これは4月11日の昔の学校(1)(当時の環境、尋常小学校)の続きです。
始めての方で、今頃昔話をする理由や、大戦直前の一般社会の状況、昔の小学校などご興味のあるかたは是非ご一読をお願い致します。
[周囲の環境]
日本全体
1931年 満州事変→1932年 五・一五事件→1936年→ 二・二六事件→1937年 盧溝橋事件発生以後事実上の日中戦争突入→1941年米国に宣戦布告
と日本を取り巻く環境は益々厳しくなって行ったが、下記のように私が工業学校を卒業するまでは、一般の社会環境は現在の日本の社会環境に比べると遥かに平穏無事であった。
社会
日本全体としては軍国主義化していたが、軍は勿論、国家権力の介入などまったくない状態でも、今より遥かな平和な社会だった。
強いて言えば、私の想像だが事実上の日中戦争で社会全体に緊張感が溢れており、私の小学校時代よりなお事件の発生が減ったのかもしれない。
子供社会
農村地帯に転居したのと、大きくなったので近所の子供達と遊ぶ頻度は大幅に減り、母の手伝いで、それこそ山に「柴刈り」に行って大きな薪の束を担いだり、風呂の水汲みをしたり、前の川で泳いだり、兄弟で何時間も歩いて海水浴に行った程度の記憶しかない。
いじめ
前に書いたように地域は九州男児の気風が残っており、男は男らしく、女は女らしくの考えが子供社会にも浸透しており、開放的な土地柄と相まってイジメなど全くなかった。いた。
我が家
姉と兄は高等小学校卒業後、就職して給料をそっくりそのまま父母に渡すようになって家計がやや楽になって来だした。(このやり方は私以下の三人の兄弟まで続いた。)
[高等小学校](1936年~1938年)
尋常小学校と違って高等小学校は街の中心部にあったのと、年頃が反抗期に近づいて居たためか、少しひねた子や柄が余り良くない子が目立つようになった。
学級編成と学力
・尋常小学校の時、男子、女子、男女混合の三クラスだったが、ここでは男女別クラス、そして男女それぞれに進級希望者向けのクラスが特別の設けられた。
勿論頭が良くて、家に余裕のある生徒は中学校に行くし、進級クラス以外の一般のクラスの生徒の学力もそれなりで、乱読と授業の集中力一本で何とか家の勉強は全くしなくて凌いでいた私に級長のお鉢が廻って来たのに驚いた。
・授業は特殊学科は専任の教師が担当したので、授業意欲を満足させてくれた。
特に尋常小学校の時ネグられた音楽は学級担当が音楽専門だったので、楽譜の読み方など基礎知識を得られ、今のクラシック・ギターの趣味に多いに役立っている。
今私どものグループに来ている中学生に訊いて、音楽では楽譜を習ったことがないとの返事に驚いた。
なおついでだが、彼にいじめの有無を訊いたがやはり今ではあるそうで、想像はしていたが、昔は全くいじめなど無かった地域でも起こっていることにがっくりきた。
愛国(軍国)教育
・祝祭日の式次第や教育勅語の取り扱いは尋常小学校時代と同じ(工業学校も同じ)。
国史の教師が熱血派で、こと皇室のことに関しては涙を流さん熱弁を感心して聴いていたが、当時は皇室を敬うなどは当然のことと思っていたのでそれに対して特に影響をうけたとは感じなかった。
私の担任は音楽の教師だったが、日本人は箸でものを食べるのに外国人はナイフとフォークでしか食べることが出来ないから日本人より文化レベルが低いのだと言った他愛のない話をぼんやり聴いていた記憶がある程度で、特に愛国主義的な教育は受けなかったし、運動会などでは、分列行進など軍隊式の歩き方が取り入れられて居た程度で特に、軍国主義的の教育はなかったような気がする。
部活
剣道と柔道の二つがあり、他の運動部はなかったような気がする。
私は身体が早伸びする体質だったので体力を活かせる柔道部に入ったが、大きな身体の朝鮮人の生徒に抑え込まれて、ニンニクの臭さに耐えきれずすぐ「参った」をした記憶がある。
体罰
尋常小学校とあまり変わらなかった。
講堂修身
この学校で特筆すべきなのは「講堂修身」と 言うのがあった。
学校内で何か問題があると、生徒全員を講堂に集め、関係教師が全て立ち会いの上で、約一時間、教師の何人かが交代で、生徒全員に「気合」を入れるのだ。
教師は教育に非常に熱心で、弁が立ち、しかも生徒達にも人望がある人が何人か選ばれているようだった。
そのころ前に書いたように「いじめ」など殆どなかったが、「いじめ」の場合にはこのような処置をとっただろう。
いじめ側、いじめられ側も特定せずに、全員集めるのだ。
だから関係者双方の名誉を傷つけずに、思い切ったことをずばずば言い、本人達にもその他の生徒達にも教師の言いたいことを浸透させることが出来るので、イジメ対策に絶好だと思う。
参照: 「いじめ」問題についての纏め
[旧制工業学校](1938年~1941年(早期卒業))
高等小学校卒業を間近で某大手企業の工員に就職が内定していたが、ある日親から工業学校に行って見てはと言われた。
と言うのは姉と兄の給料のお蔭でやっと極貧状態から抜け出してやや家計に余裕が出かかっていたからだろう。
急のことでろくに勉強もせずに、(余裕があっても恐らく勉強せずに)に受験して甲種工業学校としては受験期日がずれて居たためか、8人に1人と言う難関を何故か通ってしまった。
学級の生徒とそのレベル
・入学して判ったのだが、そして皆さんもそう思われると思うが、いくら難関でも、生徒の中には頭の良い子もいればそんなにも無い子、ひょうきんな子、私の様に無口でどこにいるか判らない様な子、当時の所謂軟派、硬派と言う悪もいることだ。
・そんな人に成りきれない私たちは彼らのほら混じりの話を興味津々と聴いたものだ。
ただ言いたいのは硬派の彼らは話では毎日他の学校の生徒との喧嘩に明け暮れてても、決して自校の生徒には手を出さなかった。
つまり彼らは悪いなりに、弱いものいじめはしないと言うプライドがあつたからだ。
学力
私の乱読、集中力に頼りきったやり方は工業学校で忽ちボロが出た。
第一に工業の諸科目は今までの乱読の範疇から全く別次元のものだった。
それと他の高等小学校の進学クラスの教師は有名な先生で、彼から鍛えられた生徒達の数学の解答をだすスピードが不勉強な私のそれと格段の差があったのだ。
そのお蔭で一学期の通知表は数学と英語の成績を始め散々だった。
私は慌てて夏休み中に数学の解答の練習と、英語の勉強をやり直して、やって皆に追いつくことが出来た。
然し、私はそれで安心してしまい、他の生徒のように所謂、試験のため勉強で徹夜など不勉強の癖がついている私には出来ず、クラスの中程の位置に卒業まで定住してしまった。
愛国(軍国)主義教育
予備役の陸軍の将校と現役の所謂配属将校が教練と科目の教育に当たった。
内容は軍隊の歩兵の訓練、諸規則、戦陣訓などの講義と在校中各一回の一日と宿泊での兵営での実習だった。
その他の教師による愛国主義的教育は全く無かった。
部活
私の学校では剣道と柔道の他に駅伝、陸上、バレーボールなど体操教師の得意種目の部活が行われていた。
体罰
時々行われた所持品検査で前述の軟派、硬派などから煙草の一部が発見されとき、体操教師から殴られるのを度々目撃した。
トピック
3年生の時12月8日に全員集合が掛かり、日本が米国に宣戦布告したことが告げられた。
皆は「これで英語の試験がなくなる」と口々に言って喜んでいるふりをしたが、全員の間に一種の不安と緊張が漂っているのを感じた。
そして通例の3月卒業を12月に繰り上げられ、2年生、3年生が同時に卒業をし、一気に日本は戦時体制に入った。
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