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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

室津・当屋の注連縄立て

2017年05月27日 09時07分16秒 | 山添村へ
平成18年のマツリトウヤを務めたU婦人に教えてもらって県道から下る里道。

神社の右手辺りの石垣がある家だと聞いていたが、道を間違ったらしく行先がわからなくなった。

畑仕事に一服されていた村の人に聞いてUターン。

ようやく着いた今年の当屋家。

門屋に笹竹を立てて注連縄を張っていた男性は斎主を務めている宮司のOさんだ。

山添村などの地域で行われている神事ごとに出仕される宮司さん。

取材に際する度にお世話になっている宮司さんだ。

今年は当屋家に当たることになったが兼社になる各地域の祭主もしなければならない。

村の神事ごともあるからそれも外すことはできない。

そういう状況を考えて、息子さんに室津の当屋を務めてもらうことにされた。

O宮司と初めてお会いしたのは平成18年12月23日だった。

当年のマツリトウヤを務めたU家やD総代長に撮らせてもらった写真をさしあげようと思って来た日だった。

その日は室津戸隠神社の申祭りだった。

時間帯の都合がつかずに他所へ向かうのであるが、そのときにO宮司が声をかけてくださった。

未完成な部分があるのだが、と云って示されたのは『東山村神社調書(大正4年調写し)』である。

宮司を務めることになったことを機会にかつての調書をわかりやすく現代表記に読み下してデータ化したと云っていた。

書の文字見やすい、わかりやすいワープロ文字。

神社の配置までも整えて、見やすく、使いやすく紐綴じされていた。

許しを得てその場でデジタル写しをさせてもらった。

神社調書は室津の戸隠神社だけでなく近隣村の松尾の遠瀛(おおつ)神社、的野の八幡神社、峯寺の六所神社、桐山の戸隠神社、北野の天神社に今では奈良市に行政区割りされた別所の金毘羅神社や水間の八幡神社もある。

神社の変遷もあるが特に興味深かったのは祭礼行事の詳細である。

130頁からなる室津宮司のOさんがデータ化した『東山村神社調書(大正4年調写し)』の史料価値は後年において相当数活用させていただいた。

その件については当ブログの「奈良県の民俗芸能―奈良県民俗芸能緊急調査報告書―発刊」の項で若干触れさせてもらった。

この報告書文中に、O宮司名が数多く登場する。

翻刻に4カ所もその名はあるが、文中も多く8カ所。

それほど価値があるO宮司翻刻の『東山村神社調書(大正4年調写し)』。

あの日からさらに整備をしたという。

O宮司とはお会いする度にこの「写し」を役立たせてもらっていると伝えていた。

実はこの日の午前中に室津の戸隠神社に出かけて参っていたそうだ。

本日は仮当屋が参拝する日。

氏子総代(オトナ)がその年にあたる仮当屋と楽人の渡り衆を集めて月次祭に参拝する。

そこで正式に当屋が決定したことを氏子に報告する目出度い日であった。

縁とはこういう重なりがあって繋がっていくのだと思った。

報告を終えた当屋は自宅に戻って当屋家を示す注連縄を門屋に立てる。

丁度のそのときに伺ったのであった。

ところで気になっていたのは戸隠神社の境内に張っていた注連縄である。

期日はバラバラであるが、その注連縄はいつもあるように思えて仕方がなかった。

神社の鳥居から拝殿辺りに張られている一本の注連縄である。

通年、そうしている注連縄は薬音寺(真言宗)との関係性を示す結界の意味があると教えてくださった。

かつては神社下に勧請綱があったようだという。

史料も残っていないが小字に「カンジョ」がある。

その名からしておそらく「カンジョバ」。

充てる漢字が勧請ノ場であるから間違いないと話される。

(H28.10. 1 EOS40D撮影)

吉田の石売り行事を聞く

2017年05月16日 08時16分40秒 | 山添村へ
小倉の行事を取材した次の行先は山添村の吉田。

同行していた写真家のKさんが取材したいと願われた地を案内する。

その地はとても狭い里道を行く。

車の幅いっぱいにしかない里道は慣れないと怖いものだ。

一度は体験しておかねばと思って案内する。

吉田に鎮座する氏神さんは岩尾神社。

祭りの特徴は子どもが境内に座って大人に石を売る石売り行事がある。

祭りに付随する行事であるが県内事例としても珍しい。

それを見たいと申し出たことから当地にやってきた。

神社に登る階段は急勾配。

心臓が弾けそうな階段の両側に美しい植物が埋まっている。

あまり見かけない植物は貴重なものであるかもしれない。

それはともかく村の人が見つからない。

しばらく待っていたら人影が見えた。

訪ねたお家は週末実家滞在のK夫妻だった。

旦那さんは畑仕事に出かけていた。

奥さんに聞けば人が少なくなったので祭りを続けていくのが難しくなったという。

話していたときだ。

軽トラに乗った村の人がやってきた。

お住まいはすぐそこだ。同じようなお話をされる石売り行事は平成24年の10月21日に取材したことがある。

辛うじて子どもさんが数人いた。

あれから4年後、話の状況からすれば諸事情によって若干の人数に変移があったようだ。

対象の子供は3歳児から小学生まで。

今年は4人になるらしい。

先が見えている石売り行事は子どもがおってこそできる行事。

難しくなったとOさんが話す。

吉田の石売り行事は平成24年の10月21日に取材させてもらった。

Oさんが云うには美しい石は村下を流れる石張川で拾っていたそうだ。

拾った綺麗な石はカゴに入れて運んだ。

そのカゴごと岩尾神社の本社殿下の一角に座って並んだ子どもたちが石売りをしていた。

やってきた参拝者がお金(祝儀袋に百円は五百円、そして千円にした)を入れるとカゴの中の石を座席後方に放り投げた。

その子どもたち。

2、3年前ぐらいからいなくなった。

他市町村に嫁いだ人らが村のマツリに帰ってきて賑やかだった。

昔の石売り行事は小学生までの男の子だけでしていたが、少子化の関係で女の子も入れて継承してきた。

うちの孫は中学二年生。

石売りできない年齢になったという。

吉田は27、8戸の集落。

現状は10戸ぐらいでしている行事の現状を聞かせてもらって、とり急ぎ、取材させていただく旨を伝えて吉田を離れた。

(H28. 9.17 記)

松尾・サシサバのイタダキサン

2017年03月26日 07時11分21秒 | 山添村へ
この年の6月14日のことだ。

毎週、通院している外来棟でばったり出会った。

平成23年のマツリに当家を務めた山添村松尾のH夫妻である。

ご主人は3年後の廻りになった平成26年のマツリでは8人からなる田楽所作をする要人も務めていた。

H家にはマツリだけでなく、家でされているお盆の風習も撮らせてもらったことがある。

平成24年の8月14日であった。

お会いした瞬間にその映像が蘇った。

今もされているならもう一度取材させていただけないかという願いである。

写真家Kの願いでもあるお盆の風習はサシサバのイタダキである。

お願いを叶えてもらうには息子さん夫妻のご協力が要る。

サシサバの作法をするのは生き御霊を称える息子である。

子どもの頃もしていたサシサバの作法であるが、ご結婚されたら夫妻揃っての作法になる。

息子に伝えておくと云っていた夫妻にあらためて電話もしたのは8月に入ってからだ。

念のためといえば失礼になるが、確認の電話に伝えているからその日においで、である。

ありがたい返事に感謝してこの日の朝に伺った。

家に向かう道は家の出入り口。

そこにあったのは燃え尽きた藁である。

ススンボの竹に挿した藁は先祖さんの迎え火である。

前日の13日。

門口の処に立てた藁松明に火を点けたのは午後6時だった。

鉦を打つことはない。

ここら辺りは鉦を打つ風習は見られない。

玄関前にあるのはムエンサン(無縁仏)を祭ったタナ(棚)である。



タナ台に載せたドロイモの大きな葉が一枚。

敷いたその上に柿の葉がある。

それに載せているのは味噌汁に入れていた具材のナスビ。

もう一枚はオガラの箸を置いているオハギだ。

箸があるもう一枚はシンコの名で呼ばれるメリケンダンゴ。

あとはナスビにキュウリ。

精霊馬・牛のようであるが脚はない。

お茶は一杯。

ローソクや線香に火を点けていた。

その線香をさしているのは野菜のナスビである。

挿した穴は線香換えした数である。

13日に先祖さんを迎えたときに祭るムエンサン。

一杯盛ったお茶は度々交換する。

常に新しいお茶に入れ替える。

14日の昼にはイモやカボチャを供えるムエンサンのお供え。

ケンズイのときにはソーメンとモチを供えるそうだ。

座敷に上がらせてもらって先祖さんの位牌を並べた状態も撮らせてもらう。



位牌に記された年代は文化六年(1809)、文政年(1818~)、天保四年(1833)。

当家の歴史を刻む先祖さんの位牌だ。

そこにも様々なお供えをする。

ここでもたえずお茶を入れ替える。

中央にドロイモの葉に乗せたナスビとキュウリ。

黄色のマッカやトマトにモモ、ブドウ、ハクセンコウなどの御供。

両側にお盆がある。



そこにはムエンサンと同様に味噌汁の汁なしナスビを盛ったカキの葉。

もう一枚も同じくオガラの箸を置いたオハギである。

両側数えて8人前である。

朝のお供えはこれだけであるが、お昼はもっと多く、七品のおかずに白ご飯。

おかずはナスビ、カボチャ、ニンジン、ジャガイモ、タマネギ、サイトマメ(インゲンマメ)、ダイコンを煮たものだ。

お昼過ぎたらケンズイ。

午後3時ころに供えるのは汁なしのソーメン。

夜は帰らはるときで、丸いコモチのシロモチを持って帰りはる。

そういっていたのは奥さんである。

そんな話をしていたころにやってきた息子さん夫婦。



これからサシサバの作法をするのだが、このサシサバはどこで入手したのか、である。

販売しているのは北野や津越の行事で度々お世話になっている大矢商店。

来年もできるかなと云いながらも仕入れているサシサバ。

平成23年の8月13日にお店で売っている状態を拝見した。

松尾の奥さんは値があがったという。

「千円だったが、昔は500円やった」という。

よくよく枚数を考えればサシサバは2尾で1セット。

1尾が500円でサシサバ状態は2尾。

それで千円。

値は合っていたのである。

山添村で売っている開きのサシサバは1尾が500円。

今月1日に拝見した「辻村商店」の売値は一枚が750円。

「たけよし」なら580円だったと話す。

御膳にスイカも供えて先祖さんに向かって座る若夫婦。

お盆に敷いたドロイモの葉に盛ったのが開き状態のサシサバである。

塩をたっぷり入れて漬けこむ。

それを天日干ししてカラカラに乾かす。

表は鯖の皮がよくわかる紋様。

裏はといえば濃いめの茶褐色。

2尾のサシサバの一方をもう1尾の頭に刺しこむ。

裏側であれば刺した姿がよくわかるサシサバは表からだとわかり難い。

頭から頭を刺しこむから「刺し鯖」というわけだ。



両親から「いただいとけよー」と声がかかれば膳を上方に捧げまつるような作法をする。

台詞はなにもない。

ただ、先祖さんに向かってその恰好をするだけである。

サシサバは2尾をワンセット。

これは両親を表現している。

つまりは生き御霊なのである。

両親が生存しておれば2尾をこのような格好で作法をするが片親になればこの作法はない。

両親が揃ってなければできない作法は県内各地でみられたお盆の風習であるが戦後に撃滅した。

何年か前に聞き取り調査をした大和郡山市の事例は多かった。

長安寺町に住む婦人は88歳。

両親が揃っておれば2尾。

片親になれば1尾だった。

伊豆七条町に住む78歳の婦人は片親であれば作法はしない。

白土町に住む80歳の婦人は作法を覚えてないが、ドロイモの葉に包んだミセ膳のサシサバの数は息子の数を並べたという。

先に述べた二人も同じようなミセ膳があった。

ミセ膳が終わればサシサバは食べることができる。

水に浸けて塩抜きをする。

薄味のしょう油に浸して身をほぐした。

カラカラに乾いているからほぐしにくかったが、漬けたらほぐしやすくなると云っていた。

味はといえばだれもかれもが辛いと云った。

そういう話を聞いて大矢商店で買って食べたことがある。

云った通りに辛かった。

ほんまに辛かったサシサバの美味しさがわからなかったが、旨いという人のほうが多かった。



85歳の額田部南町に住む婦人や86歳の小泉町婦人、81歳の白土町婦人、81歳の額田部北町婦人、77歳の横田町婦人、81歳の八条町婦人、84歳の椎木町婦人・・・はサシサバをサッサバと呼んでいた。

出里が天理市南六条、桜井市穴師だった婦人もサシサバ経験があった。

年齢は80歳前後の方ばかりだ。

同じ出里であっても年齢が六つ下の婦人は食べたこともなかったという。

また、御所市野口のお蛇穴や斑鳩町の稲葉では話も聞いたことがなかったという婦人もいる。

こういった聞き取り調査は数年前までに送迎をしていたときの患者さんの体験談である。

あれから5年も経った今も元気でおられるだろうか。

サシサバ風習についてはその後も続けているが、なかなかお会いしないが、奈良市の窪之庄や中畑で今もしていると聞いた。

これもまた高齢者の談話であるが、実際にどういう作法でしているのか拝見していないのでわからない。

尤も松尾で取材させていただいたご家族は14日の朝に食べるという。

焼いて食べる場合は身をほぐして食べる。

酢に漬けて食べる場合もある。

美味しいから大量に買って冷蔵庫で保存している。

食べたくなったら出して食べているそうだ。

81歳の奥さんが云うには、片親、或いは親無しの家の場合は、先祖さんが「帰らはったあとに食べる」と話していた。

サシサバに関わる話題を提供してくれた婦人は息子とともに外にでた。



明日は先祖さんが帰らはる日。

送る松明の準備にとりかかる。

松明は昔から3本。

藁束を挿す竹は青竹のシンダケ(新竹)。

一昨日に6本纏めて作っておいた。

藁束の芯は杉葉だったが、今は新聞紙にしているという。

迎えも送りも門口で藁束に火を点ける。

手ぶらで家に戻って屋内で線香を点けているという。

お盆の風習話しはまだまだある。

ガキサン(餓鬼)のタナ(棚)にあるダンゴは小麦粉かメリケン粉をはたいて作る。

粉は水で練る。

練って丸める。

それを沸騰した湯に入れる。

ダンゴ汁のような感じに茹でて浮き上がったらできあがる。

これをオチツキダンゴと呼んでいる。

今はお店で買っているが、オハギもかつては家で作っていた。

柿の葉はべちゃっとしている黄色っぽい葉。葉は遣いさしをつこうたらアカンという。

13日の夕方にガキサンのタナを作る。

朝、昼、晩にローソクや線香に火を点ける。

昔はチョマ(苧麻)の皮を剥いて乾かしていた。

アカヌキと云って川の水に漬けた。

オガラで梯子を作った。

梯子の段は四段と決まっていた。

普段でも四段目で足を滑らして落ちたらアカンといわれてきた。

祭るヤカタの屋根は桧葉で覆った。

これらは翌朝の15日に仕舞う。

嫁さんをもらったら酢に漬けたトビウオを実家に持って帰ってもらう。

このトビウオも大矢商店で売っていたなどだ。

(H28. 8.14 EOS40D撮影)

毛原の田の虫送り

2017年01月05日 09時37分11秒 | 山添村へ
山添村の毛原で「田の虫送り」が行われることを知ったのは前月の5月21日だった。

村の会所でもある構造改善センターに行事日を表示する掲示板にそれが書いてあった。

かつて毛原に虫送り行事があったことは下笠間に住むIさんから聞いていた。

随分前のことである。

まさか、と思った。あるとしても法要だけかも知れない。

とにかくその日に行われることは間違いない虫送り。

状況を知りたくてセンター下に住むKさんに教えてもらった。

その後に取材した6月5日の端午の節句に来られた村の人にも教えてもらった。

これまでは何人かが長久寺に集まって虫祈祷の法要をしていた。

寺檀家の人たちのようだった。

あるとき村で意見があった。

かつて毛原にあった田の虫送りを復活させたい。

いつしか実現性を帯びるまで話題は広がった。

実行するのは青年たち若者。

自治会も支援しての実行。

つまりは実行委員会の組織化である。

虫を送る松明はどうするか。

昔のような形式にとらわれずできる範囲内ということで実験もしたらしい。

かつての体験者たちは高齢者ばかりではなく若者、或は低学年の子供たち。

記憶を辿りながら手探りで復活する。

いわば実験的試行による復活である。

上手く行こうが、行こまいが試行を重ねてより良い形に整えていく。

そう話してくれたのはいち早く構造改善センターに集まってきた青年部。

後援に農家組合がついて行われることになったポスターがある。

ポスター写真は毛原のものなのか、それとも他地区で行われている状況なのか。

そんなことを知り得てどうする。

試行しようとしている毛原の住民はこれから云十年ぶりに再出発をする。

野暮なことを尋ねることは必要要件ではない。

かつて虫送り松明があった状態に戻そうとする村活性化事業の始動が田の虫送り。

青年部の活動が村人とのつながり、縦も横もより一層濃くする。

自治会はそのお手伝い。

将来に亘って村が活性化していく願いを込めた行事。

毛原にはホタル祭りもあれば盆踊りもある。

虫の供養をしていた夏の祭りに松明の火で送る虫送りを加えた村の活性化事業に、部外者は温かいまなざしで応援してほしいと思うのである。

52歳の自治会長や53歳の役員が話すには30~40年ぶり。

当時は小学一年生か保育園児らしい年代というから40年は越えているような計算である。

青い籠にいっぱい盛られた樹木の葉がある。



その葉はシキビ。

火を点けた松明で虫を送る先は岩屋との境界線。

どこでもそうだが火で追った虫は村境まで送っていく。

そこに祈祷したお札を立てるが、祈祷札はない。

つまり虫祈祷の法要はあっても祈祷札がないのである。

祈祷法要をされるのは真言宗東寺派の豊原山長久寺。

創建年代はわかっていないが、毛原寺衰退後に建てられた後身寺院。

古くから東大寺戒壇院の末寺だったそうだ。

話しをシキビに戻そう。

シキビは祈祷法要でなく虫を送った村境の場で使われ、その作法は住職曰く「投花(とうか)」供養。

つまりはシキビの葉を火中に放り投げて虫の祈祷供養をする。

そういうことである。

用意した松明は青竹。

先を割って割り木を挟む。

4本作ったが一本は先頭役が持つ。

子供たちが持つ松明は軽めの青竹。

火を点ける部分は割り木でなく、LOGOSのトレードマークが印字されている虫よけアロマたいまつ。

ガムテープで取り付けている。

子供たちには喜んでもらえるようにペンライトも渡すようだ。

構造改善センターに集まったなかには女性もおられる。

出発前にいただくソーメンの振る舞いがある。

その料理をするのがご婦人の役目だそうだ。

当番してくれるNさんは切幡が出里。

三輪の素麺業を営んでいるそうだ。

切幡ではいつもお世話になっているT家もある。

それはともかく毛原に子供が増えている。

家族が増えるということは明るい話題。

3人兄弟の家族も何軒か。

10人は欲しいという家もあるようだ。

その数を知ったのは数年前に訪れた子ども涅槃のとき。

訪れたときは間に合わなくて行事を終えた子どもたちは構造改善センターの2階でカレーライスを食べていた。

お声をかけずに立ち去ったが、そのときに数えた靴の数はすごく多かったような記憶がある。

訪れたのは積雪で凍った道路を走ってきた平成26年の2月16日だった。

それはともかく構造改善センターに奈良県(公財)奈良県消防協会が発行した警告ビラの「火の用心」が貼ってあった。

ここでは愛宕さんのお札が見当たらないようだと話したら婦人が云った。

家には村の代参の人がもらってきた愛宕さんのお札が貼ってあるという。

結成年代は不詳であるが村には愛宕講があるそうだ。

製茶や養蚕が盛んになるにつれて火の取り扱いに関心をもつようになり、火防の神さんを信仰するようになったと村で纏められた史料に書いてあった。

毛原の総戸数は46戸。

居住しているのは41戸になるらしい。

子供たちがもつ松明は20本。

ご家族に1本ずつの割り当てになるそうだ。

出発前の忙しいさなかにいろんなことを話してくださるよもやま話が嬉しい。

そうこうしているうちに場を移動する。

虫祈祷の法要が行われる長久寺を目指す。

風情がある石段を登り切ったところに建っている本堂。

ここは何度も訪れたがお堂に上がらせてもらうのは初めてだ。

子どもの涅槃もここで行われていることは存じているが、未だ拝見できていない。

長久寺住職は京都住まい。

毛原や隣村の三カ谷など檀家の営みがある場合にやってくる。

長久寺は毎月のお勤めに村の大師講の人たちが参られる。

話しは聞いているものの21日ではなく、都合によってその日より前にする場合もある。

大師和讃を唱える大師講のお勤めは拝見したいと思っている。



堂内にはその大師講の人たちが手造りしたのかどうかわからないが、可愛い顔をした石仏が並んでいた。

よくよく見れば家内安全を願った人の名前もある。

詳しく伺っておきたいと思ったが、堂内に村の人が集まって会式が始まった。

まずは全員揃って合掌。

そのまま頭を下げてご祈祷。

神妙な面持ちで手を合わす。

この日の行事にあたる中心的役割をされる人にはご加持をさせていただきますと伝えられて、手にした錫杖も振ってご祈祷される。

燭台に何本かのローソクに火を点ける。



キンを打って唱えるお経は般若心経。

その間に焼香をされる。

なむだいしへんじょーこんごー、なむだいしへんじょーこんごー・・・。

そしてオヒカリを堂外に持ち出した住職。

一本のアロマ松明に火を移す。



その火は構造改善センターのすぐ横に置いてしばらくの時間を待つ。

何が始まろうとしているのか。

老若男女の村人も集まりだした。

杖をついた婦人もやってくる。



その杖は竹製ではない。

軽いのである。

材料はと聞けばスカンポである。

スカンポはいわゆるスイバ。

新芽の皮を剥いで中身を吸う。

樹液が酸っぱいからスイバ。

充てる漢字は酸い葉であるスイバは地方によってはギシギシの呼び名で通るが正式名称はイタドリ。

大きく育ったスカンポを抜いてカラカラに干したら堅くなる。

杖に最適と思って今でも使っている現役。

イタドリを充てる漢字は「虎杖」。

まさにその通りに現役杖として利用されていた。

そんな会話をしてくれた婦人は6月5日に八阪神社で行われた端午の節句に来ていた参拝者のNさんだった。



一か月満たないうちの再開に隣家の婦人もそろって村の接待のソーメンを食べていきや、と云われる。

いやいや、それは・・と遠慮。

村の人たちすべてがよばれて余っているならと断るが、ぎょうさんあるからと云って運んでくれる。

この村に初めて訪れたときに伺ったFさんもそう云う。

ありがたい心遣いに感謝していただくソーメンはとても美味しい。



ソーメンのトッピングは刻みネギに天かす。

そこにショウガも入れている。

我が家で食べるソーメンと同じ味にもう一杯といきたいが、こんどこそ遠慮させてもらった。

田の虫送りの出発は腹ごしらえを済ませてからである。



午後7時15分、祈祷されたオヒカリから火を移したアロマ松明に集まる人たち。

火が移れば出発する。

ややの小雨降りに傘をさしながらの行列が始まった。

先頭は平たい鉦打ち。

一打ちすればガーンと鳴る。

その音色はまるでドラの音のように聞こえる。

その次は長久寺住職。

その次は大松明が何本か。

後続についた人たちはアロマ松明。

その姿を追いかけて撮るカメラマンの群れ。

一番いいところを撮っておきたい気持ちが焦るのか駆けずり回る。

わが身の身体はどうなのか。

先頭はぐいぐい歩いていく。

いつの間にか後続がついていないことに気がつく。

少し待って繋がる松明火。



毛原の田の虫送りが中断して45年間。

久しぶりに見る松明火に笑顔が溢れる。

人数も多くなった行列に心も踊る。

行列が動きだして3分後。

山間部のこの辺りは暗闇が迫ってきた。

ときおり通る車のヘッドライトが走り抜ける。

光跡は一本の筋となって闇を照らす。



小雨状態であったが傘もささずに松明をもつ人も多い。

先頭を行く住職は数珠を手にして数えているようだ。

ドラの鉦の音は山々にこだまするかのように聞こえる。

そうして片道1km少し。

午後7時半過ぎに岩屋との村境に着いた。

時速4kmは私にとっても普通の速度。

なんとかついていけたのが嬉しい。

到着した人たちは安全性を考えたドラム缶に松明を投入していく。

虫を送った行列の人たちが投入するには数分かかる。



すべてに人が投入したのを見届けた住職はその火に向けてお経を唱える。

「送った虫にはなんの罪もありませんが、供養の意味を込めてシキビを火に投げて手を合わす。これを投花(とうけ)と呼びます」、と解説されて始まった虫の祈祷はお堂で唱えたのと同じく般若心経だった。

錫杖を振りながら・・やがてご真言へと移る。

その横で一心に手を合わせていたのは娘さんであろう。



一人、一人が手にしたシキビを松明火に投入して手を合わせた。

(H28. 6.25 EOS40D撮影)

毛原の端午の節句

2016年12月17日 09時42分57秒 | 山添村へ
前月の5月21日に訪れた山添村の毛原。

取材したかった月参りの大師講は前週に終わっていたが、6月5日は八阪神社など3社にチマキを供えると聞いてやってきた。

三社は八阪神社の他にコンピラ社と稲荷社がある。

その2社は先に参ってチマキを供える。

八阪神社は10個のチマキ。

神社境内にある神武さん(神武天皇遥拝所)にも10個。

そこより少し登ったところにあるコンピラさんには5個。

逆に神社より下った左寄りの稲荷社にも5個。

合わせて30個のチマキを先におましておくと話してくれたのはKさん。

その後に村人が神社にやってきて参拝すると話していた。

端午の節句につきもののチマキに変化がある。

前年までのチマキはカヤの葉で包んでいた。

段取りもあってそれは省略された。

手がかかるところは省略されたチマキは餅のような状態で供えるようだ。

三社に供えるのはホンカン(本音)と呼ぶ主たる村神主。

主たるという村神主は四人。

正確にいえば二人である。

ジカン(次音)と呼ばれる次の年にホンカンに繰り上がる二番神主。

ホンカンを支える村神主の一人でもある。

その二人を補佐するのが二人のミナライである。

ミナライはホンカン、ジカンについて行事の進行を補佐するようだが、一部に服忌があって、その日は数人になるようだと聞いていた。

村人が神社に参るだいたいの時間は聞いていたが、村神主が先にお供えをする時間は決まっていない。

予めに供えるということだけに決まった時間はないようだ。

それならばたぶんに一時間前と判断して毛原にやってきた。

八阪神社には一人の男性がおられた。

ミナライの一人である。

ミナライが云うにはつい先ほどになってホンカン代行のジカンがチマキ御供をもって稲荷社に出かけたと云う。

大急ぎで追いかけるが稲荷社の位置は聞いていない。

一旦は県道にあがって探しかけたときに軽トラが走ってきた。

礼服を着ている人だったので、声をかけたらジカンだった。

稲荷社のお供えを終えて、これから山のほうにあるコンピラ社に向かうというジカンはチマキ御供に数本のショウブの葉も抱えて山道を登る。

場が判り難いからついていくことにしたが、指をさされても判り難い山道を登る。

つい先ほどまで降っていた雨。

坂道は濡れているから滑りやすい。

ここで尻もちをついたらエライことになる。



慎重に登る山道の先に建っているのがコンピラ社。

正式には琴平神社の名がある。

金刀比羅神社とも記されることもある琴平神社は、かつてというか村で云う昔のこと。

毛原のオヤ出のうちオオクボに住んでいた8~9戸の住民が四国讃岐の金刀比羅宮に参って神霊を拝受、そのオヤ出(垣内であろう)の守護神として祀ったようだ。

御供・参拝する琴平神社の鳥居にショウブとヨモギが架けてあった。

予めに掛けていたショウブとヨモギは3束だった。

チマキ御供とショウブを供えて祝詞を奏上する。



終わればショウブはその場に置いて戻るがチマキ御供は下げる。

八阪神社に戻ったジカンは八阪神社境内に建つ神武天皇遥拝所碑にもチマキ御供を供える。

その上にショウブとヨモギの葉を添える。



神武天皇遥拝所碑は大正五年四月三日に、村の中堅たち、当時、青優会の名で呼ばれた青年たちが寄進した。

寄進の碑は遠方より運ばれた自然石。

それに刻印したそうだ。

二社の末社に神武さんの碑に供えた次にようやく始まった八阪神社の端午の節句。

神社に建つ石の鳥居にも3束のショウブとヨモギを掛けていた。

こうしたショウブやヨモキを供える旧暦端午の節句の事例は少ない。

これまで拝見した地域は川西町下永旧都祁村南之庄大宇陀野依ぐらいしか存じていない。



貴重な在り方は重要な記録。

この場に参らせていただいたこと感謝しつつ、本殿にチマキ御供や神饌を供えて、端午の節句の祝詞を奏上するジカンの姿を撮らせてもらった。



これらの神事には村人はつかない。

村神主だけで行われるのだ。

めいめいの参拝者来るまではまだ時間がある。

その間に撮らせてもらった本殿の拝殿に彫刻された飾りに目がいった。

猿の軍団が戦勝している様相を表現したように思えた飾りは他所でも見たことがない。

反対側にもある彫り物飾りは烏天狗のように思える造りに見惚れてしまう。

八阪神社の御造営は17年ごとに行われているが、この彫り物が残されたことに敬意を表する。

八阪神社の創始は不明であるが、貞享二年の古文書記録によれば牛頭天王社であった。

明治時代まではそう呼ばれていたであろうと推挙される事例が境内にある。

本殿下にある手水鉢に刻印がある。

側面に「嘉永五壬子(1852)年 十一月吉日」。

反対側に「辻甚吉 妻 す□(ふ?)」とある。

寄進した村の人の名に違いないが、「妻」表記があることから夫婦に違いない。

あまり見かけない夫婦表記に優しさを感じる。

村人が参拝に来られた時間は11時10分前。

何人かがやってきて参拝をする。

本殿階段を登って下げていない神饌がある拝殿より拝む。

本殿の次は階段を降りて境内に移る。



東に向かってまず拝む。

東はお伊勢さんがある方角だ。

次はチマキ御供を供えた神武さんに向かって手を合わせる姿を拝見したが、本来は本殿、次に東に向かって、次は西に向かって拝み、最後に遥拝所になるのが毛原の正式参拝だと教えてもらった。



参拝を済ませたら参籠所に下る。

ミナライが接待するお神酒をいただく。

肴は黄色いコウコの漬物。



前月に訪れた際に話してくださったKさんもそうしていた。

Kさんは先年にホンカンを務められた人。

チマキはカヤで包まないと格好がつかないと話していた。

昨年まであったカヤ巻きの形を再現してくれたのはホンカン代行のFさん。



束ねたカヤの葉を広げて半折りする。

そこに小判型のチマキを入れる。

チマキが大きいからはみ出すような形である。

包んだら落ちないようにカヤの葉で縛る。

慣れれば簡単のように思えるチマキ御供はこうして作るが、工程はまだある。

チマキは5本で一束括り。

次の5本を同じように作って10本にする。

これを一荷と呼んでいる。

これを鍋に入れてカヤ包ごと蒸すようだ。

昨年までは村全戸に一個ずつ配っていたというチマキはウルチ米3に対してモチ米が1の割合で作ってもらった。

作ったのは隣村の大字勝原の上島製菓。

頼んで作ってもらったというチマキはどういう具合にして食べるのか。

チマキの味はどちらかと云えば米の味に近い。

ご飯の味にはほど遠く、味っけがないから砂糖醤油に塗して食べるか、キナコにするか、人それぞれの味わい方になるそうだ。

参拝者が途絶えるころも待って接待するのは村神主。

お腹も空いただろうと逆差し入れはサンドイッチ。

厚く盛った具が特徴のサンドイッチはホンカン代行のFさんが起こした会社で作っている。

大手スーパーにも卸しているという工場は大和郡山市と天理市の境目。

あそこだといわれたらすぐにわかった。

それはともかくかつては田植えの中休みに大豆を入れたご飯を炊いてフキに包んだフキダワラがあったという。

今ではすることもないフキダワラは当地にもあったことも記しておこう。

こうした聞取りを経て拝見できていなかった稲荷神社の奉り方を見に行く。

八阪神社より県道に上がってそこより少し北へ向かう。

川に沿って下っていって途中の辻で左折れ。

そうしたら稲荷神社の鳥居が見える。

そこには大正十五年に建てられた毛原廃寺址を示す標柱がある。

その横にあるのが稲荷神社だ。

毛原廃寺金堂跡に建てた。



ここでも本社、山手にある琴平神社同様に鳥居に掛けたショウブにヨモギがある。

そして稲荷神社にもショウブが残っていた。

ところで帰り際に拝見したものに自然に生えていると思われるイチヤクソウが見つかった。

そこは群生地。



場所は明らかにできないが、まるで幻想にとも思える光景に佇んでいた。

(H28. 6. 5 EOS40D撮影)

毛原の行事に再び目覚める

2016年12月08日 08時42分08秒 | 山添村へ
ここ数年、山添村毛原の長久寺を訪ねていた。

同寺住職は定住する住職ではなく京都東寺から来られる住職と知ったのが一昨年だった。

この長久寺では毎月のお勤めに村の大師講の人たちが参られる。

大師講のお勤めは21日であるが、都合によってはその日より前にする場合もあると聞いていた。

2月の子ども涅槃のときもそうである。

平成22年、23年、26年、27年に訪れたがいずれも日程を外した。

特定日でなく寺住職の都合に合わせて実施されている。

再訪したこの日は21日。

お大師さんの縁日でもあるし土曜日でもある。

この日であれば外れることはないだろうと推してやってきた。

が、である。

お寺参道は獣除けの柵がしてあった。

寺家にはどなたも居られない。

待っていてもたぶんに今日ではないと判断して下る。

以前にも尋ねたF家も不在だった。

仕方なく構造改善センター前に停めた車に乗り込んで移動しようと思った。

が、またもやの、が、である。

センター玄関前に今までなかったモノがある。

掲示板のようだ。近づいてみれば翌月の6月の村行事が案内されていた。

当地に来るまで通過してきた村がある宇陀市室生の下笠間だ。

ここでは随分前から村の年中行事を告知している。

告知する掲示板は黒板だ。

白墨で書かれた年中行事を見てから親しくさせてもらっているⅠ家に立ち寄ることが多い。

毛原はこれまでそういった告知はなかった。

村以外の者でも判る年中行事に目が行く二つの行事。

ひとつは6月5日の「端午の節句」。

もうひとつは6月25日の「田の虫送り」だ。

6月19日は「植付け篭り」も表示してあった。

これは聞かねばならないと思ったが村人の姿が見えない。

さて、どうするかと思案していたら軽トラが目の前を通って県道下の敷地内に入っていった。

村の人の帰還と判断。

これを逃しては機会損失。

車を降りるなり声をかけさせてもらった。

事情を伝えて知りたい神社行事を尋ねる。

毛原の氏神さんは八阪神社。

一度だけ取材させてもらったことがある。

毎月一日に参集される再拝だ。

再拝と書いて「さへい」と呼ぶ行事は平成22年の4月1日に訪れたことがある。

「さへい」は朔幣や佐平と書かれる地域もあるが、毎月一日に氏神さんに参る日。

一般的には月並祭と呼ばれている月初めの参拝である。

6月行事に書いてあった「端午の節句」は同神社の年中行事。

宮守こと一年任期の村神主四人が務める。

四人の構成はホンカン(本音)と呼ぶ主たる村神主が一人。

毎日の清掃がたいへんだと云っていたことを思いだす。

もう一人はジカン(次音)と呼ばれる次の年にホンカン(本音)と呼ぶ主たる村神主になる人。

その二人に二人の「ミナライ」がつく。

一年を担うのであるが、服忌になるやもしれない。

その場合は神社行事に仕えることはできない。

一等親であれば半年。

でなければ49日の服忌期間を経てから戻る。

それを「マクラナオシ」と呼ぶようだ。

四人ともずっと健在でいることは難しい。

なにが起きるや判らないからミナライまでもつけるということだが、実際は見て、体験して覚えるということだろう。

さて、「端午の節句」が気になったのはチマキである。

旧暦節句の6月5日であればチマキが登場する可能性が大きいと思ったのだ。

尋ねたKさんは前年のホンカン(本音)だった。

服忌ではないが、病に伏した。

入院手術もした。

退院してからも難儀な身体になった。

家を出て歩くのもそろりそろり。

処置して貰った病院は現在私も通院中の病院だ。

病状は異なるが辛さは理解できる。

私同様に最近になって専ら動けるようになったそうだ。

立ち話で教えてくださった「端午の節句」のチマキは隣村の大字勝原にある「上島製菓」。

甘い和菓子専門のお店に頼んで作ってもらうチマキは粳米が主分。

味が若干ことなることから何かを入れているらしいという。

後ほど聞いたF婦人の話しではモチ米を加えているようだ。

チマキはたぶんに米粉を水で練った団子のようなもの。

長く伸ばしてカヤの葉で包む。

縛るのはたぶんにチガヤであるかも知れない。

団子は作ってもらうがカヤの葉に包むとか縛るとかはホンカンらがしなければならないようだ。

チマキは5本組に縛る。

これが難しいと云う。

神社に10本。

神社境内にある神武さん(神武天皇遥拝所)にも10本。

そこより少し登ったところにあるコンピラさんには5本。

逆に神社より下った左寄りのイナリさんにも5本。

合わせて30本を先におましておくと云う。

それから皆が揃って参拝するらしいが10人ぐらいであるようだ。

平成22年に訪れた再拝のときもそれぐらいだったことを思いだす。

今年からは供える30本にしたが、昨年までは村の各戸に一本ずつのチマキを配っていたという。

手間と費用の関係で抑えたようだ。

ちなみに4月も節句がある。

4月3日は神武さんでもあるし、旧暦節句の桃の節句でもある。

そのときのお供えはヨゴミ。

ヨモギが訛ったヨゴミである。

3月半ばころから芽が出だしたヨゴミの葉を摘み取る。

背負う籠いっぱいに詰め込む。

2杯半も収穫するのはたいへん。

ちなみに何年か前にホンカンを務めたF家の奥さんもたいへんやったという。

端午の節句の材料はカヤの葉の刈り取り。

県道下に生えている葉幅が太くて長いカヤの葉を選んで刈り取ったと話してくれた。

毎日は神社の清掃が欠かせなかった。

ご主人は勤め人。

朝早くに参拝を済ませて仕事に向かう。

そのあとの清掃は奥さん一人。

雪が降る日を除いての毎日。

午前10時ころまでかかったという。

話しを戻してヨゴミに移る。

摘んだヨゴミは蒸して柔らかくする。

それを米粉に混ぜて練る。

三升も作るからそうとうな量である。

6月の行事は神社行事でなく寺行事もある。

それが「田の虫送り」である。

Kさんの話しによれば現在の営みは拝みだけのようだ。

村役、檀家総代らが集まって拝む。

終わって酒を飲み交わす。

かつては拝みでなく火を点けた松明を翳して村中を歩いていたという。

その様子は隣村の下笠間と同じように集落から室生川へと練っていたようだ。

なお、トンド焼きはかつて2カ所で行われていたが、下笠間同様に一カ所に集約された。

(H28. 5.21 SB932SH撮影)

テントバナにカマ

2016年11月19日 09時33分03秒 | 山添村へ
平成23年のことである。

「今でもしている」と男性が話していたものに飛びついた。

していると云っていたのは5月に行われる「オツキヨウカ」だった。

かつて村では3軒の家が行っていた家の風習である。

それから度々訪れる男性が住む家のカド。

そこに竿を立てて花を飾った「テントバナ」は平成24年、平成25年、平成27年の3カ年。

親族に服忌があった平成26年は中断されたが・・・。

福井県や滋賀県などの民俗を調査している写真家Kの望みを叶えてあげたく、奈良県内の山村を訪れた。

屋敷がある地に向かうには村の寺地のほうからが行きやすい。

反対側であれば車を駐車するには難がある。

そう思って駐車した寺本堂にはかつて利用していた龍吐水がある。

江戸時代のモノではないが、役目を終えた龍吐水も民俗。

保存している地域は多くない。

珍しい消防の道具も記録しておいたほうが良いと伝えて解説する。

オツキヨウカの現場はそこより徒歩百歩ほど。

急な坂道をのろりのろりと登っていく。

高台に石垣がある。

旧村の佇まいをみせる民家が現われる。

瓦屋根に紛れていたが、それはすぐに判った。

赤い花はベニツツジ。

今年もまたされていた男性のオツキヨウカ。

伐採した竹の葉を刈り取って括り付けたベニツツジは前回同様に付近で採取したものであろう。

背景にある屋根を外して撮ってみれば・・・。

初めて見るモノに驚く。

見間違いでなければ・・・農具のカマ。

同村に住むT家は平成19年ころまではオツキヨウナのテントバナを立てていた。

その当時にしていたテントバナの話しを聞いたことがある。

同家のテントバナの竹の先端にカマを立てていたと云っていた。

話しだけであるから実物は拝見していない。

T家と親しい男性はその仕方を聞いたのかもしれない。

これまで取材してきたが、刃を上向きに縛っていたカマを見るのは初めてだ。

その様相が判りやすい場を小刻みに移動しながら写真を撮る。

カマの形が鮮明になるような場の背景に草木があれば判り辛い。

そう思って選んだ背景は「空」である。

ちなみに後日に伺った写真家Kは所有者とお会いした。

そのときに答えてくれたカマの意味。

数年間の取材に私が漏らした「カマ」立ての話題提供に触発されて今年はじめてそうしたと云う。

カマの意味は大風に負けないように風を切る役目。

どちらかといえばまじない的な道具であるが、この在り方を聞いたのは同大字に住むTさんからだ。

私はTさんがかつてしていたことを伝えたまで、であることを付記しておく。

(H28. 5. 8 EOS40D撮影)

北野の田園で想う

2016年11月17日 09時29分34秒 | 山添村へ
民俗探訪に奈良市の高樋町、天理市の下山田、奈良市の月ヶ瀬桃香野を巡ってきた。

県内事例は地区によって大きく異なる。

地区特有の行事や風習もある。

それらは年々に変位がある。

もちろんずっとそのままの状態で続けている地域もある。

私にとっての民俗探訪は聞き取りなどがより一層充実してきたと思っているが、身体的な具合によってスピード感を押さえなくてはならない時期にきている。

そういう時期に出合った写真家がいる。

土着的な民俗を中心に収録されている写真家の取り組みは私以上のように思える。

同行取材をしていると気迫を感じることも多々ある。

この日もそうだったが、ここらで一息ついて田園を眺める。

訪れた地は山添村の大字北野。

もしかとすればウエゾメ(植え初め)をしているかも知れないと思って探訪した。

あれば12本のカヤを田んぼに挿しているはずだ。

そこにはフキの葉も12枚。

皿に見立てたフキの葉にはオセンマイもあるはずだ。

そう思って田んぼを探してみるが見つからない。

山から流れる水を田に引いているところがある。

すでに田植えを済ませた田んぼもあるが、見つからない。

歩きながら探してみた記憶の中にある田んぼ。

何度か往復してようやく見つけたが、水が張ってあるだけだった。

時期尚早であったかもしれない。

仕方なくその場を離れた。

歩いて十数歩の場は茶場。



夕陽が差し込んで新芽が美しく輝いていた。

(H28. 5. 5 EOS40D撮影)

切幡の社日のミトマツリ

2016年10月05日 09時17分46秒 | 山添村へ
この日の相方は滋賀県の民俗行事を主に取材している写真家のKさん。

矢田原の子どものねはんの取材を終えて、空いた時間を有効的に活用したく、ここら辺りの民俗を漫遊してみようということになった。

今年の社日(しゃにち)はすでに終わっている。

春の社日は年によって小幅に動く。

社日は祈願の中日に最も近い戊(つちのえ)の日である。

今年は3月17日になる。

社日は土地の産土神を祭る日。

土地に感謝する特定日に農の祭りごとする地域がまれにある。

とはいっても地域行事ではなく農家の風習ごとである。

稲作に一番大切な土地は田んぼ。

そこに祭る諸々は家によって異なるが、奈良県内ではモミマキやミトマツリになるようだ。

そういう風習があると聞いている地域はこの日訪れた山添村切幡がある。

当地は3軒あると聞いているが、1軒だけは家は判っているものの田んぼの位置が掴めていない。

社日のミトマツリは切幡以外に奈良市の東山間部もある。

一つは旧都祁村の上深川町。

もう一つは北村町。

さらに北上した下狭川町もある。

これまで取材した地域は切幡の2軒と下狭川の1軒。

いずれも「社日のミトマツリ」と称している。

「社日」の日でなく4月初め、土用の入り後の良い日にしていると話していたのは誓多林町の人だ。

平成24年4月17日だったから1カ月後になる。

同家のミトマツリは萬福寺で行われるオコナイのウルシ棒がある。

祈祷された牛玉宝印の書を巻き付けている。

煎ったハゼゴメをその辺りに落として彼岸講ノオコナイで豊作を祈祷されたごーさん札を立てる。

ハウスになったがそこで祭って拝んでいたのはN婦人だった。

今でもしているだろうと思って伺ったが、である。

ご主人が出てこられて天に昇っていったという。

なんということだ。

誓多林で生まれ育ったN婦人は母親がしていたことをそっくりそのまま継いでいた。

いくつかは簡略化されたが豊作を願い農家の在り方をずっとしてきた。

毎年、実施されていたそんな在り方を教わること、多し、だった。

知人のカメラマンさんも同家を訪問、取材していた。いくたびも「最近はけーへんな」と私のことを心配してくれていた。

たしかにここ2年間は無礼をしていた。

婦人の声を聞いた最後の日は平成26年9月24日だった。

取材したかったカキヌキのアカメシ御供だった。

蒸すには手間がかかるなどあれこれあって断られた。

対面した最後の日は平成25年3月24日だった。

取材させてもらった十九夜さんの写真を手渡しに立ち寄ったときだ。

まさか、まさかの死去はつい一カ月前。

気になっていたがもう会えない。合掌。

そして訪れたのが山添村切幡のT家。

T家は今時珍しくなった三世帯住宅。

働き者の息子家族に孫さん家族も。

家族揃って素麺を製造しているし、稲作もある。

平成26年の3月18日には同家がされた社日のミトマツリを拝見したことがある。

たぶんにしているだろうと思って訪れたのだ。

以前に拝見した同じ場所に立ててあった。

親父さんも息子さんもこの日は休日を楽しんでおられた。

一年ぶりにお会いする家族に歓迎される前にはとにかく写真。

目の色が輝いていた相方は奈良県で初めて見たのかミトマツリの状態。

盛んにシャッターを押していた。

同家は昨年に自宅を改造された。

いわゆるリフォームである。

「外観だけだよ」とおっしゃっていたがそうでもないように思える。

その玄関に立てた日の丸の旗。

この日は春分の日の祝日である。

苗代田の畔に立てていたのは正月七日に行われた極楽寺のオコナイで祈祷されたごーさん札である。

元々は上出垣内は極楽寺、下出垣内は常住院。

それぞれの垣内は垣内の寺でオコナイをしていた。

ずいぶん昔に常住院は廃寺となりオコナイ行事は極楽寺一本になった。

オコナイ行事に僧侶は登場しない。

二人の村神主が寺世話を担う。

ローソクを灯したお堂に集まってしばらくすればごーさん札に押した朱印を参列者の額に押す。

赤いマークが額に残る。

スタンプではなく朱肉だから風呂に入ってごしごししないと消えないぐらいに残存率が高い。

かつてはこのごーさん札を挟むウルシの木の棒もあった。

山に行けばあるところにはあるらしいが、入手は難しくなってきた時代にウルシの木は登場しなくなった。

お札だけが残ったのである。

僧侶もいないオコナイに祈祷を終えたお札は家に持ち帰る。

これを今でも苗代に立てているのは3軒ぐらい。

自前で採取してきたウルシの木の棒に挟んで畑の土手の水口に立てる。

花をつけたヤマツバキの枝木も立てる。

傍に半紙を広げて洗い米と小豆を供える。

その場を離れたら狙っていたカラスが飛んできて食べてしまったと云う。

重さをなくした半紙は風に飛ばされて隣の田んぼにあった。

かつてはこの場にオンダ祭で授かった杉苗もあった。

オンダ祭は諸事情で中断した。

そういうことから懐かしいという話だけが残った。

(H28. 3.20 EOS40D撮影)

オツキヨウカのテントバナ

2016年03月18日 09時31分38秒 | 山添村へ
昨年は服忌でテントバナを中断された当主。

今年はどのような状況にあるのか訪ねてみた。

前日も立ち寄った山添村の住民。

例年であるなら翌日に作る花を採ってきて水槽に浸けているはずだと思って立ち寄ったが当主は不在。

気になる花もなかった。

もしかとすれば今年も服忌であるのか・・・と思いながらこの日も訪れた。

下にあるお堂の駐車場に車を停めて急坂を登る。

ふっと見上げてみれば鮮やかな花の色が目に入った。

当主は採ってきた大きなタケノコをナタで削っていた。

「息子にあげるんや」と話しながらいつもの笑顔で応対してくれる。

作業を済ませ出かける家の事情で今年はいつもより1時間早めて立てたというオツキヨウカ。

やや雲が広がっていたがときおり差し込む光で輝いていたオツキヨウカのイロバナ。

今年の花は例年よりも一週間も早い。

ヤマブキは採ってきたものの花がボロボロ落ちたそうだ。

逆に、いつも探すのに苦労していいるフジの花はどことも花盛り。

いっぱいあったという。

フジの花だけでは寂しいだろうと神野山IC付近に咲いてあったツツジを採らせてもらったという。

神野山はツツジの山。

例年になく満開だったという山添村大塩のYさん。

ツツジ祭りの役員もしていたので忙しかったと話していた。

出かける時間を気にしながら納屋内に保存している数々の農具を見せてくださる。

写真は撮らなかったが、相当数の農具の中には昭和18年の墨書があるふるいのトーシもある。

木を引っ張るトチカンもある。

引っ張っていたのは牛だった。

随分前のことだ。

製茶業もされている当主。

カドで刈り取った稲を干す菰筵もある。

その数、およそ40枚。

天井から吊り下げている。

こうしておかないとネズミが喰ってしまうという。

菰編の機械も残している。

前日に撮らせてもらったサシナエ作業。

腰にぶら下げた竹籠を「シングリ」と云っていた。

それもあると云って拝見する。

使いこなした竹製の「シングリ」もあればナイロンやバンドでこしらえたカラフルな「シングリ」もある。

おばあさんが生前に欲しいと願われて行商にきていた男性から買ったという。

行商は大阪の和泉から来ていたという。

苗はJAで購入するようになったが、かつてはそれぞれの家で苗代を作っていた。

そのハウス栽培になってもミトマツリをしている当主。

田起こしの写真を撮らせてもらった場は苗代田だった。

直撒きをしていた時代はそこに葉付きの杉木を水口辺りに立てていた。

これを「ミトマツリ」と呼んでいた。

(H27. 5. 7 EOS40D撮影)