らない。
 ようやく飛行機に乗り込む。窓際で喜んだものの、なんと、真後ろの席は幼児。そもそも飛んでいる飛行機の中はうるさいしヘッドフォンもするので、泣きわめくのは気にならないが、定期的に私の座席の背中を蹴ってくるのには閉口。
 小刻みにうつらうつらと眠るも、日本に着いたらあれもやらなきゃ、これもやらなきゃと気ばかり急いてよく眠れない。おまけに、ようやく深く眠ったと思ったら後ろのガキに座席を蹴られて起こされる。そんなこんなで仕方なく映画をひたすら見まくる。最新の機体で映画のラインナップが豊富で助かった。
 日本が近づくにつれて、心臓がどんどん喉元にせり上がってきてバクバク音を立てる。この四半世紀近く、飛行機が日本の空港に着いて税関を抜けたら、なによりも先に母に連絡をするのが習慣だった。それなのに今回は、まっさきに電話する先は警察署だ。やっぱりどうしても、これが現実のことだと思えない。胸が苦しい。涙がにじむ。
 母という存在は本当に不思議である。本当に小さい頃は無条件に愛していただろうが、ある程度大きくなってからは、ちょっと距離があった。自分の仕事も忙しい中、一生懸命育ててくれたと思うし、別に虐待されたわけでもなく(夫婦仲が悪かったのは、ある意味、子どもにとっては虐待だけど)、なんでも買ってくれたし(そもそも法外なおねだりはしない子どもだった)、今のように海外旅行が一般的ではない時代からヨーロッパや南太平洋、北米なんかに連れて行ってくれたし、平均以上の親だったと思うが、でもなんだか怖かった。頭が良すぎて聖人君子みたいで、なにより私に対する期待が大きすぎて怖かった。だから成長してからは、尊敬はするけれどもあまり好きではなかった。
 成長して一人暮らしをするようになった私は、時々、一人で寝ていて悪夢にうなされることがあった。夜中に夢だと分かっていても非常に怖い思いをして、そして何故か夢の中で「ママ!!!」と叫んでいるのである。それも一度や二度ではない。そんなにベタベタ仲のいい親子ではないのに、本当に不思議である。母親というのは、まったく不可解な存在だ。
 結局、母があまりに偉大すぎたのか、怖すぎたのか、この期に及んでも根っこの部分で母に頼っている自分に気付く。今では人生の中で母と別々に住んだ時間のほうが長くなってしまったが、それでもなんだかんだいって、好きも嫌いも関係なく、一番自分に近く関係が深い人間は母なのだとしみじみ思う。いつかはいなくなるものなのだが、どうして今なのかと、昨日からもう百万回ぐらい頭の中で繰り返した言葉をまた繰り返す、
 過去2回の日本行きは、なんだか大失敗というのか、よくないことが重なった。3年半前の最後の日本行きの時は特に、母とのトラブルが深くなり、もう二度と行くものかという気分になった。時間の経過と共に気持ちは和らいだし、基本的に礼儀正しい家族だから内心腹が立っている期間も、メールや郵便物のやりとりは続いていた。しかし、そんなこんなで母の家に世話になる気にどうしてもなれず、3年半も空いてしまった。きっと母も最後の時のことを時間と共に後悔したのか、1年半前の冬休み前には、さりげなく「(日本に)来てもいいよ」とメールにあったが、私がどうにも行く気になれなかった。そして去年は不幸の連続、両親ともの怪我、入院、手術などなどで、日本に行くどころではなかった。ようやく少しは落ち着き、「父に会いに来い」とメールしつつも、きっと母も会いたいのだろうと感じたから、6月に娘と日本に行くことにしていたのだ。3年半ぶりに大きくなった孫に会うことを、一緒に遊びに行くことを、どれほど楽しみにしていたかと思うとまた胸が苦しくてたまらなくなる。どうしてあと1ヶ月、待ってくれなかったのか・・・

 そうこうするうちに着陸し、日本の携帯の電源を入れた瞬間に何十年も会っていない叔父(母の弟)から着信であせる。やはり父では使い物にならないので、叔父が(おそらく警察に)引っ張り出されて実家で留守番をしていたようだ。警察やら叔父やら父やら、いろいろ電話しているうちに実家に着き、荷物を置いてタクシーに飛び乗って母の遺体が安置されている葬儀社へ。司法解剖しても結局、死因は断定できなかったものの、事件性無しということで戻され、司法解剖してしまったために献体はなくなったそうだ。
 生きていたとしても3年半ぶり、しかも亡くなって1週間後、亡くなる時に転倒したアザも顔にあるし、正直なところ変わり果てた姿。でも今まで、警察や医療関係者、半ボケの父(アメリカから電話した時、母の遺体と共に実家で一夜を過ごしたという父の言葉が、単に半ボケ老人の妄言であったことが帰国後に判明)にしか面会してもらっていなくて、やっと「本物の肉親」が来たからね、遅くなってごめんね、あれもこれも、いろいろ本当にごめんねと、冷たい体を抱きしめる。とりあえず火葬は土曜日になったので、明日も来るから、と、娘の写真を枕元に置いてくる。

 さて、問題は実家である。いろいろ散らかっててすさまじいのだが、何より、いたるところに配達されたお弁当や飲食物が放置されているのに閉口。おそらく父だと思うが、さらに自分用に買ってきたコンビニ弁当の食べかけまで放置して行きやがって・・・。もう異臭が漂い虫がわいている。それが、一カ所にまとまっていなくて、ああここにも、ああこんなところにも!!! ナントしても明日の朝のゴミ収集に出すべく、がんばって5つもの市指定ゴミ袋になんとか収める。後は明日、ほぼ徹夜で飛行機乗って機内でもほとんど眠れず、もう体力の限界。いや、がんばるよ、明日からアメリカに戻るその瞬間まで。葬儀社もすごく不便な場所にあるけどがんばって木曜も金曜も会いに行くよ。今まで、祖母の面倒も父の面倒も全部母に押しつけていたツケが回ってきたんだよね。お前も少しは働け!って言ってるんだよね、がんばるよ。
 実家、一人で怖いどころの騒ぎじゃない、究極に疲れて、横になった瞬間に爆睡。・・・ってか腐敗した食べ物にわいたムシが怖いわ。

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人生というもの

2017-05-15 22:52:42 | Weblog
 15日の朝、携帯に日本からの着信と留守電にメッセージが入っていることに気づいた。着信時間は深夜3時頃、日本時間では夜7時過ぎか。実家がある市の職員から、母のことで電話をくれ、実家に電話してくれてもいい、とのメッセージ。強烈な胸騒ぎを覚える。
 実はここのところ、母からのメールがなくて心配していた。忙しいのか、薬のせいでやる気が起きないのか。最後のメールは先週月曜日、娘宛に母から荷物が届いたので娘がお礼のメールを出したところ、すぐに返信が来た。日本時間では9日火曜日午前中。
 私のところには、日本時間2日夕方のメールが最後。その後、こちらから2回メールしたし、母の日ギフトも届いたはずなのに、音沙汰無し。以前にもあった、メール関連のトラブル(特定のプロバイダ間のメールがブロックされてしまう)かとも思い、娘がヤフーメールを使っていることから、自分もよほどヤフーからメールしてみようかと思いつつも、いろいろ考え過ぎてしまってまだ送っていなかった。
 留守電を聞いたのが日本時間で夜の11時45分頃。時間が遅いので迷いつつも、実家にかけてくれて、とのことなので、思い切ってかける。電話に出たのは、有料老人ホームにいるはずの父。心臓の鼓動が速くなる。そして聞いた言葉は、母が亡くなったという一言。
 私は何よりもまず「順番が違うでしょ!!!」と心の中で絶叫していた。どうして母が先? 普通どう考えたって、父が先に亡くなるでしょ??? 父のほうが年上だし、平均寿命だって男の方が短いし、20年も人工透析して、去年は半分近く入院して過ごして・・・。どうして??? なんで???
 半日以上経った今でも、まだなんだか現実のこととは思えない。
 父は当然だが、状況がよく分かっていない。いきなり呼び出されて、これからどうしようか、といった様子。この時点では、父は果敢にも(?)こっちで処理するから私は日本に来なくていいとのたまい、私も気が動転してそのまま電話を切るも、時間が経つにつれ、どう考えても母が亡くなったのに一人娘が日本に行かないというのはあり得ない!との思いにかられる。大慌てで翌日の日本行きチケットを予約し、あれこれ準備し、詳しい状況を知りたくてイライラしながら日本が朝になるのを待つ。
 日本が16日の朝になってまずは実家に電話をしたら、まだ父いて、水曜には日本に着くから、面倒な手続きは私がやるから、と伝えたところ、露骨にほっとした様子が声から伝わる。驚いたのは、てっきり病院か警察にあると思った母の遺体が、実家にあると聞いたこと。そんなことってあるのか? 両親が同じ屋根の下で一夜を過ごしたのって、何十年ぶりだろうねぇ、皮肉な状況だけど。何にしても、父と話してもよく分からない。
 1分毎に時計を見て、日本が9時になった瞬間に電話をくれた市の職員に電話をかける。そこで、母の異変に最初に気づいたのは、去年のさんざんな骨折・手術を経て腕が不自由で料理もままならない母が頼んでいたお弁当屋さんであることを知る。毎夕届けているお弁当が何日もそのままになっていて、これはおかしいと市に連絡してくれたそうである。
 続けて、もっと詳しい状況を知っていそうな警察に電話。警察の担当の人が親切に教えてくれたところによると、母が最後に目撃されたのは10日のお弁当の配達の時だったという。11日は鍵が開いていたのでそのまま玄関に置いていき、12日は前日のお弁当がそのままになっているから変だとは思いつつも2階からテレビの音がしたため、やはりそのままお弁当を置いて帰った。土日は休みで月曜日にまた配達に行ったところ、前週木金のお弁当がそのままだったので、これはおかしいと市に通報したのだそうだ。
 ということは、11日には亡くなっていたのか。最近ちまたでよく話題にのぼる、死後、何日も経ってから発見される「高齢者の孤独死」である。自分で救急車を呼ぶ間もなかったのか。でもきっと、少し前から具合が悪かったようだし、どうして誰かに助けを求めてくれなかったのか・・・
 警察の人によると、玄関の鍵が開いていたことと、これといった持病もなくて死因が分からないことから、司法解剖になるかもしれないらしい。ようやく少しは詳しい話が分かって、日本に着いたらすぐに連絡すると伝えて電話を切る。

 ・・・朝からずっと、喉の奥になにか詰まったようで、心臓が苦しい。
 特に仲の良い親子ではなかったが(うちの日本の家族、誰と誰の関係を見てもあまり仲良くない)、不幸になってほしいとか、イヤな目に遭ってほしいとか、そんなことは間違っても思っていなかった。赤の他人だって孤独死の話を聞いたら胸が痛む。去年の信じられないような不幸続きの後で、今年はきっといいことがあると言い合っていたのに。最悪まで落ちたら、あとは上るだけかと思っていたのに、最悪の次に究極の不幸が待っていた。
 実は、3週間後に夏休みに入った娘を連れて、日本に行くことになっていた。娘も、そしておそらく母も、指折り数えて楽しみにしていたはずだ。どうして今なの??? どうして1ヶ月後じゃなくて今なの??? これがもし、久しぶりに孫と楽しく過ごした後だったら、同じ孤独死でもこんなに苦しくなんかならないのに、どうして今なのか???
 母の人生って、なんだったんだろう。もちろん日本に生まれたというそのことだけでも世界一不幸であるハズがないし、日本一不幸だとも思わないが、はたして幸せだったのかな。そりゃもちろん細かい浮き沈みは誰にでもあるが、昔からなにかと不運で、でもかなりラッキーなタイミングで割増退職金もらって引退した頃が一番幸せだったのかな? 終盤は予想外に長生きだった祖母に振り回されているうちにあちこち怪我して肉体も衰えて、ようやく祖母から解放された最後の一年は、前に書いたように父の手術、入院、老人ホーム探しに振り回され、自分の怪我、手術、医療ミスによるさらなる手術と後遺症にも苦しめられ。あと3週間で3年半ぶりに孫と楽しい夏休みを過ごせるというタイミングでの孤独死。
 それに絶対、本人はあと何年かは生きる予定でいた。近いうちにメンテナンスが大変な一軒家を売り、自分も父のようなマンション型有料老人ホームに入り、身軽になって悠々自適な生活をするつもりでいたはずなのに。
 孫とだって、もっとたくさん遊びたかっただろう。3年半前に日本に行った際に母との間にちょっとしたトラブルがあり、以来、私は日本に行くことを避けていた。メールや郵便物でやりとりしているぐらいがちょうどいいと。今回は、母のほうから「父が本格的にボケる前に会いに来い」とのメールで日本に行くことになったのだが、そのメールが来たのが春休み直前。そのとき、無理してでも春休みに行けば良かったのか。というか、父の心配している自分が先に亡くなるなんて、本人も夢にも思わなかっただろう。誰でもいつかは死ぬのだけれど、母は亡くなる時に何を思っただろうか。何を思う間もなく、眠りに落ちるように亡くなったのだろうか。ボケたり寝たきりになる前にぽっくり亡くなったことを幸せだと思うべきなのか。
 ・・・だから、どうして今なのか??? これが1ヶ月後だったら、発見が遅れたことを除いて、祖父並の大往生である。だけど、どうしてあと1ヶ月待ってくれなかったのか???
 この先ずっと、私は死ぬまで、母のことを思う度に胸が苦しくなる。やりきれない思いで、いてもたってもいられなくなる。
#絶対に順番が違うし、今時、持病もないのに78才っていうのも早過ぎでしょ?!

 明日私は、めいっぱい気合いを入れて日本に行く。今のところ、うちの家族の不幸は日本で収まっている。どんなことがあっても、疫病神に魅入られてアメリカに連れて帰って来るようなことだけは、間違ってもしてはならない。
 でもはっきり言って、誰もいない実家に一人で泊まるのはものすごく怖い。いやいや、気合い入れまくって、死に神でも疫病神でも蹴散らしてこなくては!!!

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