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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

通院検査を繰り返す大阪市立総合医療センター

2014年01月11日 06時59分21秒 | むびょうそくさい(おかん編)
9月6日のことだ。

夜8時に電話が鳴った。

おふくろからだ。

いつもと違う声の調子。

なんとなくうわずっているような様子だ。

お腹が張った状態で堅いと云うのである。

異常な状態を感じるのは本人。

6月半ばにも異常事態を起こしていたおふくろ。

今回は外面ではなく身体の内部である。

大怪我になったときも世話になっていた大阪市都島のクリニックに行きたいと云う。

お腹の腫れもそうだが、クリニックで診断した結果は貧血数値の異常である。

それを確かめるためには検査装置が完備している病院に行かなくてはならない。

検査だけやからとかーさんが付いていった8日はPET検査はCTスキャンだった。

9日に検査結果が判る。

玉城クリニックの医師から伝えられたその結果は、赤ちゃんぐらいの頭の大きさ。

人頭大の大きさに膨れ上がった卵巣腫瘍である。

貧血数値の異常値、スキャン画像をもって本人、家族に伝える言葉は緊急を要しない、であるが、処置は大阪市立総合医療センター産婦人科に手配された。

紹介状と医師診断結果通知を持ち帰り、一旦は我が家に連れて帰った。

身体の変調はみられないので、翌日には住之江に戻っていった。

11日は、大阪市立総合医療センター産婦人科で内診およびエコー検査を受けた。

しばらくは通院検査で通いとなる。

検査入院はかつてのこと。

法令がかわったらしく、検査をしながら診療を判断する入院はできなくなった。

その都度ごとに病院へ車を走らすことになったが、歩くことも困難な一人暮らしの人はどうしているのだろうか。

通院・入院していた病院の頭上を降りてくる着陸前のジェット機を見上げていつも喜んでいた。



おふくろも同じようにソフト・ランディングするだろうと見ていた手術直後の着陸態勢の機体は輝いていた。

(H25. 9.11 SB932S 撮影)

はらぺこ食堂のやきにく弁当

2014年01月10日 08時14分44秒 | あれこれテイクアウト
仕事を終えて、検査を終えたおふくろを迎えに大阪へ行かねばならない。

仕事は13時前ぐらいに終わる。

どこの食堂に入るか。

それともスーパー・コンビニ・弁当屋さんで売っている弁当を買うか。

迷いはそれほど困らず決めた今月2度目の「はらぺこ食堂」は3日前にも食べた。

からあげ弁当の味に満足して、食堂で弁当を買うということだ。

この日の日替わり定食はトントロ丼にミニそば。

500円のワンコインでいただけるのだが、ゆっくりしている時間はない。

店内で食べることができる日替わり定食の看板が恨めしい。

待つこと数分。できあがりは早い。

蓋に貼ってあった「やきにく弁当」の期限日。

製造年月日、賞味期限とも同じ日だが、時間は書かれていない。

あるのは「本日中にお召し上がりください」だ。

持ち帰って家で食べる時間はない。

車泊でなく、車中食である。

たいがいそうしている。

ご飯には黒ゴマが振りかけてある。

味は感じないから見た目だけ、だと思う。

メインの焼き肉はお肉がたっぷり。

もちろん牛肉であるが、産地は判らない。

加工品は産地表示をすることなく販売されている。

炒めたタマネギは牛肉とともにソースで絡めている。

これが美味しいのである。

美味い、美味いとパクつく。

がっつりご飯も食べる。

実に美味しい焼き肉は大きい。

食べても、食べても減っていかない。

ソース出汁がたっぷり残る。

焼き肉丼でもしてみるか、と思ったぐらいの出汁の量である。

お勧めの一品には惣菜もついている。

ニンジン、キクラゲにモヤシは中華味のように思えたが、どうも違うようだ。

この日の香物は白菜の漬物。

あっさり味が焼き肉に合う。

たくさん盛ったポテトサラダも美味しかった。

(H25. 9.11 SB932SH撮影)

住之江北島高砂神社に祈願参拝

2014年01月09日 07時36分02秒 | 望郷
検査を経て入院することになったおふくろが住む町は、私の生まれ故郷の大阪市住之江区の北島町。

子供のころの遊び場だった高砂(たかさご)神社がある。

良性でありますように、そして手術が無事に終わりますようにと願って参拝した。

記憶にあったイメージと違う高砂神社。

もっと広かったように思えたが、それは子供の目線の頃。

祭りはたしかだんじりやったように思える。

青年団があった頃は担いでいたと記憶するのである。

青年団もなくなった今では夏祭りに子供御輿が巡行し、茅の輪くぐりをする夏越しの大祓いがあるようだ。

高砂神社の創建は元文二年(1737)。

元禄十六年(1703)に幕府の布令を受けて、享保十三年(1728)より開墾した新田北島新田と名付けられた。

河内の国の石川郡新堂村(現在の大阪府南河内郡富田林市新堂)の産土神である天水分大神を勧請した神社と伝わる。

謡曲に『はや住之江に着にけり』と謡われる「高砂」にちなんで神社名としたそうだ。

新堂村の鎮守社は十二社権現のようだが、天水分大神を祭る神社に美具久留御魂(みぐくるみたま)神社がある。

ところが坐位置は旧喜志村であって新堂村ではない。

天水分大神を祭る神社の上水分社は建水分(たけみくまり)神社で千早赤阪村に鎮座する。

美具久留御魂神社は、建水分神社を上水分社と呼ぶに対して下水分社としている。

高砂神社に勧請した天水分大神がどこであるのか判らなくなってきた。

(H25. 9.10 SB932SH撮影)

苣原を経て桐山を流離う

2014年01月08日 07時08分25秒 | 山添村へ
福住へ抜ける街道を上がれば天理市の苣原に着く。

バス停留所で馴染みの男性がおられた。

彼岸の道造りや日待ちの行事がある。

五つの垣内それぞれで廻しているなんらかの掛軸。

かつてはヤドで会食をしていたが、たいそうになってきて廻すだけになった。

庚申講もそうである。

そんな話をしてもう一つの流離う先は山添村の桐山。

なにかとお世話になっている地だ。

戸隠神社下の会所の前を通ろうと思ったときに気がついた老婦人たち。

土曜、日曜の休みの日に出店する農家の作物売り場。

自家製の野菜などを販売している。

ここでも見慣れたお顔。

観音講の行事などで世話になったKさんがいる。

売り場のレジ(といっても現金売り)にはNさんも。

そこへやってきた婦人はKさんの奥さん。

懐かしい顔ぶれに行事などの話題が沸騰する。

旦那さんのKさんには随分と教えてもらった。

平成17年に行われた田楽神事芸能のウタヨミが初めてだった。

翌月の新嘗祭もお世話になった。

新嘗祭は翌年の18年にもお伺いした。

その後はしばらく離れて平成23年にはハゲッショまでも。

お家のお盆の在り方も教えてくださったが、実現はしなかった。

その頃は奥さんの具合が良くなかった。

その年の9月には観音講、翌年の24年には十九夜講や神社行事の祈年祭。

その頃はお元気だったKさん。

10月にはウタヨミ出仕前のトーヤ秀にお会いしたが、Kさんの姿はなかった。

村人の話では具合が良くないということだった。

食事が喉も通らずようになっていたと話す奥さん。

旦那さんのKさんが今年の1月29日に亡くなられたと云う。

辛い話しである。

その奥さんが話していた大久保垣内の薬師さん。

9月12日に行われるのだが、場所は現認していなかった。

事前に挨拶もしておきたいと思って通過する際にお会いした売り子の一人は大久保垣内。

店じまいをするから、売れ残った野菜を持って帰れと云って包んでくれた。

「馴染みなんだから遠慮は不要だよ」と云って笑顔で包んでくれる村のご馳走に感謝する。

ここへは歩いてやってきたNさんを送ってあげようと声を掛けた。

そのついでに薬師堂の場所も教えてあげると向かった先は大久保垣内。

そこにはマツリのトーヤも勤めたことがあるNさんがおられた。

「また、写真を撮ってくれるんや」と喜んで案内してくださった。

ありがたい桐山のおつきあいである。

(H25. 9. 8 記)

24号線はらぺこ食堂のからあげ弁当に行きつく

2014年01月07日 08時27分47秒 | あれこれテイクアウト
国道24号線は南北を貫く大動脈国道。

西九条町南の信号の東南にある大規模ショッピングセンターはイオンモール。

毎週の火曜日は玉子が安い。

それより北へ500mにある信号は杏町。

そこにはいつもお世話になっているカメラのキタムラ奈良南店がある。

その間にある信号は西九条町の表示がある。

そこの角にはかつてガソリンスタンドがあった。

廃業された跡地に500円コインのマークが立つようになった。

ワンコインで食事ができる食堂だ。

ガソリンスタンドの建物をほとんどそのまま再利用したが、路面はジャリそのもの。

不思議な感じだが、そこにあるお店は「はらぺこ食堂」の看板がたつ。

うわさによればどれもこれもが500円でいただける食堂メニュー。

日替わりランチも500円だ。

週に何度か通るそのお店に一度は入ってみたかった。

最近になって気がついた看板に弁当が350円とあった。

どのような料理が弁当になっているのかチャンスを狙っていた。

この日は天理市海知町の取材を終えて、山間へ下見に出かけた。

山間で食事をするには悩みの種。

ある日はインスタントラーメン、またある日は針テラスのつるまる饂飩店である。

その時間まではまだまだある。

苣原・桐山行事の聞き取りを済ませて平坦に降りてきたのは西九条町の「はらぺこ食堂」。

昼時間もとうに過ぎて、我が身もはらぺこ状態である。

350円の弁当メニューはたくさんある。

からあげ、とんかつ。はんばーぐ、めんちかつ、やきにく、豚しょうが焼、やき魚弁当はいずれも350円。

からあげ、かつとじ、やきにく、おやこ、たにん丼もオール350円である。

選んだのはからあげ弁当。

ここで食べられるとあって着席したが、店員さんが寄ってきた。

「お弁当は持ち帰りだけなんです」と伝えられた。

そりゃそうだろう。

定食は500円で弁当は350円。

内容、量とも同じであるなら、席料を省いて持ち帰り。

ということと納得して売り場レジ横で待つ。

申しわけないと思ったかどうかは聞かなかったが、冷たいお茶をサービスしてくれた。

店内ではお食事をする家族連れ、夫婦連れ、友達連れ、サラリーマンらで賑わっている。

待つこと5分間。

出来あがった弁当を持ってきた。

アツアツである。



持ち帰って早速いただくからあげ弁当はずっしりと重たい。

見た目もボリュームあるからあげ盛りにはドレッシングをかけたポテトサラダもある。

添えものには和風のコーヤドーフの煮しめに菜っ葉のおひたしもある。

これも美味しいが圧倒されるからあげの大きさだ。

大きなぶつ切りのからあげはパリパリサクサク。

歯ごたえがあるが、中身はジューシー。

正直云ってむちゃくちゃ美味しいのである。

からあげ一つでこの美味さ。

底から銀紙に包んだシオ・コショウがあった。

これを振り掛けて食べたら極上の味に変化する。

こういう気配りは他店では味わえない。

美味しいからあげに箸が進む。

ご飯も美味すぎて困るぐらいだ。

お店の案内では滋賀県の米を使っていると云う。

近江米かどうかは聞かなかった。

店員さんが手渡すときに云った「安いでしょ」の言葉以上に美味しい弁当に大満足する。

こんな体験をすればイオンの弁当はちゃちに感じる。

今後も買ってみたいと思った「はらぺこ食堂」は開店一周年記念に7月6日から9月30日までが大サービス。

定食を注文した方には一人一品で単品おかずが半額になっていた。

(H25. 9. 8 SB932SH撮影)

海知町のシンカン祭

2014年01月06日 07時54分04秒 | 天理市へ
前夜から降りだした雨は止まない。

例年なら10時に行幸される天理市海知町のシンカン祭りは、やむを得ず1時間も出発時間を繰り上げて実施された。

そぼろ降る雨のなか、唐櫃を担いできたという。

倭恩智神社では既に始まっていた祭りの斎行。

オトヤ・コトヤを祓っていた神官はこの日も法貴寺の池坐朝霧黄幡比賣神社藤本宮司が勤めていた。

シンカン祭の三日目は大当屋・小当屋が初穂を奉献する。

受け取る宮司は、宵宮と違って立って受け取る。



宵宮同様に奉幣振りの神事を終えて直会に移る。

シンカン祭の三日目の神饌は「蒸し御供」である。

オコワの飯に大豆を十数粒載せてある。

二枚の「杉皮モチ」もある。

本殿は3膳で、末社の春日さん、八幡さん、稲荷社へは各1膳ずつだ。



宵宮の膳数とは違っていたが、話しによればかつては7膳だったとオトヤの婦人が云う。

安永六年の座中記録には『供物七膳きやう組東西大三膳』とあるから、もっと昔は三膳であったろう。

それにしても、「きやう」とは何であろうか。

県内各地で拝見した数多くの神饌に「キヨウノメシ」、或いは「キヨウメシ」、「キョウ」がある。

「キヨウ」を「饗」と考えるならば、海知町の「きやう」は「きよう」が訛ったと考えられるのである。

宵宮では礼服だったが、この日は普段着の手伝いさん。

前日と同じく手で受けて膳を運ぶ。

オトヤとコトヤは烏帽子に素襖姿である。



蒸し御供(オコワ)はかつてマツリを終えて村に配った。

ひと盛りのオコワを四つに切っていたようだ。

無事に神事を終えたらヤナギ・稲穂の幣を境内の樹木に括りつける。

直ちにというわけではなく、トヤの都合の良い時間帯は「いつでもいいんや」と話す。

しばらく他所に出かけて戻ってきた数時間後。



境内にある一本の樹木に括りつけていた。

(H25. 9. 8 EOS40D撮影)

海知町シンカン祭の宵宮

2014年01月05日 17時16分18秒 | 天理市へ
海知町の二日目のシンカン祭(まつり)は宵宮神事。

場は倭恩智神社になる。

祭りに際して氏神さんに供える神饌がある。

安永六年(1777)二月に記された『海知村座中 當村宮座神拝献立並ニ 年中式法書控』によれば、渡家(現在のオトヤ・コトヤ)が勤める観音講の営みもあったようだ。

八月(当時旧暦)七日、八日、九日には『渡家明神請仕座衆云々』なにがしとあることから当時は明神講と呼んでいたのである。

「明神講」の名が今でも残されている。

『文久始酉八月 牛頭天王 神楽太鼓入筥(はこ) 明神講中』の墨書がある「神楽太鼓」の箱である。

古文書によれば、『九日供物に七色御くしはん買物次第』とある。

野菜は『見いかん、かき、なし、くり、なつめ、ミやうか、もも』である。

それが今で云う「七色の御供」で、ミョウガ、ミカン、カキ、ナシ、クリ、ナツメにモモの七品を竹串に挿しておいた。

広げる角度は60度ぐらいが丁度良いと話す。

竹串の先は品によって尖らかし方に工夫が要る。

堅いクリは鋭利だが、柔らかいモモはやや太めで先を丸くする。

そうしておかないとクルリと回って落ちてしまうのである。

神饌の調製は簡単なようで難しいのだ。

モチを四方に竹串で挿した『荷餅』は「荷ない餅」と呼んでいる。

昨日作った70匁(もんめ)と90匁のモチはそれぞれ2個ずつ竹串で挿した。

同じく九日供物には「杉板」とあることから、今で云う「杉皮モチ」若しくは「花御供」は宵宮の御供、九日の祭典にも供えていた。

これらの供物は渡りの出発前に神饌箱へ納める。

神饌箱には「明治四十三年九月 日韓合併祝賀紀念 明神講什物」の墨書がある。

神楽太鼓の箱と同様に、これもまた「明神講」であった現在の海知町のシンカン祭。

今では明神講とは呼ばれていない。

拝見した昭和十年に記された『倭恩智神社年中行事』の写しにもシンカン祭の呼び名がない。

それ以降に何らかの事由で、祭りの呼び名が替ったのであろう。

シンカン祭の宵宮に向かうお渡りがある。

総代を先頭に田原本町の法貴寺・池坐朝霧黄幡比賣神社宮司、御幣を持つ大当屋・小当屋に続いて神饌箱を担いでいるのは手伝いの人足だ。

大当屋・小当屋の呼び名は、安永六年の座中記録によれば大渡・小渡であった。

お渡りをされるオトヤ・コトヤは「渡人」である。



集落の建物の様相をバックに水路を入れて撮った。

突然来られた見学者がお渡りに付いていくので、被写体にかぶってしまう。

祭事関係者でない方にはお声を掛けて、行幸から外れてもらった。



神社に到着すれば、神饌を拝殿に並べて、神官、オトヤ、コトヤが座する。

まずは神饌を幣で祓い清める。

その次が御供上げだ。



手伝いさんが手で受けて、本殿に供えていく。



宵宮に供えられる『七色御くしはん』である。

現在は「七色の御供」と呼ばれている神饌の形態に特徴がある。

白いカワラケに半切りにしたトウノイモ(里芋頭)を藁で括った土台。

そこに竹で挿した七品の果物など。



かつては立てていたのであろうかと思った。

折敷には杉皮モチ、荷ないモチも納めてある。

本殿が7膳で、末社の春日さん、八幡さん、稲荷社へは各1膳ずつである。

なぜに本社が7膳であるのか、史料には書き記されていない。



宵宮神事にオトヤ・コトヤが奉じる御幣がある。

敷物に正座した神官が御幣を受け取る。

立ちあがって御幣を手にして作法されたのは奉幣振りの神事である。



昔はオトヤ・コトヤをオオトーヤ・コトーヤと呼んでいたと話す老婦人。

そういえば、祝詞を奏上した神官の詞はオオトーヤ・コトーヤであった。

宵宮の神事を滞りなく終えれば、拝殿で直会だ。

一枚もののスルメを肴にお神酒をいただく。

直会は短時間で終えてお開きとなった。



かつては下げた七色御供を近くの川に流していた。

昭和62年に書かれた史料によれば、法貴寺の大川に流すとあった。

それは一時的なことであった。

現在は七色御供の生御膳は竹串から外して神社前の池に捨てる。

竹串は正月明けのとんどで燃やすそうだ。

宵宮神事を終えたオトヤ・コトヤは再び田原本町法貴寺地区在住の女児巫女とともにやってくる。

夕闇近い時間帯である。

前日にオトヤ家で行われた御湯之儀を執り行う。

それからは氏子が参る宵宮は女児巫女が舞う神楽があるが、都合で拝見できなかった。

(H25. 9. 7 EOS40D撮影)

日清食品神田まつや監修の鶏南ばんそば

2014年01月04日 09時22分20秒 | あれこれインスタント
賞味期限は8月だった。

そんなカップ麺があったのだ。

何時、何処で買ったのか覚えていない。

自宅に溜まっているカップ麺や袋麺は早く消化したいが、なかなかその日が出現しないからそうなった。

多少の期限切れはどうとも思わない。

味わえば良いのだ。

午前中の取材を終えて一路は桜井市の図書館。

市史などに書かれてある民俗の調査である。

これまでにも度々、来館して調査をしてきたが、さらに、の再調査である。

到着するころは昼ごろになると思って家から持ってきたカップ麺。

当然ながら家で沸かしたお湯も持参である。

鶏南ばんそばは東京で名高い老舗の神田まつやが監修したようだ。

創業明治十七年の老舗の味はカップ麺になって販売された。

これには柚子七味も付いている。

お湯を注いで待つこと3分間。

蓋を開ければでっかい長ネギが盛りだくさん。

そこに柚子七味を振り掛けてそばをすする。



麺は少し柔らかめ。

2分半ぐらいで良かったかもである。

出汁にからんだそばは美味いのかそれとも・・・。

ごく普通である。

東京ならもっとだだ黒くて、濃い味と思って食べたが、感じなかった神田の味。

関西風にしたのであろうかと思ったがそうではなかった。

甘辛く濃いめの出汁が売りだったのだ。

驚きはなんと云っても鶏南ばんだ。

大きなぶつ切りの鶏肉には驚いたが、美味さが内部まで味が染みていない。

柚子風味も感じられず、残念だと思った関西人の舌感である。

(H25. 9. 6 SB932SH撮影)

海知町シンカン祭の七日座

2014年01月03日 08時43分31秒 | 天理市へ
天理市の海知町の秋祭りはひと際早い。

ほとんどが10月であるが、海知町は9月の初旬だ。

かつては9月7日、8日、9日であったが、現在は集まりやすい9月の第一金、土、日曜日に実施されている。

三日間も続く祭りの呼び名はシンカン祭(まつり)。

これまで平成16年、18年、19年、24年に亘って取材してきたが、三日間通しで拝見することは、当方の事情もあって難しく、途切れ途切れになっていた。

マツリの初日は神饌作りと御湯の儀式で、主にオトヤ(大当屋)家で行われる。

朝8時、前年に勤めたオトヤ(大当屋)の指導を受けてシンカン祭の御供や祭具を作る今年のオトヤとコトヤ(小当屋)。

平成18年に勤められた大先輩のOさんも作業を手伝う。

初日は主に勤める大当屋家で行われる神饌作りと御湯の儀式である。

海知町の戸数は70軒ほど。

それは自治会の戸数であるが、旧村は36戸。

18年に一度が廻りのオトヤとコトヤになる。

トヤ家を勤めることができずに断る家もある。

かつては隣り同士に廻っていた。

その名簿もあった旧村は東、西、南、北垣内。

この年にオトヤを勤めるK家は、昨年に勤めた本家オトヤ家の隠居(分家)だ。

始めに手掛けたのは杉板と竹串作り。

特に材料となる杉の皮は何年間も使ってきた。

マツリの都度、長い杉皮を切り取っていた。

3年間に亘って使い続けてきた杉皮は朽ちている部分もある。

奇麗な部分から使ってきたから、使い回しも難しくなった。

なんとか切り取った大きさは前年を見本に一片を10cmにする。

正方形に切り取った杉板は宵宮に10枚、本祭に10枚の合計20枚も作る。

一方、竹串は神饌御供に使う。

青竹を割って一本、一本細くする。

カマや小刀で削ぎ落して串の形にする。

先のほうは尖らすので時間がかかる作業だ。

手伝いにはオトヤ・コトヤの親戚筋も加わる。

神饌御供の土台となるトウノイモ(頭芋)は皮を剥いて奇麗にする。

半切りにしたカシライモとも呼ぶトウノイモを白いカワラケに餅米の藁で十字に縛って固定する。



手間が一番かかった作業は一旦終えて、オトヤ家もてなしの接待料理をいただく。

竹串に挿す御供は、ミョウガ、ミカン、カキ、ナシ、クリ、ナツメにモモの七品。

この時期に合わせて実を結ぶのは自然任せ。

ナツメは村で栽培している。

前オトヤもそうしていた。



今後も頼りにするのも配慮しなければと考えて祭典の場となる倭恩智神社の境内に植栽された。

実もつけるように成長したナツメが赤色に染まるのももう少しだ。

クリは昨年からお願いしていた早稲品種を栽培しているKさんからの貰いもの。

村では4軒ほどがクリ栽培をしているそうだ。

トウノイモやカキもミョウガも村人が栽培しているから入手しやすい。

昼の膳座、神官の座とされるシンカン祭の「七日座」の饗応を終えるまでは、集落を散策していた。

北東にあった地蔵尊。



「文明十八年(1486)□月 法界衆生之施主□者」の刻印がある。

古くから祭られた地蔵石仏はあるが、地蔵盆は行われていないそうだ。

オトヤの裏庭に設えた斎場。

普段は駐車場であるが、この日のために車を移動して斎場にされた。



四方に忌竹を立て、注連縄を張り、紙垂を取り付ける。

いわゆる結界の場である。

これより始まるのはオトヤ家における御湯神事である。

烏帽子を被り、素襖を着用したオトヤ(大当屋)・コトヤ(小当屋)が奏でる平太鼓・バチ・チャンボラの鉦こと手平鉦がある。

村役、当屋らの承諾を得て納めてあった「神楽太鼓」の箱を拝見した。



それには『文久始酉八月 牛頭天王 神楽太鼓入筥(はこ) 明神講中』記銘の墨書があった。



150年間に亘って今尚使われてきた神楽太鼓は1861年に製作された神楽舞の際に打ち鳴らす囃し手道具である。

三本足の湯釜を中央に置く。

湯釜には刻印が見られない。

オトヤとコトヤはゴザを敷いた斎場の外側に座る。

始めに池坐朝霧黄幡比賣神社宮司が祓えの儀をおこなう。

斎場には大当屋家族や村講の手伝いを勤める人たちも並ぶ。

湯釜の前に立った宮司が一礼をする。

釜湯を祓い清めて「オオオオー」とオトヤの家に神さんを呼び起こす降神の儀。

そして祝詞を奏上する。

幣を受け取った巫女は湯釜を祓う。

田原本町法貴寺地区在住の女児巫女である。

オトヤとコトヤが奏でるチン、チン、ドンの音色に合わせて神楽を舞う。



チンは摺り鉦の音で、ドンは太鼓を打つ音である。

太鼓を打つのはオトヤ。

コトヤは「チャンボラ」と呼ばれる銅製の手平鉦を受け持つ。

次の所作が御湯である。

鈴・笹を持って左、左に舞う。

洗い米を湯釜に投入して次に塩、酒を注ぐ御湯釜の禊祓い。

湯釜に向かって正面、左方、後方、右方の左回りに三度の一礼をする四方の神寄せ。



笹を釜湯に浸けて前方に五回、側方に五回、後方に五回の湯飛ばしをする。

鈴・笹を持って左、右、左に舞う神楽はチン、チン、ドンの音色に合わせて舞う。

そうして参拝者を鈴で祓う。

再び宮司が登場して湯釜の湯を祓う。

最後に「オオオオオー」と発声して神さんを天に戻す昇神の儀で終える。

こうして御湯之儀を滞りなく終えた人たちはオトヤの作業場に移った。

これより作るのは神饌のモチである。

モチ米を蒸して次から次へとモチを搗く。

モチ搗きは器械である。

平成18年に拝見したモチ搗きの始まりは天秤棒で重さを量っていた。

昔から使っていた天秤棒だった。

今では、天秤棒で計ることなくデジタル表示の秤で重さを量る。

かつては臼と杵で搗いていた。

計量も含めて、いつしか機械化されたシンカン祭の御供モチ。

モチの重さ・数量はそれぞれ決まっている。

70匁(もんめ)が40個で、90匁は10個である。

昭和62年にもオトヤを勤めたK家には、当時の記録を残していた。

おじいさんが話すことを資料化したのはK婦人だ。

平成15年にコトヤを勤めたときに、その資料が役立ったと話す。



1匁は3.75グラムであるから、「三百何グラムやら、二百何グラムとかやな」と云いながら、計量してモチを丸める。

コジュウタに入れて次に作ったモチは杉皮モチ。

杉皮は3年前から使い続けてきた。

杉皮モチは熱いうちに摘まんでくっつけないと杉皮から剥がれてしまう。

冷めたら剥がれてしまうという話を聞いて、そうされたが、あまりの暑さに悲鳴が唸る。

モチを引っ張るように千切って杉皮にくっつけるのだが、搗きたてのモチは熱い。

「アツイー、アツイ」と云いながらモチを千切る。

手にくっつくので熱さが指に纏わりつく。

全員が発声した「アツイ」の声に作業場は笑い声に包まれた。

すべてができあがってから、「杉皮のモチは一旦取り出して棒状にする。それを千切って杉皮にくっつけるんや」と長老が云った。

「それを早く云ってくれ」で、またもや笑い声。

それからはコモチも作っていた作業は夜9時頃まで続いたそうだ。

そのコモチは、どうやらテイワイモチ(手祝い餅)だったようだ。

(H25. 9. 6 EOS40D撮影)

ストロボ信号の不良でEOS40Dを修理

2014年01月02日 08時35分58秒 | しゃしん
平成22年1月より使ってきたEOS40D。

RYU先生からのいただき物である。

平成23年7月に発生したERR99は修理をした。

取材で多用するデジタル一眼。昨今はストロボを装着して撮影することが多くなった。

夜間はともかく日中シンクロも多くなった。

先月の23日は各地の地蔵盆を取材していた。

おかしいと感じたのは5カ所目になる額田部北方の地蔵講の取材のときだ。

夕刻近い時間帯である。

それなりの描写もあるが、撮った写真をさし上げることが多々ある。

お顔が写ってなければ申しわけない。

そう思って遠目にあたる部分に向けることがある。

アウトドアの場合はバウンズは利かないが、光ぐあいでそれなりの描写も可能である。

シャッターを何度か押して画像を確認する。

おかしい。

あれもこれも暗いのである。

夕方だけにそうなるのは当たり前だが・・・。

数コマがストロボ発光した画像があった。

ストロボがおかしいのかカメラなのか。

翌日の西里ではほとんどが発光画像でない。

ストロボ自身は発光するので機械的な内部のどこかがおかしいのではと思った。

その後はバタバタする日々を送っていた。

取材どころではなかったのだ。

余裕ができたこの日に訪れたカメラのキタムラ奈良南店。

副店長のTさんに声をかけた。

「今なら同機種があるから、テストしてみる」と云われた。

ありがたい言葉である。

急ぐ用事を済ませて再びお店を訪れた。

おかしいカメラとストロボを持参してだ。

自機種で試してみる。

発光はすれども、まったく発光した画像が出力されない。

お店の同機種に交換して再度試してみた。

ちゃんと発光する。

画像も発光している。

Tさんにもみてもらった。

ストロボの信号を受ける回路が不良と思われるという診断だ。

早速、手配した修理依頼。3週間はかかると云う。

明日は取材。フイルム一本でいくしかないと思っていたら、「貸してあげる」と返ってきた。

ありがたいお言葉に甘える。

それから一週間後、Tさんから入った連絡。

故障の主体はカメラ側にあった。

ストロボを制御するカメラ上部のユニットを交換しなければならないと云う。

修理代は22,000円。

借用しているEOS40Dの売値は37,980円。

差額は15,000円もある。

Tさんと相談したどっちにするかの天秤棒は「修理」したEOS40Dは3週間後の28日に戻ってきた。

ストロボ機構の不具合ゆえ交換したとある修理明細書。

支払いはと言えば「おまけで値切っておいた」と安くしてくれた20,300円。

これもまたありがたいことである。

支払いはJCBクレジットの金券にTポイント還元である。

残りはクレジット支払いで実質は6,900円であった。

(H25. 9. 5 SB932SH撮影)