マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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櫟枝町の当屋祭

2015年04月15日 07時29分36秒 | 大和郡山市へ
櫟枝町は大和郡山市。

櫟本町は天理市。

大昔、櫟本の西方に天狗が住むという櫟の大木があった。

人身御供を出せといって村人を苦しませた天狗は覚弘坊という坊さんがメガネと交換して追いだした。

天狗は米谷に去ったのを見届けて櫟の木を伐り倒した。

横倒しになった西村を横田。

枝がかかった地は櫟枝。

櫟の根があった地は櫟本と呼ぶようになったと天理市史・地名伝説に書いてあるそうだ。

横田は「横たわる」からその名がついたとも言えるが伝説は後年において創作されたと考えられる。

櫟の村は櫟本が「本村」で、櫟枝は「本村」に対する「枝村」と推論するが果たして真実は・・・・。

そんな話をする櫟枝町の住民。

この日は当屋のマツリで氏子が集まってくる。

かつて一老・・・・四老と呼ばれていた四人の手伝いさんは御供モチを搗いていた。

半紙を敷いて盛った御供はニンジン、シイタケ、コーヤドーフにリンゴやバナナの果物もある。

刈りたての稲穂もあるが、タイは出発前に置くと云う。

大和郡山市櫟枝町に鎮座する八幡宮の年中行事をお聞きしたことがある。

11月は新穀祭、9月16日も祭事があるらしいが、日程的には八朔であるかも知れないと思っていた。

10月17日は村のマツリであったが、近年においては集まりやすい体育の日に移ったようだと云う。

神社境内の北側にはお寺がある。

元は真言宗であったが、宝暦年間に融通念仏宗に改宗されたようだ。

苗代に立てていたゴーサンのお札はかつて真言僧侶がいた名残を示すのではないだろうか。

無住のお寺は尼講の人たちが掃除をして奇麗にしている。

それらのことを知ったのは平成25年5月25日であった。

畑から戻ってくる二人の婦人に聞いた答えがそうであった。

ゴーサンドーヤは2月の後半。

ヘッツイさんの煤を集めて墨にした。

話しによればどうやら「寶印」の文字らしい。

お札の周りに一本の墨スジがある。

版木の証しであろう。

ゴーサンドーヤが作るお札はヤナギの木に巻くように付ける。

ゴーサンドーヤでたばったお札は家で保管するというのだ。

八幡宮の祭りの日にゴーサンドーヤが作るお札はヤナギの木に巻くようにつけると散歩中の婦人が話していたのは今年の5月4日だった。

翌月の6月9日に出合ったYさんが言うには八幡宮の年中行事は4回。

この年、トーヤをてったい(手伝い)する4人のうちの一人。

2回目の行事にお札を祈祷・お祓いすると話していた。

3人が話す行事日程は一定でなくばらけている。

2月13日だという婦人は9月23日に近い日曜日にゴーサンの版木で刷ると話していた。

そのお札はゴーサンドーヤの日に祈祷すると云う「座」のような感じで話していた。

かつて9月15日であった例祭宵宮は不定日となり平成25年は9月7日の土曜だったと話す。

その年は、当屋のお渡りがあって座衆を饗応していたと云う。

翌日はさ来年のトーヤ決めをする。

それで、23日に近い休日にゴーサンゴーヤの祈祷札を版木で刷ると言っていたのだ。

話しの様相からむかしよみやでもなく八朔でもない村の行事。

10月の第二土曜は秋祭りの宵宮

提灯を掲げると言っていた。

翌日の第二日曜は秋祭り。

かつては16日、17日であったが集まりやすい休日に移ったようだ。

収穫を終えて11月17日辺りは神嘗(かんなめ)祭。

しかし、実際はいずれも不確かな情報であった。

婦人が話していた平成25年の9月の行事は7日の土曜日だった。

もしかと思って6日に訪れた。

八幡宮は誰もいない。

近くの作業場におられた男性に行事の件を尋ねた。

トーヤのお渡りがあるという行事は14日。

時間帯は10時ぐらいだと云う男性は、息子に譲ったことから参列はしない。

祭祀を勤める神職は池之内町在住の植嶋熈一さん。

大和郡山の行事で度々お世話になっている。

神職であれば明白なことが判るであろうと思って訪ねた。

トーヤ家の当主名は知らず、であるが、場所はある程度判った。

9時には御幣切りをすると云う。

そこへ行けば神社総代らを紹介すると話していた。

ところで、櫟枝町では不思議な縁があった。

三の丸公民館で卓球に勤しんでいるかーさん。

クラブ員に80歳ぐらいの婦人がいると云う。

その婦人は櫟枝町の住民。

クラブでよく話をしていると云う。

あるときクラブを休まれた。

なんでも行事ごとがあって休んだそうだ。

もしやと思ってクラブ員住所より探してみればどんぴしゃり。

平成25年5月25日にお会いした婦人であったのだ。

私がかーさんに伝えた出合いの件。

話をすれば僅かに覚えていると云うのである。

それが旦那の私である。

不思議な縁で繋がった櫟枝町。

行事に来られたらお茶でもと云っていたそうだ。

そうして着いた櫟枝町。

婦人が住むⅠ家を訪ねた。

話をしたことは覚えていると話す婦人。

一年前の出合いはかーさんともども縁が繋がった。

今年のトーヤ家を案内してくださる。

門屋から声をかければ「お待ちしていた」かのような雰囲気。

神職から私のことを聞いていた手伝いさんが手招きをされて早速の取材。

御供を並べて塩盛りを作っている最中だった。

お椀に入れた粗塩に水を加える。

ひっくり返せば見事な形になった塩盛りである。

シイタケ、ニンジン、リンゴ、バナナ、コーヤドーフの御供もあれば、搗きたてのモチもある。

コンブ、スルメの御供や玉串もある。

御供には刈りたての稲穂もあった。

出発間際にはタイも載せると云う御供である。

その場には丸めたお札もあった。



これがゴーサンドーヤのお札だと云って刷ったばかりのごーさん札を拝見する。

文字は6日にNさんからいただいたごーさん札を同じだった。

墨汁を版木に塗って一枚、一枚刷っていたと話す手伝いさん。

午前8時から刷っていたと云う版木を見せてくださった。

照りがある版木は刷った回数が多いのであろうかすり減って丸みを帯びていた。

中央に「八幡宮」。

左が「牛□(寶印の形)」で、右は「寶印」を彫った版木である。

「牛」の文字はやや欠けているが刷ったお札を見れば判別できる。



もしやと思って版木の裏面を拝見する。

手伝いさんとともに判読した文字は「寛永七年(1630)正月吉日 和州添上郡 櫟枝村 升屋願主」であった。

今より385年前に彫られた版木である。

「欠けているから新調しようと思っていた」と話す長老も驚かれた版木に櫟枝の歴史があったのだ。

当時より八幡宮としての行事として使われてきた版木であるが、これまで奈良県内各地で行われる数々のごーさん札を拝見してきた事例から推定するに、元々は寺行事の「オコナイ」であった可能性が高い。

「オコナイ」行事はおよそ真言宗派の寺で行われてきたのである。

八幡宮北に隣接する地に融通念仏宗派の極楽寺がある。

今では融通念仏宗のお寺であるが、宝暦年間(1751~1764)に真言宗から改宗したそうだ。

『ふるさと大和郡山歴史事典』によれば、改宗前の寺は石川町の区有文書に「和州添上郡石川村極楽寺天正四年(1576)壬子八月五日大工西京次郎、関賢坊云々」、「天和二年(1682)戌年見付上棟木、天和三年(1683)癸亥五月五日うつ志申、二郎兵衛、年寄衆」と記されている。

このことが櫟枝の極楽寺を云い現わしているのかどうか判然としないが、坊はおそらく真言宗であった極楽寺僧侶。

年寄衆は八幡宮を祭祀する宮守であったと考えられるのである。

「オコナイ」行事は正月初めに行われる初祈祷。

ごーさん札を刷って祈祷していたと思われる「正月吉日」の墨書記銘から、そう思った櫟枝のごーさん版木。

櫟枝町の当屋のマツリに村の歴史が残されていた。

御供が揃ったころにトーヤ(当屋)家に集まってきた氏子たち。

広い座敷いっぱいになった。

櫟枝町の戸数は25戸であるが、当屋衆を勤めることができる家は24戸だ。

かつては27戸の集落であったと云うから数軒が辞退したか、村を出たようである。

当屋を勤めるのは当家の息子さん。

年齢的には若衆にあたる。

「衣袋箱 櫟枝村 座中」の文字を墨書した衣装箱。

これもまた、古いものであるが年代記銘の有無を確かめる時間はなかった。

奈良県図書情報館所蔵の『昭和11年祭祀並宮座調』によれば櫟枝町には宮座は「なし」と書かれていた。

座の在り方はすでに退廃していたのであったが、衣袋箱に書かれてあった墨書より、かつては「座」であったのだ。

衣袋箱から取り出した白い晒し木綿のような装束を普段着の上から着る。

袴は青い色である。

烏帽子を被って身を調える。

同じように装束を身にまとうのは長老・氏子総代の二人だ。

当屋家の門屋前に置いた手水で清めて出発する。



大御幣を持って先頭を行く当屋。

神職、長老・氏子総代に続いて御供を持つ氏子たち。

集落の道を通って八幡宮を目指す。

中央の辻を南下していくお渡りは一列に並ぶことなく渡っていく。



朱塗りの鳥居を潜って神社に着いた一行は本殿前に並ぶ。

一度に入りきれない氏子数だけに拝殿、境内までとなる。

神事は当屋祭次第に沿って行われる。



式次第は、修跋、開扉、献饌、奉幣、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌、閉扉、宮司一拝で閉式する。

刷ったごーさん札やモチ御供などを本殿に供える。

櫟枝町・八幡神社の当屋祭祭典の特徴は当屋の奉幣振りがある。

本殿前に立って左右に二度振る。

大和郡山市内の事例では番条町・熊野神社の宮座の十月朔坐や新庄町・素盞嗚神社の当舎祭礼、観音寺町・八幡宮のマツリ、田中町・甲斐神社のマツリにしか見られない作法である。

また、折敷に載せた御供のうちの四つは本殿周りにある四隅の石に置く。

何の神さんであるのか伝わっていないが、これもまた市内行事では珍しい形式である。



祭典を終えた氏子たちはコヨリの籤を引く。

総代が手にしたコヨリに群がる氏子たち。

引いた籤に一番、二番、三番、四番とあればアタリである。

四人は神社祭祀を勤める手伝いさんであるが、一週間前に話していたNさんによれば一老から四老であると云っていた。

宮座で一老云々と云えば、宮守さんのことである。

かつてあった座中は一老から四老が勤めていたと考えられるのである。

この年は当屋を引き当てる籤はない。

と、いうのも前年に決まっていたのである。

当屋籤の始まりは24本。一年に一度ずつ当たっていく当屋であるが、翌年には当たりの当屋は外れて籤本数は1本減らす。

これを毎年繰り返して、前年は2本になった当たりを引いたのはこの年の当屋家。

残りは1本となって残る家が当屋を勤めるということだ。

不思議な縁で繋がったⅠ家が残り福。

前年に決まっていたのである。

翌年は全戸が対象になる当屋籤。籤引きの結果は予想もできない。

24年前に勤めた当屋が当たるかもしれないし、翌年に勤める当屋がなるかもしれない

期間は最長48年間、最短で1年後になるやもしれないのである。

こうしてコヨリ籤を終えた氏子たちは拝殿前庭で直会をされる。



ブルーシートを広げて、上にゴザを敷く。

座布団も置いた席に着く氏子たち。

当屋、神職、長老、総代は上座に座る。

パック詰め料理をいただく直会は、下げたお神酒で乾杯してからだ。

しばらくの時間は歓談の場。境内南側は黄色くなった稲穂が輝いていた。

(H26. 9.14 EOS40D撮影)


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