おねえちゃんの独り言

「おねえちゃんの独り言」のブログ版
(・・・って、そのまんまだけど)

新顔モル

2016-06-02 08:53:28 | Weblog


 突然、話題変わって、我が家の新顔モルの紹介です。5月24日に我が家にやってきた、ラッシー♪ すでに紹介するタイミングを逃し、さらに明日から子どもの学校が夏休みに入ってますます時間がなくなりそうなので、大した写真もないけど急いで紹介しちゃいます。もっといい写真が撮れたら、おいおいアップしま~す。
 なぜラッシーかというと、微妙にロン毛で、色合いも彼の有名犬ラッシーに似ているからです、ハイ。
 遠目に見ると模様が三毛そっくりで、時々、見間違えます。顔もそっくりで兄弟みたい。


(手前が三毛で、奥がラッシー)

 去年の10月末に我が家にやってきたモジャは、犬並みの人なつっこさ。でもでも、人なつっこいんだけど、他のモルとはどうも相性が悪い。クロちゃんにガン飛ばされてキューキュー鳴きながら固まっているかと思えば、今度は三毛を突く。
 そんなわけで、モジャはごく短い一時期を除いてもともと単独で別ケージだったのだが、クロちゃん・三毛・ラッシーの3匹は、同じケージで仲良くやってくれている。良かった良かった。
 3匹一緒だと、時々ケージ内でぐるぐる追いかけっこ。走り回ってうるさいこともあるけど、ラッシーはとても寂しがり屋。ケージ内に一人にするとサイレンのような大きな声で鳴きまくるので、逆にもっとうるさい・・・!

 ちなみにラッシーとモジャを一緒にすると、真剣に戦ってしまう。上体を持ち上げて顔同士をぶつけ合って、まるで男鹿同士の戦いのような激しさ。困ったもんだ・・・


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ただのぼやき

2016-06-01 22:36:57 | Weblog
 昨日は祖母の死を知った直後で、焦点の定まらない文をだらだらと書いてしまった。そして今日のブログは、最初から、ただのぼやきである。
 祖母が亡くなったこと自体は、良かった。良かったというと語弊があるかもしれないが、だらだらと長生きしても家族に迷惑がかかるし、施設での生活には(自腹分もあるが)税金が使われる、何より本人がもっと早く天国に行きたかっただろう。永遠に肉体が衰えないのであれば、それは長く生きれば生きるほどラッキーかもしれない。しかし実際には細胞は次々と老化して死んでいく。肉体はどんどん衰え、容姿は醜くなり、頭の働きも鈍くなり、四肢は思うように動かなくなり、痛みまで生じてくる。長生きするにしても、いいとこ100才が限度だろう。それ以上長生きしたって、ごく少数のまれな例(テレビで見た100才の会社員とか、100才で詩集を出した人とか、日野原重明医師とか)を除いて不幸でしかないだろう。本人にとっても家族にとっても社会にとっても。
 だから亡くなったこと自体は、仕方がない。だって時間は決して戻らない。人は決して若返らない。

 訃報を知らせる母からのメールに、もし「老衰で静かに眠るように亡くなった」と書いてあったら、こんなに心は乱れない。
 106年近くも生きたのに、どうして最期が急性間質性肺炎で、酸素が取り込めずに15時間も苦しんだ挙げ句の死でなければならないのか。どうして静かで安らかな死ではないのか。誰のせいでもない、何を言っても仕方がないが、どうしても納得できない、許せない。
 実は数日前、友人宛のメールで「祖母はもうすぐ106才なのにまだお迎えが来ない」などと軽口をたたいてしまった。続いて「父は回復の見込みもないのに1月からずっと入院で一日3万円もかかってるし、母は骨折・・・」と続く、ごくごく軽い自虐ノリのメールだったのだが、このタイミングで亡くなってしまって妙に胸が苦しい。
 別に私のせいで亡くなったわけではない。そんなの、当たり前だ。当たり前だが、胸が苦しくて、悔いが残る。あんなこと、よりによってこのタイミングで、どうして書いてしまったのか。
 動物は、自分の死期が分かることが多いようだ。小学1年生から飼っていて、とてもかわいがっていたセキセイインコが、高校2年の時に死んだ。死ぬ前の数日間、私の姿を見ると、いつにも増してかまってほしそうに鳥かごの端に寄ってきていた。でも私は、邪険にこそしなかったが、いろいろ忙しくてあまり構ってやらなかった。死んだ日は、放課後に友人と超B級映画を観て遅く帰ってきた。すでに死んだことを家族から知らされ、冗談抜きに丸1週間、親が死んでもこんなに泣かないというほど泣いた。どうして最後にもっと構ってやらなかったのか、どうしてあんなしょうもない映画を観に行ったのか・・・
 祖父が亡くなった前夜は、夕食時に母と私だけワインを飲んでいた。いろいろ厳しい母だったが、飲酒に関してだけは不思議と寛容で、私は小学1年生の頃から家族と一緒の夕食時に時々ビールを飲んでいた。当時はすでに高校生で、夕食時にワインを飲むことも珍しくなかった。もっと前は祖父も一緒に飲むことがあったのだが、その頃は祖父の体調を考えて私と母だけで飲むことがほとんどだった。亡くなった後で母がしみじみと「あの時、おじいちゃんにもワインをあげれば良かったね。今思うと、ほしそうな顔をしてたかもね」と言った。
 愛しい者が亡くなると、かなりの確率で悔いが残る。そうして人生を重ねるごとに、つらい記憶が増えていく。
 祖母は、状態が急変する2日前に行動がおかしくなったそうだ。同じ行動を繰り返したりトイレが分からなくなったり転んで倒れていたりしたと、老人ホームから電話があったそうだ。翌日にはいつも通りに戻ったと電話があり、一安心したさらに翌日、今度は本人から「来て、来て、会いたい」と母に電話。そう言われても普通すぐには行かれない。数時間後に老人ホームに向かっている途中で、急に呼吸が苦しそうになり救急車を呼んだとスタッフからの電話があり、急遽、病院(歩ける近さの病院に搬送されて運が良かった)に向かったそうだ。
 人間も、自分の死期が分かることがあるんだね。106年も生きていると、そのぐらいは分かるのかな。
 緩和剤で、楽になるけれども意識が朦朧とする直前、祖母は酸素マスクで何も言えなかったけれどもしっかり母の顔を見ていたそうである。決して仲の良い親子ではなかったが、最初から最後まで、母はきっちりと義務を果たした。祖母は最後に網膜に映ったものが、愛しい自分の娘の姿で、苦しいながらも安心したことだろう。

 特に死を意識しないまま、眠るように安らかに天に召されるのと、苦しくてもちゃんと死を自覚して、愛しい者をしっかりと見つめて(心で)お別れを言いながら意識が薄れていくのと、どちらがいいのかな。もし選べるとしたら、祖母はどっちが良かったのかな。
 死んだこと自体は、とても良かった。もう十分に長く生きたし、世界中の全員の平均よりはるかに幸せな人生だったと思うし、これ以上長く生きたってせっかく人並み外れて高かった「人生の幸せ度」がどんどん減っていくだけだった。
 ただ、私の心は激しく乱れて、とても苦しい。

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