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『ジュリアン聖人伝』

2009年06月01日 | 読書日記ーフランス

ギュスターヴ・フローベール 鈴木信太郎訳
(『フランス文学19世紀 世界短篇文学全集6』集英社 所収)




《あらすじ》
森に囲まれた城に住む気高く優しい父母のもとに生まれたジュリアン。彼が生まれたとき、父母はそれぞれにその息子が将来聖人になる、帝王になるとのお告げを受けるが、互いにそのことを誰にも言わないままジュリアンを慈しむ。だが、健やかに優しく成長したはずのジュリアンは自らの欲望と力を御しきれず、狩りに熱中するあまり残虐な殺生を重ね、殺した牡鹿から「そのうち自分の父母をも殺すだろう」という呪いを受けて、おそろしさに城を飛び出してしまうのだった。


《この一文》
ジュリアンは、自分にこういう所業を科した神に対して反抗はしなかったが、しかしこんな大罪を犯し得たわが身に絶望したのである。




ジュリアンがいかにして聖人となったかを描いた、ほんの短い物語。ごく短い物語ですが、その描写はたいへんに美しいと同時に凄まじいものです。読み終えた後、私の胸は詰まって、なんだか分からない不思議な感情で詰まってしまいました。悲しみや怒りや絶望のように痛むのに、決してそのいずれでもない、妙な感じです。ジュリアンが過酷な運命を経て最後に聖人となるところでは、涙がぽたぽたと垂れて仕方がありませんでした。

私を打ったのはなんだったのだろうかと、随分と考えましたが、よく分かりません。少し物語を整理するところからやり直してみます。



 ********************

ジュリアンは、豊かで優しい父母のもとに生まれ、不自由なく育ち、美しく力強い肉体と、鋭く深い知性、優しい心根を持った青年に育つ。彼は、望みさえすればなんでも手に入れられるはずだった。そして、彼は自分の力のままに欲求を満たし始めるが、それと同時に心は冷却し、残酷さを増して行く。あるとき、無数に集まった鹿の群れを皆殺しにし、最後に立派な牡鹿を仕留めたら、その牡鹿はジュリアンにこう告げる。「呪われて、呪われろ、残忍無慈悲な奴だ。いつかは自分の父と母とを、手に掛けて殺そうぞ」

その後、狩りと武器を恐れるようになったジュリアンは、それにも関わらず手違いから父と母を殺しそうになったことに衝撃を受け、城を飛び出してしまう。

野武士の群に身を投じたジュリアンは、そこでも力を発揮し、しだいに勢力を強めて行く。弱い人々から名高い王など、実に多くの者を助け、その名を高めていたジュリアンは、あるとき回教徒に監禁されたオクシタニアの皇帝を救出する。皇帝は褒美に娘を差し出す。ジュリアンはその美しい娘に恋し、彼女を娶った。

妻との幸福な日々のなか、ジュリアンは誰から誘われても依然として狩りに出ることだけは拒んでいた。猟に行けば、父母を殺すという預言が実現しそうな気がしたからだ。しばらくはそうやって我慢していたが、ある晩とうとう我慢できず、ジュリアンは猟に飛び出した。

ジュリアンが猟に出かけたちょうどその後、みすぼらしい老人と老婆の二人連れが城を訪ねてくる。それはジュリアンの両親だった。かつてジュリアンが生まれた城を飛び出した後、両親もまた彼を探しに城を発ったのだった。王妃は不在のジュリアンに代わって年老いた両親をもてなし、自らの臥所に彼らを休ませた。

一方、猟に出たものの、成果を上げられず立腹して帰ってきたジュリアンは、妻の臥所に立ち寄ると、両親がふたりで眠る人形を、見知らぬ男と妻であると誤解し、短剣で突きまくる。誤解が解け、妻の姿を認めたジュリアンは、とうとう呪いの通りに両親を殺してしまったことに絶望し、自分の城からも出て行く。

乞食となって諸国を遍歴するジュリアンは、人間を避け、孤独を求め、深い悔恨に涙を流しながら暮らしていたが、或る大河のほとりで、人を渡して、人に尽くして生涯を送ろうと考える。彼はその通りにし、河を渡るすべての人に、自らは何も求めることなく、逆に自分の持てるだけ全部の親切と祝福を与えるのだった。

ある嵐の夜、ジュリアン、と向こう岸から自分を呼ぶ声が聞こえたので、暴風のなかを舟を漕いで行くと、ぼろぼろの、だが不思議と威厳のある人物が立っている。ジュリアンはその人を舟に乗せ、荒れ狂う河を渡ろうと必死で漕ぐ。どうにか小屋に辿り着くと、その癩病病みの人物は腹が減ったと言うのでわずかな食べ物をすべて与える。寒いと言うので火をおこし、その人の望む通りに、自分の寝床に入れてやり、裸になって直に温めてもやる。

するとその癩病病みはジュリアンを抱きしめ、光り輝き、溢れる至楽と超人的の歓喜でジュリアンの霊魂を満たした。そうやって、ジュリアンは蒼々とした空間を登っていった。

 ********************


ふり返ってみると、前半の凄絶さがあまりにも凄まじいので、まずそれが衝撃的でした。度を超したジュリアンという人物のあり方は、度を超しているが故に、聖人とも帝王ともなる器であったと言えるでしょうか。

与えられた素晴らしい力をそのように行使しただけのことなのに、それによって望めるだけのものを望んだだけなのに、ジュリアンはなぜか幸福と平安を得られません。彼は持っていた全てを捨て去り、誰からも忘れ去られてしまってはじめて、ほんのささやかなものを得るのです。あまりと言えば、あんまりな人生です。

優しい心を持ちながらも、力の強さのみを選び、尊大さのために犯した過ちを、恐怖と嫉妬、憤りのために犯した過ちを、ひたすらに後悔し、贖罪するばかりのジュリアンの後半生は、あまりに痛ましい。この物語が私を打ったのは、こんなふうに、ささやかなものの価値を知るために、多大な損害と取り返しのつかぬ犠牲を払わねばならなかった哀れな人間も、最後にはやはり救われてほしいと私自身が願っているからだろう。結局は傷つけ、失うばかりで、何も得るところのなかったように見える彼の生涯にも、燦然と輝く美しいものがあったと、幸福とは必ずしも形ある何かを得ることではなく、罪を犯したとしても心がけ次第ではわずかばかりの平安くらいは望めるはずだということを信じたいからかもしれません。

しかし、罪を贖うことは可能でしょうか。罪はどこからやってくるのでしょうか。その罪へと人間を走らせるものは、誰かによってもたらされるものなのでしょうか。いいえ、それはすべて自分の心の内側から自分でやってきて、いつまでもそこに居座り、後悔と懺悔に苦しむことを要求するでしょう。ここに神は関係ない。自分のあり方というものにもっと注意を傾けていたら、おそらくは避けられたはずの罪に、神は関係ない。神はそれを罰しもしなければ救いもしないだろう。自分を救いたければ、自分でどうにかするしかない。そして自分を救うということは、自分の平安ばかりを考えるよりもむしろ他者のために尽くすことであり、自分の持ち物を、何かを欲っする心ごと、どんどん失っていくことなのかもしれない。全部手放して、自分と世界との境界が限りなく近づいたとき、彼はようやく、罪も罰も善も悪も、何にもないと同時に全てがある「世界」と一体となれるのかもしれない。そうやってはじめて彼は救われるのではないだろうか。そうであってほしい。私の目にジュリアンが偉大に映るのは、彼がその力をもってすれば、罪を罪とも思わないで平然と生きていくことだってできたのに、それをしなかったところかもしれません。自分だけの幸福を追求しようと思えばいくらでも出来たのに、誰かを傷つけたことなど忘れてしまって、罪を負おうとも考えずに、平然と当たり前の顔をして生きることだって可能なのに。きっと多くの人が、私もまた、そうしてきて、今もこれからもそうするだろう、そのように。だが、彼はそうしなかった。いや、できなかっただけかもしれないけれど。力にまかせて多くを奪った彼は、奪っただけのものを今度は、望まれるままに差し出して返済し、それでようやく救われたということでしょうか。自らの心によって自らを赦してもいいと、思えたということなのでしょうか。



「ジュリアン聖人伝」。こんなに真剣にこのことについて考えさせられるとは思わなかった。同じくフローベールによる『聖アントワヌの誘惑』を読み始めたところですが、笑いさえ誘う冒頭部分のために甘く見ていましたが、これはやはり気合いを入れ直さないとならないところでしょう。