おねえちゃんの独り言

「おねえちゃんの独り言」のブログ版
(・・・って、そのまんまだけど)

かなりの疲労

2017-05-19 21:12:31 | Weblog
 木曜日の夜7時過ぎにベッドに倒れこみ、深夜1時過ぎに目が覚める。久しぶりにまとまった睡眠を取れた気がする。というか、一体全体どこの時間帯で生活しているのやら。まあいい、やることとは山積だ。深夜でもできることが、いくらでもある。今日も深夜に活動開始。
 死ぬことをまったく予期していなかったのだから当たり前だが、物理的にも手続き的にも、ものすごいとっ散らかりようである。いや、祖母の面倒も父の面倒もすべて母におしつけて自分は好き勝手に生きてきた私に、お前もたまには苦労しろ!と言ってるんだよね。きっと、わざと私に仕返ししてるんだよね。分かったよ、がんばるよ、自分にできることを全力でやるよ。
 そうやって考えると、病気であらかじめ死期が分かっているケースは、あまりに若い場合は別として、本人も周りも準備ができるだけ、比較的幸せな死に方だよね。

 それにしても、東京は本当に夜明けが早い。時間帯の西の端にあるから日の出も日の入りも遅いロサンゼルスに慣れてしまうと、5月の東京が朝4時頃から明るいのにびっくりする。東京の夜明けの空を見ると、夜通し遊んでいた学生時代が懐かしく思い出される。

 処分するもの、整理するもの、確認するものは無限にあるが、まずは飲食物を最優先。それにしても、必要最低限の物しか買いたくない私からすると、信じられないような買い置きの量である。食べ物も飲み物も薬やサプリの類いも。それなのに、トイレットペーパーが見つからない。なんで? と思っていたら、意外なところに、これまたたくさん買い置きしてあった。
 あまりにも物とやることが多すぎて、「あれって、どこで見たんだっけ?」「あれは、どこに置いたんだっけ?」と、ほとんどトランプの神経衰弱状態である・・・
 それにしても、カバンも衣類も靴も、たくさんあるなあと感心。私が持っていなさ過ぎか・・・???
 母の遺品のチェックはもちろんなのだが、後で自分の荷物も整理しなければならない。四半世紀近くアメリカに住んでいるが、実家に置きっぱなしだったものもかなりある。特に写真は無数にあるし、これだけは絶対に捨てたくない。アルバムをすべて持って帰ることは不可能なので、今のところ、写真だけはがして持ち帰る予定なのだが、それにしても数が半端ない。気が遠くなる。

 今日は午後1時から納棺。前にも書いたが遺体を安置している施設が変な場所にあるので早めに家を出たところ、12時過ぎに着いてしまう。まあ、遅れるよりいい。
 葬儀社の人も少し早めに来てくれて、私一人のお見送りの儀が始まる。親族以外がいたら変だし、でも母は弟も夫も好きじゃないんだから、私一人。
 葬送にまつわる行事なんて、まったくもって生き残った人間の独りよがりだなとは思う。葬儀もやらずに直葬(直接火葬)なのに死に化粧なんかしたって、おそらく本人にはもう何も分からないし、誰かに見せるわけでもない。それでも、そうせずにはいられない、きれいな姿に戻してあげたい。遺された人間がしてあげられることって、そのぐらいしかないから。旅装束を着せてあげて、今度はもう転ばないで誰にも邪魔されないで天国まで着けますようにと祈る。天国なんて、あるかどうかも分からないのに。中学生の頃に愛読していた漫画に出てきたセリフ、「死んでから何をしたって、生きている人間のエゴ」。まったくその通り。でも、やらずにはいられない。
 訃報に接して以来、頭の中は「どうして」「どうして」の繰り返し。腕の手術から退院した後は、何もなくても毎日メールしてもらう約束をしていれば良かった。しばらく返信がなくてものすごく胸騒ぎがしていたくせに、気を遣って考えすぎてしまって何も行動できなかった。まさかこんなことになっているとは夢にも思わず、何か気分を害するようなことを私がしたのではないかと、そういう風に考えてしまったから。母はそういう性格の人だったから。あんなに弱ってしまっていたと、全く気付かなかった。もしそれを分かっていたら、もし母の異変に最初に気付いた配達の人が誰かを呼んでくれていれば、もし偶然母の知り合いが電話をかけて異変に気付いてくれていれば・・・。今さら何を言っても、何の意味もない。
 私に「人生に『もしも』はない」と教えてくれた先輩は、30過ぎで突然死してしまった。
 もしこれを読んだ人に、75才以上の一人暮らしの親族がいたら、元気そうに見えてもいつ何が起こるか分からないと肝に銘じてほしい。是非とも、毎日決まった時間に連絡をするとか、いざという時の連絡先(市の地域担当者とか)を控えておくとか、準備を怠らないでください。そうしないと、自分が死ぬまで後悔することになるかもしれない。
 別に長生きしてほしかったわけじゃないけど、こんな死に方、絶対にしてほしくなかった。

 3時過ぎに実家に帰り着く。心身共にかなりヘロヘロになりつつも、貴重な平日の日中を無駄にはできない。速攻で着替えて市役所へ。不動産登記について質問したら、法務局へ行けと言われ、急いで移動。法務局では、相談は本来は予約制らしいのだが、たまたま担当者に空き時間があり相続登記についてさくっと説明してもらえてラッキー。で、結論、こんなん自分でやるの、不可能! 地元に住んでいてもかなり面倒だと思うが、アメリカ在住者には不可能。12才から死ぬまでの戸籍を集めるって、なんじゃ、そりゃ? いや、他にもいろいろ・・・そりゃ普通、司法書士に頼むわ。
 でもって、相続はまた別で税務署だと。確か税務署もどこか近くにあったハズだが、記憶があいまいで歩き回って探す元気もない。もう日米間の相続の専門家に相談するって決めたから、どうでもいいや。法務局も市役所も税務署も、全部まとめてやってもらおう。
 前日は夜7時過ぎに就寝したもんで、6時半頃から強烈に眠くなってくる。なんとか普通の生活時間帯に直したいので気合いで起きていようとするものの、力尽きたのでもう寝よう・・・。

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聞きたくなかった話

2017-05-19 03:54:48 | Weblog
 アメリカで母の訃報に接して以来、ロクに寝ていない。さすがに疲れてよく眠れるだろうと12時過ぎにベッドに転がり込んだのに、なんと2時過ぎには目が覚めてしまう。もっと寝ようと試みるも無理そうだし、やらねばならぬことは山積。時間はいくらあっても足りない。夜中から活動開始。
 大して広くないとはいえ一軒家、それも30年も住んだ一軒家の片付けなんて、並大抵の作業ではない。感傷に浸ったり、もったいないなどと考え始めたら、100年かかっても終わらない。しかも、自分の部屋以外、何がどこにあるか分からない。まずは不要な物を捨てるだけでも数日かかりそうな作業。必要なものは見つからないし、ある作業をしている間にも次々と他のやることが見つかって、あれもこれもと訳が分からない。
 朝9時になるのをじりじりと待ち、片っ端から電話をかけまくる。定期配布物の停止、契約解除、生命保険・・・などなどなどなど。
 その間にも、何十年ぶりかに会う叔父叔母が訪ねてきたり、葬儀屋が打ち合わせに来たり(葬儀はやらずに火葬。司法解剖が入ってしまったので、生前希望していた献体はできず)、叔父叔母と共に今日も母の遺体に面会に行ったり(遺体を安置している施設が不便な場所にあり、昨日はタクシーで行ったが、叔父叔母が車で送ってくれて助かる)。
 3人で母の顔を見た後、久しぶりに叔父叔母と一緒に食事をする。亡くなる直前まで元気だったのに、来週、祖母の一周忌を兼ねて一緒に食事することになっていたのに、など、ひとしきり故人を偲んだ後で、なぜか祖母の悪口を聞かされる。本当に家族というものは、どうしてこうも仲が悪いのか。こんな状況でなければ、母の悪口も出てきそうな勢い。いやまあ生前、母からもさんざん愚痴は聞かされたからお互い様。私はいつも聞き役に徹するし、もうどうでもいいけれど、家族って本当に面倒くさい。ってか、どうしてみんな、そんなに祖母の悪口を言うのか? もしかすると本当にわがままで自分勝手な人だったのかもしれないけど、私には優しくていい祖母だったよ。一年前に祖母が亡くなって以来、3日と空けずに祖母との楽しかったこと、思い出してる。
 今朝、母が発見された寝室を掃除した時、あちこちに血が飛び散っていることに驚いた。さらに、血をふいたティッシュがゴミ箱に捨ててあった。転んで打ち所が悪くてすぐに亡くなったわけではないようで、血なんか拭いてる暇があったらどうして自分で救急車を呼んでくれなかったのかと、やるせない。自分では大丈夫だと思ったのか。叔母曰く、ハンドバッグが投げ捨てられたように落ちて開いていたので、警察も事件性を少し疑い、現場の写真も細かく撮影していったそうである。買い物から帰ってきて、転んだのか・・・
 叔父叔母に地元の駅まで送ってもらい、警察が預かっていたものを返してもらいに警察署へ向かう。担当の警官はとても親切で、アメリカから慌てて電話した時からずっとよく対応してくれた。しかしそこで、聞きたくなかった話を耳にする。母は、部屋に飛び散っている出血の原因になった転倒から、数日間は生きていたらしい。11日12日の新聞もお弁当も手つかずに残っているのに、死体検案書の死亡推定日は13日だ。顔に転倒した時にできたと思われるあざや傷があるが、いずれも致命傷ではなく、原因は不明ながら脳に血栓(だったかな?)ができていたそうだ。11日にお弁当を配達に来た人が、普段と様子が違うことに気付いたと言うが、どうしてその時に市にでも連絡してくれなかったのか?!・・・なんて、今さら言ってもどうしようもない。司法解剖をしても正確な死因は不明ながら、脳の障害を遠因とする衰弱死とでも言えばいいのか。胃の中は空っぽだったそうである。どうして誰かに助けを求めてくれなかったのか。脳の障害で何も考えることができなくなっていたのか。そんな話、本当に聞きたくなかった。どうして?という言葉しか出てこない。
 自宅で死にたいとはよく聞くが、こんな形でひとりぼっちで何日もかけて弱っていってから死ぬなんて、絶対に納得できない。少なくともひとりぼっちではないだけ、病院で死ぬ方がまだマシだ。どうして誰か呼んでくれなかったのか?
 祖母みたいに106才まで生きてほしいなんて、私も母自身も思っていたわけではないけれど、こんな風に何の準備もできないまま、孤独に死んでいってほしくなかった。
 去年の10月から12月にかけての長期入院と度重なる手術以来、すっかり体重が落ちて弱っていた。亡くなった時の体重は35キロだったと言う。去年10月に、若い男にぶつかられてせっかく治りかけていた手首を再び痛めることがなければ、こんなことにはならなかった。おまけに入院中にもリハビリ担当者のミスで、入院延長してさらなる手術をすることになった。母というのは、どうしてそんなに運が悪いのか!!! 母が「これが限界」というところまで回復した時点で、余分にかかった費用や後遺症による損害などを計算して病院を訴えてやろうかとまで考えていたのだが、今となってはもうどうでもいい。
 父はもう、目に見えてどんどんボケボケになっていく。会話などは普通なのだが、すぐに忘れる。火葬の時間と場所を電話した後、父がいる施設のスタッフにも内容を伝え、ちゃんと時間にタクシーに乗せてくれるようお願いする。それでも、同じ内容を聞くために、何度も何度も電話してくる。「最近、物忘れがひどくてねぇ」と、必ず、照れ隠しのように言いながら・・・。
 朝、叔父が来た時に、父が表に貼っていたので、叔父が慌ててはがしたという張り紙を見せてくれた。そこには大きな字で「○×(母の名前)は亡くなりましたので、新聞その他、すべての配達は止めてください」というような内容が書かれていた。
#こんなもの、門の外の通行人から見えるところに貼ってたのかよ・・・?!
 コントじゃないんだから・・・。苦笑するしかない・・・。
 長い長い一日があっという間に夕方になり、基本的にほとんどの会社が対応しなくなる午後5時。今日は今までの人生で一番たくさん電話をかけた日だ、などと思いながらメモを見ていて、年金を止めるのを忘れたことに気付く。・・・はぁ、明日もがんばろう・・・!
 夜7時、何日もロクに寝ていないので限界になり、ベッドに倒れ込む・・・

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