半透明記録

もやもや日記

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『ONE』

2008年07月17日 | 読書日記ー英米

リチャード・バック 平尾圭吾訳(集英社文庫)




《あらすじ》
コックピットに琥珀色の閃光がピカッと走った――。その瞬間、いままで視界にひろがっていたロサンゼルスの街が消えて、飛行艇グロウリーに乗り込んだリチャードと、妻のレスリーとの不思議な愛の旅が始まった。同時に存在するもうひとつの人生、自分以外の自分をかいま見るふたり。
鬼才リチャード・バックが、《パラレル・ワールド=併行世界》へと読者をいざなう、味わい深いファンタジー。

《この一文》
“まばゆい海の上、まばゆい空を飛びながら、コックピットには絶望的な思いが暗く、重くよどんでいた。これだけの知性をもった人類が、どうして戦争にひきずりこまれていくのか。戦争というものを、はじめて知らされたような気分だった。わたしたちは日々の暮らしのなかで、戦争の可能性を受け入れている。陰鬱な顔はしながらも、だ。そんな甘さが、その狂気をあらためて目のあたりにすることで、粉々に打ち砕かれてしまった。 ”

”「なぜなんだ?」とわたしはどなった。「大量殺人のどこがそんなに素晴らしいんだ? 人類は問題が起こるたびに、すべての敵対者を抹殺するしか能がないのか? これだけの歴史がありながら、もっと賢い解決法が見出せないなんて! これが人類の知力の限界なのか! われわれはいまだにネアンデルタール人なみなのか! 『オイラこわい、オイラ殺す』、そんなレベルなのか! 人間が……人間が……そんなにあさはかだとは、まったく信じられん! だれひとりとして……」
 いい尽くせない思いに、のどがつまった。  ”

“「平々凡々な人生に、つい流されてしまう、そんなつもりでいる人間はだれもいないが、現実にはそうなってしまう。自分の行為について、なんであれ、よく考え、自分にできる最高の選択をつねにしていないかぎり、流されてしまうんだ、と」 ”





昨日、ふと書棚の方を振り返ると、この本の水色の背表紙と目が合いました。どうやら読まなくてはならないらしい。だもんで、素直にこれを読みはじめた私ですが、あらすじにもあるように、とにかくこの物語はところどころで「愛」「愛」「愛」と連発するので、正直辟易しました。また「愛」か。「愛」がどうしたって言うんだ。「愛」ごときに何ができるって言うんだ。と、どす黒いものが込み上げてきそうで、3分の1ほどのところで、いったん中断しました。しかし次に気がついた時には、読み終えていました。そしてこの人の言いたいところの「愛」とは何なのかを、どうして私がこの物語を読まねばならなかったのかを、理解したつもりになっている自分を発見しました。さざ波のような余韻が私をひたしているようです。

あまりに楽天的すぎるのではないか、とは言えません。この人は「愛」と呼ばれるものの持つマイナス面にも目を向けつつ、なおかつそれを正しいあり方で認めたいと考えているようなのです。ついつい納得させられそうです。思わず信じてしまいそうになります。愛を。
もっとも、私を暗黒から(愛を疑うことが仮に暗黒だとして)引き上げ切るまでには至りませんでしたが、この人が言いたいことは理解できましたし、共感もしました。もしも、いつか誰もがこんな風に自らとそれを取り巻く世界を、人々を見つめ直すことができたら、想像もできなかったような新しい世界が生まれてくるかもしれません。そんなことを真剣に願いたくなるような、そんな物語でありました。そして、「真剣に願う」ということそのものの重要性を強く訴えられる物語でもありました。

物語は、呆れるほど仲睦まじいリチャードとレスリーが飛行艇に乗ったまま、何千兆分の1の確率によってもたらされる異次元との境界を超える事態に見舞われるところから始まります。彼等はそこで若い頃の自分たちにそっくりな人物、不幸な、悲しみに満ちた、あるいは無益な争いを克服し新しい幸福な可能性のなかに生きる、いずれも「自分の分身」である人々と出会うのでした。目を背けたくなる自身の心の奥底に直面させられたりもします。何でも可能と思えるまばゆい夢のような、あるいは無力感に打ちひしがれるばかりの失望のような絶望のような、今も同時に存在するはずの世界。そして、これまでには考えもしなかった世界に出会うたびに、ふたりは何かを学んでいきます。ひとつきりだと考えていた自分の人生の、ほとんど無限とも思える可能性に、そしてその時々の選択の重要性に気が付いていきます。人生を、生を、出会いを、知識を、破滅を、幸福を、破壊を、暴力を、希望を、別離を、死を。そこから何が学べるのだろう。何を学ぶべきなのか。

物語を彩る色がとても美しい。アイディアは透明な水晶だ、とか。なんにせよ、美しかった。水晶みたいだった。




最近の日課

2008年07月16日 | もやもや日記


それは、麦茶を沸かすこと。

一昨年も大阪の夏は暑かったのですが、コーヒー中毒者の私は、連日アイスコーヒーをがぶがぶと飲んでいました。それでいて熱中症対策をとっているつもりだったのです。しかし、実際はコーヒーには体から水分をむしろ排出する性質があるようで、飲んでいる量のわりに私はみるみる萎れていきました。もうだめだと思いました。うっかりすると誰にも発見されず倒れていたかもしれないと思うと、ぞっとなります。うちのお隣は消防署だというのに……。

そんなこんなで反省した私は、夏にはやはり麦茶とミネラルが必要だろうと思い直しました。そう言えば、ハチミツ林檎酢ドリンクを作って飲んでいた頃は、まだまともに夏を過ごせていたものです。あー、でもあの舶来もののハチミツ林檎酢は近所のスーパーに売ってないんだよなー。おいしかったのに、残念。

とりあえず、毎日麦茶を沸かしています。温かいままでも、いけます。牛乳も好きなので、栄養は牛乳から採っています。体重維持のためです。
それで、麦茶と牛乳(ジュースやコーヒーを割ったりするのも好き)を合わせて、1日1リットルくらい飲みます。これは、ちょっと少ないかもしれません……。どうなんでしょ。
塩分は、どうにかまだ食べることが出来ている食事から補給しています。バテてしまったときには、舐めますかね。熱中症対策には、水だけだと不足なのですね。気をつけないと。


それにしても、「暑い」というくらいしかネタのない近頃の私。いやでも大阪って、ほんとに暑いのですよ(/o\) とうとう蝉が鳴き出した。



最近観た映画

2008年07月15日 | 映像





『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』

『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』

三部作の1作目を観たのが東京にいたころですから、少なくとも5年以上前? 原作は2度ばかし通して読んでいるのですが、今回映画を観た限りでは、ほどよく忘れてますね……。でも、要所要所は記憶があって、覚えているところに限っては原作に忠実に作ってある映画だなーと感心してしまいました。とにかく、長かった……!




『ボーン・アルティメイタム』

こちらはシリーズ3作目。うーむ、例によって面白い。このハラハラ感! このハラハラ感!
というより、このシリーズの主な要素って「ハラハラ感」なのでしょうかね。とにかく追っかけっこが立て続けに、ひたすらに続くので、ハラハラしっぱなしです。気のせいか、CIAの人たちが間抜けすぎるようにも思えますが、まあそれは置いといて。まさかマット・デイモンがこんな格好いい孤独なヒーローを演じるとはなあ。意外なはまり役だったなあ。うむうむ。
それにしても今時めずらしいくらいに見応えのある映画。面白ーい!!




『イベント16』

ニュージーランドを舞台にしたSF。久しぶりに壮絶なものを観てしまったな……という感じです。
「え? これ、どこかの学生の卒業制作映画とか??」と思わず、これをツタヤで借りてきたK氏に尋ねてしまいました。なんとも壮絶。よく我慢して最後まで観たな、えらいな私。
やりたいことは分かりましたが、話がさっぱり分からない修行にもってこいの映画でした。

ちなみにK氏は、「パッケージに騙されて借りてしまった。こんなことなら『スタートレック』を借りてくるんだった!!」と嘆いていました。まったくもって同感ですわ。




スイカ

2008年07月14日 | もやもや日記


今年はじめてのスイカを食べました。うめー。
昨年は食べた記憶がないので、スイカを食べるのは2年ぶりくらいのことかもしれません。私は昆虫の方々は苦手で互いに理解しあう日が来ることはないだろうと思っていますが、このときばかりはクワガタの気持ちも分かりそうになります。まったくもって、旨いったらない。

スーパーで切り身で売られていたスイカを買いました。なにゆえ切り身かと言えば、うちの冷蔵庫が小さくて1個では入らないからです。それに食べきれないし。さらに、玉でおいしいスイカを判別することが私にはできないということもありましたね。いずれにせよ、切り身です。

それで、私が買ってきた切り身のスイカですが、小型の俵型をしたスイカのようでした。微妙に楕円形です。そして皮が非常に薄く、種も少ない。最近のスイカはずいぶんと食べやすいなあと感心してしまいます。甘くておいしいし。

三角形の頂点から、しゃくしゃくとむさぼるように食べてしまいました。かなり無心だったと思います。一瞬で食べ終えてしまいました。そしてスイカの水分が喉を通ってゆく冷たさに、頭もじわーっと覚めてくるようでした。


今のところまだ例年の激しい夏バテによる食欲不振に襲われていない私は、夏の味覚が気になって仕方ありません。あとは、桃とか、水羊羹などが食べたい。近所のでかい無花果の木のそばを通りかかったときには、その実に目が釘付けになってしまったし。まだ小さかったけど(つか、熟してたところでどうにもならないのだけど)。

この勢いで夏を乗り切らないと!
(ところで関西の梅雨は明けたんでしょうかね?)





『ポケットのなかの東欧文学―ルネッサンスから現代まで』

2008年07月12日 | 読書日記ー東欧

飯島周・小原雅俊 編(成文社)



《収録作品》
ヤン・コハノフスキ「挽歌」
カレル=ヒネク・マーハ「クルコノシェへの巡礼」
ユリウシュ・スウォヴァツキ「スウォヴァツキ選」
ボジェナ・ニェムツォヴァー「金の星姫」
ツィプリアン・ノルヴィット「黒い花々」
ヨゼフ.カレル・シュレイハル「自然と社会の印象」
ヤクプ・アルベス「ネボジーゼクの思い出」
パラシケヴァ・K・シルレシチョヴァ「ブルガリア民話選」
マリア・コモルニツカ「相棒」
タデウシュ・ミチンスキ「薄闇の谷間、海眼湖の幽霊」
ヴァツワフ・シェロシェフスキ「和解」
イヴァーナ・ブルチッチ=マジュラニッチ「漁師パルンコとその妻」
カフカ・マルギット「淑女の世界」
ボレスワフ・レシミャン「鋸」
ヴィーチェスラフ・ネズヴァル「自転車に乗ったピエロ」
イジー・ヴォルケル「愛の歌」
カレル・ポラーチェク「医者の見立て」
ドイツ占領下のユダヤ人を歌ったポーランド詩選「小さな密輸商人」
ルドヴィーク・アシュケナージ「子供のエチュード」
ハリナ・ポシフィャトフスカ「ポシフィャトフスカ詩選」
ヤロスワフ・イヴァシキェヴィチ「八月の思い出」
ボヤン・ボルガル「日本への旅」
フランチシェク・フェニコフスキ「マリア教会の時計」
ヴラジミル・カラトケヴィチ「群青と黄金の一日」
タデウシ・ヤシチク「十字架を下ろす」
ボフミル・フラバル「黄金のプラハをお見せしましょうか?」
ラシャ・タブカシュヴィリ「さらば、貴婦人よ!」
チェスワフ・ミウォシュ「私の忠実な言葉よ」
ヤン・ヴェリフ「賢いホンザ」
イジー・ヴォスコヴェツ「私のシーシュポス」
ブランコ・チョピッチ「親愛なるジーヤ、水底のこども時代」
ヴラディミール・デヴィデ「『俳文』抜粋」
ミルカ・ジムコヴァー「天国への入場券、家路」
ブラジェ・コネスキ「マケドニアの三つの情景」
モノスローイ・デジェー「日本の恋」
ペトル・シャバフ「美しき風景」
ヨゼフ・シュクヴォレツキー「チェコ社会の生活から」
アンジェイ・スタシュク「場所」
オルガ・トカルチュク「番号」
クシシュトフ・ニェヴジェンダ「数える」
カタジナ・グロホラ「向こう岸」
ユリア・ハルトヴィック「ハルトヴィック詩選」
パヴォル・ランコウ「花を売る娘」
ヴォイチェフ・クチョク「幻影」


《この一文》
“ここに描いたあれこれを、わたしは「黒い花々」と呼ぶ。これらは、文字が書けないので不恰好に描かれた十字の印で署名する証人の署名がそうであるように事実に忠実である。いつの日か!……ひょっとしたら別の折にわたしがみるかもしれぬ文学においては……このような文章が、短篇小説を探し求める読者たちにとって奇妙でなく映るようになるかもしれない。まだ書かれていない非文字の世界には、当世の文学者の夢にも現れたことのないような長篇小説、ロマンス、ドラマ、悲劇があるのだから……。
  ―――「黒い花々」ツィプリアン・ノルヴィット ”





ボフミル・フラバルの短篇を読みたくて図書館から借りてきましたが、ほかの作品も全部読んでしまいました。面白い!
収録作品を書き写すだけで疲れてしまったので、あまり感想を書く気力がありませんが、特に面白かったものについていくつか書いておきましょう。


まず、「黒い花々」(ツィプリアン・ノルヴィット)。ポーランドの人。ポーランド芸術家の死にゆくさまを忠実に記録したというこの回想は、なんだか妙に魅力的でした。回想録というにはあまりに物語的と言うべきか。とても静かな語り口でありながら、大きく心を動かされる美しさがあるようでした。

次に「淑女の世界」(カフカ・マルギット)。ハンガリーの人。女性。ある女の子が優秀な従姉妹とともに新聞をつくることになる。女の子に文筆活動は不必要だという周囲の意見にめげず、「私」は処女作を書き上げるのだった。というお話。
これもまた妙に面白かった。従姉妹のヘッラという女の子と、彼女に憧れてそのあとについていくだけだった「私」の将来における立場の違いは皮肉的で悲しい。全体的にスピード感のある物語で面白かった。

「医者の見立て」(カレル・ポラーチェク)。チェコ。
「私」はある朝目を覚ますと、すごく具合が悪かった。会社を早退し、医者を呼ぶと「インフルエンザですね」と告げられる。なんてこった、半分死んだも同然だ。うろたえる「私」に医者は絶対安静を告げるのだが、しかし……。というお話。
これはすごく笑えた。総じてチェコの短篇はこういう感触のものが多い気がする。痛烈な。ややひねくれたような視点というか、何と言うか。とにかく面白かった。

「子供のエチュード」(ルドヴィーク・アシュケナージ)。チェコ。
この人もチェコの人だけれど、こちらはストレートに美しい作品群でした。いえ、ほかのチェコの作品が美しくないというわけではありませんが、しかし。もちろんやはりチェコ的な雰囲気はあります。何と言っていいのか分かりませんが、何かチェコ的な感性というか。
父である「私」とその息子をとりまく生活を描いた作品。胸があたたまるような話ばかり。

「八月の思い出」(ヤロスワフ・イヴァシキェヴィチ)。ポーランド。
どこかで聞いた名前と思ったら、『尼僧ヨアンナ』の人でした。あちらは非常に恐ろしいお話でしたが、こちらは物悲しくも美しい短篇でした。

「日本への旅」(ボヤン・ボルガル)。ブルガリア。
ブルガリアの作家ボルガルが、まだ国交の回復していない日本を訪れた際の記録『日本への旅』の抜粋。
これは非常に興味深いものでした。1950年代後半に東京で開催された国際ペンクラブに参加するため来日したボルガルが見た当時の東京のさまや知り合った真面目な日本人たちについて描かれています。「道ばたに酔っ払いがいない」ということに感動するボルガル氏。なにかしみじみさせられました。

「十字架を下ろす」(タデウシ・ヤシチク)。ポーランド。
トラウマになりそうな悲惨の作品群。ごく短い物語がいくつか載っていましたが、どれもこれもあまりに悲惨なのでたまりませんでした。戦争や占領、貧困の悲しみが噴き上がっています。うーむ。「おちびのネル」というお話が特にやばかった。

「私のシーシュポス」(イジー・ヴォスコヴェツ)。チェコ。
やっぱりチェコ。神話の人物シーシュポスを取り上げて、大岩を押し上げてはまた山頂から転げ落ちたそれを繰り返し押し上げるという苦行に赴く彼の心理を分析。それがとにかく面白い。あー、面白い。これは面白かった。最後の一文がとにかく傑作でした。

 “そう、これが大岩のために赴く、私のシーシュポス。それから私はアルベルト・カミュが書いたシーシュポスについてのエッセイを読み、それは全く私のと違う作品だったのだが、大本は同じで、しかもよりいいものだった。カミュ氏はご立派だった。それでノーベル賞ももらった。私が得たものは大岩だった。 ”


爆笑!!

「美しき風景」(ペトル・シャバフ)。チェコ。
またしてもチェコ。二人の兄と、父親、そして祖父。家族の男たちと同じように自分も男になりたいと真剣に考える妹が、男たちの間抜けな生活を窓から見つめている。というお話。
これにもかなり笑わされました。すげー面白い。とても映像的で、コミカルかつユーモラスなお話。映画にしたら面白そう。と考える人は本国にも多いようで、この人の作品は次々と映画化されているらしいです。いやー、面白かった。
おじいさんが用を足そうとして「まさかの結石!」という場面が、私としては最高に愉快でした。

「チェコ社会の生活から」(ヨゼフ・シュクヴォレツキー)。チェコ。
どこまでもチェコ。マハーニェ家の子供たちの宿題レポートの形式をとった、いくつかの小品。「なぜ、人の鼻は柔らかいか」「注目に値する科学的現象」(弟)、「あたしが結婚せずにすんだ顛末」(姉)、「僕が結婚する羽目になった顛末」(兄)などなど、実に馬鹿げた日常生活が描かれています。やっぱチェコってこういう感じなのでしょうかねー。面白い。

「番号」(オルガ・トカルチュク)。ポーランド。
ホテルのメイドとして働く主人公が見る、世界各国のさまざまなお客たちの使った部屋についての物語。
このあいだニュースで「もっとも好ましい旅行客は日本人」というのがありましたが、それはこのお話の中でもそのように描かれていました。やっぱそうなんですかねー。ちなみに、物語の中でもアメリカ人の若い客は最悪でした。
それにしても、部屋から部屋を次々と片付けていくメイドのお話というだけなのですが、どこか幻想的な雰囲気を漂わせている不思議に印象的な物語でした。


ああ。なんだかんだですごく長い記事になってしまったような……。
『ポケットのなかの東欧文学』と言いながら、どんなポケットになら入るのかしらというほどに分厚い本書。しかし、収められた一篇一篇は、たしかにポケットのなかに入れておきたくなるようなものばかりでありました。




『 YUKIDOKE WEB 』 公開中!

2008年07月11日 | 同人誌をつくろう!




★★ お知らせ ★★

ようやく同人誌『YUKIDOKE』のウェブ版を公開いたしました。

お時間のある方も、そうでない方も、奮って御覧くださいませ~☆

ちなみに上のアニメーションは、内容に何もかかわりがありませんので、
あしからず。
何か「予告編」みたいなのを作ろう、と思って作りましたが、
相変わらず意味不明なものに仕上がってしまいました。
あはー。

気を取り直して、『YUKIDOKE Web版』は、こちらから↓

  『 YUKIDOKE WEB 』(←ココ)




より多くの方にお楽しみいただけるとよいのですが。


参加して下さった同人のみなさま、修正・変更・ご意見、随時受け付けておりますので、お気軽にお申し付けくださいませ~♪

はあ。
半年間かかりきりでしたが、これでやっと肩の荷をおろせます。
いろいろと反省したいところもありますが、とりあえず、
やったー。おわったー!





液体

2008年07月10日 | もやもや日記


「喉かわいたー。麦茶、麦茶」

と言って、K氏は冷蔵庫からガラス瓶を取り出しました。たまたまそれを見ていた私は、K氏の手にした瓶が《麦茶》の瓶ではないことに気が付き、

「それ、《めんつゆ》だよ」

と注意してあげました。なんて親切なんでしょ。
しかし、黙ってそのままK氏が《めんつゆ》を飲んでしまうところを見られればもっと面白かったのに、と惜しいような気もしました。なんてゆーか、つい注意してしまった。私は根が親切なものですからね。いくらK氏が間抜けで可愛いからといっても、いじわるはいけません。「《めんつゆ》を飲んじゃいそうだった」というだけで、十分面白いですし。むふふ。



それにしても、《麦茶》と《めんつゆ》を間違えるというのは、20世紀のネタだと思っていましたが、21世紀の今日(こんにち)でも滅びずに連綿と行われているのですね~。しみじみ。



とか言って、ひとのことを笑っていると、私もなにかやらかすんだろうなぁ。でも、間抜けな失敗は笑えるから、いっか。




久しぶりのお知らせ

2008年07月09日 | 同人誌をつくろう!


『YUKIDOKE』同人のみなさま、こんにちは!

本日は、web版『YUKIDOKE』についてのお知らせです。
私の方で勝手にページを作成してみました。

つきましては、みなさま宛にメールをお送りしてありますので、
ご確認くださいませ!

あれでいいのかどうなのか分かりませんが、
ご意見をいただけると助かります~☆

よろしくお願いします♪



あづい

2008年07月07日 | もやもや日記

7月になった途端に、猛暑です。
つーか、ほんと大阪は雨が降りません。
大丈夫なのでしょうか。水不足とか。
このところ連日の真夏日に、熱帯夜。
暑いよう。眠れないよう。疲れたよう。(←はやくも;)

あまりに暑いので水をかぶったら、
今度はなんかぞくぞくしてきました。
こんな弱っているところで風邪なんかひいたら滅びる!
つか、いったいどうすりゃいいんだ、この暑さ。
息をするだけで汗が流れるぜ……。


愚痴ばっかでスミマセン。
私は夏が苦手なのでございます(/o\)
なんとか気の持ちようを変えたいと、あれこれ考えましたが、
だめでした。
「自分を草だと思うんだ」「カエルだったらあるいは」
  (じめっ)(いらっ)
「……」。想像力も働きません。

夕焼けが一瞬だけ美しかったので、今日はどうにか乗り越えられそうです。気のせいかもしれませんが、若干涼しいような気もしてきたし(悪寒?)。



あーあ、はやく秋にならないかなぁ。


『フランス幻想小説傑作集』

2008年07月05日 | 読書日記ーフランス
窪田般弥・滝田文彦=編(白水社)




《収録作品》
州民一同によって証言された不可解な事件(D=A=F・ド・サド)
不老長寿の霊薬(オノレ・ド・バルザック)
オニュフリユス(テオフィル・ゴーチエ)
狼狂シャンパヴェール(ペトリュス・ボレル)
白痴と《彼の》竪琴(グザヴィエ・フォルヌレ)
悪魔の肖像(ジェラール・ド・ネルヴァル)
ヴェラ(A・ド・ヴィリエ・ド・リラダン)
オルラ(ギ・ド・モーパッサン)
ミイラ造りの女たち(マルセル・シュオッブ)
仮面の孔(ジャン・ロラン)
クレダンの竪琴(ジョゼファン・ペラダン)
鏡の友(ジョルジュ・ロデンバック)
静寂の外(クロード・ファレール)
沖の娘(ジュール・シュペルヴィエル)
秘密の部屋(アラン・ロブ=グリエ)
怪物(ジェラール・クラン)

《この一文》
“抽象の世界での長い瞑想やら彷徨のために彼はこの世のことに心を配る暇がなかった。頭は三十歳だが、身体は生後六カ月だった。自身のけだものの調教を全く怠っていたから、ジャサンタと友人らがうまくこれを導いてやらなかったら、とんでもない大失策をしでかしたにちがいない。
  ――「オニュフリユス」(テオフィル・ゴーチエ) ”

“「法律よ! 貞潔よ! 名誉よ! お前たちは満足だろう。さあ。お前たちの獲物を手にとるんだ。野蛮な世間よ、お前がのぞんだのだぞ。さあ、みてくれ。これがお前の仕業なんだ。お前のやったことだ。お前のいけにえに満足かい? いけにえになった者どもを見て満足かい?……」
  ――「狼狂シャンパヴェール」(ペトリュス・ボレル) ”

“「……この愛に籠もりきりの生活、片時もやむ閑のないこの差し向かいの生活には、なにかいわくありげなものがありました。なにしろ世間一般に見られるものと大違いだったものですから、だれもかれも田舎者の本能で、いまにきっととんでもないことが起こるにちがいないと考えておりました。幸福というものは、いつでもこの世では招かれざる客ですから」
 司祭はすぐに、いまのその言葉を取り消した。
 「もっとも、人間の情念から幸福が生まれうるとしての話ですがね」
  ――「クレダンの竪琴」(ジョゼファン・ペラダン) ”



あとがきによると、ここに収められたのは『フランス幻想文学傑作選』(全3巻)と、『現代フランス幻想小説』から選ばれた作品だそうです。道理で。読んだことのあるものがいくつかありました。「ヴェラ」は岩波文庫の『フランス短篇傑作選』にも入っていたし。
私はいずれ現在は絶版のこれらの本も入手する予定なので、そうなると内容が重複してしまいますが、この『フランス幻想小説傑作集』は持ち歩くにはよい大きさなので良いのです。

さて、どの物語について書こうかおおいに悩むところです。どれも非常に面白かった。どうしてこんなにも面白いのでしょうか。私はこの豪華絢爛な描写が好きなのでしょうか、それともこの独特に屈折したような主人公および作者の思念に魅せられるのでしょうか。美への憧憬であれ、この世への憎悪であれ、なにか燃え盛るようなものがあるにはちがいありません。


上に引用したゴーチエの「オニュフリユス」は、解説によると1830年ころの過激なロマン派青年を描いた『若きフランスたち』からの一篇だそうです。現実と幻覚との区別を失った芸術家青年の狂気と破滅を物語っています。恐ろしいです。

そして、その次に収められているのがその《若きフランス派》の一員だったというペトリュス・ボレルの「狼狂シャンパヴェール」。このあたりの編集が親切ですね。そしてこの物語では、なるほど作者は過激なロマン派だったのだろうことが伺えます。ただで読み過ぎることなど不可能です。生や幸福、世間、人生、神などへの憎悪が炸裂しています。すさまじい勢いです。今回の読書では、これが私にはもっとも強烈な一篇だったかもしれません。解説に見るこの人の実人生も気の毒。……うーむ、破滅か。人生とはいったい何なのだろう。罪とは。


読み終えてわなわなと感激に震える私を見たK氏から「ああ、君ってああいうひねくれたのが好きだもんね」と断定されました。彼はまったくの未読だというのに「ああいう」とは「どういう」ことだと思いましたがおそらくその他のフランス小説集を思い起こしてのことでしょう、たしかにそれらの作品にはどこかしらひねくれたところはあるようですし、私がそういうところに惹かれやすいのもまた事実。なるほどなーと納得してしまいました。

幸福? 人生? それが何だって言うの?

と毒を吐き散らしながらも、その実内心では狂おしいほどに何か確かなもの、意味を約束してくれるものを求める人々を、私はここに見たいと思っているのかもしれません。まったくフランス小説には燃やされるようです。