毎月の営みはお薬師さん、観音さんであるが、彼岸のときには涅槃さんをしている天理市南六条南方の婦人たち。
涅槃さんの場は氏神さんが鎮座する杵築神社境内にある釈迦堂である。
薬師堂、観音堂に釈迦堂。
三つのお堂がある南六条町は南方だ。
南六条は北に北方がある。
かつての呼び名が今でも通用する元柳生に対して南方は元六条と呼ぶ60戸の旧村である。
釈迦堂の内部は薬師堂、観音堂よりも広いが、本尊を納めているお厨子がとても大きい。
安置されている本尊の大きさに合わせて作られたのであろう。
安置されている本尊釈迦如来は天文十三年(1544)七月の建立。
施主は金蔵院堯範で製作したのは宿院番匠源次(源治とも)の名をもつ仏師が製作したと伝わる。
天文期の頃は六条堂の名であった釈迦堂。
江戸時代までは現在の釈迦堂辺りに杵築神社が位置していた。
釈迦堂は南側にあった。
明治維新の際に杵築神社を現在地に遷ったことから元社地に釈迦堂を移動したとされる。
釈迦堂の土台にある石がある。
それには「大正十年九月架設 施主大字六条 □□□□ 世話人南六条□□□□の名が読み取れる。
本尊を安置するお厨子に掲げた大きな涅槃さんの掛軸。
普段は融通念仏宗の西福寺で預かってもらっている。
春と秋の彼岸のときだけはこうして釈迦堂に奉られる。
春は3月15日と決まっているが、秋の彼岸は彼岸入りから都合の良い日。
この日に集まった婦人は長寿会の人たち。
当番の人が毎月の営み日を決める。
南六条南方は60戸を1班から4班に分けている。
それぞれの班が回りの当番。
この日も花を飾ってお念仏を唱える。
いつものように導師が前に座ってお念仏は薬師さんと同じように念仏回向をして三巻の般若心経を唱える。
叩いた鉦には刻印が見られない。
念仏を終えて話された一人の婦人。
自宅にも同じような鉦があると云う。
家で唱えるお念仏に打つ鉦は緒の紐が付いているそうだ。
足が三本ある鉦。
形状から推察するに六斎鉦のように思えた。
おじいさんが信心してはったのは大和郡山市の矢田山金剛山寺。
通称は矢田寺と呼んでいる。
同寺でご用をしていたそうだ。
その関係であるか判らないが戒名は九文字。
珍しいと云う。
年季のときには矢田寺4坊の一つである大門坊の住職が来られるそうだ。
春の涅槃さんを終えてしばらくの間の釈迦堂は歓談の場。
そのころにやってきた神社のトーヤさん。
本殿など4社に(昔は燈籠にも)、薬師堂、観音堂に奉っていた御供のモチを下げた。
トーヤ(頭屋)は一老から四老。
毎月の1日と15日に御膳を上げる。
一老から四老の当番月は決まっている。
一老は11月、3月、7月で、二老は12月、4月、8月だ。
三老は1月、5月、9月で、四老は2月、6月、10月とそれぞれ3カ月に一度は担う御膳上げである。
トーヤの仕事は御膳上げだけでなく神社の清掃もある。
季節によっては木の葉が舞い散る月にあたればたいへんやと云うトーヤは11月の行事で次のトーヤに替る。
お参りに来られていた前年勤めの二老はそう話す。
5月5日の端午の節句ではチマキ(チンマキとも呼ぶ)の御供。
7月は晩にソーメンを食べる。
かつての夏祭りには大神楽が村に来ていた。
境内で舞う大神楽であった。
若い娘が芸を演じる際には玉を投げたという。
それはオヒネリであったかも知れない昔のこと。
神社に飾る正月の注連縄がある。
平成22年の大晦日の朝に立ち寄った杵築神社。
拝殿奥に鎮座する本殿前の鳥居に掲げていた注連縄は簾型だった。
クシガキ、ダイダイにウラジロを添えていた注連縄を「ジャジャウマ」と呼ぶ前二老。
蛇が交互に巻きつく姿をジャジャウマと思えばそうではなく。
ジャワラ(蛇藁)が訛ったものだと話す。
年が明けた正月過ぎ。
旧頭屋の八人衆が営む御田祭がある。
かつては正月7日であったが、今は近い日曜日。
7日か8日辺りにしていたようだと話す。
旧頭屋家で予め刷った牛玉宝印書。
版木で刷るそうだ。
そのお札はヤナギの木に括りつけてモチ御供とともに供える。
(H25. 3.15 EOS40D撮影)
涅槃さんの場は氏神さんが鎮座する杵築神社境内にある釈迦堂である。
薬師堂、観音堂に釈迦堂。
三つのお堂がある南六条町は南方だ。
南六条は北に北方がある。
かつての呼び名が今でも通用する元柳生に対して南方は元六条と呼ぶ60戸の旧村である。
釈迦堂の内部は薬師堂、観音堂よりも広いが、本尊を納めているお厨子がとても大きい。
安置されている本尊の大きさに合わせて作られたのであろう。
安置されている本尊釈迦如来は天文十三年(1544)七月の建立。
施主は金蔵院堯範で製作したのは宿院番匠源次(源治とも)の名をもつ仏師が製作したと伝わる。
天文期の頃は六条堂の名であった釈迦堂。
江戸時代までは現在の釈迦堂辺りに杵築神社が位置していた。
釈迦堂は南側にあった。
明治維新の際に杵築神社を現在地に遷ったことから元社地に釈迦堂を移動したとされる。
釈迦堂の土台にある石がある。
それには「大正十年九月架設 施主大字六条 □□□□ 世話人南六条□□□□の名が読み取れる。
本尊を安置するお厨子に掲げた大きな涅槃さんの掛軸。
普段は融通念仏宗の西福寺で預かってもらっている。
春と秋の彼岸のときだけはこうして釈迦堂に奉られる。
春は3月15日と決まっているが、秋の彼岸は彼岸入りから都合の良い日。
この日に集まった婦人は長寿会の人たち。
当番の人が毎月の営み日を決める。
南六条南方は60戸を1班から4班に分けている。
それぞれの班が回りの当番。
この日も花を飾ってお念仏を唱える。
いつものように導師が前に座ってお念仏は薬師さんと同じように念仏回向をして三巻の般若心経を唱える。
叩いた鉦には刻印が見られない。
念仏を終えて話された一人の婦人。
自宅にも同じような鉦があると云う。
家で唱えるお念仏に打つ鉦は緒の紐が付いているそうだ。
足が三本ある鉦。
形状から推察するに六斎鉦のように思えた。
おじいさんが信心してはったのは大和郡山市の矢田山金剛山寺。
通称は矢田寺と呼んでいる。
同寺でご用をしていたそうだ。
その関係であるか判らないが戒名は九文字。
珍しいと云う。
年季のときには矢田寺4坊の一つである大門坊の住職が来られるそうだ。
春の涅槃さんを終えてしばらくの間の釈迦堂は歓談の場。
そのころにやってきた神社のトーヤさん。
本殿など4社に(昔は燈籠にも)、薬師堂、観音堂に奉っていた御供のモチを下げた。
トーヤ(頭屋)は一老から四老。
毎月の1日と15日に御膳を上げる。
一老から四老の当番月は決まっている。
一老は11月、3月、7月で、二老は12月、4月、8月だ。
三老は1月、5月、9月で、四老は2月、6月、10月とそれぞれ3カ月に一度は担う御膳上げである。
トーヤの仕事は御膳上げだけでなく神社の清掃もある。
季節によっては木の葉が舞い散る月にあたればたいへんやと云うトーヤは11月の行事で次のトーヤに替る。
お参りに来られていた前年勤めの二老はそう話す。
5月5日の端午の節句ではチマキ(チンマキとも呼ぶ)の御供。
7月は晩にソーメンを食べる。
かつての夏祭りには大神楽が村に来ていた。
境内で舞う大神楽であった。
若い娘が芸を演じる際には玉を投げたという。
それはオヒネリであったかも知れない昔のこと。
神社に飾る正月の注連縄がある。
平成22年の大晦日の朝に立ち寄った杵築神社。
拝殿奥に鎮座する本殿前の鳥居に掲げていた注連縄は簾型だった。
クシガキ、ダイダイにウラジロを添えていた注連縄を「ジャジャウマ」と呼ぶ前二老。
蛇が交互に巻きつく姿をジャジャウマと思えばそうではなく。
ジャワラ(蛇藁)が訛ったものだと話す。
年が明けた正月過ぎ。
旧頭屋の八人衆が営む御田祭がある。
かつては正月7日であったが、今は近い日曜日。
7日か8日辺りにしていたようだと話す。
旧頭屋家で予め刷った牛玉宝印書。
版木で刷るそうだ。
そのお札はヤナギの木に括りつけてモチ御供とともに供える。
(H25. 3.15 EOS40D撮影)