アメリカで母の訃報に接して以来、ロクに寝ていない。さすがに疲れてよく眠れるだろうと12時過ぎにベッドに転がり込んだのに、なんと2時過ぎには目が覚めてしまう。もっと寝ようと試みるも無理そうだし、やらねばならぬことは山積。時間はいくらあっても足りない。夜中から活動開始。
大して広くないとはいえ一軒家、それも30年も住んだ一軒家の片付けなんて、並大抵の作業ではない。感傷に浸ったり、もったいないなどと考え始めたら、100年かかっても終わらない。しかも、自分の部屋以外、何がどこにあるか分からない。まずは不要な物を捨てるだけでも数日かかりそうな作業。必要なものは見つからないし、ある作業をしている間にも次々と他のやることが見つかって、あれもこれもと訳が分からない。
朝9時になるのをじりじりと待ち、片っ端から電話をかけまくる。定期配布物の停止、契約解除、生命保険・・・などなどなどなど。
その間にも、何十年ぶりかに会う叔父叔母が訪ねてきたり、葬儀屋が打ち合わせに来たり(葬儀はやらずに火葬。司法解剖が入ってしまったので、生前希望していた献体はできず)、叔父叔母と共に今日も母の遺体に面会に行ったり(遺体を安置している施設が不便な場所にあり、昨日はタクシーで行ったが、叔父叔母が車で送ってくれて助かる)。
3人で母の顔を見た後、久しぶりに叔父叔母と一緒に食事をする。亡くなる直前まで元気だったのに、来週、祖母の一周忌を兼ねて一緒に食事することになっていたのに、など、ひとしきり故人を偲んだ後で、なぜか祖母の悪口を聞かされる。本当に家族というものは、どうしてこうも仲が悪いのか。こんな状況でなければ、母の悪口も出てきそうな勢い。いやまあ生前、母からもさんざん愚痴は聞かされたからお互い様。私はいつも聞き役に徹するし、もうどうでもいいけれど、家族って本当に面倒くさい。ってか、どうしてみんな、そんなに祖母の悪口を言うのか? もしかすると本当にわがままで自分勝手な人だったのかもしれないけど、私には優しくていい祖母だったよ。一年前に祖母が亡くなって以来、3日と空けずに祖母との楽しかったこと、思い出してる。
今朝、母が発見された寝室を掃除した時、あちこちに血が飛び散っていることに驚いた。さらに、血をふいたティッシュがゴミ箱に捨ててあった。転んで打ち所が悪くてすぐに亡くなったわけではないようで、血なんか拭いてる暇があったらどうして自分で救急車を呼んでくれなかったのかと、やるせない。自分では大丈夫だと思ったのか。叔母曰く、ハンドバッグが投げ捨てられたように落ちて開いていたので、警察も事件性を少し疑い、現場の写真も細かく撮影していったそうである。買い物から帰ってきて、転んだのか・・・
叔父叔母に地元の駅まで送ってもらい、警察が預かっていたものを返してもらいに警察署へ向かう。担当の警官はとても親切で、アメリカから慌てて電話した時からずっとよく対応してくれた。しかしそこで、聞きたくなかった話を耳にする。母は、部屋に飛び散っている出血の原因になった転倒から、数日間は生きていたらしい。11日12日の新聞もお弁当も手つかずに残っているのに、死体検案書の死亡推定日は13日だ。顔に転倒した時にできたと思われるあざや傷があるが、いずれも致命傷ではなく、原因は不明ながら脳に血栓(だったかな?)ができていたそうだ。11日にお弁当を配達に来た人が、普段と様子が違うことに気付いたと言うが、どうしてその時に市にでも連絡してくれなかったのか?!・・・なんて、今さら言ってもどうしようもない。司法解剖をしても正確な死因は不明ながら、脳の障害を遠因とする衰弱死とでも言えばいいのか。胃の中は空っぽだったそうである。どうして誰かに助けを求めてくれなかったのか。脳の障害で何も考えることができなくなっていたのか。そんな話、本当に聞きたくなかった。どうして?という言葉しか出てこない。
自宅で死にたいとはよく聞くが、こんな形でひとりぼっちで何日もかけて弱っていってから死ぬなんて、絶対に納得できない。少なくともひとりぼっちではないだけ、病院で死ぬ方がまだマシだ。どうして誰か呼んでくれなかったのか?
祖母みたいに106才まで生きてほしいなんて、私も母自身も思っていたわけではないけれど、こんな風に何の準備もできないまま、孤独に死んでいってほしくなかった。
去年の10月から12月にかけての長期入院と度重なる手術以来、すっかり体重が落ちて弱っていた。亡くなった時の体重は35キロだったと言う。去年10月に、若い男にぶつかられてせっかく治りかけていた手首を再び痛めることがなければ、こんなことにはならなかった。おまけに入院中にもリハビリ担当者のミスで、入院延長してさらなる手術をすることになった。母というのは、どうしてそんなに運が悪いのか!!! 母が「これが限界」というところまで回復した時点で、余分にかかった費用や後遺症による損害などを計算して病院を訴えてやろうかとまで考えていたのだが、今となってはもうどうでもいい。
父はもう、目に見えてどんどんボケボケになっていく。会話などは普通なのだが、すぐに忘れる。火葬の時間と場所を電話した後、父がいる施設のスタッフにも内容を伝え、ちゃんと時間にタクシーに乗せてくれるようお願いする。それでも、同じ内容を聞くために、何度も何度も電話してくる。「最近、物忘れがひどくてねぇ」と、必ず、照れ隠しのように言いながら・・・。
朝、叔父が来た時に、父が表に貼っていたので、叔父が慌ててはがしたという張り紙を見せてくれた。そこには大きな字で「○×(母の名前)は亡くなりましたので、新聞その他、すべての配達は止めてください」というような内容が書かれていた。
#こんなもの、門の外の通行人から見えるところに貼ってたのかよ・・・?!
コントじゃないんだから・・・。苦笑するしかない・・・。
長い長い一日があっという間に夕方になり、基本的にほとんどの会社が対応しなくなる午後5時。今日は今までの人生で一番たくさん電話をかけた日だ、などと思いながらメモを見ていて、年金を止めるのを忘れたことに気付く。・・・はぁ、明日もがんばろう・・・!
夜7時、何日もロクに寝ていないので限界になり、ベッドに倒れ込む・・・
大して広くないとはいえ一軒家、それも30年も住んだ一軒家の片付けなんて、並大抵の作業ではない。感傷に浸ったり、もったいないなどと考え始めたら、100年かかっても終わらない。しかも、自分の部屋以外、何がどこにあるか分からない。まずは不要な物を捨てるだけでも数日かかりそうな作業。必要なものは見つからないし、ある作業をしている間にも次々と他のやることが見つかって、あれもこれもと訳が分からない。
朝9時になるのをじりじりと待ち、片っ端から電話をかけまくる。定期配布物の停止、契約解除、生命保険・・・などなどなどなど。
その間にも、何十年ぶりかに会う叔父叔母が訪ねてきたり、葬儀屋が打ち合わせに来たり(葬儀はやらずに火葬。司法解剖が入ってしまったので、生前希望していた献体はできず)、叔父叔母と共に今日も母の遺体に面会に行ったり(遺体を安置している施設が不便な場所にあり、昨日はタクシーで行ったが、叔父叔母が車で送ってくれて助かる)。
3人で母の顔を見た後、久しぶりに叔父叔母と一緒に食事をする。亡くなる直前まで元気だったのに、来週、祖母の一周忌を兼ねて一緒に食事することになっていたのに、など、ひとしきり故人を偲んだ後で、なぜか祖母の悪口を聞かされる。本当に家族というものは、どうしてこうも仲が悪いのか。こんな状況でなければ、母の悪口も出てきそうな勢い。いやまあ生前、母からもさんざん愚痴は聞かされたからお互い様。私はいつも聞き役に徹するし、もうどうでもいいけれど、家族って本当に面倒くさい。ってか、どうしてみんな、そんなに祖母の悪口を言うのか? もしかすると本当にわがままで自分勝手な人だったのかもしれないけど、私には優しくていい祖母だったよ。一年前に祖母が亡くなって以来、3日と空けずに祖母との楽しかったこと、思い出してる。
今朝、母が発見された寝室を掃除した時、あちこちに血が飛び散っていることに驚いた。さらに、血をふいたティッシュがゴミ箱に捨ててあった。転んで打ち所が悪くてすぐに亡くなったわけではないようで、血なんか拭いてる暇があったらどうして自分で救急車を呼んでくれなかったのかと、やるせない。自分では大丈夫だと思ったのか。叔母曰く、ハンドバッグが投げ捨てられたように落ちて開いていたので、警察も事件性を少し疑い、現場の写真も細かく撮影していったそうである。買い物から帰ってきて、転んだのか・・・
叔父叔母に地元の駅まで送ってもらい、警察が預かっていたものを返してもらいに警察署へ向かう。担当の警官はとても親切で、アメリカから慌てて電話した時からずっとよく対応してくれた。しかしそこで、聞きたくなかった話を耳にする。母は、部屋に飛び散っている出血の原因になった転倒から、数日間は生きていたらしい。11日12日の新聞もお弁当も手つかずに残っているのに、死体検案書の死亡推定日は13日だ。顔に転倒した時にできたと思われるあざや傷があるが、いずれも致命傷ではなく、原因は不明ながら脳に血栓(だったかな?)ができていたそうだ。11日にお弁当を配達に来た人が、普段と様子が違うことに気付いたと言うが、どうしてその時に市にでも連絡してくれなかったのか?!・・・なんて、今さら言ってもどうしようもない。司法解剖をしても正確な死因は不明ながら、脳の障害を遠因とする衰弱死とでも言えばいいのか。胃の中は空っぽだったそうである。どうして誰かに助けを求めてくれなかったのか。脳の障害で何も考えることができなくなっていたのか。そんな話、本当に聞きたくなかった。どうして?という言葉しか出てこない。
自宅で死にたいとはよく聞くが、こんな形でひとりぼっちで何日もかけて弱っていってから死ぬなんて、絶対に納得できない。少なくともひとりぼっちではないだけ、病院で死ぬ方がまだマシだ。どうして誰か呼んでくれなかったのか?
祖母みたいに106才まで生きてほしいなんて、私も母自身も思っていたわけではないけれど、こんな風に何の準備もできないまま、孤独に死んでいってほしくなかった。
去年の10月から12月にかけての長期入院と度重なる手術以来、すっかり体重が落ちて弱っていた。亡くなった時の体重は35キロだったと言う。去年10月に、若い男にぶつかられてせっかく治りかけていた手首を再び痛めることがなければ、こんなことにはならなかった。おまけに入院中にもリハビリ担当者のミスで、入院延長してさらなる手術をすることになった。母というのは、どうしてそんなに運が悪いのか!!! 母が「これが限界」というところまで回復した時点で、余分にかかった費用や後遺症による損害などを計算して病院を訴えてやろうかとまで考えていたのだが、今となってはもうどうでもいい。
父はもう、目に見えてどんどんボケボケになっていく。会話などは普通なのだが、すぐに忘れる。火葬の時間と場所を電話した後、父がいる施設のスタッフにも内容を伝え、ちゃんと時間にタクシーに乗せてくれるようお願いする。それでも、同じ内容を聞くために、何度も何度も電話してくる。「最近、物忘れがひどくてねぇ」と、必ず、照れ隠しのように言いながら・・・。
朝、叔父が来た時に、父が表に貼っていたので、叔父が慌ててはがしたという張り紙を見せてくれた。そこには大きな字で「○×(母の名前)は亡くなりましたので、新聞その他、すべての配達は止めてください」というような内容が書かれていた。
#こんなもの、門の外の通行人から見えるところに貼ってたのかよ・・・?!
コントじゃないんだから・・・。苦笑するしかない・・・。
長い長い一日があっという間に夕方になり、基本的にほとんどの会社が対応しなくなる午後5時。今日は今までの人生で一番たくさん電話をかけた日だ、などと思いながらメモを見ていて、年金を止めるのを忘れたことに気付く。・・・はぁ、明日もがんばろう・・・!
夜7時、何日もロクに寝ていないので限界になり、ベッドに倒れ込む・・・