マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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倉橋のむさいな(回想)

2015年03月14日 08時40分11秒 | 桜井市へ
昭和32年に発刊された『桜井町史 続 民俗編』に「倉橋のむさいな」行事のことが書かれてあった。

旧暦の7月14日に村の11、12歳の男の子や女の子たちが太鼓を打ちながら「むさいな」と囃して金福寺から出屋敷にある行者堂まで巡っていたという記事である。

今でもその行事があるのか、ないのか・・・話しはとにかく聞いてみなければと思って訪れた8月7日。

平成18年に宮講のマツリコ(祭り講)を勤めたお家を訪ねた。

この日は七日盆。

ご主人のNさんはラントバサンと呼ぶ墓地の清掃に出かけていたので不在。

代わりに奥さんが話してくれた。

倉橋にはもう一つの墓があって、そこはカザリバカと呼んでいる。

カザリバカは仏さんを埋めていないからカラバカ。

お骨はありませんと云う。

別にノバカと呼ぶ埋葬墓もあると話す。

ラントバサンはかつて山の上にあったが、行くのも困難な山の上。

仕方なく下に降ろしたと云う。

大字倉橋は浄土宗もあれば平野大念仏宗派もあるが、宗派とは関係なく、13日はオショウライサン迎えをしている。

辻向こうの川に出かけて麦藁で作った松明に火を点けていたが38年前にやめた。

今では線香に火を点けて家に戻るようにした。

その行為を見た子供は「ケムリのタクシーや」と云ったそうだ。

なかなか言い得て妙な表現に納得する。

結局のところ奥さんは「むさいな」のことはご存じでなく「80歳以上の長老なら覚えているかも・・」と云われて平成19年にマツリコを勤めた家に向かった。

現役の井戸があるH家では前庭に新聞紙を広げた箕にカンピョウを干していた。

後日の14日に伺った奥さんの話しによれば今年最後のカンピョウ干しだったそうだ。

皮を剥いたカンピョウは布団干しのような格好で干していた。

藁を撒きつけた竿で干していたと云うのである。

カンピョウの皮剥きは小刀のような小さな道具だと話す。

おそらく同市の大字山田で拝見した道具と同じであろう。

それはともかく数年ぶりにお会いしたHさんは83歳。

大字倉橋は60戸の集落であるが、マツリコを勤める講中家は5軒。

子供のころには12軒もあったようだ。

この日に訪れたのは「むさいな」行事のことである。

Hさんが云うには戦前辺りに途絶えたようだ。

当時は8月14日の新暦にしていた。

金福寺にある太鼓をオーコで担いでいく。

子供は小学生で、上は今の中学二年生にあたる高等科の子供までだった。

子供の大将らは太鼓担ぎ、横から太鼓打ちの3人構成だった。

「むっさいな むっさいな」と囃しながら太鼓を打っていた。

蒸しあがって喜ぶ表現が「むっさいな」と云う。

Hさんが小学6年生だった戦時中。

男の子の仕事だったので今でもなんとなく体験した記憶があると云う。

「町史」に書かれた「むさいな」行事は、村中巡って行者堂があったとされる出屋敷まで行ったと書かれていた。

だが、体験によればそこまで行かなかったようだ。

稀に小さな子供も太鼓担ぎした「むさいな」行事。

そのころ小さかったHさんは太鼓が打たれる都度、太鼓担ぎが振られたと思いだされた。

大字倉橋にはイノコもあったと云う。

イノコ行事は12月5日だった。

藁束を濡らして各家の門口で叩いていた経験もあると云う。

下(しも)との境界線に出かけてお互いの子供らは石の投げ合いをしていた。

宮さんに行って棒で叩きあい。

それで喧嘩もしていたそうだが、なんで喧嘩なのか思い出せない。

回想はそこまでだが、話しの様相から推定した。

私は未だ拝見していないが、なんとなく吉野町千股で行われている「ささいわ」行事のように悪態をつくような感じに思えたのだ。

石投げは民俗行事の「印地撃ち」と呼ばれる石合戦だ。

二手に分かれた子供が競い合う行事である。

悪態言葉も発したようだが、県内事例では見当たらない。

その日、帰宅してからHさんから電話があった。

「現在はしてないが、記憶がある長老らが思い出話の場を設けるから来てや」と云う申し出に誘われて、この日に再訪問したのである。

思い出話はどこまで発展するか判らないが、なんとなく回想の場になりそうな気配である。

こうして14日に金福寺に集まった長老たちは上から89歳、83歳、81歳の3人。

「もう二人が来るはずだった」と伝えられる生憎の欠席で3人になった。



回想の場が始まる前に拝見した太鼓がある。

かつて宮さんの行事に使われていた大鼓台である。

「むさいな」行事にも打っていた太鼓。

墨書文字は書いていなかったので時代・製作者は判らなかったが、昭和15年、16年のころは太鼓をドン、ドンと打っていたそうだ。

打っていたのは高等科1年・2年の高学年。

年齢は11、12歳になるようだ。

太鼓打ちに着いていった子供は小学1年生以上。

学年によって役割を担っていた昭和30年~40年代の子供は50人にもなると云う。

昭和45年から50年代のころにしなくなった「むさいな」行事。

太鼓打ちはするものの、太鼓担ぎはしなくなっていた。

担ぐことをやめ、借りてきたリヤカーに乗せて運んでいた。

リヤカーに載せた太鼓を横から打っていたそうだ。

力仕事はそのころから変化がみられるが、着いていく子供の姿は同じ様子だったと話す。

金福寺は存在するものの無住寺。

普段は扉も閉めているが集会所として利用している。

現在の出入口は北側に移ったが本堂扉は南に位置する崇峻天皇陵の向かい側にある。

出入りすることもなく扉は閉めたと云う。

89歳のⅠさんが回想した思い出。

「村の東の端まで巡って休憩した。その場で担いできたオーコを外して太鼓を立てた。子供が立てた太鼓の皮の上に扇(扇子とも)を立てた。バチで太鼓を打てば皮が弾んで扇があたり高く飛んだ。飛んだ高さを競い合った」と話す。

83歳のHさんや81歳のMさんは経験がないと云う太鼓の扇遊び。

89歳のⅠさんが続けて話す思い出話し。

「子供のときは浴衣を着てぞろぞろとついていった。子供の半分以上が浴衣姿だった。8月14日やった。10時ころに金福寺前を出発し、午前中いっぱいかけて村を巡っていた」と云う。

「むっさいな むっさいな」と囃しながら太鼓を打っていたというのは3人とも共通している。

3人は「モチゴメをコシキで蒸しあげるから、むっさいなと云うのだ」と話す。

ドサクサモチと呼んでいたモチは、盆のときにみんなで搗いていたと話したのは81歳のⅠさんだ。

「モチゴメばかりで、盆は花立てしなあかんし、とにかく忙しくザワザワしている間に搗いていたからドサクサモチと呼ぶのだ」と云う。

このころはコムギモチだったというのは83歳のHさん。

コムギとモチゴメで搗いたモチは「サナブリモチ」と呼んでいたそうだ。

「サナブリモチ」は小麦が入っているので香ばしかったと味まで覚えておられる。

なかなか固くならなかった「サナブリモチ」はキナコ(砂糖も入れた)を塗して食べていた。

搗きあがった「サナブリモチ」は丸いコジュウタ(麹蓋)に入れて、熱いうちに手で千切って丸めて食べていたそうだ。

89歳のⅠさんは父親から聞いた話しだと云って口を開いた。

「朝はオカイサンやった。昼に弘法大師さんがきやはって、オニギリをいただきたいといわはった。ご飯は炊いていなかったから待つ時間もなく、次の家に行ったから申しわけないと云って、それでむっさいなと云うのだ」と・・・。

談山には三十六坊もあった多武峯妙楽寺(明治2年神仏分離令により寺僧は還俗・廃仏毀釈によって廃寺)。

「寺僧が布教にこういう伝えを残していったのやと話したのは81歳のMさんだ。

談山神社下にある八井内(やいない)の村には弘法大師が見つけたとする八つの井戸がある。

それで村の名が八つの井戸があるということで八井内。

「伝説やから八つもないが・・・」と続けて話す。

Mさんが云うには、「むさったら握るぞ」というのはオハギかオニギリメシのようだと話す。

出屋敷にあったとされる行者堂は大正時代に寺に返したから今はない。

お堂はないが、その場は「ギョウジャサカ」と呼ばれる急坂。

かつてはその下に集落があったと云う。

その下が「タラタラザカ」と呼ぶ坂道。

村を通り抜けて鹿路に向かう県道である。

昭和16年に里道を広げた新道。大きい車が通れるようになったのは拡幅されてからである。

かつてあった出屋敷の行者堂まで行っていたと話すのは81歳のMさん。

「金福寺の南側の玄関前から寺川沿いに下って、今井谷に向かう道に出る。そこを右に折れて桜井-吉野間の県道に出る。そこから県道沿いに行った。北音羽(下居の東側)の境界線まで行って戻ってきた。戻りは県道から外れた村の里道。みんなが声をあげて囃していた。ドン、ドンと太鼓の音が聞こえてくれば見る村の人もおったが、特に親は心配そうに見ていた」と話す。

境界地に「キノウ」と呼ぶ家がある。

名字は「木野」だ。

休憩する子供たちに冷たい井戸水を汲んで砂糖水を飲ませてくれたのはおばあちゃんだった。

ふるまいの砂糖水はとても美味しかったと思い出された到達点。

やって来た県道を戻っていく。

金福寺横の西の道に入って戻ったと云う。

往復で1kmぐらい、1時間か1時間半もかかった「むさいな」行程。

着いて解散するころは丁度昼どきだったようだ。

上級生は打っていた太鼓はお寺に戻して今と同じように吊るしていた。

昔から寺廊下の隅であったと云う。

この日に欠席された60歳代の男性は「口悪いやつがいて、握ったらくさる」と囃していたとHさんが伝えられた。

80歳代の人たちと60歳代の人たちの囃し方の違い。

20年間に変化したと思われる「むさいな」囃しである。

「“むっさいな”は寺僧の教え。僧を追い掛けて着いていったのでは・・・」と話したのは81歳のMさん。

89歳のⅠさんは「わしらのときは青年団がついて援助していた」と云うのである。

「青年団のような年代は村の仕事に就いていた。山や野の下草刈りに従事していた。仕事を終えて戻ったころは終わったばかりで応援することもなかった」と話したのは81歳のMさん。

年齢差によって「むっさいな」の在り方にずいぶんと変化が見られるのであるが、「むっさいな」は寺僧の教えを村に伝え継承していくための在り方であったろうと思った。

「そういう人が来やはったら、施しにニギリメシを喰わせたのであろう」と3人揃って云う。

「喜捨(きしゃ)」という考え方に深い意味があるとも云う。

「喜捨」とは、寄付はしたいが貧しい、それでも惜しむことなく浄財は喜んで寄付するという意味だと平成25年3月に訪れた天理市三昧田の地蔵講が話していたことを思い出した。

この項、長文になるが、写真ではなく長老らの記憶の記録だ。

我慢しておつきあい願いたい。

倉橋辺り南一帯にある高い山は倉橋山、一角が「語山」だと云う。

倉橋東の下居は下居ガ原と呼ばれていた。

西は武士社家の阿部一族であるが、農民であった倉橋一族が住む地は倉橋之庄と呼んでいたとも・・・。

倉橋のマツリには太鼓台があるが、明治時代に売ったと先代らから聞いているそうだ。

打っていた太鼓は今でも金福寺に吊るしているが、寺行事には使っておらず、「むさいな」行事だけに使っていたと云う。



金福寺本堂には歴年の「八講祭」に出仕されたときの記念写真が掲げられていた。

昭和53年3月11日、昭和61年3月9日、平成6年3月13日、平成14年3月10日、平成22年3月13日であるが、昭和61年までは金福寺。

長老らの若かりし顔が写っていた。

平成6年移降は談山神社に移っていた。

8年ごとに廻りがある横柿・今井谷・生田・浅古・下・倉橋・下居組(下居・針道・鹿路)・音羽組(多武峰・八井内・飯塚盛)の順に、今尚村廻りで行われている「八講祭」である。

音羽組は大正9年ころまでは北音羽。

辞退されて多武峰・八井内・飯塚盛の組になったそうだが、何故に百市が入っていないのか判らないと云う。

今年が今井谷の廻りであった。

倉橋は4年後の平成30年。

本日集まっていただいた長老らは「元気でおるか判らんな」と話していた。

8年前に今井谷で拝見した特殊な盛りの御膳は、「私が教えたものだと話す81歳のMさん。

今年はその形式で継ぐことはなかったのだ。

今井谷の祭典で奏でられた謡曲はカセットテープ。

たしか8年前は謡曲の披露もなかったと私の記憶。

ところが倉橋は平成22年まで生唄だったのだ。

いつの時代か判らないが金春流の弟子に教わったと云う。

楽人が奏でるなかで謡って謡曲。

今井谷も金春流であるが、横柿は金剛流。

謡える人がいなくなってカセットテープに移ったようだ。

八講祭に掲げる藤原鎌足父子のご神影と寒山拾得の掛軸の脇立軸は村で一年間も保管して守っていた。

掲げるお軸の長さがかからないように金福寺は天井を高くしていると云う。

3月の八講祭の他、7月には虫干しをしていたと云う。

一日干して下げるお軸はあくる年に下居が迎えにくる。

虫干しの日は夕食に酒を飲んで会食をする。

お軸の番をして夜が明ける朝まで籠っていたと話す。

昭和16年に81歳のMさんが多武峯村史より書き写した「むさいな」史料によれば、「倉橋大字特有の行事として、旧七月十四日午前十一時頃、十一・十二歳の童男童女相集い大きな太鼓一箇を担ぎ、之を打ち鳴らしつつ先頭を歩き群衆を集め乍ら土童子は後ろより「むさいな・むさいな」「むさったら握るぞ」と囃したてて、後を行く。金福寺より出て、元の役の行者堂まで、昭和に入り村の上まで、倉橋村の東の端まで行きて帰る。此の行事に左記の様な伝説があり、「弘法大師の週国巡礼の節当村に来たり、盂蘭盆の休日にて、どの家も仏供養に忙しくとある」。

家の前に立ちて喜捨を乞はれしに家人造花を挿すもの、庭掃除をする者、飯を蒸すもの等皆忙しく且つ蒸し上らざるの理由で之を断る。僧は「尊き世の法師に一食一握の飯を与えざる、この村には終生迄蒸の上らぬ様にしてやろうぞ」と言残して去る。之を聞き傳へた。近隣の人は後日の悪報を恐れて急に其の後を「むさったらにぎろ、むさったらにぎろ」と連呼して追った。この伝説が村の行事として残れりと傳う。亦案ずるに伝説は其の儘として、この行事は旧十四日此の地方の習慣にて、餅を搗き仏に供する例なれば、この糯米を蒸し上るにつき、此の囃言葉が出て其れが童子に戯れ事となりしものならんかと思われる」であった。

「昭和五十年代までつづく」と締められていたMさんの書き写しである。

昭和32年に発刊された『桜井町史 続 民俗編』に「倉橋のむさいな」は、この多武峯村史に書かれた記事を短縮して掲載したものだとMさんが云う。

回想を終えて記念に撮ってほしいと願われた記念写真を添えておく。



調べてみれば、仏道修行の一つに財がなくとも七つの施しをする「無財(むざい)の七施」があった。

一般的なお布施は「財施」、「法施」、「無畏(むい)施」の三つ。

財施は「貪る心とか、欲しいと思う心、恩に着せる心を離れてお金や衣食などを施行する。

「法施」は財物ではなく、教えを説いて聞かせ、法話を通じて聞く人の心に安らぎを与え、精神面につくす。

「無畏施」は恐怖や不安、脅え、慄き(おののき)を取り除いて安心させる、ということである。

「七施」とは、「慈眼施」、「和顔(わがん)悦色施」、「愛語施」、「捨身施」、「心慮施」、「壮座(そうざ)施」、「房舎施」の七つのお布施。

それぞれ、相手を思いやる慈しみの優しい目つき、常に和やかな笑顔、もの優しい言葉遣いや挨拶、我が身の身体で奉仕、自分以外の人に心を配り、どうぞと座を譲り、思いやりの心をもって接することだそうだ。

『桜井町史 続 民俗編』には「この行事がいつ頃より始められているか、また何の為に行われていて今に残っているか知る事が出来ない。大字の古老に聞いても色々な説があるがいずれも明白でない」と書いてあった。

多武峯村史に書かれてあった「喜捨」の考えもあるが、もしかとして、「むっさい」は「無財」で、「な」は「七施」の教えではと思ったのである。

(H26. 8.14 EOS40D撮影)


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