※今度 「十三」 に出店しました私のお店です
クリック♪
先日から楽しみにしていた 『三池 終わらない炭鉱(やま)の物語』 を観にいく。
十三駅前から少し歩いたビルの中にある映画館だが、途中、赤いネオンサインで 『ルンルン』 と書かれた大看板があった。
(何だろう) と思い写真を撮ったが、どうやら 「アルサロ」 と呼ばれる店のようだった。
夜になれば賑わいそうな飲み屋街の一角にある映画館 『第七藝術劇場』は、入り口からしてすでに場末のノスタルジックなムードがプンプン漂っている。
「アングラ」 という文字が頭に浮かんだ。
狭いロビーの壁に、炭鉱夫やその家族のモノクロ写真がパネルになって飾られていた。
弁当包みを開く笑顔の炭鉱夫を見て 「ああ、この人は今頃どうしているのだろうか」 などと考えた。
時間になったのでゾロゾロと館内に入る。
若者は全くいなくて中年以降の人ばかりだった。
100人ほどが座れそうなこじんまりとした映画館だが、案外ユッタリしたいい座席だ。
映画は大牟田の 「宮原坑」 の景色から始まった。
赤レンガの古い建物、巨大な巻き揚げ機、高いエントツ・・・数年前に行った飯塚・田川炭鉱の旅を思い出す。
映画は完全なドキュメンタリー形式で、当時炭鉱と深い関わりのあった人達のインタビューを、表情と共に淡々ととらえる。
運搬工、採炭工、掘進工、14歳や19歳で強制連行された外国人、炭鉱労働組合員、労働副組合長、熊本大学医師、婦人会で活躍した女性など。
6年もの歳月をかけて作った映画というだけあって、インタビューは多岐に渡っていた。
CO中毒(一酸化炭素中毒)の後遺症に苦しむ年老いた炭鉱夫とその家族には、もはや怒る気力も戦う気概も見えなかった。
酸素吸入をしながら、苦しい息の下で静かに当時を語る年老いた患者、
脳を侵され、好きだった歌しか唄うことの出来なくなった患者、
疲れきった表情でそれを見つめる妻や家族、
インタビューに出ていた63歳の女性のセリフも印象的だった。
「ひと口に36年て言いますけど、1日1日365日、1年間かけるの38年間ですよね。 言葉には言い尽くせない苦労と悩み、悲しみ。 人間でなく、一番人間の大事な脳をやられていますよね。 で、外に見えない。 うん、まったく別人に変えられた人間破壊ですよ。 これ、どうしてくれる (中略) そのときに子どももお腹にいましたから。 苦労を背負って生まれてきて、大きくなって。 言葉には言い表せません」
囚人として働かされていた、元米陸軍兵士の言葉も耳をふさぎたくなるものだった。
「絶えられなくなり、仕事から逃れるためには何でもやりました。 もし今日炭鉱に入ったら自分は殺されてしまう。 どうしたら働かないですむか必死に考えたんです。 そのためには腕を折ったり、指をつぶしたりしました。 脚や肩の骨をつぶす者、腕を折る者、できることは何でもやりました」
三池炭鉱閉山が1997年。
思っていたより、そう遠い昔の事ではない。
最後に、この映画を作るにあたって監督熊谷博子さんが言った言葉
「 ‘負の遺産’ という思いは分かるが、それは日本が歩んできた道そのものだと思うんです。
それを消し去るのは、日本の歴史を消し去ること。
そこで働いてきた無数の人たちが生きて来た道や姿まで消してしまうのかと」
近いうち、必ず大牟田へ行ってみたいと思った。
三池 終わらない炭鉱の物語 ←クリック
おわり
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先日から楽しみにしていた 『三池 終わらない炭鉱(やま)の物語』 を観にいく。
十三駅前から少し歩いたビルの中にある映画館だが、途中、赤いネオンサインで 『ルンルン』 と書かれた大看板があった。
(何だろう) と思い写真を撮ったが、どうやら 「アルサロ」 と呼ばれる店のようだった。
夜になれば賑わいそうな飲み屋街の一角にある映画館 『第七藝術劇場』は、入り口からしてすでに場末のノスタルジックなムードがプンプン漂っている。
「アングラ」 という文字が頭に浮かんだ。
狭いロビーの壁に、炭鉱夫やその家族のモノクロ写真がパネルになって飾られていた。
弁当包みを開く笑顔の炭鉱夫を見て 「ああ、この人は今頃どうしているのだろうか」 などと考えた。
時間になったのでゾロゾロと館内に入る。
若者は全くいなくて中年以降の人ばかりだった。
100人ほどが座れそうなこじんまりとした映画館だが、案外ユッタリしたいい座席だ。
映画は大牟田の 「宮原坑」 の景色から始まった。
赤レンガの古い建物、巨大な巻き揚げ機、高いエントツ・・・数年前に行った飯塚・田川炭鉱の旅を思い出す。
映画は完全なドキュメンタリー形式で、当時炭鉱と深い関わりのあった人達のインタビューを、表情と共に淡々ととらえる。
運搬工、採炭工、掘進工、14歳や19歳で強制連行された外国人、炭鉱労働組合員、労働副組合長、熊本大学医師、婦人会で活躍した女性など。
6年もの歳月をかけて作った映画というだけあって、インタビューは多岐に渡っていた。
CO中毒(一酸化炭素中毒)の後遺症に苦しむ年老いた炭鉱夫とその家族には、もはや怒る気力も戦う気概も見えなかった。
酸素吸入をしながら、苦しい息の下で静かに当時を語る年老いた患者、
脳を侵され、好きだった歌しか唄うことの出来なくなった患者、
疲れきった表情でそれを見つめる妻や家族、
インタビューに出ていた63歳の女性のセリフも印象的だった。
「ひと口に36年て言いますけど、1日1日365日、1年間かけるの38年間ですよね。 言葉には言い尽くせない苦労と悩み、悲しみ。 人間でなく、一番人間の大事な脳をやられていますよね。 で、外に見えない。 うん、まったく別人に変えられた人間破壊ですよ。 これ、どうしてくれる (中略) そのときに子どももお腹にいましたから。 苦労を背負って生まれてきて、大きくなって。 言葉には言い表せません」
囚人として働かされていた、元米陸軍兵士の言葉も耳をふさぎたくなるものだった。
「絶えられなくなり、仕事から逃れるためには何でもやりました。 もし今日炭鉱に入ったら自分は殺されてしまう。 どうしたら働かないですむか必死に考えたんです。 そのためには腕を折ったり、指をつぶしたりしました。 脚や肩の骨をつぶす者、腕を折る者、できることは何でもやりました」
三池炭鉱閉山が1997年。
思っていたより、そう遠い昔の事ではない。
最後に、この映画を作るにあたって監督熊谷博子さんが言った言葉
「 ‘負の遺産’ という思いは分かるが、それは日本が歩んできた道そのものだと思うんです。
それを消し去るのは、日本の歴史を消し去ること。
そこで働いてきた無数の人たちが生きて来た道や姿まで消してしまうのかと」
近いうち、必ず大牟田へ行ってみたいと思った。
三池 終わらない炭鉱の物語 ←クリック
おわり
誰かが光を当てない限り、『闇』のままです。
あの辺は何か妙なパワーを感じる場所ですね。
昼間の寝静まった盛り場の中を歩くのが、昔から大好きです。
あの炭鉱爆発だったのですが、このことで仲の良かった子の父親が、亡くなって、転校していきました。
私の通っていた学校は、田舎で炭鉱関係者の子は、
少なかったのですが、それでも父親が事故にあった子が、数名いたようです。
P子は、大牟田の炭住にいたので、それは蜂の子をつついたような騒ぎの中に居たとおもいます。
荒尾にも万田炭鉱跡の見学ができます。こちらに
おいでの折りには、案内します。今仕事が入りましたのでこれで失礼します。
こういう言葉の裏にこそ、見過ごしにして来た かけがえのない真実や、これから考えなければいけないものが数多く残されているような気がします。
それにしても、炭鉱の歴史や、それに携わる人間事情というものは奥が深いものだなぁとつくづく思いました。
実は昨日、駅反対側に有る将棋道場に行っておりました。最近は、歩行者天国を渡って、写真にある界隈を歩く事は無かったような、、、、、。
もし、ルン・オーナーのお店に行くような事が有ればレポートいたします。
私は、13才まで大牟田というその映画に映し出されている(まだ見てませんが)町に住んでおり、三池争議や、炭塵爆発事故など子供ながらにも鮮明に覚えております。
世間では、「負の遺産」などといわれてますが、私にとって故郷そのものです。
間違いなく、あの昭和38年死者458人を出した炭じん爆発事故なのですね。
驚きました・・・・・
お父さまを亡くされて転校していったという、仲の良かったお友達の話しも身につまされました。
万田炭鉱跡もゼヒ見てみたいです。
ばらーず様は十三市民病院でめでたく誕生されたのですね
幼稚園の頃を想像してみたのですが・・・どうしても出来ません・・・
十三の 『ルンルン』
よいこは決して行ってはいけないお店ですヨ、ばらーず君
さぞかし色々な経験をされた事でしょうね。
私が炭鉱に興味を持ったきっかけは、安本末子さんの 『にあんちゃん』 という本を読んだ事と、土門拳の写真集 『筑豊の子ども達』 を見た事でした。
ボタ山、トロッコ、巨大な巻き上げ機、炭鉱に従事する人達の暮らしぶり・・・どれも驚くほど新鮮に、また非常に興味深く感じました。
(どうしてもボタ山が見てみたい!) という思いで、即Nと2人で筑豊へ行ったのが2年前のことです。
>世間では、「負の遺産」などといわれてますが、私にとって故郷そのものです。
paseri子さまの最後の一文に心を打たれました。