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徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

断片/「71フラグメンツ」

2008-02-06 03:02:25 | Movie/Theater
71フラグメンツ
71 Fragmente einer Chronologie des Zufalls/71 Fragments of a Chronology of Chance/1994/オーストリア=ドイツ
監督:ミヒャエル・ハネケ
出演:ガブリエル・コスミン・ウルデス、ルーカス・ミコ、オットー・グルーンマンドル、アンヌ・ベネント
<クリスマスシーズンのウィーン。19歳の大学生が市内のある銀行で銃を乱射、3人が死亡し、本人もその直後に頭を打ち抜き自殺した。犠牲者と加害者という違いはあるものの、この事件で死亡した7(4)人はどのようにしてこの瞬間に居合わせることになったのだろうか?それぞれの過去をパズルのような断片的な映像で遡る。>(シネフィル・イマジカ

「感情の氷河期」三部作の最終作。ハネケ曰く「コミュニケーションの不在」ということで、いよいよ映画は「偶然」の悲劇に突入する。
ハネケは加害者・被害者4家族の「無関係」を観る者に叩き込むように、断片的なシークエンスでこれでもかと見せ続ける。しつこいぐらい見せる。どれぐらいしつこいかというと、ぶっちゃけ残り15分ぐらいまで。つまりほとんど映画の5分の4を占める断片的なシークエンスとニュース映像だけで、観る者は登場人物の人間関係を自らパズルのように組み立てて行く。過剰な説明はされないものの、もちろんそれぞれの登場人物がコミュニケーションに問題を抱えていることは伺える。
そして加害者と被害者は吸い寄せられるように銀行に集まる。断片を組み合わせることでドラマ性は排除するという意図があったそうだが、むしろそれまでバラバラの物語が、たったひとつの出来事に収斂されていく終盤は非常にドラマチックですらあった。あっけないきっかけで悲劇は起こり、「無関係」の人々はそれぞれの物語を抱えつつ巻き込まれていく。
コミュニケーション不在の中での人間の交錯(衝突といってもいいが)は、時に悲劇であり、喜劇であり、エンタテインメントでもある。それは断片的な場面の合間に挿入される民族間紛争やマイケル・ジャクソンのニュース映像からも感じ取れる。

71の断片(フラグメンツ)から何も感じ取れなかったり、思考停止してしまうと、きっと最後出てくるガソリンスタンドの店員のように叫ぶしかない羽目になる。世界は断片(ピース)で出来ていて、僕らはそれを組み合わせながら考え続けなければならない。

五郎さん

2008-02-05 23:54:08 | Works
スカパー!で中川五郎さんの取材。今回は4月に歌謡ポップスチャンネルでオンエアされる<高田渡特集>に関する取材。過去の春一番映像に加え、何と1月に行なわれた「高田渡生誕会59」が早くも録画中継されるという。すでに語り尽くされている感が無きにしも非ずな渡さんとの思い出から生誕会の今後まで。今回の生誕会のポイントは五郎さんが幹事で、加川良さんとPANTAさんが登場していることだろう。
「フォーク酒場」を期待するオーディエンスに叩きつけられた(今も変わらぬ)リアル・ロック。オーディエンスが思い出に浸るのも仕方ないけれども、ミュージシャンにとっては今でもリアルなんだよね(意訳)、と思うのは当然だと思う。年に一回のイベントも楽しいけれども、今日も誰かがどこかのライブハウスで歌っている。

まあ、こうやって年に一回ぐらい渡さん絡みの仕事すると精神衛生上悪くないなあ、と思う。「タカダワタル的ゼロ」の試写も早く行きたいものである。

かつて某雑誌で編集をしていた頃、ある特集で五郎さんに訳詞を依頼したことがある。よりによって頼んだのはPink Floydの「Shine On You Crazy Diamond」だったりする。しかも片岡義男訳詞のEaglesの「Hotel California」で特集が終わるという、今考えるとものすごく個人的な趣味だけで構成してしまった特集だった。
よく誰も止めなかったと思う(むしろ担当上司だったAさんは面白がってくれたけれども)。
まあ、そんなことを五郎さんに話す暇はありませんでしたが。

六本木から渋谷へ移動して、打ち合わせ。少しは進展したような。

3月号到着

2008-02-04 23:30:31 | LB中洲通信2004~2010
中洲通信3月号到着です。今月は表紙からどどーんと登場していただいている温水洋一さんのロングインタビュー。もはや知る人ぞ知る…ではなく全国区の人気役者なのであります。第二特集はジャズプレイヤーとして、エイズ・アウェアネス活動に奔走する中村照夫さん。昨年12月にも来日し(64年に渡米以来、ニューヨーク在住)、コンサートイベントを開催。中村さんの語る言葉は重い。
その他、取材ご協力者、関係者の皆様ありがとうございました。
本日より続々発送であります。

今週は次号の取材ウィーク。

低体温/「ベニーズ・ビデオ」

2008-02-03 07:25:16 | Movie/Theater
ベニーズ・ビデオ
Benny's Video/1992/オーストリア
監督:ミヒャエル・ハネケ
出演:アルノ・フリッシュ、アンゲラ・ヴィンクラー、ウルリッヒ・ミューエ
<裕福な家庭で育った中学生のベニーは、スタンガンで殺されるブタを撮影したホームビデオに夢中になっていた。ある日レンタルビデオ屋で声をかけた少女を家に連れ込み、ブタのビデオを見せていた時、ベニーは衝動的にスタンガンで少女を殺してしまう。偶然、ビデオに殺人の瞬間が記録されていた。ベニーからビデオを観せられて事件を知った両親がとった行動とは?>(シネフィル・イマジカ

15年前の映画なのだけれども、ビデオをPC(ネット)と入れ替えてしまえば、まったく現在の物語と言っていい。
豚の堵殺もボスニア内戦もベニーにとっては等価のエンタテイメントでテレビ(ビデオ)の中の出来事でしかない。そしてベニー自身も“すべて”をビデオで記録し続ける。それが唯一のリアリティであるように。また当事者のベニーだけではなく、殺人ビデオを見せられた両親も、ネズミ講のようなビジネスに浮かれるベニーの姉にも、どこか生活のリアリティのない、虚飾と虚業の香りがぷんぷんする(映画で描かれる姉などはほとんど“ビデオの中の人”でしかない)。そんな意味で事を起こしてしまったベニーが、無意識に身体的なリアリティを求めるかのようにスキンヘッドにするくだりは象徴的だ。

ハネケ監督の「感情の氷河期」三部作の二作目。氷河期の如く、ハネケは冷え冷えとした行動や寒々とした言葉をこれでもかと畳み掛けるように描く。終盤、ようやくく父親はベニーに動機を問いかける。このときのベニーの答えも相当寒々しいが、すべてが終わったあとに問いかける父親も相当寒い。いや、痛い。
物語は淡々と低体温なまま進行していく。ハネケという監督は本当に嫌なものを見せる才能に長けた人だ。ビデオの時代からさらにリアリティの置き場がなくなっている現在だからこそ、今見るものに「感情の氷河期」を感じさせる。
だから何なんだって言っても、ここに答えはないんですけどね。

写真

2008-02-02 17:18:46 | 素日記
何ヶ所かアポ入れ。

夜、船橋にいるという北野さんから電話。錦糸町の三四郎で待ち合わせ。その後、駅の近くの加賀屋へ流れる。
1月26日から川崎市市民ミュージアムで始まった<写真ゲーム 11人の新たな写真表現の可能性>のチラシを頂く。もちろん北野さんの新作も展示されている。チラシの裏に書かれた企画展のコンセプトは非常にわかりやすい。
<作家にとって、写真を用いてどのようなルールでプレイするのかということが重要性を増しているのです。>
まあこういうアプローチというのは、現在では<写真>表現だけに限らないけれども。