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もやもや日記

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『ポケットのなかの東欧文学―ルネッサンスから現代まで』

2008年07月12日 | 読書日記ー東欧

飯島周・小原雅俊 編(成文社)



《収録作品》
ヤン・コハノフスキ「挽歌」
カレル=ヒネク・マーハ「クルコノシェへの巡礼」
ユリウシュ・スウォヴァツキ「スウォヴァツキ選」
ボジェナ・ニェムツォヴァー「金の星姫」
ツィプリアン・ノルヴィット「黒い花々」
ヨゼフ.カレル・シュレイハル「自然と社会の印象」
ヤクプ・アルベス「ネボジーゼクの思い出」
パラシケヴァ・K・シルレシチョヴァ「ブルガリア民話選」
マリア・コモルニツカ「相棒」
タデウシュ・ミチンスキ「薄闇の谷間、海眼湖の幽霊」
ヴァツワフ・シェロシェフスキ「和解」
イヴァーナ・ブルチッチ=マジュラニッチ「漁師パルンコとその妻」
カフカ・マルギット「淑女の世界」
ボレスワフ・レシミャン「鋸」
ヴィーチェスラフ・ネズヴァル「自転車に乗ったピエロ」
イジー・ヴォルケル「愛の歌」
カレル・ポラーチェク「医者の見立て」
ドイツ占領下のユダヤ人を歌ったポーランド詩選「小さな密輸商人」
ルドヴィーク・アシュケナージ「子供のエチュード」
ハリナ・ポシフィャトフスカ「ポシフィャトフスカ詩選」
ヤロスワフ・イヴァシキェヴィチ「八月の思い出」
ボヤン・ボルガル「日本への旅」
フランチシェク・フェニコフスキ「マリア教会の時計」
ヴラジミル・カラトケヴィチ「群青と黄金の一日」
タデウシ・ヤシチク「十字架を下ろす」
ボフミル・フラバル「黄金のプラハをお見せしましょうか?」
ラシャ・タブカシュヴィリ「さらば、貴婦人よ!」
チェスワフ・ミウォシュ「私の忠実な言葉よ」
ヤン・ヴェリフ「賢いホンザ」
イジー・ヴォスコヴェツ「私のシーシュポス」
ブランコ・チョピッチ「親愛なるジーヤ、水底のこども時代」
ヴラディミール・デヴィデ「『俳文』抜粋」
ミルカ・ジムコヴァー「天国への入場券、家路」
ブラジェ・コネスキ「マケドニアの三つの情景」
モノスローイ・デジェー「日本の恋」
ペトル・シャバフ「美しき風景」
ヨゼフ・シュクヴォレツキー「チェコ社会の生活から」
アンジェイ・スタシュク「場所」
オルガ・トカルチュク「番号」
クシシュトフ・ニェヴジェンダ「数える」
カタジナ・グロホラ「向こう岸」
ユリア・ハルトヴィック「ハルトヴィック詩選」
パヴォル・ランコウ「花を売る娘」
ヴォイチェフ・クチョク「幻影」


《この一文》
“ここに描いたあれこれを、わたしは「黒い花々」と呼ぶ。これらは、文字が書けないので不恰好に描かれた十字の印で署名する証人の署名がそうであるように事実に忠実である。いつの日か!……ひょっとしたら別の折にわたしがみるかもしれぬ文学においては……このような文章が、短篇小説を探し求める読者たちにとって奇妙でなく映るようになるかもしれない。まだ書かれていない非文字の世界には、当世の文学者の夢にも現れたことのないような長篇小説、ロマンス、ドラマ、悲劇があるのだから……。
  ―――「黒い花々」ツィプリアン・ノルヴィット ”





ボフミル・フラバルの短篇を読みたくて図書館から借りてきましたが、ほかの作品も全部読んでしまいました。面白い!
収録作品を書き写すだけで疲れてしまったので、あまり感想を書く気力がありませんが、特に面白かったものについていくつか書いておきましょう。


まず、「黒い花々」(ツィプリアン・ノルヴィット)。ポーランドの人。ポーランド芸術家の死にゆくさまを忠実に記録したというこの回想は、なんだか妙に魅力的でした。回想録というにはあまりに物語的と言うべきか。とても静かな語り口でありながら、大きく心を動かされる美しさがあるようでした。

次に「淑女の世界」(カフカ・マルギット)。ハンガリーの人。女性。ある女の子が優秀な従姉妹とともに新聞をつくることになる。女の子に文筆活動は不必要だという周囲の意見にめげず、「私」は処女作を書き上げるのだった。というお話。
これもまた妙に面白かった。従姉妹のヘッラという女の子と、彼女に憧れてそのあとについていくだけだった「私」の将来における立場の違いは皮肉的で悲しい。全体的にスピード感のある物語で面白かった。

「医者の見立て」(カレル・ポラーチェク)。チェコ。
「私」はある朝目を覚ますと、すごく具合が悪かった。会社を早退し、医者を呼ぶと「インフルエンザですね」と告げられる。なんてこった、半分死んだも同然だ。うろたえる「私」に医者は絶対安静を告げるのだが、しかし……。というお話。
これはすごく笑えた。総じてチェコの短篇はこういう感触のものが多い気がする。痛烈な。ややひねくれたような視点というか、何と言うか。とにかく面白かった。

「子供のエチュード」(ルドヴィーク・アシュケナージ)。チェコ。
この人もチェコの人だけれど、こちらはストレートに美しい作品群でした。いえ、ほかのチェコの作品が美しくないというわけではありませんが、しかし。もちろんやはりチェコ的な雰囲気はあります。何と言っていいのか分かりませんが、何かチェコ的な感性というか。
父である「私」とその息子をとりまく生活を描いた作品。胸があたたまるような話ばかり。

「八月の思い出」(ヤロスワフ・イヴァシキェヴィチ)。ポーランド。
どこかで聞いた名前と思ったら、『尼僧ヨアンナ』の人でした。あちらは非常に恐ろしいお話でしたが、こちらは物悲しくも美しい短篇でした。

「日本への旅」(ボヤン・ボルガル)。ブルガリア。
ブルガリアの作家ボルガルが、まだ国交の回復していない日本を訪れた際の記録『日本への旅』の抜粋。
これは非常に興味深いものでした。1950年代後半に東京で開催された国際ペンクラブに参加するため来日したボルガルが見た当時の東京のさまや知り合った真面目な日本人たちについて描かれています。「道ばたに酔っ払いがいない」ということに感動するボルガル氏。なにかしみじみさせられました。

「十字架を下ろす」(タデウシ・ヤシチク)。ポーランド。
トラウマになりそうな悲惨の作品群。ごく短い物語がいくつか載っていましたが、どれもこれもあまりに悲惨なのでたまりませんでした。戦争や占領、貧困の悲しみが噴き上がっています。うーむ。「おちびのネル」というお話が特にやばかった。

「私のシーシュポス」(イジー・ヴォスコヴェツ)。チェコ。
やっぱりチェコ。神話の人物シーシュポスを取り上げて、大岩を押し上げてはまた山頂から転げ落ちたそれを繰り返し押し上げるという苦行に赴く彼の心理を分析。それがとにかく面白い。あー、面白い。これは面白かった。最後の一文がとにかく傑作でした。

 “そう、これが大岩のために赴く、私のシーシュポス。それから私はアルベルト・カミュが書いたシーシュポスについてのエッセイを読み、それは全く私のと違う作品だったのだが、大本は同じで、しかもよりいいものだった。カミュ氏はご立派だった。それでノーベル賞ももらった。私が得たものは大岩だった。 ”


爆笑!!

「美しき風景」(ペトル・シャバフ)。チェコ。
またしてもチェコ。二人の兄と、父親、そして祖父。家族の男たちと同じように自分も男になりたいと真剣に考える妹が、男たちの間抜けな生活を窓から見つめている。というお話。
これにもかなり笑わされました。すげー面白い。とても映像的で、コミカルかつユーモラスなお話。映画にしたら面白そう。と考える人は本国にも多いようで、この人の作品は次々と映画化されているらしいです。いやー、面白かった。
おじいさんが用を足そうとして「まさかの結石!」という場面が、私としては最高に愉快でした。

「チェコ社会の生活から」(ヨゼフ・シュクヴォレツキー)。チェコ。
どこまでもチェコ。マハーニェ家の子供たちの宿題レポートの形式をとった、いくつかの小品。「なぜ、人の鼻は柔らかいか」「注目に値する科学的現象」(弟)、「あたしが結婚せずにすんだ顛末」(姉)、「僕が結婚する羽目になった顛末」(兄)などなど、実に馬鹿げた日常生活が描かれています。やっぱチェコってこういう感じなのでしょうかねー。面白い。

「番号」(オルガ・トカルチュク)。ポーランド。
ホテルのメイドとして働く主人公が見る、世界各国のさまざまなお客たちの使った部屋についての物語。
このあいだニュースで「もっとも好ましい旅行客は日本人」というのがありましたが、それはこのお話の中でもそのように描かれていました。やっぱそうなんですかねー。ちなみに、物語の中でもアメリカ人の若い客は最悪でした。
それにしても、部屋から部屋を次々と片付けていくメイドのお話というだけなのですが、どこか幻想的な雰囲気を漂わせている不思議に印象的な物語でした。


ああ。なんだかんだですごく長い記事になってしまったような……。
『ポケットのなかの東欧文学』と言いながら、どんなポケットになら入るのかしらというほどに分厚い本書。しかし、収められた一篇一篇は、たしかにポケットのなかに入れておきたくなるようなものばかりでありました。