尼講、若しくはあばあさん講とも呼ばれている奈良市今市の婦人たち。
「若い人が入ってくれないから年寄りばかりになった」と話す。
春の彼岸の入りの日はチバミ墓地に参ってお念仏を唱えて数珠を繰る。
「いつもならもう少し多いのですが」と云うこの日の講中は5人。
墓地の地蔵尊の前にあるゴザは当番の人が予め敷いておいた。
お念仏はお墓参りに忙しい今市隆興寺の村井實道住職が来ないと始まらない。
住職は田中町の光明寺も兼務されている。
住職に教えてもらった今市のコネンブツ。
先日は墓所が判らなくて彷徨っていた。
この日も判らず彷徨っていた。
通りがかった今市のガマ池辺り。
二人の婦人が話しておられた。
もしかと思って声をかければそこへ行くと云う。
お許しをいただいて向かった先がチバミ墓地であった。
リンを打って念仏を唱えていた住職は息子さんに替ってもらった。
地蔵尊や六地蔵に灯したローソクや線香。
人数が少ないからと婦人に付いてきご主人も同席する。
そうして始まったコネンブツ。
導師となる住職は数珠を持つ婦人の輪の中。
鉦を叩いて念仏をもうす。
なむあみだぶーの念仏を何度も唱える尼講たちは数珠を持ったままで頭を下げる。
先祖さんに捧げるという念仏は般若心経。
おもむろに始まった5分後は百万遍数珠繰りだ。
その間もお念仏を唱える住職。

数珠珠の房が一周する度に数える。
カズトリは木片だ。
一の位は9枚。
十の位は5枚。
数珠珠が回ることに一つずつ置き替える。
これによって数珠繰りの回数が判るのだ。
本来ならば百万遍数珠繰り。
とはいっても百万遍も数珠繰りはしない。
100回数である。
これまでもそうしてきたが繰る婦人たちは高齢者。
「一年に一度、重たい数珠は年寄りには100回も送るがしんどい。もうあかんわ」と短縮を申し出て半分の50回にしてもらった。

数珠を繰りながら南無阿弥陀仏の念仏を繰り返す。
数珠繰りをしている間も彼岸参りをする家族も多く見られる。
知らずに参った人は驚くこと間違いなしであろうと思える墓地での数珠繰りはおよそ25分間。
延々と繰り返したのであった。
コネンブツを終えた住職は再び墓念仏に戻っていった。
繰った数珠を納める講箱にあった「小念仏講中 昭和廿年八月佛日新調」。
コネンブツは小念仏が正式名であった。
終戦のときの昭和20年8月に寄進された13人名が残されている。
「当時の私らの年齢は二十歳ぐらいやった」と云う。
記された婦人の名前を見れば祖母の名だった。
懐かしむこの日の尼講が話すには彼岸の入りの日に雪が降ったこともあったそうだ。
そのときは当番の家で数珠繰りをしたと云う。
小念仏講は男性も入れて30人ほどの講中。
大多数が婦人の尼講だそうだ。
尼講は彼岸の入りのコネンブツだけでなくお通夜の晩もしていた。
時代を経た葬式は葬儀会館に移り替るようになった昨今は「声もかからなくなった」と話す。
そのような時代になったが7月の地蔵盆も数珠繰りをしている。
夕立降っては困る。
昔にそうなったこともあるから公民館でするようにした村の池の地蔵盆。
一年に二度の数珠繰りはこうして今でも続けている尼講。
コネンブツを終えて数珠と鉦は持ち帰る当番。
この日の夜に再び集まる当番家で接待料理をよばれるそうだ。
アゲサンなどの煮ものは精進料理。
センギリダイコンやアズキを入れて炊いたアカゴハンもあったが4、5年前に止めたそうだ。。
打っていた鉦を拝見すれば刻印がある。
「今市村 小念佛 室町住出羽大掾宗味作」である。
大和郡山市白土町の子供のチャチャンコで拝見した六斎鉦の同じ作者である。
白土町の六斎鉦は貞亨五年(1688)であった。
同市の杉町で行われていた地蔵盆の数珠繰りの鉦も「室町住出羽大掾宗味作」であった。
奈良市の南田原町で行われたボザイノサケも同じく「室町住出羽大掾宗味作」の刻印があった。
今市の鉦を含めて年代刻印は見られないが、他府県2例に宝永時代の1710、1711年ものが見つかっている。
同時代の製作ではと思った鉦である。
ちなみに今市墓地の地蔵尊には「鐘講中」の刻印が見られたが、小念仏講との関係は判っていない。
今市では小念仏講、尼講以外に行者講もあると云う。
1年9カ月は17軒の月回り。
嫁入りして30年にもなるが2回もあたりになった。
忘れそうになるぐらいの回りだという行者講の山上参りは2年に一度のようだ。
(H25. 3.17 EOS40D撮影)
「若い人が入ってくれないから年寄りばかりになった」と話す。
春の彼岸の入りの日はチバミ墓地に参ってお念仏を唱えて数珠を繰る。
「いつもならもう少し多いのですが」と云うこの日の講中は5人。
墓地の地蔵尊の前にあるゴザは当番の人が予め敷いておいた。
お念仏はお墓参りに忙しい今市隆興寺の村井實道住職が来ないと始まらない。
住職は田中町の光明寺も兼務されている。
住職に教えてもらった今市のコネンブツ。
先日は墓所が判らなくて彷徨っていた。
この日も判らず彷徨っていた。
通りがかった今市のガマ池辺り。
二人の婦人が話しておられた。
もしかと思って声をかければそこへ行くと云う。
お許しをいただいて向かった先がチバミ墓地であった。
リンを打って念仏を唱えていた住職は息子さんに替ってもらった。
地蔵尊や六地蔵に灯したローソクや線香。
人数が少ないからと婦人に付いてきご主人も同席する。
そうして始まったコネンブツ。
導師となる住職は数珠を持つ婦人の輪の中。
鉦を叩いて念仏をもうす。
なむあみだぶーの念仏を何度も唱える尼講たちは数珠を持ったままで頭を下げる。
先祖さんに捧げるという念仏は般若心経。
おもむろに始まった5分後は百万遍数珠繰りだ。
その間もお念仏を唱える住職。

数珠珠の房が一周する度に数える。
カズトリは木片だ。
一の位は9枚。
十の位は5枚。
数珠珠が回ることに一つずつ置き替える。
これによって数珠繰りの回数が判るのだ。
本来ならば百万遍数珠繰り。
とはいっても百万遍も数珠繰りはしない。
100回数である。
これまでもそうしてきたが繰る婦人たちは高齢者。
「一年に一度、重たい数珠は年寄りには100回も送るがしんどい。もうあかんわ」と短縮を申し出て半分の50回にしてもらった。

数珠を繰りながら南無阿弥陀仏の念仏を繰り返す。
数珠繰りをしている間も彼岸参りをする家族も多く見られる。
知らずに参った人は驚くこと間違いなしであろうと思える墓地での数珠繰りはおよそ25分間。
延々と繰り返したのであった。
コネンブツを終えた住職は再び墓念仏に戻っていった。
繰った数珠を納める講箱にあった「小念仏講中 昭和廿年八月佛日新調」。
コネンブツは小念仏が正式名であった。
終戦のときの昭和20年8月に寄進された13人名が残されている。
「当時の私らの年齢は二十歳ぐらいやった」と云う。
記された婦人の名前を見れば祖母の名だった。
懐かしむこの日の尼講が話すには彼岸の入りの日に雪が降ったこともあったそうだ。
そのときは当番の家で数珠繰りをしたと云う。
小念仏講は男性も入れて30人ほどの講中。
大多数が婦人の尼講だそうだ。
尼講は彼岸の入りのコネンブツだけでなくお通夜の晩もしていた。
時代を経た葬式は葬儀会館に移り替るようになった昨今は「声もかからなくなった」と話す。
そのような時代になったが7月の地蔵盆も数珠繰りをしている。
夕立降っては困る。
昔にそうなったこともあるから公民館でするようにした村の池の地蔵盆。
一年に二度の数珠繰りはこうして今でも続けている尼講。
コネンブツを終えて数珠と鉦は持ち帰る当番。
この日の夜に再び集まる当番家で接待料理をよばれるそうだ。
アゲサンなどの煮ものは精進料理。
センギリダイコンやアズキを入れて炊いたアカゴハンもあったが4、5年前に止めたそうだ。。
打っていた鉦を拝見すれば刻印がある。
「今市村 小念佛 室町住出羽大掾宗味作」である。
大和郡山市白土町の子供のチャチャンコで拝見した六斎鉦の同じ作者である。
白土町の六斎鉦は貞亨五年(1688)であった。
同市の杉町で行われていた地蔵盆の数珠繰りの鉦も「室町住出羽大掾宗味作」であった。
奈良市の南田原町で行われたボザイノサケも同じく「室町住出羽大掾宗味作」の刻印があった。
今市の鉦を含めて年代刻印は見られないが、他府県2例に宝永時代の1710、1711年ものが見つかっている。
同時代の製作ではと思った鉦である。
ちなみに今市墓地の地蔵尊には「鐘講中」の刻印が見られたが、小念仏講との関係は判っていない。
今市では小念仏講、尼講以外に行者講もあると云う。
1年9カ月は17軒の月回り。
嫁入りして30年にもなるが2回もあたりになった。
忘れそうになるぐらいの回りだという行者講の山上参りは2年に一度のようだ。
(H25. 3.17 EOS40D撮影)