春日大明神、事代主命、大国主命、住吉大神、稲荷大明神。
それぞれ五垣内(市場、中村、辻、井戸、出屋敷)の氏神さんを崇める川西町結崎の五組の当家。
二週間ほど前に当主の家でオカリヤ(お仮屋)を祀ったあと当主を先頭に稲霊「ミキイナイ(柳、神酒、稲束、カマス)」と御幣を持って、神々への感謝と人々を慰労するための奉弊神送り神事を行なっている。
おそらくミキイナイの名称は「神酒荷ない」が訛ったものだと考えられる。
宵宮の際に当家から出発するのだが、その際にはカマス(かつては白紙に包んだハモ)を口に銜(くわ)えてお渡りを終えるまでは一切口を開かないという。
そのお渡りの道中では辻ごとに「トォー トォー ワーイ」と発声する。
「トォー トォー」とトモが声をあげれば行列の人たちが「ワーイ」と大声の掛け声をあげるのだ。
それは行列が通過することを町に住む人たちに知らせているのだという。
その分霊を糸井神社の宮司から授かって、当家の家に持って帰って祀る祭礼を御遷座祭と呼んでいる。
かつては10月1日に行われていた。
御遷座祭は新当家の家から出発するのだが、同神社には早朝には着かなければならない。
それぞれの神社に向かう当家のお渡りは宵宮、本祭とも結崎の旧道を行列する。
分霊を賜って戻っていく旧道に砂を撒いていくのが御遷座祭のしきたりのようだ。
それは神さんが歩く道で、お祓い、つまり清めの道であろう。
その意味がある砂の道を撒きながら当家に向かう人たち。
旧当家と次当家があたる。
旧当家に付いていくというから次当家はミナライであるかもしれない。
辻垣内では当家、新当家、次当家はスーツ姿である。
そうして神社に着けば宮司から分霊を遷したヤカタを授かる。
粛々と持ち帰り、組み立てられた箱のようなもののオカリヤに納める。
それをヤカタと呼んでいる辻の垣内。
そのヤカタは前月の23日に組み立てられた。
かつて玄関脇にこしらえたオカリヤはマコモ(真薦)でヤカタ(館)を作っていた。
その薦は早めに採ってきて乾かしておいた。
9月下旬頃にそれで作ったという。
神さんは稲藁で作られたお宮さんであったようだ。
神さんが宿るにふさわしい稲穂であった仮の御殿だった。
現在は竹枠で囲って作ったオカリヤに替っている。
それは木枠になった。
流れ屋根のヤカタに注連縄を張り御簾(みす)を取り付け、その前に神饌を供える祭壇を設えた当家の玄関には御幣がある。
例えば止むを得ず葬式に出席し帰ってきたときに祓い清めるために使う幣。
いわゆる祓い串(幣)ではないだろうか。
その当家の大屋根にも御幣があるという。
根元を東側にして取り付ける。
当家の所在を示す御幣なのであろう。
当家は膳をその日に作って神さんを迎える。
今年は10月22日が宵宮で23日が本祭。
現在は第四土曜、日曜になっているが以前は22日、23日だった。
奇しくも今年は元の祭礼日と一致したのである。
宵宮の23時ころには神社でコメマキをする。
以前は24時を越えた真夜中の午前2時頃だったそうだ。
コメ、蒸し飯、塩、スシナ(塩サバ)、ナスビ、ザクロの御饗膳(ごきょうぜん)を供えるそうだ。
オカリヤを設えているのは玄関口。
そこには竹の箒(ほうき)とサラエが置かれている。
バケツの中にはそれほど多くない砂が入っている。
その砂が分霊遷しましを受けたときに先導する砂道として撒く。
そうこうしているうちに糸井神社に着いた。
市場、中村、辻、井戸、出屋敷の五垣内はそれぞれに距離があり、近いところからおよそ1kmも離れている垣内もある。
辻垣内の場合は神社から遠く離れている。
五垣内が集まる時間を見計らって早めに出発された。
およそ10分で辿りついた。
神社には既に数組の垣内の当家組が到着していた。
その糸井神社の鳥居傍にある大きな石造りの燈籠には「萬延元年申年十二月吉日建之 願大庄屋云々 組丁十五ケ村庄屋中」と刻まれている。
周囲を見れば「市場組 市場、中村、辻村、井戸村、吐田村、西唐院村、東唐院村、穴闇村、長楽村、屏風村、三川村、伴堂村、南伴堂村、今里村、なにがし」とある。
萬延元年といえば1860年。
幕末の大きな展開であった桜田門外の変が起きたときだ。
寺田屋事件を経て薩英の戦い、さらに池田屋事件に蛤御門の変。
数年後には大政奉還、王政復古の大号令・・・・そして明治維新となる激動の時代だ。
糸井神社に記された年号は百数十年。
現代に至るまで何を語り伝えてきたのであろうか。
話を戻そう。
五組の旧当家は白い手袋をはめた白マスク姿。
遷しましを受けた神さんを受け取る姿である。
拝殿に登れば中央に御遷座されたヤカタが五つ並べられている。
予め宮司によって遷しましをされた神さんは白い布が被せられている。
祓え、祝詞奏上を経て一番目の旧当家が前にでて神さんを受け取る。
この年の遷座受けの順は中村、井戸、市場、出屋敷、辻であった。
ドン、ドン、ドンと太鼓を打ち鳴らされて出発した。
当家に戻っていく行列はホウキ、サラエ、砂撒き、分霊を抱える旧当家の順だ。
前列の3人はトモ(供)と呼ばれる人たちで新当家とその親戚筋だそうだ。
ホウキやサラエで道を掃いてバケツに入った砂を撒いていく。
神さんが通る道を祓い清める作法である。
境内道から鳥居を潜って戻る道は旧道。
先ほど来た同じ道は口も開けることなく黙々と行列する。
砂は家に辿りつくまで少しずつ撒いていく。
後方には新当家の息子もついていく。
10分後には新当家に着いた。
早速、受け取った神さんのヤカタは御簾を上げてオカリヤ内に遷す。
家族、親戚筋皆がオカリヤに向かって拝礼をする。
神さんを遷したオカリヤは祭りまで毎晩電器ローソクを灯す。
お神酒、洗い米、魚、木の実などを供え稲の豊作を祈る。
こうして祭りの日までの毎日は分霊を崇める当人は神聖視され俗人の生活から離れてひたすら神さんに仕える神人の身となるのだ。
なお、現在は当家と表記されているが、資料によれば頭屋である。頭屋家の主人を頭人(トーニン)と呼んでいたようだ。
(H23.10. 9 EOS40D撮影)
それぞれ五垣内(市場、中村、辻、井戸、出屋敷)の氏神さんを崇める川西町結崎の五組の当家。
二週間ほど前に当主の家でオカリヤ(お仮屋)を祀ったあと当主を先頭に稲霊「ミキイナイ(柳、神酒、稲束、カマス)」と御幣を持って、神々への感謝と人々を慰労するための奉弊神送り神事を行なっている。
おそらくミキイナイの名称は「神酒荷ない」が訛ったものだと考えられる。
宵宮の際に当家から出発するのだが、その際にはカマス(かつては白紙に包んだハモ)を口に銜(くわ)えてお渡りを終えるまでは一切口を開かないという。
そのお渡りの道中では辻ごとに「トォー トォー ワーイ」と発声する。
「トォー トォー」とトモが声をあげれば行列の人たちが「ワーイ」と大声の掛け声をあげるのだ。
それは行列が通過することを町に住む人たちに知らせているのだという。
その分霊を糸井神社の宮司から授かって、当家の家に持って帰って祀る祭礼を御遷座祭と呼んでいる。
かつては10月1日に行われていた。
御遷座祭は新当家の家から出発するのだが、同神社には早朝には着かなければならない。
それぞれの神社に向かう当家のお渡りは宵宮、本祭とも結崎の旧道を行列する。
分霊を賜って戻っていく旧道に砂を撒いていくのが御遷座祭のしきたりのようだ。
それは神さんが歩く道で、お祓い、つまり清めの道であろう。
その意味がある砂の道を撒きながら当家に向かう人たち。
旧当家と次当家があたる。
旧当家に付いていくというから次当家はミナライであるかもしれない。
辻垣内では当家、新当家、次当家はスーツ姿である。
そうして神社に着けば宮司から分霊を遷したヤカタを授かる。
粛々と持ち帰り、組み立てられた箱のようなもののオカリヤに納める。
それをヤカタと呼んでいる辻の垣内。
そのヤカタは前月の23日に組み立てられた。
かつて玄関脇にこしらえたオカリヤはマコモ(真薦)でヤカタ(館)を作っていた。
その薦は早めに採ってきて乾かしておいた。
9月下旬頃にそれで作ったという。
神さんは稲藁で作られたお宮さんであったようだ。
神さんが宿るにふさわしい稲穂であった仮の御殿だった。
現在は竹枠で囲って作ったオカリヤに替っている。
それは木枠になった。
流れ屋根のヤカタに注連縄を張り御簾(みす)を取り付け、その前に神饌を供える祭壇を設えた当家の玄関には御幣がある。
例えば止むを得ず葬式に出席し帰ってきたときに祓い清めるために使う幣。
いわゆる祓い串(幣)ではないだろうか。
その当家の大屋根にも御幣があるという。
根元を東側にして取り付ける。
当家の所在を示す御幣なのであろう。
当家は膳をその日に作って神さんを迎える。
今年は10月22日が宵宮で23日が本祭。
現在は第四土曜、日曜になっているが以前は22日、23日だった。
奇しくも今年は元の祭礼日と一致したのである。
宵宮の23時ころには神社でコメマキをする。
以前は24時を越えた真夜中の午前2時頃だったそうだ。
コメ、蒸し飯、塩、スシナ(塩サバ)、ナスビ、ザクロの御饗膳(ごきょうぜん)を供えるそうだ。
オカリヤを設えているのは玄関口。
そこには竹の箒(ほうき)とサラエが置かれている。
バケツの中にはそれほど多くない砂が入っている。
その砂が分霊遷しましを受けたときに先導する砂道として撒く。
そうこうしているうちに糸井神社に着いた。
市場、中村、辻、井戸、出屋敷の五垣内はそれぞれに距離があり、近いところからおよそ1kmも離れている垣内もある。
辻垣内の場合は神社から遠く離れている。
五垣内が集まる時間を見計らって早めに出発された。
およそ10分で辿りついた。
神社には既に数組の垣内の当家組が到着していた。
その糸井神社の鳥居傍にある大きな石造りの燈籠には「萬延元年申年十二月吉日建之 願大庄屋云々 組丁十五ケ村庄屋中」と刻まれている。
周囲を見れば「市場組 市場、中村、辻村、井戸村、吐田村、西唐院村、東唐院村、穴闇村、長楽村、屏風村、三川村、伴堂村、南伴堂村、今里村、なにがし」とある。
萬延元年といえば1860年。
幕末の大きな展開であった桜田門外の変が起きたときだ。
寺田屋事件を経て薩英の戦い、さらに池田屋事件に蛤御門の変。
数年後には大政奉還、王政復古の大号令・・・・そして明治維新となる激動の時代だ。
糸井神社に記された年号は百数十年。
現代に至るまで何を語り伝えてきたのであろうか。
話を戻そう。
五組の旧当家は白い手袋をはめた白マスク姿。
遷しましを受けた神さんを受け取る姿である。
拝殿に登れば中央に御遷座されたヤカタが五つ並べられている。
予め宮司によって遷しましをされた神さんは白い布が被せられている。
祓え、祝詞奏上を経て一番目の旧当家が前にでて神さんを受け取る。
この年の遷座受けの順は中村、井戸、市場、出屋敷、辻であった。
ドン、ドン、ドンと太鼓を打ち鳴らされて出発した。
当家に戻っていく行列はホウキ、サラエ、砂撒き、分霊を抱える旧当家の順だ。
前列の3人はトモ(供)と呼ばれる人たちで新当家とその親戚筋だそうだ。
ホウキやサラエで道を掃いてバケツに入った砂を撒いていく。
神さんが通る道を祓い清める作法である。
境内道から鳥居を潜って戻る道は旧道。
先ほど来た同じ道は口も開けることなく黙々と行列する。
砂は家に辿りつくまで少しずつ撒いていく。
後方には新当家の息子もついていく。
10分後には新当家に着いた。
早速、受け取った神さんのヤカタは御簾を上げてオカリヤ内に遷す。
家族、親戚筋皆がオカリヤに向かって拝礼をする。
神さんを遷したオカリヤは祭りまで毎晩電器ローソクを灯す。
お神酒、洗い米、魚、木の実などを供え稲の豊作を祈る。
こうして祭りの日までの毎日は分霊を崇める当人は神聖視され俗人の生活から離れてひたすら神さんに仕える神人の身となるのだ。
なお、現在は当家と表記されているが、資料によれば頭屋である。頭屋家の主人を頭人(トーニン)と呼んでいたようだ。
(H23.10. 9 EOS40D撮影)