goo blog サービス終了のお知らせ 

マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

三位一体のくらしといのり講座

2011年06月02日 16時52分15秒 | メモしとこっ!
4月16日から県立橿原考古学研究所附属博物館で開催されている春季特別展「弥生の里-くらしといのり―」の研究講座があった。展示初日に拝観させていただいたがお話を聞かなければ深みを得ることはないと思って県立橿原考古学研究所へ出かけた。講演は1.春季特別展の解説、2.御所市中西遺跡の調査成果、3.弥生の里の田んぼの虫たち生き物たちの3部構成。会場では多くの聴講生がおられる。年代からいえばおそらく博物館の友史会の人たちが大勢をしめる。会場はあふれんばかりで遺跡、古代ファンだと思われる170人。民俗関係の講演では考えられない人数だ、と思うが講話が始まったとたんにイビキの音色が聞こえだした。

<春季特別展「弥生の里-くらしといのり―」について>
「弥生の里」をキーワードに検索してみれば「温泉」にたどり着くそうだ。弥生の里はお風呂屋さんの名前が多いらしい。実際の弥生の里は発掘調査で出現した。京奈和道路の建設工事に伴って調査されたとき数々の里山が発見された。県内盆地部で発掘された調査成果をもとに復元展示されている特別展。弥生の里山の発見から当時はどのような生活をおくっていたのだろうか。水田から山々とともに暮らしてきた状況は中西遺跡で明らかになってきた。その様相はポスターなどに使われている。当館は小学生の遠足を兼ねた見学が多いそうだ。春の学習はちょうど弥生時代。その学びを深め、知っていただく博物館。小学校高学年対象の「こども考古学講座」も開催されている。次世代を担う子供たちの学びはとても大切なことだと思う。
唐古・鍵遺跡からは成人男性の骨が発掘されたそうだ。それは復元された顔のレプリカとなって登場する。同じ顔ではないが弥生人が暮らしていた登呂遺跡は後期。10㎡ほどの小水田は集落より低地にあった。それは現代でも見られるのどかな農村風景を醸し出す。高床式倉庫にはハシゴが掛けられていた。階段の端はネズミ返しがある。蔵のコメを食べるネズミが入ってこないようにした工夫の板だ。八尾南で発掘された竪穴住居は住まいが1m下。ハシゴで乗り降りする。ハシゴは現代とは異なる板状にくぼみが掘られている。靴を履いていれば登りにくいが裸足であれば登りやすいそうだ。裸足で暮らしていた証拠は水田に残された足跡でも判明している。親指の痕がはっきり残っている。当時はまだわらじがなかったのだ。集落遺跡の発掘は進んでおり小さな水田が多数発見された。なぜに小さいのか。大きい水田は平らにしずらい。根を張る稲は水がなければならない。しかし水を張ったままでは稲は強くならない。現代でもされている土用干し。水は一旦抜かれる。ヒビが入るくらいに田んぼを乾かす。そうすると稲は水をほしがって根を張るのだ。その話は昨年に農家の人に聞いた土用干しの理由だ。それはともかくなだらかな斜面に大きな水田は難しい。小さな区画割りはその当時の技術水準であったのだろうが現代でも大規模水田は少ない。埋め立て整備された土地はともかく山間を含めた日本の耕作地では小規模水田が適しているといえる。先日のニュースで報道されていた地震の影響で壊れた水田。小水田であれば修復はしやすいという。発掘された水田には水口(みなくち)がみられた。それがない水田もあるらしい。
5点の銅鐸が発見された桜ケ丘遺跡。1号銅鐸には狩猟の絵が刻まれている。鳥取や滋賀守山でも発見されているそうだ。それには一年間の生活か、農耕儀礼と思われる絵がある。銅鐸で見る弥生時代の暮らしぶり。シカは苗を食べる。その害をもつシカを人がおさえている。稲作は冬から始まる。田んぼを荒起こしをして土に空気を入れる。その道具がスキやクワだ。なぜに多くのシカ絵が描かれたのか。シカ絵にツノがあるのは土器。ないのが銅鐸。オスかメスか判断しにくいがと・・・。田んぼを荒らすのもシカだが、8世紀の播磨風土記にはシカの血をかけると豊作になると書かれているそうだ。害獣、益獣の2面性をもつシカ。ツノがあるのは立派に育った意味なのか、それとも生え換わりする成長サイクルをあらわしたものなのか文字をもたない弥生人のメッセージは絵画で残された。

<御所市中西遺跡の調査成果>
春季特別展のモチーフとなった中西遺跡。調査は根性で乗り切れるが発表はそうはいかないと言ってツカミをとった研究員。思わず拍手をする。南に巨勢山をもつ遺跡は満願寺川下流の扇状地。巨勢山には7百ほどの古墳群に條ウル神古墳、室宮山古墳、秋津遺跡があるそうだ。それがあるだけに中西遺跡も当初は古墳時代だと思われていた。ところが調査地が拡がるにつれ発掘されたのは弥生時代の水田。さらに森が発見された。弥生時代の洪水痕は地層が厚い。一挙に埋まったのであろう。それはどこからやってきたのかまだ解明されていない。高低差からいえばおそらく巨勢山が考えられるが・・・砂地である。山は粘土質なので他所からかもしれない。流木、倒れた木、生存していた木などさまざまな樹木の幹や根が発見された。森の中には西から東へ蛇行する流路がある。川岸の木は流路に向かって斜めに生えていた。年輪もさまざま。ツバキは30~90年、カエデ属は10~50年。イヌガヤは100年ものもあり11年もののフジが巻きついていた。現在でも利用価値が少ないとされるコクサギは2~15年。オニグルミは10~30年。クワなど土木木材として使うアカガシは60年以上とも。ムクロジは10~70年。ムクノキは30~90年。ツチノキ、クリノキ・・・。ニレやヤマグワ痕の周りには弥生人が歩く姿を想定できる足跡がたくさん発見された。森の中で食糧を求める姿だ。石鏃(せきぞく)もあれば動物の足跡もみられることから狩猟の場でもあった。焼け跡がある表面、径1mのエノキには伐採した痕が残されている。石斧で伐採した実験考古学。そのハツリ方法が見えてきた初の発見だそうだ。水田、森には煮炊きした痕が発見されていない。住まいした集落はどこにあるのだろうか。洪水痕の表面はその後も開発された水田があった。災害を乗り越えて生活してきたのであろう。

<弥生の里の田んぼの虫たち生き物たち>
日本列島は東アジアモンスーン地帯。青森の遺跡から発掘された炭化米によって水稲の歴史は縄文時代晩期からであったことがわかっている。2800年前のことだと話される。それまでは弥生時代(前期で2300年前)が水稲の始まりだったと思われていたが大きく覆された大発見である。その炭化米は中国長江から流れてきたジャポニカ米だったことがDNA鑑定で判明しており海を越えてやってきた人たちがもたらしたものと想定されていると話す下学芸員。
唐古・鍵遺跡では炭化米もあったがさまざまな生物も存在していた。内濠、外濠で囲まれた環濠集落。ムラの外は水田でさらに森があった。その間にあったクヌギ林は2次林だというからそれは食糧の森であろう。エノキの葉を食べるタマムシが発見されている。メスがタマゴを生んで幼虫が木の髄を食べて育つ。タマムシが居たということはエノキが生えていたということだ。縄文人も食べていたというオオスズメバチ。高タンパク、高脂肪の昆虫は当時の食糧。先月には丹生町に住んでいる人に勧められてそれを食べた。噛めば甘く口に広がる味。もう一度食べてみたいおつな味は美味かった。ハチ好きな人にはこたえられない味だ。食べられる昆虫だけでなくさまざまな生き物が発見されている。ハナムグリは花に潜って花粉をつける。その様子から名付けられたそうだ。センチコガネは西洋のフンコロガシのようにフンダマ(糞玉)は作らない。奈良公園のセンチコガネは参加した自然観察会で教わった。シカのフンはセンチコガネの住処だ。野生動物のフンが生活環境であったことから多くの動物がいた。肉食性昆虫のカマキリやコガネグモが銅鐸に描かれている。四方に伸びる四本の足をもつのはアメンボウであろうか。古代人が伝える昆虫は何を意味するのであろうか。
イチモンジセセリの幼虫は稲の害虫だといわれているが実際はそうでもないらしい。ウスバキトンボは6月初夏に東南アジアからやってくる。タマゴを産みつけ秋に成虫となって日本で死ぬ。一方、アキアカネは日本で生まれて育ち死ぬ。大移動はないが7月に羽化して暑いうちに山間に移動する。小移動だがその際に色が赤くなる。涼しくなり収穫が終わった田んぼに戻ってきて産卵をする。田んぼで冬を越して代掻きのころに卵から孵る。乾燥に強いタマゴなのである。不思議な生態だが先の水田水張りの話。水を張った田んぼは一旦切る。それで稲の根を張らす。そのときのヤゴは育っているのだ。その田んぼに水が張られたときのことだ。カブトエビ、カイエビ、ホウネンエビが見られる。自然観察会でもお馴染みの水生昆虫類だ。カブトエビは元々砂漠にいた生き物。乾燥した砂漠は厳しい環境。そんななかでしか生存しないカブトエビ。20年以上の乾燥であっても孵化したという実験結果が得られているそうだ。カイエビは3億年前の昔から日本にいた。ホウネンエビは田んぼが豊作になるという昆虫だ。田んぼの水の泥をかきあげてかく乱する。雑草がはびこるのを防ぐ。これらの水生昆虫がいる田んぼは稲の実りが良い。初夏、ユスリカが大量に発生する。それは蚊柱(かばしら)現象に現れる。それを食べるヤゴ。トンボの成長に繋がる。まさに生き物によって田んぼの営みが支えられているのである。ホタルの幼虫は何を食べているのか。ゲンジボタルはカワニナ、ヘイケボタルはヒメモノアラ貝やサカマキ貝にタニシやどぎつい色のジャンボタニシだ。1980年代、食用のために業者が台湾から輸入した南米原産とされるジャンボタニシはエスカルゴの味には到底ならなくて野生化し繁殖してしまった。もちろん弥生時代には存在していない。
稲の害虫にウンカがある。背白ウンカは6月下旬ころに東南アジアの大陸から飛んでくる。ヨコバイもその仲間だが種類によっては稲につく位置が異なる。上部の実がある部分はツマグロヨコバイやヒメトビウンカ。中部の茎は背白ウンカ。下部はトビイロウンカだそうだ。水面にいるケシカタヒロ(芥子肩広)アメンボは水面に落ちたウンカを食べる。食物連鎖は稲→ウンカ→カエル→ヘビ→トビへと。藁に着く微生物はミジンコ→オタマジャクシ→ヤゴ→カエル・・・。ヒガンバナが咲くころが実りの時期。収穫に繋がる生き物のにぎわいが営み。それらの食物連鎖の様相を銅鐸に描かれたのであろうか。何十年も参加してきた自然観察が考古学に繋がった。民俗行事取材や自然観察会に努めてきたことがこうして三位一体となった・・・と思う。

<プレートテクトニクスから地震考古学>
ここで加えてほしいのが地球物理学だ。はるか昔、地球が誕生して今も生き続けている地球。昭和50年(1975)に発刊された日本語版別冊サイエンス誌で読んだプレートテクトニクス理論はマントル対流によって・・・と解説されている。読んだのは今から36年も前のことだ。1912年にヴェーゲナーによって提唱された大陸移動説のプレート移動概念を導入して体系化された理論。地球には割れ目がある。そこから動き広がる地球のプレート。40億年前から動き出した大陸移動は地殻の運動。火山、地震発生に活断層の根源はそこにある。
寒川旭さんが当時通産省工業技術院地質調査所研究官だった時代に創始(その後に提唱)された学問である地震考古学。発表時点ではそれほど注目されていなかった。研究の専門は活断層。それまでの研究で活断層をほぼ特定された氏は、昭和61年(1986)滋賀今津の北仰西海道遺で現場の発掘担当者から地震の痕跡を尋ねられたことがきっかけだったという。昭和58年(1983)に発生した日本海中部地震で海面に面した水田地帯に噴き出した噴砂の現象を思い起こされたそうだ。液状化現象によって砂が噴き出す。その痕跡だと考えられる古墳には幅1mぐらいの砂がつまった溝のような割れ目。それは下部が末広がりになっていたという。それはまぎれもなく古代の地震記録。調査の結果、それは縄文時代後期に発生した地震だった。それからは本格的に各地を調査されたそうだ。年代を特定すれば周期がある程度断定できるのでは、ということだ。平成8年5月13日発行の産経新聞記事が手元にある。「被災地からレポート活断層の履歴・遺跡が語る爪跡」の切り抜きを取っていた。それによれば文禄5・慶長元年(1596)に発生した慶長伏見地震で豊臣秀吉が築いたばかりの伏見城が倒壊した。神戸市の兵庫津遺跡からは液状化現象が、同市の灘区の西求塚古墳内部には石室が真っぷたつで墳丘が横に移動した無残な姿が検出されたという。京都八幡市の木津川川床遺跡や内里八丁遺跡でも大規模な液状化現象があった。大阪の門真・守口に跨る西三荘・八雲東遺跡もそうだった。それは400年も前の地震状況を伝えている痕跡だった。
当時の研究名称は、まだ名がついておらず古代学研究会での発表タイトルは「考古学の研究対象に認められる地震の痕跡」だった。遺跡調査の過程で佐原眞氏(2002年没)から発展性のある研究だからと「地震考古学」名をつけられたようだ。昭和63年(1988)のことだというから比較的新しい学問だが、寒川氏も液状化現象もなぜか知っていた。それより以前にテレビ放映されたことだと思うのだが・・・腰は低く柔らかい口調だったことだけは覚えている。阪神大震災が発生したのは平成7年(1995)。その年に再版された「地震考古学(1992年初版中公新書刊)」は隅々まで読み漁ったことを覚えている。液状化現象で出現するのは砂噴。粘土室ではない。ということは川砂が溜まった沖積平野、扇状地であろう。埋立地ならなおさらだ。さらに堆積した貝塚が発見される地がある。何万年も前は海だった証し。それも液状化になりやすいのだろうか。そういった知識をもたないが地質学・地球物理学にも考古学は繋がっていくのだろう。そう思って蔵書を引っ張り出してみれば「考古学の散歩道(1993年初版岩波新書)田中琢・佐原眞共著」がでてきた。『考古学は遺跡から発掘、収集した情報によって人の生活活動の歴史の再構築を試みる研究分野だった。そう考えるのが学界の常識だった。しかし、状況は変化しつつある。発掘には遺跡そのものだけでなく、動物相、植物相に関する情報が過去の人間をとりまく自然環境も含めて考えねばならない』と田中琢氏(2002年没)が語っていた。この本を読んでから既に18年も経った。時代は混とんとしてきたがそれ以上のモノはでていない・・・と思う。

(H23. 4.24 SB932SH撮影)

弥生の里~くらしといのり~春季特別展

2011年05月23日 08時53分22秒 | メモしとこっ!
待ちかねていた春季特別展が始まった。展示されているのは奈良県立橿原考古学研究所附属博物館だ。何年振りに訪れたのだろうか。馴染みのある会場に懐かしさを感じる。その初日、入館はさほどでないのが助かる。失礼な言い方だが落ち着いて拝観できるのがいい。古代の発掘が新聞報道されるとワクワクする。何度か機会があればでかけていた。発掘調査を終えれば再び地面の中に戻される。一生に一度しか見ることができない。行事の取材が増えるにつれて行けなくなってきた。この4月からはフリーな毎日。ありがたい日々を送っている。発掘は現地説明会で見聞きするのがいちばん。際立った発掘がされれば報道も力が入る。そんな現説には大勢の古代史ファンが訪れる。

今回の企画展示は「弥生の里~くらしといのり~」。弥生時代の発掘成果に古代のくらしや祈りを伝える企画展。古代には祀りがあった。それは農耕の祈りでもある。弥生時代から稲作が発展してきた日本列島。奈良でもその証が土の下から発見される。時代名称となっている弥生。いつからそれが呼ばれるようになってきたのだろう。解説によれば明治17年に東京の弥生町から発掘された土器が発端だとある。縄文土器とは異なる文様が発見された。藁縄の文様が消えていた。それが特徴だと出土地の名をとって弥生土器と名付けられた。そうだったのか。普段なにげなく使っている時代名称はここにあったのか。このころに稲作が始まったとされているが土器の変遷とは一致しないそうだ。明確な基準点が見つからないようだ。静岡の登呂遺跡にはスキやクワなどの農具が発見されている。もちろん土器は弥生式だ。1970年代、日本各地で発掘された水田遺跡は小区画水田だという。そこにはウリ、トウガン、ヒョウタンなどの食べ物も発見されている。もちろんそのタネであろう。
奈良県で発掘された、かの有名な唐古・鍵遺跡は弥生時代の大規模集落。他にも大和高田の川西根成垣(ねなりがき)、橿原の一町(かずちょう)や萩之本、御所の今出や中西遺跡。いずれも洪水によって砂に埋もれていた状態で水田が検出された。暴れ川であったのだろうか。自然災害の洪水の恩恵で古代からのメッセージをこうして現代に伝えられたのだ。発掘されたのは大和御所道路の工事である。現在も工事は進められており、その都度新たな発見がされている。解説にある根成垣は環豪集落だったそうだ。溝に架けられた橋跡も発見されている。それがあるということは飛んでも渡れない、川幅が広かったということだ。唐古・鍵遺跡は大規模の環豪集落だった。県内の盆地部の旧村ではいたるところが環豪集落である。それは150~200カ所もあるという。それらは室町期に発達したとされる。環豪は村を守る濠である。戦いの際の防御の役目だ。旧村の環豪は溢れる水を逃がすためでもある。弥生から室町へとどのような変遷があったのだろう。人口増加、農作の発展、独立する小村落・・・。いずれにしても弥生時代から環豪集落があったことは事実だ。中西遺跡では付近に森林があった。ヤマグリ、オニグルミ、アカガシ、エノキ、ムクノキ、クリ、トチノキ、マメノキ、クスノキ類など多様な樹木。森の樹木は若いもので5年、古木は100年だった。それは農具の材料にもなっていた。実は食糧だ。森はムラを守る生活維持の場であった。
銅鐸に描かれている動物や昆虫。それには一年間の暮らしのなかの古代の季節が刻印されている。ツノの無いシカを射る弓矢をもつ人物絵。魚をくわえたサギやスッポン、ヤモリ、カエル、ヘビなどの動物にクモ、カマキリ、トンボなどの昆虫も・・・。いずれも季節ごとの水田に生息する生物だ。ここには自然とともに暮らす弥生人がいた。カマキリやクモは稲に害をあたえる虫たち。カニやシカは農作物を荒らす。そのシカを捕える姿。描かれた絵には稲作の予祝儀礼を現わしているのかもしれない。平安時代の虫追いの様相が書き記されたとされる「古語捨遺」。イナゴ害を払う手段として「牛のシシ肉」を溝口に置いて男茎(オハゼ)の形を造ってツスダマ、ハジカミ、クルミノハ、シオ(塩)を畔に置くとあるそうだ。当時の様相ではなく、かつてのことで記億の領域であったかもしれない。そのあり方は現代に伝わらず、松明を持って田畑を荒らす虫を追い払う仏式行事となったのだろうか。
唐古遺跡ではさまざまな動植物が発掘された。カモ、キジ、ツグミ、イノシシ、シカ、ハタネズミ、ムササビ、アオダイショウ、トカゲ、スッポン、ドジョウ、シジミ、コクワガタ、オオスズメバチ・・・。古代人はそれらを食べていたのだ。現代でも食べられているものが土中に埋もれていた。美味いものは時代を超えても同じ味覚なのであろう、私が食したのはイノシシ、シカ、スッポン、ドジョウ、シジミ、オオスズメバチなど・・・。剥製や骨格標本などで実物を紹介している。里山とともに暮らしてきた弥生人の自然文化誌が再現されている。
今回の特別企画展では農耕儀礼を紹介する行事写真で協力している。写真のことはともかく、県立民俗博物館からはその行事に使われた道具を出展協力されている。田原本町今里の蛇巻きの牛と馬や農具のミニチュア。ハシゴ、カラスキ、クワ、スキ、ツチ、オノなどは丁寧なつくりで道具とは思えないぐらい精巧な出来栄えだ。橿原地黄町の野神祭からは大きな絵馬がある。「例年の通り大豊作 五月五日」と記された絵馬には農夫が牛を引いて田んぼを耕作する姿の風景だ。水口祭りに奉られる松苗、ゴーサンの祈祷札もある。虫送りに使われたでっかい松明。イノコのデンボまである。
機械化で消えて行った牛耕。農耕のあり方は変わっていったが、昔も今もそれほど変わらない一年間の稲作。会場ではその一部始終を写真や解説で紹介している。発掘された過去の遺物から弥生時代の暮らしぶりやいのりを物語る。現代の様相は農耕儀礼を祭る行事として展開された。そうした接点を考えさせる春季特別展に感動するが、来館される拝観者の視線は煌びやかな発掘装飾品に目が奪われていく。自然とともに暮らす農耕に興味をもつ人は少ないが、次世代を担う子供たちの学校教育には最適な教材になるだろう。これら展示物を開設した図録はそれに活用できるものと思っている。

春季特別展「弥生の里-くらしといのり―」
開催期間 平成23年4月16日(土)~6月12日(日)
開催場所 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 <奈良県橿原市畝傍町50-2> 9時~16時半
休館日 月曜日
入館料 大人800円、高・大学生450円、小・中学生300円
図録 700円(館内販売)
<館内は撮影禁止>

(H23. 4.16 SB932SH撮影・スキャン)

判断、決断

2011年04月22日 07時39分38秒 | メモしとこっ!
3月11日に発生した東北関東大地震で地震、津波、火事に続いて原発事故までも。

襲いかかる災害にデマメールが飛び交う。

発生から数時間後にはツイッターちゅうもんで早くもデマメールが出回った。

不安を煽るチェーンメールだ。

政府発表もしていないし確認もとれていないメールが大半。

義援金詐欺まででるであろうと思っていた矢先にかーさんが言った。

友人から大手電力会社の備蓄が底をつくから節電協力も支援になるからってことらしい。

知りあいに連絡を・・・。

広めて?ってなによ。

周波数が異なる関西から関東に・・・変換は大掛かり。

そんなことを一般のメールでお願いするはずがない。

「それはチェーンメールだ」直ちにデマだと返信しなさいといった。

かつてハガキでそんな内容のことがあった。

ハガキに書かれてあった電話は絶対するなといっておいた。

「騙り」、「支払詐欺」や過去には「幸福の手紙」のそれだ。

いつの時代もそんなデマ伝達が跋扈する。

テレビ映像を見続けているとおかしな情報でも正しいと認識してしまう。

だいたい送られてきたメールに正式な部署名がありますか。

連絡先がない電話なんてありますか。

ないでしょ。

それだけで気付くはずなんですけどね・・・。

そもそも“電力会社で働いている”個人がメールでお願いするはずがありません。

しかも「拡散希望」って、それだけでも怪しい。

冷静な判断ができていたかーさんもそれにはまってしまった。

パニックは風評からですが、その夜は政府通達で正式に翌日からの計画停電が始まった。

遠く離れた奈良では直接的に影響はないがイベントなどは中止としたケースがある。

大淀町文化会館で催される予定であった民俗のシンポジウムは当日の朝に急遽中止とされた。

前夜までは実施の方向だった。

それは原発事故の大きさを考えて中止とされた。

被害に遭われた地域では数多くの民俗行事が営まれている。

関係者への配慮をされて中止の決断。

それでは申しわけないと写真の展示はされている。

前日、施設に居たとき多数の電話が入った。

ひっきりなしにかかってくる問い合わせの電話。

それはリレーウォークが開催されるかどうか心配されてのことだった。

主催者からは中止の連絡は届いていない。

夕方までそれはなかったから実施されたのであろう。

そしてお城まつりも決断された。

行列、パレード、鳴りものなど派手なイベントは一切中止となった。

(H23. 3.13 SB932SH撮影)

展示作業追い込み支援

2011年01月06日 07時50分32秒 | メモしとこっ!
夕方までの仕事を終えて民俗博物館に向かった。

日が落ちて商店街の街灯りを行き交う人たちで交差する。

人混みの往来は年末の慌ただしさを映し出す。

矢田口からは学校を終えた学生たちが反対方向からやってくる。

次から次へと逆走する自転車を避けてさらに西に向かう。

着いた先が民俗博物館。

街路の灯火が道を照らす。

民俗公園内には人影が見あたらない、と思いきやヘッドライトに浮かび上がった。

こんな時間帯にも散歩する人が居るのだ。

それも愛犬の散歩とくる。

それはともかく呼び鈴を押して入館した。

企画展会場は体裁を整えつつある。



が、まだ整理できていないブースがあっちもこっちも。

空間を埋める写真はどれにするか。

場所のスペースや流れを考えてぱっぱっぱと決める。

ありがたく借用したモノモノの全体バランスを考えて調える。

ガラスケースに収まると企画展の誕生だ。

こうして数時間もかかった追い込み作業の夜が更けていく。

(H22.12. 9 SB932SH撮影)
(H22.12.10 SB932SH撮影)

慌ただしく駆け回る3

2011年01月02日 08時04分10秒 | メモしとこっ!
夏頃からお願いしていた井戸野の大注連縄を受け取りに行った。

製作されたご主人は春日大社の神田の田主で、昨年の抜穂祭の取材でお世話になった人だ。

井戸野大注連縄は八幡神社の鳥居や拝殿、傍の常福寺の山門に掲げられる。

近所の家にもそれらが掛けられていた。

数年ほど前の下見のときに目にした光景に感動を覚えたことがある。

それらの大注連縄はご主人がすべて作られたと地区の人から聞いていた。

その大注連縄が見事なので民博で展示できればとお願いしていたのだ。

ご主人の指導の下で私が製作する約束だったが、10日ほど前にあらためてお願いすれば、なんと。

「前日に民博用として1本を作ってあげる」と言われたのだ。

ありがたいことです。

そして訪れたこの日の朝。

倉庫には立派な形の大注連縄がどーんとある。

長さを測れば4メートルほどにもなる。

思ってた以上の長さだ。ご主人曰く「これだけの長さやったら企画展に相応しいだろう」と。

だが、私の車では中に入らない。

「軽トラやったら簡単に載せられるのになぁ」と話す隣家のoさん。

この方にも随分と世話になっている。

「今日、来るんやったら講のホラ貝とリンを持っていってや」と前日に言われていた。

箱に詰めた大切な道具。

それは車内に軽々入った。

肝心の大注連縄といえばだ。手慣れた手つきで軽バンに閉じこめていくご主人。

笹の部分は曲がってもえーからこうすんのやと言いながら車に括り付けた。

後ろの扉は開いたままだが動かないように固定した。

何から何まで世話かけた。

そろそろ走って民博へ。

直ちに予定していた場所に取り付けた。

長さも巾も実に丁度良い。

企画展入場口の真上にある簾型の大注連縄。

そこからは結界の神聖な場所をイメージする。

しかも新年を迎えるような格好になったが入館者は気がついてくれるだろうか。

(H22.12. 7 EOS40D撮影)

みん博・冬の企画展初の試み

2010年12月29日 08時16分55秒 | メモしとこっ!
紹介する写真の選別をほぼ終えたのは先月末だった。

これまでにもあーでもないこーでもないとこぼれる写真はいくらでも出てくる。

選りすぐりの写真でなくちゃと言われるが取り直しするにはもう時間がない。

揃わなけりゃ写真展にもならない。

えいやっで決めた。

それはともかく今回は企画展。

テーマがなけりゃ意味がない。

展示に絶えうる物量もなければ・・・。

もちろんクオリティもだ。

テーマ立ては先生にお任せするとして、一年間あたためていたものがある。

それは行事の動画だ。

それをしたくて昨年にカメラのキタムラ奈良南店で実験的に実施したあれだ。

フォトフレームで描き出す行事の様相。

写真に実音はない。

音が聞こえてきそうな写真はある。

が、私にはその実力がない。

それをカバーするのがフォトフレーム。

写真撮影と同時収録したケータイの動画。

編集もせずにそのままでは能がない。

これにタイトルをつける。

ケータイ画像を一旦変換する。

それをムービーメーカーでタイトルを入れる。

カメラのキタムラでしたような台詞テロップも入れたかったが手間のかかる時間はない。

それをフォトフレームで映し出すには2段階の変換を経なければならない。

これができないのが私の実力。

お助けを扇いだのはいうまでもない。

ヘルプ、ヘルプを何度したことか。

その都度、気長に教えてくださったTさんに感謝する。

ようやく一人でコンバートができるようになったのが10月末だった。

映像時間は行事の内容を考慮して短いものもあれば長回しも・・。

最短は24秒で最長が2分15秒だ。

神社関係の行事が12編、お寺関係の行事は6編だ。

それに講の行事が6編で地域の行事は5編。

合計で30編もの動画がやっとそろった。

「こんなにあった!大和郡山の祭りと行事」の全編上映時間は27分50秒。

不鮮明画像は見られたものではないが臨場感溢れるものになった。

企画展で補助的役割を果たしてもらうつもりだ。

小さな画像であるが画期的な取り組みを是非見聞きしてほしい。

(H22.12. 3 記)

続、慌ただしく駆け回る

2010年12月28日 08時13分10秒 | メモしとこっ!
その翌日も二件の借用に立ち会った。

一つは井戸野。

2年ほど前から度々取材させていただいたお寺さんだ。

昨年の春に訪れた際、奥さんから「床下からこんなものが箱ごと出てきました」と拝見させてもらったときのことだ。

これには驚いた。

そのモノの検証は昨年の7月に実施された。

行事は廃れているが、古きモノはかつての様相を物語る。



もう一つは番条町。

こちらも度々取材でお世話になっている。

年に一度のご開帳されるアレだ。

それがなんと民博で展示されることになった。

まさに出開帳である。

(H22.12. 2 EOS40D撮影)

慌ただしく駆け回る

2010年12月26日 07時32分21秒 | メモしとこっ!
とうとう12月に入ってしまった。

今回の「大和郡山の行事と祭り」は民博の企画展。

いままでのような写真だけで紹介するのではなく行事に使われるモノも展示しなくちゃならない。

これまでの2回は行事を取材して聞き取った内容を纏め、写真とともに解説するだけだった。

ところがここにモノが要る。

不要になったものは極力いただいた。

これは小物類だ。

展示にするには相当な数量が要る。

一個、二個のレベルでなく数十個以上もないと展示に絶えられない。

もっと大きなモノが要る。

それも初の公開となるようなものをだ。

その交渉は昨年から進めていた。

可能な限りお願いをしてきた。

それがようやく日の目を見る。

企画展会場は奥になる。

そこを入っていくための仕掛けが必要だ。

度肝を抜くようなものであれば・・・。

それも壮観な様相になるようなものだ。

扉を開ける前にずらりと並ぶ・・・・・。

この構想は半年ほど前に決まった。

それをお借りすることができるのかどうかだ。

行事に使われるのは尤もな道具。

だが、その日以外は門外不出。

そんな大切なモノを貸していただけるのか。おそるおそるお願いをした。

すると返ってきた答えが「あんたのやってることは大事なことや。なんぼでもえーから貸したる」ということだ。

快い承諾は二つの箇所にお願いした結果である。

お二人はまったく同じ返答だった。

涙がでるほどうれしかった。

それから数ヶ月、正式にお借りすることになった。

民博学芸員とともに借用の場に立ち会った。

午前中の一件の白土町は数週間前にお願いしたモノだ。

そこでの取材は一日中滞在していた。

一老や自治会長ら関係代表者も「祭りのことが紹介されるのでこんな嬉しいことはない」といっていた。

お願いしていたモノは拝殿に納めてある。

翌年に見本として使う大切なもの。

それまでだったら構わないと話す二老に感謝する。

午後は二件連続で塩町と洞泉寺町へ。



塩町といえばえびすさん。

ずらりと並べて保管されている福箕。

昭和31年からずーっと残されてきた大切なもの。

それぞれの表情に味わいがある。

重ね合わせることは無理なので愛車に並列積みにした。



次の借用先は洞泉寺町。

親しみを込めてげんくろうさんと呼ばれている神社だ。

普段でも人の気が少ない。

社務所にあがり借用の支度に取りかかった。

おおきなものだけに慎重な取扱が要る。

これは企画展の目玉のひとつになるだろう。



しかもだ。

白狐囃子(作詞 酒井雨紅)を作曲された中山晋平(昭和27年死去)自筆の書も貸してくださるというのだ。

慌ただしくかけずり回った一日はあっという間に過ぎた。

(H22.12. 1 EOS40D撮影)白土町、塩町、洞泉寺町

ありがたいお叱り

2010年09月27日 07時47分56秒 | メモしとこっ!
行事を取材撮影して10年になる。

ときおりお叱りを受けることがある。

この度は大目玉を頂戴した。

知人が私の紹介だと突然訪問したそうだ。

が、足下を見るなり帰ってくれと伝えられた。

「素足にサンダルは神事に相応しくない。参列者はそれなりの正装で来ているのにどういうことか」と一喝された。

しかもだ。「名刺はださず、名も名乗らない。そんな人に許可ができるわけがないでしょ」。

ごもっともです。

宮司さんの集まりで非常識な撮影マナーが話題に上ることが多くなっているという。

たしかにそういう人たちを見かける。

カメラを持つ人は特権と思いこむのかずかずかと上がり込む。

許しを得たわけでもなくだ。

私は撮影の了解を得るが、どこまでが許せる、許せないのか範囲なのか、その確認をとった上で取材に臨んでいる。

ある宮司は「神事をしている最中は静かにすべし」と言った。

当然でしょうが、「しゃべって何が悪い」うそぶく人もたしかにいる。

こうあるべきだと話しても聞く耳をもたない人たち。

挙げ句の果てにカメラマン同士が神事中に言い合いをしたケースもある。

とんでもない人がいるのを何度も目撃する。

こうしなくちゃあきませんでと伝えたら睨まれる始末だ。

学術調査だと称して大学の学者も取材に来ることがある。

その人たちはその後何の音沙汰もないという。

何を調べたのか、どのようなモノに使われたのか、すら判らない。

そのような話は何カ所で聞いたことがある。

お礼とフォローは欠かせない。

礼を尽くす最前の努力はしなければならないと常々思っているが・・・時間が。

あんたは忙しい身やからかまへんでと言われるのが辛い。

カメラマンは決して特権でない。

写させていただくことにありがたさを感じろと、我が身の行動を振り返り反省する一日。

過去にも「玉垣の中に入るにはお祓いを受けてからです」、「鳥居を潜るときには拝礼してから」、「参道は中央を歩かない」などと指摘されたことがある。

これらは学び。

この度の適切なありがたいお叱りに御礼申し上げます。

(H22. 8.22 記)

汗が流れ落ちる

2010年09月24日 07時19分02秒 | メモしとこっ!
撮ってほしいという依頼で県立民俗博物館にでかけた。

普段なら手持ちで十分というわけだがポスターに使うらしいのでそういうわけにはいかず滅多に使わない三脚を立てた。

指定の宇陀・東山集落の古民家はどこを切り取ればいいのだろうかとあっち、こっちと視線を替えてトライする。

暑い。あーでもない、こーでもないと構えている最中は汗が流れ落ちる。

メガネも汗で視野が狭くなる。

頭から汗が滝のように流れていく。

暑い夏だ。

秋口にしてほしかったと思うのだがもう遅い。

突然の依頼にためらうことなく受けたことに後悔する。

それはともかく吉野集落の前には夏花が咲いていた。

この時期には自然観察会は催されない。

白い花に紫花が咲いている。

お花はなんだろうか。

自然な植生ではないだろう。

タネが蒔かれたものであろう。



観察会の先生方に見立ててもらったら、濃いブルーの花はセイジだそうだ。

もしかしたらメキシコセイジかもしれないという。



白い花はハマダイコン。

花弁が4枚のように見えるが5枚。

花が終わって長さ10cmほどのプクプクとくびれた果実を付けるそうだ。

タキイのカタログによれば葉の様子からナデシコ科のサポナリア・バッカリアという花のようだという。

古民家を捉えるのはとてもハードだ。

全身がびっしょりと汗に包まれて体力が激しく消耗していく。

花に熱中するあまり身体が熱中症になりそうだ。



国中集落や町屋集落も撮るには撮ったが、さてさて。



(H22. 8.14 EOS40D撮影)



(H22. 9.30 SB932SH撮影)