Mars&Jupiter

おおくぼっちの屋根裏部屋へようこそ!

「カトゥリ・カルミナ」を聴きながら、二俣川から西谷まで歩く

2007-11-25 11:59:38 | カール・オルフの作品
昨日は二俣川から西谷駅まで歩きました。
途中聴いたのはオルフの「カトゥリ・カルミナ」の
第1幕と第2幕で、CDはヨッフム盤である。
プロローグの最後「さあ、聞こう(Audiamus!)」が終わると、
第1幕の「私は憎み、そして愛する(Odi et Amor)」が始まる。
ここからは無伴奏の合唱が続くが、ヨッフム盤では、
独唱者がかなり自由に歌っているのが特徴だ。

「カトゥリ・カルミナ」はカトゥルスの歌という意味だ。
ガイウス・ヴァレリウス・カトゥルスは、
紀元前84年生まれの実在した詩人だ。
カエサル統治時代に活躍した彼は、
ギリシアの女流詩人サフォーの影響を受け、
自分自身の感情をストレートに表現した詩を書いた。
ここで登場するレズビアという女性は、
サフォーが住んだレスボス島からとっているが、
当時社交界の華であった貴族出身のクローディアが、
実際のモデルなので、高嶺の花かもしれないが、
20代の若きカトゥルスの彼女への愛する想いが、
その詩全編にわたって書かれている。

第1幕では「この人は私には神のようにみえる」と
レズビアを形容し、視線があった時には、
もう自分がわからなくなるというようにゾッコン状態だ。
第2幕ではうたた寝し、レズビアと一緒の夢をみるが、
その夢からさめると絶望の気分になる。
その感情の変化が独唱者の歌からよく伝わってくるのである。
しかし、恋することもローマの時代であろうが、
現代であろうが、同じなんだよなあ。
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「カトゥリ・カルミナ」を聴きながら、二俣川から三ツ境まで歩く

2007-11-24 21:46:29 | カール・オルフの作品
昨日は二俣川から三ツ境駅まで歩きました。
途中聴いたのはオルフの「カトゥリ・カルミナ」である。
演奏はスメターチェクが指揮するCDで、
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団と合唱団によるものだ。
私が高校時代にこの作品に初めてめぐりあったのが、
3枚組のレコードで発売されていたこの演奏だった。
「カトゥリ・カルミナ」については3回に分けて触れる。
今回はプロローグについて触れる。

プロローグの部分は、全体の1/3を占めて長いが、
オルフ独特の強烈なリズムが印象的である。
最初に歌われる「永遠の時を(Eis aiona!)」は、
このプロローグの中で何度も繰り返される。
「カトゥリ・カルミナ」は1943年に作曲された。
「カルミナ・ブラーナ」とは違い、
ここでの伴奏は4台のピアノと打楽器群である。
その活躍も主にこのプロローグでみられる。
ストラヴィンスキーの「結婚」を想起させるように
合唱にも、より前衛的な感じがでている。

ところでそのスメターチェク指揮のCD、
高校時代のときにも聴いて、気になった箇所だが、
「時よ、時よ、恋の時など寝室の中にはない
(Tempus,tempus,tempus amoris xubiculum non est)」
と歌う11分8秒あたりのところで、
男性合唱の中の一人が1小節早く出てしまう。
CD化されてもそれは変わらなかった。
こんな失敗がしっかり残ってしまうので、録音は怖い。

なお、ホームページはいろいろ事情があって
そのまま当分変えないことにしました。
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「カルミナ・ブラーナ」の「今は喜びの季節」を聴きながら、鶴ヶ峰から二俣川まで歩く

2007-11-23 10:29:15 | カール・オルフの作品
昨日は鶴ヶ峰駅から二俣川まで歩きました。
途中聴いたオルフの「カルミナ・ブラーナ」の演奏は、
プレヴィン指揮、ロンドン交響楽団のものだ。
私がベスト盤として選ぶとしたらこの演奏だろう。
合唱や独唱だけでなく、管弦楽の演奏はいいし、
録音は1974年であるが、申し分ない。
高校時代に長野でレコードの視聴会があり、
そこで初めてプレヴィン盤を聴き、
「カルミナ・ブラーナ」の世界を知ったのである。

第22曲の「今は喜びの季節(Tempus est iocundum)」は、
独唱と少年合唱、合唱および管弦楽による音楽である。
詩の内容は、長い冬が終わり、待ち焦がれた春が到来した。
恋の季節がやってきたのだから、若者たちは恋をし、
今を楽しもうじゃないかという内容だ。
「おお、おお、おお(Oh,oh,oh)、
私は花盛り(totus floreo!)、
あの娘への愛ですっかり燃え上がっている
(Iam amore virginali totus ardeo;)、
新しい、新たな愛だ(novus, novus amore est,)、
死んでしまいそうだ(quo pereo!)」
と繰り返し登場するリフレインにより、
音楽は徐々に盛り上がり、クライマックスを形作る。

「とても、いとしい方(Dulcissime)」は、
あなたの前に私の身を委ねるという意味の短い曲。
それに続く「白い花とヘレナ(BLANZIFLOR ET HELENA)」では、
高貴な女神への讃歌が、高らかに歌われ最高潮に達するのだが、
このあとがカール・オルフの憎い演出である。
ここで「おお、運命の女神よ(O Fortuna)」が再び登場する。
聴き手は圧倒的な勝利感を得たかと思うと、
一気に絶望感へと突き落とされるのである。
この素晴らしい全曲の構成ゆえに、
「カルミナ・ブラーナ」は名曲とされるのだろう。

ところで「今は喜びの季節(Tempus est iocundum)」は、
中世楽器で再現した原曲も比較して聴いてみるといい。
アーリー・ミュージック・クヮルテットの演奏する
トマス・ビンクレー盤の第2集では13曲目にあるが、
これは素朴な演奏であるが、しみじみ聴きたい人にはいい。
演出がかかっている元気な演奏はナクソスから出ている。
アンサンブル・ユニコーンとアンサンブル・オニ・ウィタルス。
この演奏による盤は最後にこの曲がおさめられているが、
若々しい人々の恋の季節を高らかに歌い上げている。
もちろんニュー・ロンドン・コンソートが演奏する
ピケット盤の「カルミナ・ブラーナ第1巻」にもある。
これは2つの盤の折衷という感じだ。
ちなみにリフレインの前の「Oh,oh,oh,totus floreo!」だが、
原曲は「O,O,totus floreo!」であるので、
ここだけオルフと原曲のわずかな差異である。

ところでバイエルンの州立図書館には、
そのカルミナ・ブラーナの実物があるようだ。
その図書館で買うことのできる本で
その図書館発行の「生き生きとした本の遺産
(LEBENDIGES BÜCHERERBE)」がある。
188,189ページにカルミナ・ブラーナの説明と、
チェスをする2人の姿がカラーの挿絵で載っている。
中世ヨーロッパの人々の娯楽をうかがえる。
大切にしたい本の一つである。
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カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」の愛の世界、天秤にかける理性と愛

2007-11-22 07:11:05 | カール・オルフの作品
昨日はウォーキングを休みました。
なかなか今回の風邪は治らないようで、
無理をしないことにしました。

今日聴いた「カルミナ・ブラーナ」の演奏はドラティ指揮、
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団のものだ。
録音はよく、速いテンポで軽快に進むのはいいが、
今まで色々個性的な演奏を続けて聴いたので、
比較すると少し物足りない感じがしてしまう。

第3部の「愛の誘い(COUR D’MOUR)」は、
少年合唱があり、ソロがあり、合唱があり、
様々な形態を使いながら中世の愛の世界を描く。
なかなか、趣向を凝らしているところだ。
「愛神はどこかしこも飛び回る( Amor Volat unidique)」は、
少年合唱団の歌声が愛の神の無邪気さを歌っている。
「昼間も夜も、何もかもが(Dies,nox et omnia)」は、
バリトン独唱による愛するゆえの苦しみを歌っている。
「少女が立っていた(Steit puella)」はソプラノ独唱の
異国情緒あふれるような曲。

「私の胸をめぐっては(Circa mea pectora)」は、
バリトン独唱と合唱の掛け合いにより、
歯切れのいいリズムとともに盛り上がる。
「おいで、おいで、さあ来ておくれ(Veni, Veni, Venias)」は、
ピアノの軽快な伴奏にのりながら、男女間の愛が、
2つに分かれた合唱のかけあいにより描かれる。
リズムも弾み、なかなか楽しい合唱である。

「天秤棒に心をかけて(In Trutina)」は、
「カルミナ・ブラーナ」の中の独唱曲で有名である。
歌曲として単独に演奏されることもあるが、
揺れ動く恋心を歌うものである。
中世楽器で再現した「カルミナ・ブラーナ」の曲には、
「ゆれ動く天秤の竿のように(Vacillantis trutine)」がある。
ピケット指揮、ニュー・ロンドン・コンソートの演奏する
「カルミナ・ブラーナ第4巻」の8曲目(CB108)が、
それにあたる曲なのだが、愛と理性の間で悩み、
どちらがいいのかを考えるその曲を聴くと、
人間の悩みは今も昔もあまり変わらないのだなと思う。
「カルミナ・ブラーナ」の世界はだからおもしろい。
さて、「カルミナ・ブラーナ」の話題については、
次回でそろそろ終わりしよう。
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横浜から星川まで、オルフの「カルミナ・ブラーナ」の「居酒屋にて」を聴きながら歩く

2007-11-21 07:51:11 | カール・オルフの作品
昨日は横浜から星川駅まで歩きました。
昨日歩く途中聴いた「カルミナ・ブラーナ」の演奏は、
ヨッフム指揮、ベルリン国立歌劇場管弦楽団のものだ。
1960年代の録音にしては、とてもいい。
ヨッフム=ブルックナーの指揮者
という印象が、強いかもしれないが、
私の考えるところ、ブルックナーの演奏よりも
「カルミナ・ブラーナ」の演奏の方が、
ヨッフムにあっているのではないかと思われるほど、
彼の演奏を代表する名盤の一つといっていいと思う。

第2部の「居酒屋にて(In Taberna)」は、
「胸のうちは、抑えようもない
( Estuans interius)」で始まる。
こみあげてくる怒りの気持ちをぶちまけながら、
少し自暴自棄になっているところが人間らしい、
中世のヨーロッパの人々だって、
現代のわれわれと同じようにストレスを抱え、
もがいて生きているのだなと思えば、
遠いヨーロッパ中世の人々の生活も
身近な世界になってくるのだ。
自由自在に歌うフィッシャー・ディスカウの歌い方が
気になる人もいるかもしれないが、
これはこれでいいのかもしれない。

「昔は湖に住まっていた(Olim lacus colueram)」は、
最初に聴いたときにまず「へぇ」と思ったのである。
料理を食べる人たちの世界を描くならともかく、
料理として食べられる鳥の側からの嘆きを
描くこの発想はユニークである。
ここでは主体と客体の転換が起きている。
我々は主体からみた世界をすべてだと
つい考えてしまいがちで、それは確かにそうだが、
客体からみた全く別な世界ももうひとつの世界である。
おいしそうだと目の前に出される料理を見て、
喜んでいる人々の姿は、食べられる側からみれば、
歯をカチカチさせながら、
獲物を食べる機会をねらっている獰猛な動物そのものだ。
ああ、活魚の気持ちはまさしくこの境地かもしれない。

「わしは僧院長さまだぞ(Ego sum abbas)」は、
サイコロ賭博にうつつを抜かす聖職者の姿を描く。
当時、サイコロ賭博は聖職者や貴族の中に蔓延していた。
「カルミナ・ブラーナ」では「賭博師のミサ曲」という詩がある。
そのサイコロの魔力に中世の人々はとりつかれていたのである。

「居酒屋にいるときは(In taberna quando sumus)」では、
居酒屋に集まる人々の様子が描かれる。
「カルミナ・ブラーナ」全曲の中で、
一つのピークを創り出している。
もちろんこの居酒屋がサイコロ賭博の場ともなっている。
その結果、金銭を失い、着物を剥がれる者もいるのだ。
交わされる乾杯の音頭は際限なく続く。
何かの名目があればそのために乾杯ということだ。
この居酒屋には色々な人々が集まる。
誰だろうが掟も構わずに飲むというのだから
ハチャメチャな世界である。
そんな世界は音符を解読し、中世楽器で再現した原曲の
「カルミナ・ブラーナ」でも聴くことができる。
ベティーナ・ホフマン指揮、モード・アンティコの演奏する
「中世世俗歌曲・舞曲集」の中のCD1とCD2が、
「カルミナ・ブラーナ」であるがそのCD1の5曲目、
「In taberna quando sumus」がこの原曲である。
こちらの方がオルフの曲よりもハチャメチャな世界だ。
もちろん、演奏自体がやりすぎかと思うぐらいすごい。
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