※2年前に注文していた詰め将棋用の駒が出来上がった。
きょうから森家の家宝です。
クリック♪
きのう(22日)のブログ。
最近では珍らしく2人そろってのオフ。
この日は児玉龍児さんの駒展なので早起きするはずだったのだが、なぜか大幅に寝坊。
恐らく前日の連弾(久々にウエストサイドストーリーをやって上半身筋肉痛になる)が堪えたせいだろう。
高齢で大曲を弾く人は本当にスゴイと思う。
朝ごはんを食べる間もなく、バタバタと10時半に家を出る。
3番街でユーハ○ムのクッキーを買ったあと、茶屋町口からGALLERY4匹の猫へ向かう。
「地図を見たほうがいいんじゃない?」 と言うと、「2年前に行って覚えてないのが理解できん」 と言い放つので
それなら大丈夫だろうと思って付いていくと、案の定迷子になった。
ブーブー言いながら大通りへ戻ったりするうち、やっと2年前来たときに見た教会の前へ出る。
ギャラリーがすぐ目の先に見えた。
中へ入ると、制服姿(グレー系の作務衣)の児玉さんと先客が4,5人。
なかなか賑わっている。
耳に入ってくる会話からすると、かなり熱心な児玉ファンらしい。
そう言われれば、児玉さんは見た感じからしてカリスマ性がある。
小1時間ほどお邪魔したあと、2年前に注文していた駒を受け取ってギャラリーを出る。
あんなキタナイ我が家で使うのには惜しいほど、美しくりっぱな駒だった(書体は菱湖)
3番街の中華の店でちょっと遅い昼ご飯。
帰りは、街野風景さんから教わった京橋空襲の慰霊碑を探しに、環状線に乗って京橋駅で下りる。
南出口を出てすぐのところらしいが、なかなか見つからない。
クリーニング店へ入って道を聞こうとすると、「寒いから後ろのドア閉めて閉めて!」 と、不機嫌そうな顔で言われる。
(ひぃ~、コワイなぁ・・・・・)
なんとなく慰霊碑と言いづらく、「あの、桜どおり商店街はどっちですか」 と尋ねる。
すると
「ア? 桜どおり?」
「住所は?」
おっかない顔でカウンター越しに迫られる。
住所はわからないんですと言うと、「この辺でサクラマチ商店街なんて聞いたことないねえ」
サクラマチじゃなく桜どおり商店街なのだけど、コワくて指摘できない。
「そうですかぁ。 じゃー、あの、京橋空襲の石碑というのは・・・」 と言いかけると
それまで、さもメイワクそうだったオジサンの態度が急にガラリと変わる。
「あ、京橋空襲の慰霊碑? それやったらこっからすぐだよ」
カウンターから飛び出し、ガラリと戸をあけ表通りへ出る。
「ここを高架に向かってまっすぐ行くとすぐありますよ」
「去年も8月の半ばにもテレビ局なんかが来て慰霊のイベントをやっとりましたよ」
人が変わったように親切になったオジサンにお礼を言うと
「ほんとにスグやから。 でも、サクラマチ商店街ってのはわからんねえ」 と首をひねる。
「ああ、いいんです。 もともと慰霊碑のほうがメインだったので」
ちょっと腑に落ちない表情のオジサンにもう1度お礼を言って、寝屋川を左手に見ながら駅方面へ戻る。
オジサンの言ったとおり、環状線の高架へ差しかかった辺りに慰霊碑はあった。
南無阿弥陀仏と書かれた細長い石のよこに、黒っぽい仏像がしめやかに立っている。
すぐ横の説明板には次のように書いてあった。
太平洋戦争終戦前日の昭和20年8月14日、大阪は最後の大空襲を受けた。B29戦略爆撃機は特に大阪城内の大阪陸軍造兵廠に対し、集中攻撃を加えたが、その際、流れ弾の1トン爆弾が4発、京橋駅に落ちた。うち1発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに高架上の城東線(現、環状線)を、突き抜けて落ちたため、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのものであったという。判明している被爆犠牲者は210名であるが、他に無縁仏となったみ霊は数え切れなく、500名とも、600名とも言われている。
当時、地獄のような惨状を目撃した大東市の森本栄一郎氏があまりの悲惨さに胸を痛め、その霊を弔おうと昭和22年8月14日、自費で建立された慰霊碑である。
亡くなった方々の御冥福を心から祈ります。
そのあと、ケムリを吹きあげる紅白のだんだらの煙突を遠くに見ながら、大阪城公園へ向かってひたすら歩く。
3キロほどだが、かかとのあるブーツなので足が痛い。
しばらくすると、以前にも歩いたことのある平野川沿いへ出る。
ここらが、梁石日の 「夜を賭けて」 の舞台となったアパッチと呼ばれる一帯であるらしい。
小さな野菜やアロエなどが植えられた発砲スチロールや植木鉢がスラリと並ぶ風景は以前と同じだが
付近の住宅はかなり様変わりしていた。
ガンダンダン、ガンダンダンと地響きを立てて走る環状線を前方に見ながらまっすぐ進むと例のガードに突き当たる。
あのなんとも形容しがたい、異次元への入り口のようなガードをくぐると、あの『喫茶 鐘』 があるはずだ。
期待に胸ふくらませてガードをくぐると・・・・・・・・・・・『喫茶 鐘』 は閉まっていた。
以前来たときは、あまりのコアさに怖気づいて入れなかったので、今回はゼッタイに入ろうと心して来たのに・・・・。
小さな店の外壁にはスプレーの落書きがあり、とても営業している気配はない。
かえすがえすも残念である。
気を取り直し石段をあがって地上へ出ると、もうすぐそばが大阪城公園駅で、大きな道路をはさんで向こうに大阪城ホールの丸い屋根が見える。
数年前に初めてここへ来たときは、キンキキッズの公演があるとかで若い女の子たちが列を作っていた。
キンキキッズ、最近聞かないなあ。
さらにその後ろにはビジネスパークの高層ビルや大阪城が見える。
ここら一帯が日本で1番大規模な軍需工場地帯だったとは・・・・まさに夏草や兵どもが夢のあとだ。
そのまま環状線に乗って梅田で降りる。
ヨド○シカメラ入り口のカフェへ入るが、満席なので店の外のテラス風の席でアイスティーを飲む。
体の芯から冷えきった。
そのあとデジカメのストラップを買い(今までのは金太郎がかじってしまった)帰宅。
電車の中で珍らしく居眠りしてしまう。
あとでNに聞くと、車両内のほとんど全員が眠りこんでいたとのこと。
みんな疲れているのかも知れない。
夜は、きのうの水炊きの残り汁にウドンを入れて食べる。
2010年最初の小旅行(?)だった。
おわり
きょうから森家の家宝です。
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きのう(22日)のブログ。
最近では珍らしく2人そろってのオフ。
この日は児玉龍児さんの駒展なので早起きするはずだったのだが、なぜか大幅に寝坊。
恐らく前日の連弾(久々にウエストサイドストーリーをやって上半身筋肉痛になる)が堪えたせいだろう。
高齢で大曲を弾く人は本当にスゴイと思う。
朝ごはんを食べる間もなく、バタバタと10時半に家を出る。
3番街でユーハ○ムのクッキーを買ったあと、茶屋町口からGALLERY4匹の猫へ向かう。
「地図を見たほうがいいんじゃない?」 と言うと、「2年前に行って覚えてないのが理解できん」 と言い放つので
それなら大丈夫だろうと思って付いていくと、案の定迷子になった。
ブーブー言いながら大通りへ戻ったりするうち、やっと2年前来たときに見た教会の前へ出る。
ギャラリーがすぐ目の先に見えた。
中へ入ると、制服姿(グレー系の作務衣)の児玉さんと先客が4,5人。
なかなか賑わっている。
耳に入ってくる会話からすると、かなり熱心な児玉ファンらしい。
そう言われれば、児玉さんは見た感じからしてカリスマ性がある。
小1時間ほどお邪魔したあと、2年前に注文していた駒を受け取ってギャラリーを出る。
あんなキタナイ我が家で使うのには惜しいほど、美しくりっぱな駒だった(書体は菱湖)
3番街の中華の店でちょっと遅い昼ご飯。
帰りは、街野風景さんから教わった京橋空襲の慰霊碑を探しに、環状線に乗って京橋駅で下りる。
南出口を出てすぐのところらしいが、なかなか見つからない。
クリーニング店へ入って道を聞こうとすると、「寒いから後ろのドア閉めて閉めて!」 と、不機嫌そうな顔で言われる。
(ひぃ~、コワイなぁ・・・・・)
なんとなく慰霊碑と言いづらく、「あの、桜どおり商店街はどっちですか」 と尋ねる。
すると
「ア? 桜どおり?」
「住所は?」
おっかない顔でカウンター越しに迫られる。
住所はわからないんですと言うと、「この辺でサクラマチ商店街なんて聞いたことないねえ」
サクラマチじゃなく桜どおり商店街なのだけど、コワくて指摘できない。
「そうですかぁ。 じゃー、あの、京橋空襲の石碑というのは・・・」 と言いかけると
それまで、さもメイワクそうだったオジサンの態度が急にガラリと変わる。
「あ、京橋空襲の慰霊碑? それやったらこっからすぐだよ」
カウンターから飛び出し、ガラリと戸をあけ表通りへ出る。
「ここを高架に向かってまっすぐ行くとすぐありますよ」
「去年も8月の半ばにもテレビ局なんかが来て慰霊のイベントをやっとりましたよ」
人が変わったように親切になったオジサンにお礼を言うと
「ほんとにスグやから。 でも、サクラマチ商店街ってのはわからんねえ」 と首をひねる。
「ああ、いいんです。 もともと慰霊碑のほうがメインだったので」
ちょっと腑に落ちない表情のオジサンにもう1度お礼を言って、寝屋川を左手に見ながら駅方面へ戻る。
オジサンの言ったとおり、環状線の高架へ差しかかった辺りに慰霊碑はあった。
南無阿弥陀仏と書かれた細長い石のよこに、黒っぽい仏像がしめやかに立っている。
すぐ横の説明板には次のように書いてあった。
太平洋戦争終戦前日の昭和20年8月14日、大阪は最後の大空襲を受けた。B29戦略爆撃機は特に大阪城内の大阪陸軍造兵廠に対し、集中攻撃を加えたが、その際、流れ弾の1トン爆弾が4発、京橋駅に落ちた。うち1発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに高架上の城東線(現、環状線)を、突き抜けて落ちたため、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのものであったという。判明している被爆犠牲者は210名であるが、他に無縁仏となったみ霊は数え切れなく、500名とも、600名とも言われている。
当時、地獄のような惨状を目撃した大東市の森本栄一郎氏があまりの悲惨さに胸を痛め、その霊を弔おうと昭和22年8月14日、自費で建立された慰霊碑である。
亡くなった方々の御冥福を心から祈ります。
そのあと、ケムリを吹きあげる紅白のだんだらの煙突を遠くに見ながら、大阪城公園へ向かってひたすら歩く。
3キロほどだが、かかとのあるブーツなので足が痛い。
しばらくすると、以前にも歩いたことのある平野川沿いへ出る。
ここらが、梁石日の 「夜を賭けて」 の舞台となったアパッチと呼ばれる一帯であるらしい。
小さな野菜やアロエなどが植えられた発砲スチロールや植木鉢がスラリと並ぶ風景は以前と同じだが
付近の住宅はかなり様変わりしていた。
ガンダンダン、ガンダンダンと地響きを立てて走る環状線を前方に見ながらまっすぐ進むと例のガードに突き当たる。
あのなんとも形容しがたい、異次元への入り口のようなガードをくぐると、あの『喫茶 鐘』 があるはずだ。
期待に胸ふくらませてガードをくぐると・・・・・・・・・・・『喫茶 鐘』 は閉まっていた。
以前来たときは、あまりのコアさに怖気づいて入れなかったので、今回はゼッタイに入ろうと心して来たのに・・・・。
小さな店の外壁にはスプレーの落書きがあり、とても営業している気配はない。
かえすがえすも残念である。
気を取り直し石段をあがって地上へ出ると、もうすぐそばが大阪城公園駅で、大きな道路をはさんで向こうに大阪城ホールの丸い屋根が見える。
数年前に初めてここへ来たときは、キンキキッズの公演があるとかで若い女の子たちが列を作っていた。
キンキキッズ、最近聞かないなあ。
さらにその後ろにはビジネスパークの高層ビルや大阪城が見える。
ここら一帯が日本で1番大規模な軍需工場地帯だったとは・・・・まさに夏草や兵どもが夢のあとだ。
そのまま環状線に乗って梅田で降りる。
ヨド○シカメラ入り口のカフェへ入るが、満席なので店の外のテラス風の席でアイスティーを飲む。
体の芯から冷えきった。
そのあとデジカメのストラップを買い(今までのは金太郎がかじってしまった)帰宅。
電車の中で珍らしく居眠りしてしまう。
あとでNに聞くと、車両内のほとんど全員が眠りこんでいたとのこと。
みんな疲れているのかも知れない。
夜は、きのうの水炊きの残り汁にウドンを入れて食べる。
2010年最初の小旅行(?)だった。
おわり
慰霊碑 お参りに行かれたんですね、ありがとうございました。 一人でも多くの人が覚えていてあげるのが犠牲者の思いに沿えるのでは と。
しかし~ 外のテーブルでアイスティーとは・・罰ゲームみたいなひととき なんて~(>_<) もうしないで下さいねぇ。
健康やダイエットのためにも身体を温めるのに慣れて下さいませ m(_ _)m
話のあたまにあったユ○ハイムですが 先日NHKの歴史番組で その創立者の生涯を教えてくれてました、ルンさん知ってました?
感心しました 泣きました。 書くと長くなるのでやめますが NHKオンデマンドでも見れるそうなのでよろしければご覧になればと・・・。
(自分でそう思うだけですが)私はマスコミタイミング(造語)がいいと言うか テレビやラジオを見たり聞いたりしてから のちのち 「あぁ この事だったのね?」とか 逆に 体験したのちにマスコミが取り上げてて「あ この間の・・」ということが多く 膝を叩いたり ガッテンしたり 目からウロコが取れまったりと 「これも縁かなぁ~」と思うことがよくあります。 嬉しいことです。
ルンさんはどうですか?
私がルンさんのブログに来れたのも縁なんですけどね~ おウマの(コレデイイノダ様の) (*⌒▽⌒*)
そうそう 平安Sのトシナギサと調教で併走してちぎってた馬は
ザレマでした。
次週「京都牝馬S」があるようですから そこへ照準を合わせてますね! 人気になるでしょうけど勝ち負けと思います ( ̄ー ̄)。
京橋空襲についてはネットで事前学習したのですが
知れば知るほど悲惨な出来事だと思いました。
ある新聞記事によると、遺族の方々の中でもっとも強い感情が 「あと1日早く戦争が終わっていれば」 というものだったそうです。
考えるだけで胸が痛みますね。