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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

山添北野天神社宵宮豊田楽

2010年11月10日 08時28分09秒 | 山添村へ
奈良県東部の山中には田楽などの神事芸能が奉納されている地区が多い。

その一つに山添村北野の天神社で行われる「豊田楽(ほうでんがく)」がある。

当屋とお渡りの七人衆は出発を祝う豊田楽を公民館の前で披露したのちに神社までお渡りをする。

烏帽子をかむり、素襖(スオウ、発音上ではソウ)姿で太鼓や手作りの竹笛、「ジャラジャラ」と呼ばれるササラを持つ七人衆たちだ。

「舞床」と称される舞殿で田楽を披露された。

ジャラジャラを中央のむしろの上に置いて扇であおぎ回る。

不思議な動作は食生活に欠かせない大切な火をおこす所作だという。

「ようごうの松から松のようごうのおうごうの松…」。演者が登場して目出たい言葉が連なる豊田楽の詞章を唱えた。

これは3番まであって一人一人入れ替わる。

1番は「ようごうの松から松のようごうのおうごうの松 せいようの春のあしたには 門に小松を立て並べ 治まる年のしるしには 民のかまどに立つ煙 ようごうの松から松のようごうのおうごうの松 (住吉の松 ふるや入道)」。

2番は「鶴は千歳ふるとやきみみこがふる (はー) あずのまるやに住む人は 波がういてちぬうらの あさかがさとをならび見て 人をとうみるやすやすさ 鶴は千歳ふるとやきみみこがふる (万歳楽に ふるや入道)」。

3番が「大前なる大前なる  (はー) 亀は亀 鶴こそふりてまいやすの 鶴の子の やしゃ孫の育とうまでも ところは栄えたまうべきや 君が代は (千秋楽に すみや入道)」である。

奉納を終えると参籠所に移る渡りの衆。



新調された装束を身につけている。

寄付金で賄った着物にはそれを表すトレードマークが縫いつけられている。

当屋長老と孫男児と渡り衆の座の前に、区長や氏子総代、参拝者代表が進み出てそれぞれ「ご苦労さまでした」と奉納舞への御礼を申し述べる。

御神酒を注いで回るのは当番の年預(ねんにょ)さんだ。

これは「御神酒拝戴(ごしんしゅはいたい)の儀」と呼ばれている儀式である。

昔はこのような儀式はなかった。

村の神主さんが言うには「それでは申しわけないと新たに組み入れた儀式だ」と話す。

(H22.10.10 EOS40D撮影)

山添大塩八柱神社秋祭りの座

2010年11月09日 07時45分04秒 | 山添村へ
山添村大塩八柱神社の祭礼には二つの座がお渡りをする。

一つは寺座であって公民館から歩いて階段を登り神社に着く。

もう一つの座は宮座と呼び神社の参籠所からお渡りをする。

いずれも裃を着衣して御幣を持つ2人の当家がお渡りをする。

足下は神つけ草履履で刀を差した出で立ちだ。

寺座は神社より下方にあるが上座という。

この座はさらに二つの座が存在する。

オモテ座とウラ座だといい組織構成はとても難しいと総代の一人が話す。

宮座は神社側になるが下座であるという。

村中を巡行してきた子供御輿は境内に置かれ神事が始まったようだ。

「ようだ」と言わざるを得ないのは目撃していないからだ。

祭りの開始時間には間に合わなかったのだ。

既に神事が行われている。

まずは寺座が先に着いて本殿にあがる。

3人の神社総代によって厳かに御幣奉納神事が執り行われた。

一旦下がって寺座は拝殿で待つ。

そこへ登場したのは宮座だ。

参籠所に座る氏子に挨拶して出発した。

お渡りは僅かな距離。数歩で拝殿に着いた。

本殿に向かって寺座と同様に神事が行われた。

その間、子供御輿を曳いてきた法被姿の子供たちも頭を下げて拝礼する。



それらを終えて両座は下がっていく。

宮座は参籠所へ。寺座は公民館に戻って行く。

寺座はお旅所になるのだと総代の一人が話す。

そして宮座では見られない相撲が寺座で行われる。



裃着衣を下げた刀を持って登場したのは二人のふんどし姿。

白足袋を履いた当屋力士の二人だ。

行司(翌年に当家になる)を挟んで立った力士。

そこには箱膳を前に置いた筵敷きの土俵だ。

行事は扇を手にしている。

膳の上に刀を置いた力士は見合って、「シャーン シャン」の掛け声と共に両手の手打ち。

すぐさま「シャン」の掛け声がかかって手打ち。

力士は左手を揚げて大当家の勝ちー。

今度は右手を揚げて小当屋の勝ちー。

行司が持つ扇があがった。

刀相撲と呼ばれる神事相撲は、大相撲のような取り組みでなく、形だけの所作をする。

こうした相撲の形態は珍しく、県内でも十数例しか見られない神事相撲の一つであろう。



このあと本膳を取り去り登場したのは子供たち。

幼児の組み合わせもあれば小学生も。

女子も参加する子供相撲。

見合って終わる場合もあれば、組んで倒さなくとも相撲をしたことになる。

両者引き分けー。褒美にお菓子をもらっていく。

一組目の子供相撲を終えるとふんどし力士は再び登場する。

作法は1回目と同じだ。

勝ち負けは大当家と小当家、いずれも勝つことになるそうだ。



相撲はご褒美がある限り続けられ、最後の余興では腕相撲まで飛び出した。

村人たちが見に来る祭りの楽しみはここにある。

相撲を終えた座衆は公民館の座敷にあがって直会を始める。

膳を配ったり、酒を酌して回るのは当家の若い衆。

両座の4人は忙しく動き回る。

寺座は二つの座であるがゆえ当家は4人になる。

そのうちの年長者は大当家でもう一人は小当家を呼ばれている。

当家の廻りは年齢順になるという。



四角い膳に盛られた食べ物は6品。

2個のモチは中央、両端に七粒のエダマメ、米粉(上新粉)、ドロイモのクルミ、キナコ、アラメだ。これをムラゼンと呼ぶ。

クルミはエダマメを磨りつぶしたものだ。

砂糖を少々入れているので、甘く口の中でとろける。

昔はここにミソもあって7品だったそうだ。

酒宴は酒が入るにつれ余興が飛び出す。

唄われたのは伊勢音頭。

「・・・ヨーイヤナー アレワイセ コレワイセ ヨーイントセー」の台詞が部屋中に聞こえる。



数人が唄って「シャンシャンシャン」の手拍子で締めた。

およそ30人の男たちが集まった直会は区長の挨拶と万歳三唱で終えた。

(H22.10.10 EOS40D撮影)

山添菅生十二社神社だんな祭り

2010年11月08日 07時43分51秒 | 山添村へ
下駄履き和服姿の男性たちが集まってきた。

村の氏神さんである山添村管生の十二社神社だ。

お参りを済ませたあとは境内に群がった。

長老は言った。和装になるのは年に2回。正月の初参会のときと秋の大祭のときだけで、今日は虫干しだと笑う。

服装は特に和服でなければならないことはない。

礼服やスーツ姿でも構わないという。

境内中央に氏子総代や長老、区長が並び、進行役が勤める神事が始まった。

興ヶ原の宮司が拝殿に上がって、修祓などの神事を進めていく。

その途中、進行役の指示で当家の若い衆が赤ん坊を抱えて本殿前に立った。

これから始まるのは子供の相撲だ。

氏子の家で生まれた男の赤ちゃん。

相撲を取り組むのは3組だが今回は2組だった。

紋服上着を着せて登場した。

相互に向かい合い、両手で掲げて高く上げる。

その所作で1本の取り組みを終えた。

もう一組の取り組みは上げる前に泣きだし拍手がわき起こった。

泣いたら負けだという相撲は氏子へのお披露目のように思える。

赤ちゃんが複数揃わなければできない相撲。

場合によったら1歳児以上でも参加するそうだ。

神事には供えものがある。



今年に収穫刈り取りされた稲穂の束。

まな板と思えるような台に乗せたセキハン(赤飯)が中央に。

モチ米でこしらえたコワメシだ。

傍らには鏡餅とは異なる形の白モチがある。

丸い平皿に盛られたのはまさしくシラモチ。

モチという名が付いているがモチ米ではない。

上新粉を水で練って作ったものだという。

これらは下げられてこれから始まる座の祭りに配られる。

座は4軒の当家があたる。

そのなかで最も長老にあたる人が大当家と呼ばれる。

神事の最中も忙しく動き回る当家衆。

実は当家の若い衆が和服姿で神事進行を勤め、父親は普段着で座敷の膳を並べていく手伝い役になっている。

80個余りの膳は並べるだけでも相当な時間がかかる。



すでにカキ、チクワ、カマボコ、コンニャク、サトイモを竹串に挿した串肴が並べられた。

串肴は近隣の春日神波多で見られるものとよく似ている。

席に座ったのは上座が長老たちで、周りをかためた男性たち。

家長の人たちだ。そういうことからだろうか、だんな(旦那を充てるのか)祭りとも称している。

かつては嘉永九年の年代があった幕。

式典が始まる直前に数年前に新調された幕を張った当家。

まずは当家の挨拶から始まった。

下座に座り「本日は当氏神さまのお祭りで御同様におめでとうございます。例年の通り祭りの儀式を行いますから銚子が廻りましたらよろしくお上がりください」と口上を述べる。

式典は1.当家挨拶、2.御神酒、3.澗酒、4.謡い酒盛りの儀、5.当家閉式、6.区長挨拶、7.残酒、8.当家渡しである。

若い衆が酒を酌して廻る。

赤ん坊を抱いた母親も列席する。これもお披露目であろうか。

台所では当家の女性たちが忙しくなる。

お下がりをパックに詰めていくのだ。

数は多い。

欠席の人にも配られるパックは「セキハン、シロモチ、タイ、サバズシ、コンブ、ノリ、モチ、カキ」だ。

「高砂」の謡も唄われるがカセットテープの音声になっている。

酒盛りは延々と続いていた。

そうして「これで祭りの行事もとどこおりなく終わりました。後は残でございますからごゆっくりお上がりください」の口上を述べて一旦式典を締めたがその後も残酒で酒宴はさらに続く。

最後に行われるのが当家渡しだが、これを始めるのは長老が決めること。

あるときの当家渡しは夕方になったこともあるそうだ。

当家渡しは次の役目にあたる受け当家に引き継ぐ儀式だ。

四人の当家は長老の席の前に座る。

後方の列は受け当家の四人。

さらに列が並んでいる。

これらの人は「スケ」と呼ばれる人たち。

当家が飲み干すことができなかった飲み酒を助ける役目だ。

儀式は初めに「一年間ご苦労さんだった」と挨拶。

それから毒味と称して長老が先に酒を飲む。

そして当家の杯に並々と酒が注がれる。

杯は汁椀。かつてはメシ椀だった。

その方が多めだったと話す。



当家はそれを持ったままで謡いが始まった。

謡曲は「養老」。

カセットの唄が聞こえなくなったことから謡い手が名乗り出た。

謡いが終わるまで静止状態。

柳生などで行われている「ザザンダー」の儀式になるが「ザザンダー」とは発声しない。

一気に飲み干す当家衆。

が、僅かに残った酒は杯とともに後方に移動する。

それぞれの列の「スケ」が支援する。

当然ながら酒はさらに注がれていったのだ。

最後方まで飲んでは注いで、飲んでは注いでと回る。

この様相は東山間の室生小倉で祭典される当家渡しと同じ作法のように思えた。

最端までいって酒杯が戻ってくる。



そうすると当家は杯を頭に被るような格好をする。

空っぽになった証の作法だという。

次は受け当家が並ぶ。

「これからの一年間よろしく」と挨拶をする。

そして謡は「明石」に替わった。

異様に「スケ」がはしゃぎ回る当家渡しの儀式。

酒がたっぷり身体に浸みていた。

にぎやかな儀式は当家と同じ作法で杯を頭に被って終えた。

(H22.10.10 EOS40D撮影)

遅瀬のダンジョー

2010年11月07日 08時55分20秒 | 楽しみにしておこうっと
かつて当家は祭りの前の日に遅瀬川で禊ぎをしていた。

今は浅瀬だが当時はもっと深かった。

下着で浸かって首まで。

それは今でも覚えていると与力が言った。

1月10日は地蔵寺で初祈祷。

ハゼの木に挿したごーさんを供える。

ハゼの木は先端を三つに分けるのが難しいという。

昔はそれを苗代に供えた。

農協で苗を買うようになってから徐々に減って今は3本程度らいしい。

その一本が会館外に飾ってあった。

味噌蔵にも挿したごーさんだった。

その日は太鼓を打ち鳴らすダンジョーがある。

ランジョウ(乱声)が訛ったのであろう。

(H22.10.10 EOS40D撮影)

山添遅瀬八柱神社村当家祭

2010年11月06日 07時28分09秒 | 山添村へ
祭りの前日は眠れないという子供たち。

その答えは山添村遅瀬の八柱神社境内に出現する。

神仏分離令により明治元年に八王寺神社から名称が替わった神社だ。

小袋を手にした子供たちは朝8時前から集まってきた。

今か今かと期待して待っている人はお祭りに参拝する人なのだ。

スーツ姿の数人の男性。鳥居に立てかけたサカキの葉をちぎって階段を登る。

賽銭を奉じて本殿に向かい手を合わせた。

くるりと向きを変えて境内を正面に立った。

おもむろに取り出した丸いモノ。

手にいっぱい入れて投げた。

それを待っていた子供たちは手中に収める。

境内に落ちた丸いモノも拾う。手の中は現金だ。

かつては1円、5円だったが物価に応じてだろうか10円、50円になった。

ときには500円玉もあったと子供がいう。

珍しい風習は、余りものの賽銭を撒くことから「銭まき」と呼ばれている。

銭まきは子供のための特別なものではなく大人も混じって参加できるのだ。

童心に還るのだろうか、実に楽しそうでゲットすれば満面の笑顔になる。

現代的な様そうに見えるが、実は古くから行われている。

宝永五年(1708)に記された「当村神事勤頭覚え」の「当屋渡しの古文書に書いてあるというから300年も前から続けられているのだ。

次から次へと訪れる参拝者はしきたりであろうか必ず銭を撒く。

小さな男児はその収穫具合を見せてくれた。

祭りはそれから1時間後に始まった。

公民館会場から登場したのは村の神主さん。

修祓の議、祝詞奏上など賑々しく行われる。

そして登場したのは当家の四人。

村当家祭の主役になる男性たちだ。

このときに雨乞い踊りに使っていたとされる大太鼓を打ち鳴らす。

この年の9月半ばまでに生まれた男児が四人揃って行うのが本来の当家祭。

生まれた男児は母親が背たろうて当家の家からお渡りをする。

現在は公民館からのお渡りになっているものの村への披露だと思われる作法だ。

ところが誕生がなければが当家祭は村当家(ムラドーと呼ぶ)の営みで、仮の姿となって祭礼を行う。



昨年は丁度4人が揃ったが当分は生まれないだろうと話す当家は御幣を先頭に雄蝶・雌蝶、洗米、桶に入れた五つのマジャラクを抱えて神社に参拝する。

マジャラクとは何であろうか。

特殊な形態をしているマジャラク。

数本のズイキの台に竹串で挿してある色とりどりの季節もの。

ザクロ、カキ、クリ、ナシ、トコロイモ、ユズ、ジネンジョの七品だ。

台は三本の足で固定。

ズイキは藁で括っている。



人身御供だともいう。

かつてはこれを49個も作って大きな板に載せて供えていた。

前日はこの材料を揃えておく当家衆。

それだけの数を揃えるだけでもたいへんだったと話す。

行事は改訂されて五つになった。

マジャラクの形にするのは早朝から手伝ってきた与力たち。

公民館で組み立てるものだから当家の記録写真には写っていないのだと話す役員たち。

与力は二手。それぞれ四人。

1与力は祭典の進行采配や酒の澗、汁ものの世話とか外回りにあたる。

2与力は座席にお神酒を注いだり、膳などを配る役目。

若い人5、6人を雇って役目を担うが昔は青年団、現在は7組の班長がそれにあたる。

かつてはタスキをして酌していたそうだ。

参拝を終えた当家衆も銭撒きをする。

最後の銭を手にした村人たちはお下がりのお神酒とジャコを口にして家に戻っていった。

公民館での座はそれから始まる。

一段高い上座には当家衆が席に着く。

そこは地蔵寺内だ。

広間座敷の中央上座は村の神主でその横は長老が座る。

周りは持参した風呂敷包みを広げたスーツ姿(かつては和装だった)の男性たちが座った。

風呂敷の中は家膳や椀、箸などだ。

式典は1.講儀、2.御神酒、3.雑魚、4.講儀、5.温酒、6.講儀、7.謡いである。

講儀とはいったい何であろうか。

当家の一人が席を立って下座に座った。

会場のみなさんに向かって式典始めの挨拶をした。



「例年通り 御神酒を差し上げます。」と述べた。講儀は口上であった。

その発声があって与力は動き出した。

イワシ2匹を乗せた膳をもって酌人が上座より配していく。

その膳は膳先と呼ばれるもので見せるだけだ。

酌を終えて半紙を席前に置く。

そこには2匹のイワシとジャコが置かれる。

皮を剥いたサトイモも配った。

子だくさんの意味があるという。

昔は丸箸で摘んでいた。

サトイモはツルっとするので難しかったと話す。

後ほどに食するみそ汁の具も配った。

それは削りカツオとユウの皮。

ユウは柚のことである。

そして2回目の講儀。

「いずれもおちはございませんか。澗を入れましたので成る方はお召し上がりください。」と口上を述べた。

いずれも当家の代表者があたる。

赤ん坊が居る場合は最初に誕生した家がその代表になるのだ。

温澗の酒をよばれて配膳されたパック詰め料理を口にする。

座敷の男性は家長たち。

こうして式典は酒宴の場になっていった。

「だいぶ飲ましたってくれよー」と当家から掛け声が入る。これは指示でもある。

「この献で預かりとうございますので成る方は十分お召し上がりください」と3度目の講儀が行われた。

それからは冷酒に換わった。

カマス2匹の膳先に雄蝶、雌蝶で冷酒を配する。

しばらくすると謡い方が下座中央に座って謡を唄った。

曲目は高砂だ。

そのころに当家が退席して汁ものが配られた。



役員はマジャラクの桶を席に持っていって一人1本ずつ手にする。

マジャラクの分配である。

これらは長老の指示で動く。

家長たちは自分の膳を風呂敷に包んで戻っていた。

散会して残った役員たち。

祭典の方付けをしてからようやく氏子総代、区長接待の慰労会になった。



当家の文書箱と秤がある。

秤はかつて行われていたキョウ(饗)を計る道具だそうだ。

これは当家が持ってきたものだが現在は使われていない。

大切な道具であるがゆえ持ってきたが退席とともに戻っていった。

(H22.10.10 EOS40D撮影)

長滝町の座分け

2010年11月05日 07時46分58秒 | 天理市へ
昨夜から降り出した雨は止む気配はない。

昼前には本降りになりだした天理市長滝町。山間にある集落だ。

鬱蒼とした林のなかに鎮座するのが九頭神社。

早朝に集まってきた宮本衆と当家、それに世話方の役目を担う行司たち。

ヤダケ(矢竹であろう)と呼ばれる竹を使って御幣を作る。

それを神社に奉って神事が執り行われる。

それらを終えて社務所で直会が始まった。

パック詰め料理の膳を囲んだ直会だ。

お神酒を注ぎ回るのは本当屋と受け当屋の二人。かいがいしく動き回る。

所外では当屋の奥さんが酒を澗している。

始まって1時間半。座は「座分け」の式典に入った。

中央の席に座った二人の行司。

昭和44年10月12日調の「座中連名簿」を差し出し座員の名を確認する。

座中名にはここで生まれた長男と認められた婿養子。

いずれも宮本株を買った55人の座中だ。

その人たちを振り分けるのが座分け。

明日の宵宮に際してオオト-ヤ(大当屋)とコトーヤ(小当屋)の家で会食をよばれる人たちを振り分けるのだ。

逆の言い方をすれば行き先の接待家を決めるのだ。

本来であれば一カ所で総員が会食するのだが、人数が多いことから二カ所に分けている。

それを決めるのが座分けである。

座中名簿は誕生日の順。

最長老は一番でオオト-ヤの家。

2番目はコトーヤの家。

次はオオト-ヤ。その次はコトーヤとなる。

簡単に言えば奇数番がオオト-ヤで偶数番がコトーヤだ。

ここに但し書きがつく。

世話役の行司は二手に分かれなくてはならない。

宮本衆の意見や協議を経てどちらの家に入るかを決断する。



決まった座中は二つに折った半紙に名前を記す。

そして洩れなどがないか名前を呼び出して宮本衆が承認する。

采配しない行司は名ばかり、長老のご意見を伺い決めていく。

行司の役目はこれで終わったわけではない。

集合時間や祭り提灯の出発時間など、今日中に決まったことを1軒、1軒回って通知していくのだ。

(H22.10. 9 EOS40D撮影)

山添村大塩八柱神社の祭礼

2010年11月04日 06時40分04秒 | 山添村へ
山添村大塩八柱神社の祭礼には二つの座がお渡りをする。

一つは寺座といい公民館(観音寺)から歩いて階段を登り神社に着く。

もう一つは宮座と呼び神社の参籠所からお渡りをする。

いずれも裃を着衣して御幣を持つ2人のト-ヤさんがお渡りをする。

足下は神つけ草履履だ。寺座は神社より下にあるが上座という。

この座はさらに二つの座(オモテ座とウラ座だという)が存在するらしい。

宮座は神社にあたるが下座であるという。

秋祭りは第二日曜。

元々は16日だったが集まりやすい日曜日に替わった。

お渡りは寺座が先に出発する。

拝殿に登って本殿へ。そこで神事が行われる。

一旦下がってそのあとが宮座の出番になる。神事を終えた寺座は公民館に戻って行く。

そこで行われるのが相撲。

なんでも刀を使った相撲だそうだ。

前日は宵宮で、夕方に行われる。

本祭と同様にお渡りがあるが座するのは拝殿となる。

64軒だった寺座は少しずつ減って現在は30軒ほど。宮座も同数で30軒。

ト-ヤさんの勤めは15年に一回巡ってくる計算らしい。

八柱神社は本殿と拝殿の間に朱塗りの鳥居が見られる。

このような形態はあまり見られない。

神社にはもう一つの鳥居がある。

それは階段を登り切った処だ。

石でできた鳥居は比較的新しく平成5年の建立されたもの。

その両脇には狛犬がある。

線刻された狛犬。表情といい形といい珍しいかもしれない。

これも新しく昭和12年に寄進された。

宵宮に際して3人の氏子総代が雨の日の設営をされている。

拝殿は吹きさらしなのでブルーシートを張っている。

傍らには一升瓶の酒が4ダース。

両日の祭りに差し出される酒だ。

二級種と決まっている。

今夜は宵宮。神事を終えれば参籠所で直会。

3時間はここに居ると話す。

氏子総代は3年任期だが、一人が必ず残る。

二人が新参であるから指導にあたるそうだ。

境内には5月5日に上げる鯉のぼりの立柱がある。

そこで聞いたのはオツキヨウカの天道花。

ずいぶんと前になくなったそうだ。

(H22.10. 9 EOS40D撮影)

小南神社秋の例祭

2010年11月03日 08時16分01秒 | 大和郡山市へ
境内に18個の提灯をぶら下げた神楽提灯と太鼓台を置いて秋祭りが始まった小南神社秋の例祭。

神楽提灯は担いだこともないと氏子総代の六人衆は話す。

太鼓台は昭和30年代にはふとん太鼓として活躍した名残の土台だ。

青年団が寄進されたとする幕が張られている。

神社から小南町の集落を練り歩いたそうだ。

そのときに使った8mほどの長さのオーコは拝殿に吊されている。

今では語り草になっているようだ。

神楽提灯は「村中」と書かれ巴の紋が描かれている。

あまり見かけない形式だと宮司が話す。

六人衆は平成元年に解体した宮座の六人衆と同じ人数。

同神社は北側に八幡宮、南側は天王宮社を祀る両宮。

当時の宮座は古座(こざ)に北座の八幡座と新座は南座の天王座の二つの座で組織されていた。

座の人たちは特に北側とか南側とか集落の中で分けているわけではないが、両座とも一老、二老、三老の三人だった。

六人。それは終身制だった。

現在の六人衆は年齢順で構成されている。

六老から入って一老まで、一年ずつ繰り上がり、6年間は神社を守り勤める。

その6年間中に服忌になれば一年間は勤めない。

年忌が過ぎれば復帰する。

その間は次の年齢の人が入って代行を勤める。

そのようなことで服忌があった人は5年。

繰上げれば7年間となるのだ。

六人衆と自治会役員らが拝殿に座った。

宮司は静かに神事を始めていった。

修祓、両神社の開扉、祝詞奏上に続いて巫女によるお神楽が舞う。

不可思議な言葉を唱える巫女。

そのあとは剣や鈴を持って神楽を舞う。

拝殿からそれを見る六人衆と役員たち。

厳かな空間がそこにある。

その間の拝観者は少ない。

宮座組織が解体されてからは随分と減っていったという。

かつては和服に身を固めた座衆。

当時かどうかは定かでないが羽織袴姿でお渡りをしていた姿が奉納された絵馬に描かれている。

この絵馬は宮司の先代。父親の作品であるという。

当時は相当賑わったようだ。

あまりにも大勢だった参拝者。「わしらが子供のときは境内に筵を敷いて持参した弁当を食べていたが・・・」と回想され、「誰も来よらへん」と呟かれた。

時代は不明だが神社の北側に新池を造った際に天王社を移設して両座にしたという。

ここらへん一帯は富雄川が氾濫して神社が高地などに遷った処が多いという。

隣町の田中町、池之内町、満願寺町がそうだった。

井堰があって新木町、杉町、丹後庄町から筒井へ抜けたそうだ。

それは今でも流れているという。

小南町は平城京を造宮する際に飛鳥から来た人たちが住み着いた町。

元の地の小山田と南浦から来たので、合わせてその名を小南と名付けたそうだ。

東隣の豊浦町も同じように人が移ってきたのだと話す。



祭典や直会を終えた2時間半後のことだ。

地区の役員女性らがやってきた。

これから「火とぼし」を始めるのだという。

風は少しきつめ。六人衆によってローソクが点された本殿廻りの提灯。

そこから火をもらっていく。

風が直接当たらないように工夫された器。

そこに点されたオヒカリ。境内や参道の提灯にローソクを点す。

そこからは集落に設置されたご神燈にも点していく。



その先は集落の南の入り口。

その地はババニシとババヒガシ。

漢字で充てれば馬場西と東になる馬繋ぎの地だったそうだ。

片桐の殿さんの馬を繋いだのであろうか。隣町の豊浦では殿さんがやってきたと住民が話していたことを思い出す。

この「火とぼし」の作業。宮司が言うには神さんが通る道しるべだと・・・。



拝殿で語らいながら参拝者を待つ六人衆。

ローソクの火が消えるまでこうしているのだという。

昨夜に湯立神事をされた宵宮もそうしたが本祭の後は片付けなくてはならない。

真っ暗ななかで提灯や太鼓台座を片づけるには電灯が居る。それは蛍光灯だ。

オヒカリに替わって神社を照らす。

同町ではかつて神社から集落の家まで砂を敷いていた。

年末の31日の夕刻にしていたそうだ。

それは「神さんの通る道」で「しょうがっつぁんの通る道」とも呼んでいた。

新池や富雄川の川砂をモッコで担いで運んだ。

それを各家が数珠繋ぎのように砂を敷いていったそうだ。

昭和時代の後半には、奈良市の砂茶屋に西部生涯スポーツセンターができてからは砂が少なくなった。

そのころから自然としなくなっていったという。

(H22.10. 6 EOS40D撮影)

佐田束明神春日神社のヨミヤ祭り

2010年11月02日 07時30分00秒 | 高取町へ
高取町では体育の日辺りが運動会の催しとなっているため秋祭りの日程が大きく変化している。

佐田もご多分に漏れず元々8、9日だった祭りを繰り上げて第一土曜になった。

祭りはヨミヤ祭りとも言って夜に行われる。

漢字で充てれば宵になるのか夜であるのか判らないと話す住民たち。

3時間をかけて前夜に搗いたモチは佐田ふる里館に供えて提灯の出発を待つ実行委員会。

館の正面には天照皇大神の掛け軸を掲げる。

その前に供えた御供モチは2斗3升も搗いた。

御供桶(ごくおけ)の中に入れたモチ。

白い布のようなものをその上に被せた。

それはカサモチと呼ぶ。頂点には御幣を挿す。

それは三つある。

会食がほどなく半ばにさしかかったころ即興で歌が始まった。

佐田の伊勢音頭だ。

手拍子で歌う声が館外まで聞こえてくる。「(アーヨーホイナー)ここの やかたはーはーいなー (ヨイヨイ) めでたーいぃー やあーかぁーたあー (ヨーイセ コーラセ) つるが こがねのよー すを かーけーる (ホンマカヨー ドーコイセ ヨーイヤノ アレワイセー コレワイセー ソリャヨ-イトセー)」が流れた。

伊勢音頭は各地で歌われているが佐田は独特の節回しじゃろと言ってはばからない。

館の外には提灯が置かれている。

提灯立てがあるのだが、雨が降りそうだと軒先に置かれた提灯。

ご神灯が2基。

色彩された提灯が6基。

それはヤカタ(屋形)提灯とも呼ばれている高張提灯。



さらに笹竹に十二個の丸型提灯をぶら下げたものが2基ある。

それはススキ提灯の名がある。

葛城山麓で見られるススキ提灯とは趣が異なる形だが、十二振り提灯の変形とも考えられる。

この丸型提灯は10月末辺りに行われている下宮さんのお祭りでロープに数珠繋ぎして持っていったものだ。

同じ提灯も祭りによって使われ方が替わるのだ。

会場で30分も歌われた伊勢音頭。

その手拍子とともに会館を出た。



提灯にローソクを点してそれぞれの役目に就く。

先頭は委員長。次は御供桶を担ぐ3人の若者。

後続はヤカタ(屋形)提灯を掲げる6人。後ろはススキ提灯の2人だ。

北、中、南垣内から選ばれた人たちだ。

その後ろは村の人が続いて練り歩く。

一旦は集落の北の端まで練り歩く。

そこでUターンして中央に向かう。

そこからは南の端へ行く。

そこから戻って西側を歩く。

集落全域を錬り歩くのだ。

途中、2回ほど休憩したが、その間も伊勢音頭は途切れない。

昨年まではそうではなかった。

佐田には古座と新座の2座があった。

南のトーヤの家から出発して北へ行く。

そして氏神さんに行くコースだった。

ごちそう料理もトーヤが作っていた。

「ゴンザ」と呼ばれる雑煮。

サトイモ、ダイコンにコンニャクの煮染めだったそうだ。

それはタヌキ汁とも呼んでいた。

昔はカシワの肉だったという人も居る。

それがいつしかコンニャクに替わった。

肉をだましてコンニャクに化け、タヌキ汁になったんだろうと話す住民。

営んできた宮座を解体し、1座に統合して祭りを継続していきやすいように改正された初年度のヨミヤ祭り。



向かう先は束明神古墳に鎮座する春日神社だ。

圓常寺脇の参道階段を登り詰めた処が神社。

6個のヤカタ(屋形)提灯を鳥居に上げるとき、突然と掛声がかかった。



「ちくちくどん それっやってくれ」と大合唱が数回繰り返される。

「意味は判らんが、昔からやっているしきたりみたいなもんで、一種のセレモニーじゃ」と言う。

ススキ提灯は境内外れに置かれた。

会長の挨拶を終えたら祝いの手拍子が始まった。

「いおぅてくれ いおぅてしゃん しゃーんしゃん いおぅてしゃん おっしゃんしゃんの しゃーんしゃん」で境内は御供撒きに転じた。



村の人が連なってやってきてのはこれが目当てだったのだ。

手には袋。玉垣の後方から御供モチが撒かれると手入れようと手が伸びる。

真っ暗な境内での御供撒きは直接キャッチするのは難しいが、今宵のお祭りを楽しまれて家へ帰っていった。

明日は祭りの片付け。委員会の役目は会館で反省会をしてヨミヤ祭りを終えた。

(H22.10. 2 EOS40D撮影)

野依白山神社頭家座

2010年11月01日 07時33分58秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
神前で一年先の控頭家を決める1日(ついたち)の頭家座が行われる宇陀市野依(のより)の白山神社。

5月のオンダ祭で勤める大頭(だいとう)と小頭(しょうとう)を決める籤引きだ。

引くというよりも籤を上げる神事である。

大頭はオジイとも呼ばれる田主役、オバア役が小頭だ。

これを野依では男の神さんと女の神さんだと呼んでいる。

籤は氏子の名前を記した紙片でそれは丸められている。

伊勢神宮から授かってきたお札のケンサキを使ってそれを引き上げる。

三方に被せた半紙の上に籤。

ケンサキの角をそっと静かに落としていく。

すると不思議なことに一つがくっついていく。

二つあがるときもあるようだ。

そのときはもう一度し直すという。

次年度の大頭と小頭は既に昨年の頭家座で決まっている。

今回、引かれるのはその一年先を勤める大頭と小頭。

そういう意味から控頭家と呼ばれている。

社務所に集まってきた氏子たち。

宇陀川を境に西と東の垣内に分かれている宮(みや)、学校(がっこう)、川井阪(かわいざか)、かもいけさん、向出(むかいで)、水車(すいしゃ)など7垣内の人たちだ。

氏子総代を入れて30数人が集まった。

もちろん現頭家も含まれる。

現頭家は本社や末社、社務所の本尊など七カ所に神饌を供えておく。

座敷にあがった人たちにはお茶の接待。

籤に入る入らんは自主的に申告される。

服忌で辞退する人も居れば、早く終わりたい人も居る。

それぞれの家庭の事情で抜ける人も居る。

さまざまな事情を考慮されて籤に入れる人を承認された。

会計報告などを済ませると本殿に登っていった。

大頭と小頭は西と東で毎年入れ替わる。

今年は東だと言って大頭を決める籤が引かれた。

名前を呼び出された人はそれを「よろしくお願いします」と承諾された。

次は西の小頭に移った。

ケンサキのヒゲが少ないのかなかなかあがってこない。

引き者は何度も繰り返す。

そのとき一つの籤があがってきた。

2年前の様相を語るオバア役の小頭。

「これこそ神意だ」と身体が震えたそうだ。

決まった小頭の名前を呼び出すが返答がない。

実は神社に参拝できない服忌中だったのだ。



やむなく携帯電話をかけて神占いの結果を伝えた。

それは受話器の向こうで承諾された。

文明利器がなかった時代は伝令が走ったという。

頭家座は直会に移った。

社務所では机が並べられ席が設けられた。



目の前の料理は2品。

一つはカツオのナマブシ。

魚屋から仕入れてきたカツオ。

4等分に分けられたカツオは蒸しカツオ。

それを手頃な大きさに切って皿に盛る。

そこへ擂ったショウガに醤油をかけて食べる。

もう1皿はできあがりの煮染め。

カマボコ、ゴボウ天に昆布巻きだ。

以前は頭家が料理をこしらえていた。

たいそうになったことから質素に簡略化された。

当時の献立はコーヤドーフ、シイタケ、コイモ、ダイコンの煮染め。

味噌仕立ての味だったそうだ。

輪切りにしたスダチを添えた。

ニヌキのタマゴもあったという。

ご飯の「オシヌキ」もあった。

3升炊いたご飯は一割ほどモチ米を加えて塩をパラパラ。

お弁当やというて朝から作っていた。

「オシヌキ」は細長い木の型枠だった。

ご飯を適量入れて上から蓋を押していく。

底から抜くと「オシヌキ」がでてくる。

中央には梅干しをひとつ乗せる。

それをカンナで削ったヒノキの皮で包んだ。

香りが強かったそうだ。

これらは頭家の家でこしらえていたと話す婦人方。

両頭家の婦人と隣りの家の人たちだ。

隣りだけでは人手が足らずに親戚も加わったそうだ。

平成8年に大改正された頭家座などがある野依の儀式。

手間がかかるのは頭家を勤めてはじめて判ると語った大頭役。



直会では現頭家が挨拶をする。

一年間の奉公のお礼を述べた。

が、酒杯に回る頭家は座が終わるまでは接待をしなくてはならない。

現頭家の挨拶に続いて新頭家もこれから一年間お勤めされると挨拶された。

10日先にはオトウ渡しの儀式が控えている。

(H22.10. 1 EOS40D撮影)