![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/e4/b8a9812fb595f5bc01a8bac81a3426cf.jpg)
※ 船越君の住んでいたアパート跡地で
ひとりひとり手を合わせる。
あれからもう18年も経ったとは・・・
クリック♪
1月16日(水)
夜10時すぎ。
いつもこの時期にだけ着る、ごっついモスグリーンのパーカーにマフラー、たっぷりした毛糸の帽子といういでたちで伊丹昆陽池公園 「追悼の集い」へ。
記帳と募金を済ませて広場へ出ると、ローソクの炎も、それを灯す人々も少なく、少々寂しい風景だ。
今年は常備のローソクが無く、すべて自作のローソクを灯すシステムになっていた。
係りの人から細いこより状の芯をもらったあと、熱く溶けた蝋と、冷たい水とに代るがわる浸す作業を繰り返す。
以前、船越くんのお母さんらと来た時は雪混じりの本当に寒い日だったが
今年はふしぎなほど暖かい。
しばらく蝋と水のバケツの間を行ったり来たりするうち、直径7,8ミリのローソクが出来たので早速立てにいく。
ローソクの炎で型どる今年のテーマは 『大きな根をはった大樹』
時おりサーッと吹きつける風に炎がかき消され、辺りがフッと薄暗くなると、なんとも心もとない気分になる。
消えたローソクを引き抜いて手に持ち
元気に燃えるローソクから火をもらい、それを消えたローソク達に灯していく。
点けるそばから、吹き抜ける風に一瞬で消されてしまうのだが、これで諦めるわけにはいかないのだ。
消えても消えても無心で灯し続けていると、いつしか風は治まり、辺りはまた明るく輝きだしてきた。
少し安心してクルマへ戻る。
今年は暖かったので●イゼリアへ寄らず、そのまま帰宅。
あの日から18年。
震災経験者の高齢化に近年の経済事情なども加わり、イベントもこれまでのスタイルで続けるのは難しいのかも知れない。
でも、この集いの主催者でもある赤松さんの仰っしゃる、「ひとりひとりが、自分の思いを灯し続けること」にこそ意味があるのだと思う。
どんなに規模が小さくなろうと、場のある限り続けていきたい。
1月17日(木)
船越君の写真を持って11時15分前に家を出る。
ちょうど清荒神駅へ着いたばかりの糸谷六段(今回の幹事)と会ったあと、注文していた花を受け取りに市場の花屋さんへ。
その後、M新聞のS記者とカメラマンYさん、野間五段、安用寺六段、澤田四段、大石四段、
それに、船越君のお兄さん(達也さん)が到着。
長兄の増田六段は急な対局で欠席。
川崎三段はずいぶん太っていてビックリ。
山崎七段は急な電話がかかってきたようで、皆でひと足先にアパート跡地へ向かう。
空き地は草がぼうぼうで、今年は入れないかなあと思っていたのだが
着いてみると、空き地の入口からアパートの建っていた辺りまでだけが、草丈が低く歩けるようになっていた。
大家さんの計らいだろう。 有りがたかった。
部屋のあった辺りに写真を立て、持ってきた花束を添え
いつもの青いダンガリーシャツの船越君の前へ一人ずつ進み出て手を合わす。
あれからみんなそれぞれ、白髪が目立ってきたり、新しい家庭を持ったり、メタボで悩んだり、色々なんだよ。
17歳のままの船越君にそっと報告すると、こらえていたものが一気に込み上げた。
途中、背後から不意に、「震災のお参り?」 「遺族の方?」 と声がして、振り向くと、見覚えのない初老の男性だった。
「わたしの知り合いもここで亡くなってねえ・・、ゴルフが好きな人やったんやけど」
震災当日の辛いシーンが脳裏をかすめる。
そのあと全員で逆瀬川まで出る。
電車の中から、武庫川の 「生」 の字を教えた。
逆瀬からタクシー3台で、ゆずり葉緑地公園へ。
ワンワン吠える声がするので振り向くと、毛のふさふさした犬が3匹ほど走り回っていた。
1番最初に2人でここへ来た時、訓練中の3匹のラブラドール(仔犬)にNが襲われたことを思い出し、ちょっと遠い目になる。
受付で記帳してキクの花を受けとったあと、鎮魂之碑の前で一人ずつ献花する。
天気はいいが、空気はヒンヤリと冷たい。
そのあとしばらくNや達也さんへの取材があり、そのあいだ、砂防モニュメントや沼島の原石、帆かけぶね型のモニュメントなど見て過ごすが、最後はかなり冷えてしまった。
考えてみれば、ここは甲山のすそ野なのだ。
タクシーを待つため、西高のバス停前へ移動。
若者グループ(山、糸、大、澤)は、徒歩がいいと言って元気に出発。
宝塚まではずっと下りなので、小一時間ほどのハイキングだろう。
東日本大震災当日の話しをしながら待つうちにタクシーが来て、野間五段、安用寺六段と3人で乗り込む。
若水へ着いたとき、お金が足りなくて、安用寺六段に立て替えてもらう。
食事の時間まで、まだ30分以上あった。
先に到着していたN、達也くん、毎日のSさんらと、武庫川を見下ろすロビーで熱いコーヒーをすする。
途中、ひとりで売店へ行くと、年配の団体客がいて、ものすごくたくさんのオミヤゲを買っていた。
炭酸せんべいも小さいサイズのしか残ってなく、ちょっと残念。
1時半ぴったりに山茶花の個室へはいる。
本来なら11時半からのコースなのだが、今年は女性グループの先客があったらしい。
8名でいつもの箱膳を頂きながら(川崎三段は仕事のため清荒神のみの参加)、糸谷幹事の決めたテーマ 「去年の実績と今年の抱負」 や、「将棋(仕事)でスランプに陥ったときの脱出法」 について、それぞれ順番に語る。
意外だったのは、優秀な子達でも、奨励会時代はほとんどの子がBを経験していたこと。
あと印象的だったのが、澤田四段の 「三連敗はしたこと無い」 発言。
これには参加者全員が唸らされていた。
そう言えば村山さんはどうだったのだろう?
あとで調べてみよう。
食後はお楽しみの温泉だが、私は4時からレッスンなので、残念ながらひと足先に帰らなければならない。
奥様ひとりに仕事を任せてきた達也さんも、お風呂はパスで大阪へ戻る。
次回からは、皆さん、万障繰り合わせて最後までゆっくり楽しめますように。
ということで、今年の1月17日が終わった。
今回は達也さんの初参加ということで、いつもよりさらに意義深い時間を過ごすことができた。
来年からはゼヒ御夫婦そろってお出でください。
そして、空の上の隆文君と共に、これからもずっとずっとずーっと、お母さまの支えとなって下さることを信じております。
最後になりましたが、寒い中を長時間、休みなしで取材して下さったM新聞のS記者とYカメラマンにもお礼申し上げます。
(今朝1月18日の毎日新聞に、今回の記事と写真が掲載されております。 どうぞごらんください)
おわり![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kirakira.gif)
ひとりひとり手を合わせる。
あれからもう18年も経ったとは・・・
クリック♪
1月16日(水)
夜10時すぎ。
いつもこの時期にだけ着る、ごっついモスグリーンのパーカーにマフラー、たっぷりした毛糸の帽子といういでたちで伊丹昆陽池公園 「追悼の集い」へ。
記帳と募金を済ませて広場へ出ると、ローソクの炎も、それを灯す人々も少なく、少々寂しい風景だ。
今年は常備のローソクが無く、すべて自作のローソクを灯すシステムになっていた。
係りの人から細いこより状の芯をもらったあと、熱く溶けた蝋と、冷たい水とに代るがわる浸す作業を繰り返す。
以前、船越くんのお母さんらと来た時は雪混じりの本当に寒い日だったが
今年はふしぎなほど暖かい。
しばらく蝋と水のバケツの間を行ったり来たりするうち、直径7,8ミリのローソクが出来たので早速立てにいく。
ローソクの炎で型どる今年のテーマは 『大きな根をはった大樹』
時おりサーッと吹きつける風に炎がかき消され、辺りがフッと薄暗くなると、なんとも心もとない気分になる。
消えたローソクを引き抜いて手に持ち
元気に燃えるローソクから火をもらい、それを消えたローソク達に灯していく。
点けるそばから、吹き抜ける風に一瞬で消されてしまうのだが、これで諦めるわけにはいかないのだ。
消えても消えても無心で灯し続けていると、いつしか風は治まり、辺りはまた明るく輝きだしてきた。
少し安心してクルマへ戻る。
今年は暖かったので●イゼリアへ寄らず、そのまま帰宅。
あの日から18年。
震災経験者の高齢化に近年の経済事情なども加わり、イベントもこれまでのスタイルで続けるのは難しいのかも知れない。
でも、この集いの主催者でもある赤松さんの仰っしゃる、「ひとりひとりが、自分の思いを灯し続けること」にこそ意味があるのだと思う。
どんなに規模が小さくなろうと、場のある限り続けていきたい。
1月17日(木)
船越君の写真を持って11時15分前に家を出る。
ちょうど清荒神駅へ着いたばかりの糸谷六段(今回の幹事)と会ったあと、注文していた花を受け取りに市場の花屋さんへ。
その後、M新聞のS記者とカメラマンYさん、野間五段、安用寺六段、澤田四段、大石四段、
それに、船越君のお兄さん(達也さん)が到着。
長兄の増田六段は急な対局で欠席。
川崎三段はずいぶん太っていてビックリ。
山崎七段は急な電話がかかってきたようで、皆でひと足先にアパート跡地へ向かう。
空き地は草がぼうぼうで、今年は入れないかなあと思っていたのだが
着いてみると、空き地の入口からアパートの建っていた辺りまでだけが、草丈が低く歩けるようになっていた。
大家さんの計らいだろう。 有りがたかった。
部屋のあった辺りに写真を立て、持ってきた花束を添え
いつもの青いダンガリーシャツの船越君の前へ一人ずつ進み出て手を合わす。
あれからみんなそれぞれ、白髪が目立ってきたり、新しい家庭を持ったり、メタボで悩んだり、色々なんだよ。
17歳のままの船越君にそっと報告すると、こらえていたものが一気に込み上げた。
途中、背後から不意に、「震災のお参り?」 「遺族の方?」 と声がして、振り向くと、見覚えのない初老の男性だった。
「わたしの知り合いもここで亡くなってねえ・・、ゴルフが好きな人やったんやけど」
震災当日の辛いシーンが脳裏をかすめる。
そのあと全員で逆瀬川まで出る。
電車の中から、武庫川の 「生」 の字を教えた。
逆瀬からタクシー3台で、ゆずり葉緑地公園へ。
ワンワン吠える声がするので振り向くと、毛のふさふさした犬が3匹ほど走り回っていた。
1番最初に2人でここへ来た時、訓練中の3匹のラブラドール(仔犬)にNが襲われたことを思い出し、ちょっと遠い目になる。
受付で記帳してキクの花を受けとったあと、鎮魂之碑の前で一人ずつ献花する。
天気はいいが、空気はヒンヤリと冷たい。
そのあとしばらくNや達也さんへの取材があり、そのあいだ、砂防モニュメントや沼島の原石、帆かけぶね型のモニュメントなど見て過ごすが、最後はかなり冷えてしまった。
考えてみれば、ここは甲山のすそ野なのだ。
タクシーを待つため、西高のバス停前へ移動。
若者グループ(山、糸、大、澤)は、徒歩がいいと言って元気に出発。
宝塚まではずっと下りなので、小一時間ほどのハイキングだろう。
東日本大震災当日の話しをしながら待つうちにタクシーが来て、野間五段、安用寺六段と3人で乗り込む。
若水へ着いたとき、お金が足りなくて、安用寺六段に立て替えてもらう。
食事の時間まで、まだ30分以上あった。
先に到着していたN、達也くん、毎日のSさんらと、武庫川を見下ろすロビーで熱いコーヒーをすする。
途中、ひとりで売店へ行くと、年配の団体客がいて、ものすごくたくさんのオミヤゲを買っていた。
炭酸せんべいも小さいサイズのしか残ってなく、ちょっと残念。
1時半ぴったりに山茶花の個室へはいる。
本来なら11時半からのコースなのだが、今年は女性グループの先客があったらしい。
8名でいつもの箱膳を頂きながら(川崎三段は仕事のため清荒神のみの参加)、糸谷幹事の決めたテーマ 「去年の実績と今年の抱負」 や、「将棋(仕事)でスランプに陥ったときの脱出法」 について、それぞれ順番に語る。
意外だったのは、優秀な子達でも、奨励会時代はほとんどの子がBを経験していたこと。
あと印象的だったのが、澤田四段の 「三連敗はしたこと無い」 発言。
これには参加者全員が唸らされていた。
そう言えば村山さんはどうだったのだろう?
あとで調べてみよう。
食後はお楽しみの温泉だが、私は4時からレッスンなので、残念ながらひと足先に帰らなければならない。
奥様ひとりに仕事を任せてきた達也さんも、お風呂はパスで大阪へ戻る。
次回からは、皆さん、万障繰り合わせて最後までゆっくり楽しめますように。
ということで、今年の1月17日が終わった。
今回は達也さんの初参加ということで、いつもよりさらに意義深い時間を過ごすことができた。
来年からはゼヒ御夫婦そろってお出でください。
そして、空の上の隆文君と共に、これからもずっとずっとずーっと、お母さまの支えとなって下さることを信じております。
最後になりましたが、寒い中を長時間、休みなしで取材して下さったM新聞のS記者とYカメラマンにもお礼申し上げます。
(今朝1月18日の毎日新聞に、今回の記事と写真が掲載されております。 どうぞごらんください)
おわり
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kirakira.gif)
風景 (T人T)
テレビつけても状況がよくわからず二度寝という失態…。
私は無事でしたが、亡くなられた方々に合掌。
ちなみに「生」の文字、「阪急電車」のあの文字ですか?
あの日のこと、あれからの日々のこと、関西に住んでいる者は、
皮膚で知覚したので忘れようがありません。
ほんとうに昨日のことのように。
(もっとも、あの瞬間、ジョギング中で、地震と気づかなかったのでした。
ちょうど駅の近くを通りかかると、商店街のシャッターがけたたましく鳴り、
電車がホームに衝突したのかと)
3・11
4・25
9・11
痛ましい記憶の日々
*我家にはもう一日ありますが、
毎年この日の先生とルンさんのブログを読み
当時の悲しみを思い起こしています、
人間の記憶機能は悲しみを上手くコントロール出来るように
なっているようですね、
悲しみに流されていては進めない!
苦しみを乗り越えて進めるようになっているのか?
日常には出て来ないが、ここ一番の時に辛い記憶は
しっかりと現れて、人生を振りかえさせます、
お兄様の参加された追悼式、一門の皆様にとっては
本当に意義深い一日であったと思います、
毎日新聞の記事を読み、落涙しました。
地元の某ビル、エレベーター脇に貼ってあるおカタイものより、ずーっといいです。
これからも、「事なき」 の大切さを忘れずに生きていきたいものです。
かねとしさんも当時は関西だったんですね。
「生」の字は、今のもので三代目だそうです(過去のは台風時に流されました)
最初の「生」は、映画に関係なく作られ
「阪急電車」撮影時に二代目が作成されたようです。
機会があれば1度ごらんください。
電車の窓からハッキリ見えますよ。
ジョギング中に地震に遭われたとのこと。
ずいぶん早起きなんですね!
それにしても、電車がホームに衝突したとと思ったということは
よほどの大音量だったのでしょうね。
貴重なエピソードに感謝いたします。
苦しみを乗り越えて進めるようになっているのか?
深く実感させられました。
同時に、「人間って、なんてそんな辛い目に遭わなくちゃならないんだろう」 と・・・・。
「4,25」 は、恥ずかしながら、すぐには分かりませんでしたが
あれから8年・・・・・本当に、信じがたい早さですね。
団塊おやじさま
これからもどうぞ末永くよろしくお願いいたします。