おねえちゃんの独り言

「おねえちゃんの独り言」のブログ版
(・・・って、そのまんまだけど)

ようやく母の話

2016-12-14 23:24:50 | Weblog
 もう勢いで母の話も書きます。母の運が悪いのは何も今年に限った話ではなく、もちろん人生いい時も悪い時もあるだろうが、総合評価として決して運のいい人生は送ってきていない。さだまさしの「運がいいとか~悪いとか~人は時々~口にするけど~そういうことって確かにあると~あなたを見てて~そう思う~」という感じの人ではある。しかし、話が無限に広がらぬよう、ここでは今年の話に限って書く。
 これとて、もちろん母が「2016年運が悪い大賞」に選ばれるほど運が悪かったと思っているわけでは、まったくない。震災で家をなくした人だっているし、ただ散歩していただけなのに、上から鉄柱が落ちてきて、当たったなんて生やさしいものではなくて頭蓋骨を貫通して即死してしまうというあり得ないような不運な人だっている。
 なにごとも、上を見ても下を見てもキリがないわけで、そんなこと分かっていても、今年はちょっと尋常じゃない運の悪さだったでしょう・・・という、愚痴です、ハイ。

 まず前提条件として、正月早々からの父の入院と、それに伴う多忙やストレス、さらに何年も前から続いていた祖母にまつわる面倒、既往症(?)の座骨神経痛、足首の痛みなどがあります。
 そんな状態の3月下旬、まず自宅の庭で前のめりに転んで手をついてしまい、骨折。これがまた、育ち盛りに戦争で栄養状態が悪かったせいか、よく折れるんだ。そもそも小学生の頃に転んで骨折した腕の古傷があるし、21世紀に入ってからたぶん2~3回、手首周辺を骨折しているはず。そしてこの時は、当日が祝日だったために翌日、近所の整形外科に行ったところ、手首の骨を二本とも骨折との診断。手術するなら近所の総合病院で入院と言われ、父や祖母の面倒のことを考えて手術を避け、そのまま固定を選んだのがミソの付き始めか・・・(ってかそもそも、私だったらどんな転び方をしようと決して骨折などしないから、いかんせん骨が弱いのが根本的な問題なんだけど)
 そんなこんなで肘から先、6週間の固定を経て、とりあえずの治療が完了したのだが、痛みがやわらぐにつれて手首から先のしびれが気になるように。さらに手首も変形。整形外科では、しびれは神経が挟まったせいで保存的治療の限界だと、要するに手術をしなかったらそんなものだ仕方がないと、言われたそうな。
 数ヶ月経ってもしびれは相変わらずだし、重い物も持てない。父が施設に落ち着いてしばらく経った9月後半になってようやく、駅3つほど離れた場所にある、ちょっと有名な整形外科へ・・・
 穏やかで経験豊富そうなそこの医師による診断は、「痛みを取るには大きな手術が必要」「二本の骨の長さが違うので合わせて切る、そっくり返っているのを直すため切り込みを入れ腰の骨を楔状に埋め込む」「しびれはこの変形から来ている」「手首にある、指先へ行く神経を束ねている所が狭くなっている」「筋肉を切り開いて弛める手術が必要」「長く放って置くと、手術しても神経が回復しないことがある」などなど、とてつもなく大変そうな感じである。
 この時はまだ、待ち受ける長期入院手術地獄の未来も知らぬが仏。入院はイヤだし、大きな手術も怖いしで、しびれさえ治れば痛みは我慢できるだろうと、まずは手根管狭窄を治す手術だけを日帰りで受けることに。
 そんなわけで局所麻酔で日帰り手術を受けたのが9月末。手術自体も、術後の経過も、特に問題なし。10月8日には抜糸し、二日後には濡らしても大丈夫という状態にこぎ着けて一安心と思った矢先、またしてもとんでもない悲劇が・・・
 10月10日、近所に買い物に出かけた時、前を若い男が何人かふざけながら歩いていた。突然、中でも大きな男が、何かのジェスチャーでもしたのか、後ろに勢いよく下がってきて、後ろを歩いていた母を突き飛ばした。小柄な母は尻餅をついて転倒し、その際によりによって抜糸したばかりの腕をついてしまったそうな・・・
 実は母、10数年前の雪の日、坂道を歩いていたら近くを歩いていた男が滑って転倒。転ぶ時にその男が、近くを歩いていた母の手を反射的につかんでしまったもので母まで転倒し、骨折したという、不運な過去がある。普通に生きていたら一生で一度も遭わないような目に、同じ人間が何度も遭う・・・。本当に不思議である。
 その若い男どもは、もちろん悪気があったわけではなく、しきりに謝っていたそうだが、「ゴメンで済みゃ、警察はいらないんだよ(古い!)」という話で、アメリカだったら間違いなく速攻で警察を呼び、その若い男に責任を取らせるところである。しかしまあ日本だし、母はそういう面倒を嫌う古い種類の人間だし、そもそもただただ痛くてそこまで頭が回らなかったことだろう。
 翌日、もともと手術後の経過を診せに行くことになっていた整形外科でレントゲンを撮ったところ、親指側の骨が見事に斜めにずれて骨折していたそうである・・・。まったく、どうしてこうも不運かとあきれてしまう・・・。
 とりあえずその場は引っ張って固定し、このままでは元の位置に戻らないし、またすぐに骨折しやすいからと、10月末に入院して腰骨を移植する手術を受けることに。
 そして迎えた、4時間半の大手術。腰骨を移植して反り返っていた部分を修正して金属で固定。小指側の骨は長さが違うので少し削り、こちらも金属で固定。ここまでは予定通りだが、問題は重要な靱帯が損傷していること、10月上旬の骨折後に引っ張ったせいかもしれないと言われたそうな・・・。後日、靱帯の移植手術が必要になるとか・・・。
 おいおいおい・・・ホントに勘弁してよ・・・である・・・。
 それでもまあ約十日後には抜糸をし、予定通り2週間で退院するハズだったのに・・・! 退院前日になって突然、入院延長して翌週に再手術になった、とのメール。
 おいおいおいおいおいおい・・・・・・。
 なんでも、削って人工的に骨折させた小指側の骨にヒビが入っているとか。しかも、原因はどうやらリハビリ担当者の勇み足。医師の指示が出る前に固定を外して強くマッサージをしたらしい。そのまま放っておくと、1年半経ってもつくかどうか分からないので、再手術なのだそうだ・・・。母まで無限手術地獄かよ!!! 
 本当にまったく、どうしてこうなるのか・・・。母が特別、不運なのか。いや、父も延々と無限手術地獄に陥っていたし、最近の日本の病院のレベルが極端に下がっているのか。誰かに教えてもらいたいもんだ。
 もう複雑すぎてよく分からんから詳細は省くが、11月中旬、なにやらカパンジー法とかいうやり方でネジやらワイヤーやらを使って骨をあちこち固定したそうである。担当医師自体は、熱心で丁寧で良い先生らしいのが、唯一の救いか。まあ、医者一人良くても、病院全体で連携が取れていなかったり、レベルの低いスタッフがいたりしたら、台無しだけどね。
 そんなこんなで肩からガチガチに左腕を固定した状態で、ようやく家に帰れたのが11月末。実に5週間の長期入院。ってか、父につづいて母までこんなことになるとは、一体全体なんの因果か・・・。2016年は、霊感商法にツボ売りつけられそうな勢いの(どんな勢いだ?!)不運な年でありました。
 帰ったら帰ったで、片腕使えない、5週間の入院で体はなまりまくり、腰骨を移植したから足も不自由、というわけで大変な毎日を送っているようだが、私としては、母まで有料老人ホームに入るなんてことになったらとんでもなく面倒なことになるので、どうぞそんなことにはなりませんように・・・と、母の一日も早い回復をひたすら祈る毎日なのである・・・。
 精神的にも(当たり前だが)参っているので、そっちも心配。折しも、寒くて日照時間が短くて、健康でも体が固まって動きたくないし、普通でも憂鬱になりやすい冬である。こんな年は早くとっとと去って、心機一転の2017年になり、そして早く春になってほしいものだとひたすら願う今日この頃。

 これでもう今年分のブログに割けるエネルギーと時間は使い果たしたので、よほどのことがない限り、年内にブログを更新することはもうないと思います。みなさま、どうぞ良いお年をお迎えくださいマセ!

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父の話・その4(最終回)

2016-12-11 23:02:38 | Weblog
 ようやくたどり着いた最終回です。この先何が起こるか分からないし、何が起こってもおかしくないので、もしかするとまた父について愚痴を書く機会があるかもしれないが、とりあえず今年はこれが最終回!

 はてさて、広尾の日赤から大久保病院へとのべ7ヶ月以上にわたる入院を経て、ようやく八王子のマンション型有料老人ホームに落ち着いた父。クリニックも併設で、人工透析を車椅子のまま受けに行ける。コンシェルジュもいて、スタッフは皆対応が良くて至れり尽くせり。高額の有料老人ホームだからと言っても、川崎だったか、スタッフが入居者をベランダから突き落としていた有料老人ホームもあったわけで、良いところが見つかったと母も私も一安心。他人に感謝なんかしたことあるのか?!というタイプの父ですら、「良いところを見つけてくれてありがとう」と母に言ったそうで、本当に良い施設なのだろう。
 9月末だったかには、父からの転居通知ハガキがアメリカの私の家まで届いた。印刷の挨拶文の他に、ちゃんと自筆のコメントも追加してあり、こんなものをわざわざ印刷屋に頼んで知り合い一同に自筆で宛名を書き、コメントも追加して送る気力や体力があるのなら、当分は大丈夫だろうとさらに安心した。
 入院以来、父はメールをやらなくなってしまったので情報入手は母経由、さらに耳も遠くなって母も電話では意思の疎通が難しいという状況ながら、どうやら施設から最寄り駅までのシャトルバスなどを利用して、歩行器でも使っているのか、自分で買い物にもボチボチ行っている様子。良かった良かった。

 ようやく父が落ち着いたので、母は自分の腕の手術をすることに(この件、詳細は改めて書きます)。
 そんな、今度は母が大変なことになっていた11月頭、母からのメールにちらっと、父が「歩いていて車に追突された」というようなことを言っていたが、電話での意思疎通が困難だし自分も大変な状態なので詳細は不明・・・などと書かれていた。
 そのときは、ついに本格的にボケた父の妄想か?! 交通事故に遭ったのなら、施設スタッフからも電話ぐらいあるだろう・・・程度に思っていた。
 11月半ばの母からのメールにも、ちらっと「父にお見舞いのカードでも送ってやってくれ」と書いてあったものの、詳細が分からないので何を書いていいのか分からない。それに私も11月は発狂しそうに忙しかったので、結局そのままになっていた。
 11月末、今度は八王子の施設のスタッフから母に電話があったそうで、父が医療センターに入院したとのこと。なんでも車に追突された足の治りが悪いので、スタッフがセンターへ連れて行ったところ、皮膚が黒くなっていた、このままだと皮膚の再生に3ヶ月、皮膚移植すれば1ヶ月、ということで本人が皮膚移植を希望して1ヶ月ほど入院することになったとか・・・
 この期に及んで、まだ入院とか手術とか、したいのかよ?! ってか、そんなに手術が好きなのかよ?!>父。なんか、フランケンシュタインになりそうな勢いだな・・・
 ・・・などと思っていたら、12月に入ってからようやく母にも事故の状況が分かったそうだ。なんでも、施設内の駐車場を歩いていたら、急に車がバックしてきて父にぶつかり、父は転倒して救急車で入院したのだそうだ。その時はおそらくすぐに退院したのだろうが、経過が思わしくないので、このたび1ヶ月入院ということになったようである。

 ・・・・・。
 ったくさあ、本当に一体全体今年って何なわけ?!
 いくら父がよぼよぼ半ボケじいさんで歩行器ヨチヨチ歩きだからって、老人ホームってそもそもがそういう人が入るところなわけで、そこの駐車場で歩行者にぶつかってくる車が100%、いや1000%、悪いでしょ!!!
 なんでそんなに運が悪いわけ・・・???
 7ヶ月以上入院した後で、また1ヶ月入院かよ! いや、運のいい悪いもそうなのだが、その交通事故の処理自体がどうなっているのか、さっぱり分からない。ちゃんと警察に届けてあるのか、相手の車の保険会社に事故証明を出してあるのか、まったく不明。こっちが半ボケだとバカにされて、車が悪いのに父が自腹で入院なんてことになっていたらと思うと、気が気ではないのだが、アメリカにいる私にはどうにもできず・・・
 車なんかと全く無縁の人生を送ってきた母は、そういうことには全く無知だし、そもそも自分が生活するだけでも四苦八苦アップアップ状態の今現在。返信メールでものすごーくゆるーい感じに「ご自身が大変な時だとは思いますが、一応、ちゃんと警察に届けたか、相手の保険を使うことになっているか、確認した方が良いのではないかと思います」みたいに書いてはみたものの、その後、母からメールなし。しつこくメールするわけにもいかず、今現在も気が気ではない。

 父は昔からがめつくて、自分が得することのためにはエネルギーを惜しまないタイプ。多少ボケても、オレオレ詐欺系には間違っても引っかからないだろうと、その点だけは非常に安心だった。そんな父なので、相手の保険を使うとか、そういうところだけは抜け目なくしっかりやっていてくれるといいのだが・・・と、ひたすら祈る毎日なのである。
 結局、2016年は新年早々から年末まで病院かよ、父は。はぁ~~~~~(深いため息)

 ほんの一年前、去年の今頃には投資だなんだとおさかんで、メルマガまで発行していたというのに、今じゃメールはおろか、電話すらまともに使えない。日本橋から八王子に持っていったハズのパソコン、おそらく全く使っていないのだろうな。
 まったく、なんでこうなるのか。一年前に何かの事情(って、なんだよ?!)でもしポックリ逝っていたら、「20年も透析したけど、最後までしっかりして人生まっとうしたね」と皆に言われていただろうに、どうしてこうなるのか。人間という生き物は、どうして幸せに生きることが無理になった時点であっさり死ねないのか?

 前にも書いたが、別に我が家が一番不幸だとか、特に不幸だとか思っているわけでは全くない。報道によると、育児と介護の「ダブルケア」に苦しむ人は、日本国内に推計25万人。別の報道では、「高齢者介護を巡る家族間の殺人や心中などの事件が2013年以降、全国で少なくとも179件発生し、189人が死亡」したそうである(私としては、たったそれだけ?!と思ってしまったけど)。そういう家庭と比べたら、我が家の状態はまだまだはるかに幸せではあるのだが、それにしてもなんだかなぁ。
 これまた別のニュースで読んだところによると、「欧米先進国では、食べなくなった高齢者に点滴も経管栄養もしないで、食べるだけ、飲めるだけで看取る。その方が苦しまずに安らかに死ねる」「日本は終末期の高齢者であっても、医療の内容を変えることがない」、だから、とっとと死んだ方がよほど幸せなボケ老人にも胃瘻などという、考えたヤツの顔が見たいようなふざけた経管栄養補給をして無理矢理生かしたりするわけだ。
 長寿世界一が聞いてあきれるわい。そんな内容で世界一になったって不幸なだけじゃないか。
 いやいや、もしかしたら、昨今は年寄りしか金を持っていないと言われている日本という国で、年寄りに無益な治療を無理矢理ほどこして金をまきあげて国全体の経済を回そうという国家戦略なのかもしれないぞ・・・(お願いだから、父がそんな国家戦略に巻き込まれずに自然に近い状態で亡くなることができますように・・・)

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父の話・その3

2016-12-08 23:11:05 | Weblog
 さてさて、父はほぼ寝たきり、母は左腕骨折の3月末、日赤の医者が唐突に「○×さん(父)には申し訳ないことをした。手術には2つ方法が有った。今度、もう1つの手術方法をやってみては?」と言い出したそうな・・・
 はぁ・・・???
 まさにMJの無限整形地獄状態・・・
 その後、再三の日程変更や、そこまで言っておいてまだどんな手術か医師が迷っているなどというふざけた状態を経て、父は4月上旬に再び、8時間の大手術を受けた。
 医者の説明によると「前回腰椎1と5のチタンを切ったが、外れた5が動いて痛みの原因になった。5は前回ネジを抜いた後が大きく空いていてザクザク。2から4のチタンに、5の下に有る仙骨までチタンを付けたし、仙骨に4本の大きなネジで止めた」そうである。うわ、もう、素人が聞いたって最悪じゃん!と分かる。どんどん骨の穴を増やして大きくしてボロボロにしてるだけじゃん!!! 母があきれて、仙骨なら骨密度が高いのかと訪ねたら、「同じくザクザク」と答えたそうである。・・・・・。「この大きなネジの穴がまた広がる可能性があるし、今度は上の方の1が揺れだしたり、更に上にいき、今後も何度かの手術が必要になると思う」などと平気でのたもうたそうな・・・
 あのさあ、普通に考えて、おかしいと思わないのかね?! 医者なんて職業を長くやってると、普通の感覚が麻痺してそういうものだと信じ込んでしまうのか? 常識的に考えて、そんな手術、普通の人間なら絶対におかしいと思うだろ??? 患者で実験すんじゃねーよ!!! いくら手術代の患者負担がないからって、ふざけるものいい加減にしろ!!!
 この日赤の無責任な清水という医師、挙げ句の果てに「マンションに帰って自活できると思う」とぬかしたそうな・・・。百回死ね!である。普通に考えたら自活できるはずがないことは誰でも分かるが、藁にもすがりたい哀れな患者にあらぬ期待を抱かせやがって、地獄に堕ちろ! てめーの戯れ言のせいで、どれだけ家族が迷惑すると思ってるんだ! ってか、歩けていた患者を寝たきりにする手術をした時点で、百回死ね!である。

 年寄りというものは、転倒や病気をきっかけに、それまで元気だったのが一気に老け込んでぼけてしまうものなのだが、父もしかり。去年までは株仲間に向けてメルマガまで発行していたというのに、入院3ヶ月ですっかりボケ始め、なんでもかんでも忘れる、鍵どこ? 携帯どこ? 耳は遠くなる、相変わらずほぼ寝たきり。哀れの一言に尽きる・・・

 それでも4月末には施設に入る準備ということで、病院から外出して(母が付き添い)株を処分したり、金塊を売ったり・・・して病院に戻ったところで、タクシーから降りたとたんに転倒。これでさすがに本人も、二度と自活したいとは言うまいぞ。
 5月半ば、なにやら唐突に大久保病院に転院してリハビリすることに。前は「回復は期待できない。普通のマンションに戻って自活するのは無理」「リハビリ入院は次に行く施設が決まってからでないと受け付けません」などとのたもうていた、大久保病院のリハビリ医師が、日赤の清水医師がどんな指示を出したのか知らないが、歩行器をつかってよたよた歩く父を見て「家(マンション)ヘ帰れますね」と言ったとか。開いた口がふさがらないとは、まさにこのこと。どいつもこいつも、クソ医者ばっか!!!
 結局、骨年齢100才のすかすか骨に、リハビリなんてろくにできるはずもなく、ちょっと熱心にやれば反動でまたしばらく寝たきりになるし、ベッドに起き上がるのすら大変な状態。さらに血管内の石灰化が進んでいるそうで、脳血管の詰まりのため記憶が全く消えることも時々有るらしい。本人もさすがに自活はあきらめ、前から母があれこれ探していた有料老人ホームへの入所を本格的に検討することに。
 6月末には、最終候補だった八王子のマンション型有料老人ホームを父本人も見学。そこに入ることに決定。耳が遠い半ボケながら、プライドだけはまだ残っている父、母の付き添いを断って一人で銀行を回って預金を寄せ集め、入居金2850万円を振り込み。ヨボヨボじいさんが大金持って、悪漢に突き飛ばされでもしたら一巻の終わりと、母はもちろん、私もアメリカから気が気ではなかったが、どうにか入金も無事に完了。
 最後は7月末に20年住んだマンションを処分。売却金額は、実に、有料老人ホーム入所金の半額以下。広さ(狭さ)や古さ、残していく荷物の処理費など、いろいろな要素があるにしても、絶対に売らざるを得ない状況を見透かされて足下を見られ、買い叩かれた感、バリバリ・・・(私がどうこう言うことではないが)
 かくして父は、一生外せることのないガチガチの硬いコルセットと共に8月上旬、7ヶ月ぶりに退院して八王子の住人となったのでありました・・・
 それにしても、ですよ! いくら透析患者だから治療費自体は無料と言っても、入院費用(差額ベッド代?)が一日3万! 月90万! 1月から8月まで、いったい何百万使ってんの! そういう問題じゃないと分かっていても、その金くれ!と言いたくなる。父が稼いだ金、どう使おうと父の勝手なのは重々承知しているが、豪華クルーズとか別荘に使うのならまだしも、普通に生きてたら(愚かな手術なんか受けなければ)まったく不要だった入院のために使うなんて! その金、うちの子の大学の学費にしてくれたら良かったのに・・・とか、考えたくなるでしょ、誰でも。はあ・・・

 八王子の施設自体は至れり尽くせりで、父も気に入った様子。しか~し、ここで一件落着じゃなかったんですねぇ。今年2016年、私の日本の家族にとって最低最悪の年、まだなんかありましたよ・・・ハイ。というわけで、次で父の話は最後になると思います。

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父の話・その2

2016-12-07 23:00:08 | Weblog
 今年の正月、まだ松の内も明けぬ1月5日、母からのメールで父の腰痛がかなり重症であることを知る。この時点ではまだ頭はしっかり、メールも活用していて、自分で買い物に行けないので母に食料品の買い出しを依頼してきたらしい。
 後に分かった痛みの原因は、前年7月に腰痛改善のために行った手術で背骨に埋め込んだネジがゆるんで神経に触っていること。何でも、普段透析に通っている聖路加では「手術したら車椅子になってしまう」と反対され(私からしたら、実に良心的だ)、紹介を頼って日赤まで行って受けた手術。透析のついでに聖路加で腰痛も診てもらおうとしても断られ、仕方なく日赤で診察を受けたところで判明。(で、そのまま入院)
 日赤の医者曰く「骨年齢が現在の年齢約80歳に透析年数約20年をプラスして100歳。そんな骨にいくら止めつけても骨が脆くてゆるんでしまう」とのことで、誰もが「んなこと、手術の前に言えよ!」と突っ込みたくなる話。ただ、父がそれでも手術してくれ、と、しつこくねじ込んだ可能性もあり、あまり文句も言えない。というか、長年透析という医療行為で生かされているせいなのか、父の医者や医療に対する過信は、医者嫌いの私からするとまったく理解不能。なんで背骨に金属を埋め込んで腰痛が治ると思うのか?! ストレッチとかマッサージとか、もっと穏やかで、いくらでも「取り返しのつく」方法があるでしょうが!
 こうなると、マイケル・ジャクソンの整形手術状態で、次から次へとエンドレス手術地獄である。とりあえず早急に再手術をすることだけは決まったが、方法は未定という恐ろしいお話。
 結局、私も母も普通に考えて「そんなことやればやるほど悪化するだろ???」と思うような手術を1月下旬に受け、しばらく寝たきりに・・・。
 具体的には「前年7月の手術でチタンの梯子状の板を5コの腰椎に長いネジ5対で止めつけた。ところが骨が弱いため、体の動きなどで負担がかかり、上下両端2対のネジ穴が3倍ぐらい大きくなり、ネジが下がって神経に触り痛みが発生した(ぎゃー、恐ろしい、書いてるだけで痛くなってくるというか、そもそもそんな手術をするヤツも受けるヤツも信じられない)」「そこで今回、上下両端のネジを外しチタン板も短くして、腰椎2、3、4番目だけにかかるようにした。腰椎が滑ってこないよう腰骨を移植した。移植の骨が付くまでに6ヵ月くらいかかる」とのこと。医者から説明を受けた母は「3回4回と再手術する人もいる」とまで言われたそうで、そんな手術、どこのどいつが考えて、どこのどいつが受けたいと思うのか?! まったく理解不能な世界である。まさにMJの無限整形地獄状態。
 医者が、病院の評価を上げるために手術件数を増やそうとして、無理矢理やっているとしか思えない。しかも透析患者は治療費の自己負担がないので、患者の同意を得られやすいのだろう。ふざけた話である。
 さてさて当の父はといえば、手術後1月経ってもほとんど寝たきり、つかまりながら数歩歩くのがやっとだそうで、返すがえす、前年7月の手術なんか受けなければ良かったのに!である。それでも手術をした日赤は、金の取れる治療がなくなったとみえて、今度は大久保病院ならリハビリも透析もできるからと転院を勧める始末。一方の大久保病院では(仕方ないので母が話を聞きに行った)、状態を聞いたリハビリ医が「回復は期待できない。普通のマンションに戻って自活するのは無理」と、ごもっともなご意見。さらに、「リハビリ入院は次に行く施設が決まってからでないと受け付けません」と言われたのが3月上旬。
 日赤では、大久保病院に押しつけるのに失敗し、さすがにほぼ寝たきりの患者を追い出せず、改善する治療もなく、そんな状態になってもまだマンションに戻って自活することを夢見ている父は、哀れそのものである。しつこいけれども、前年7月の手術さえしなければ、多少痛くても歩けていたのである。一人暮らしできていたのである。人間、生まれたままの体が一番いいに決まっている。他に生きられる選択肢がないのならともかく、そんなことしなくても生きていけるのに、どうして背骨に板なんか打ち付けようと思ったのか、何度も書くけれども全く理解不能。
 どうやら父は代々木の山下医院の山下医師というのをえらく信頼しているらしい。その山下医師に「手術するなら今しかない」とそそのかされ、彼の友人が勤務している日赤を紹介されたとか。本当に迷惑な話である。どう責任を取ってくれるのか?!(取りようがないわな)

 そして母は3月下旬、父のために何度も病院に足を運んだり日本橋のマンションから郵便物を取ってきてやったり透析もできる有料老人ホームをあちこち探し歩いたり、当時存命だった祖母に関わる面倒もあって疲労が溜まり、転倒して今年1回目の骨折。母に関しては、父の話が終わってから改めて書きます。母の場合は、「一体全体何のために生きているのか」という話とはまた違って、「一体全体どうしたらここまで不運になれるのか」というお話・・・

 とりあえず、父の話(父に関する愚痴)、まだ続きます・・・すいません・・・

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父の話・その1

2016-12-05 23:04:35 | Weblog
 ようやくたどり着いた、父の話です。長生きって一体全体なんなのか? どうして人間は、幸せに生きることが無理になった時点でぽっくりと死ねないのか? 祖父母に関する話の続きみたいなもんです。
 あらかじめ分かっていないと読んでいて意味が通じないと思われることが何点かあり。まず、父と一緒に住んでいたのは小学校高学年の頃までということ。そして、母が(2009年までは祖母も)、私が育った一軒家にずっと住んでいて、父は30年以上、日本橋のマンションで一人暮らしをしていたということ。

 先日も書いたように、2016年は私の日本の家族にとって最低最悪の年であった。
 去年まで父は、20年前(?)から人工透析の身ながら、それなりに元気に自活しており、透析患者向けのツアーを利用したり、透析の合間を縫うなどして、ちょくちょく旅行にも行っていたらしい。
 大手メーカーを定年前に割増退職金をもらって引退して悠々自適。ボケ防止と称して手広く株を売買し、株仲間向けに月2回のメルマガまで発行していた(私のところにも勝手に送られてきていた。私は株に興味はないが、まあ無事の知らせだと思って斜め読みしていた)。
 実のところ、8年前に、93年の渡米以来初めて父に会った時は、かなりの衝撃を受けた。私に子どもが生まれたので、孫の顔ぐらい見せた方がいいのかなと何年ぶりかで連絡を取り、実家に呼んだのだが、まず顔からして別人。長年透析を受けているとこうなってしまうものなのか、偶然会っても絶対に分からないレベルに変わり果てていた。単純に老けたというのではなく、昔の顔が粘土細工であったとして、それをつぶしてゆがめて崩した感じとでも言えばいいのか。当時、まだ実家にいてバリバリ元気いっぱいだった祖母(当時98才)も、父が帰った後で「あれじゃ町で会っても分からないね」と驚いていた。
 まだ一緒に住んでいた40前後の頃の父は、運動神経も体力も同年代平均よりはるかに勝っており、休みといえば日本各地の上級者向けの山に片っ端から挑んでいた。40過ぎてスキー1級に受かったと自慢していた気もする。足腰を鍛えるため、すでに体重40キロを超えていた私を背負ってスクワットもしていた。それが、あろうことか、杖をついてのヨボヨボ歩きである!
#三浦雄一郎には、なれなかったか・・・残念!(半分冗談、半分本気)
 それでも話してみれば相変わらず自信過剰というか偉そうというか、要は元気。父によると、透析患者というのは油断して変な物を飲食してしまうと即コロっと亡くなってしまうらしいのだが、自分はあれこれ研究し尽くし常に気を遣っているから何も問題ない、10年以上風邪すらひいたことがない、と自慢していた。

 この2008年秋の再会から2013年暮れに私が最後に訪日した時まで、日本に行った際には1度は孫の顔を見せ、他は時々メール、孫の写真はYahoo! Photoにアップしてほしけりゃ勝手にプリントしてください状態。誕生日と年末ぐらいはカードを送り、子どもが5才ぐらいからは子どもに手紙や絵を描かせて送り、ぼちぼちと付き合ってきた。
 そう、去年の今頃までは普通にメールでやりとりできたし、メルマガで株価や為替変動を予想したり、まだまだしっかりやっているから大丈夫だなと思っていた。そして、まだ懲りずに、長年の透析で体はボロボロなことだし、直前まで元気で最期はあっさりコロっと・・・と、根拠のない夢物語を信じていた・・・
(続く・・・って、まだ本題にたどり着いてないし・・・)

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