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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

木津川市・市坂の水口マツリ

2021年01月11日 13時31分33秒 | もっと遠くへ(京都編)
山城町綺田の地で苗代田つくりをしていたF家を取材した帰り道。

信号待ちに発見した白いモノ。

もしかとすれば、それは護符ではないだろうか。

実は、前年の平成30年4月30日に見つけていた。

この年と同じ場にあった京都府木津川市市坂の水口マツリ。



中央に「護豊」を配置した護符。

右の書は「大年大神」。

左の書が「宇賀魂神」。

ネットを駆使して探し出した該当すると思われる神社がある。

西山の地区に鎮座する宇賀魂(うかのみたま)神社である。

考えられるのは、“幣羅坂(へらさか)神社の末社では、と思うのだが・・。

豊作を祈願する行事に配布されたと推定できる松苗と護符では・・。

イロバナが萎れていないから昼前後に立てたような感じがする。

と、いうのも綺田に向かっていた往路。

ここ井坂を走っていたときに見た男性。

苗代田付近にいた70歳前後男性は、鍬を持って動いていた。

見た時間帯は、丁度の正午時間。

今、イロバナに護符を見ている時間帯は午後4時半。

この時間差で判断できる水口マツリの時間帯もほぼわかってきた。

幣羅坂”から古事記・日本神話にある“よもつひらさか”黄泉比良坂“を思い起こす”へらさか“。

土地勘はないが、投稿ブログを参考に、まずは、京都府木津川市・市坂に鎮座する幣羅坂神社の所在地を探してみたい。

(H31. 4.28 EOS7D撮影)

山城町椿井・夏越しの虫送り

2020年10月22日 11時34分04秒 | もっと遠くへ(京都編)
クマゼミが鳴いた

台風7号崩れが去ったこの日は白い雲に爽やかな青空が広がっていた。

気持ちいい正午前の時間帯。

我が家の庭木から一斉に鳴きだしたクマゼミ。

夏の訪れを告げるクマゼミは、これからガンガン。

毎日のように朝鳴き。

雨天の場合は、ばったり消え、雨があがったらまた鳴く。

この日は、京都府南部の木津川市山城町で行われる夏越しの虫送り取材がある。

10日ほど前、京都だけでなく滋賀県を主に、民俗行事の取材を重ねてきた写真家のKさんから、実施の連絡をいただいた。

隣村の鹿背山は、6月30日土曜日が実施日。

椿井は、7月7日の七夕明けの8日に行なわれる。

それぞれ区長の撮影取材の了解をいただいた虫送り、であるが、鹿背山は都合が合わず、翌年廻しとした。

椿井といえば、すぐに思い出す椿井大塚古墳がある。

3世紀後半の古墳時代前期の中でも最古に位置付けられる代表的な古墳。

今から66年前の昭和28年のことである。

工事中に偶然に発見された三角縁神獣鏡

私は未だ2歳のときである。

当時、奈良と京都を結ぶ南北に走る国鉄奈良線の法面拡張工事。

前方後円墳の後円部法面工事の際に発見された。

奈良線の敷設は遡ること明治29年。

そのときの工事によって古墳は、前方部と後円部に分断された。

当時の地元民の声によれば、後円部は、奈良時代の藤原百川(ももかわ)の墓だと、認識していた程度だったらしい。

重要な遺物などの発見はなかったようだ。

明治29年(1895)を経た昭和28年(1953)までの長い期間。

59年間も知られることなく古墳内に眠り続けた三角縁神獣鏡が、法面拡張工事によって、32枚(※他に内行花文鏡、方格規矩鏡、画文帯神獣鏡も)も発見されるとは、当時の考古学者は仰天したとか・・。

線路脇の斜面を緩やかにするための工事。

後円部を削ったら、竪穴式の石室が現れ、三角縁神獣鏡の他、大量の副葬品が発見された。

京都府教育委員会や京都大学による調査、測量をした結果は・・・。

線路東側の丘陵が後円部。

西側の住宅地が前方部。

つまり、前方後円墳と判明した。

その後の平成12年、「同笵鏡論をはじめ日本の古代国家形成の問題を考える際、きわめて重要な位置を占めている」と、国史跡指定と相成った。

古墳時代の遺物も大切だが、現在の私は民俗調査に奔走中。

思い出す1件がある。

隣町の上狛に住まいする女性。

大晦日に撒く砂撒き取材をしたO家の奥さんが話してくれた出里。

今はどうされているかわからないが、かつては逆さ文字の「十二月十二日」護符をしていたという件である。

椿井のどこであるのかまでは聞いていないから、所在地を探すには、機会を待つしかない。

平成29年2月2日に訪れていた椿井の氏神社。

松尾神社の所在地を確かめたくて訪れていた。



知人の情報によれば、椿井の夏越しの虫送りに先立ち、松尾神社に伺って神火を受ける神事があるそうだ。

虫送りの出発地は、大宝元年(701)が創建とされる松尾神社でなく、下ったところにある広地。

神社の鎮座地は存じているが、さて、出発地はどこであろうか。

知人が伝えていた場所、時間を頭に入れて車を走らせる。

念のためにと思って早めに着いた椿井の広地。

時間帯は、午後4時40分。

ピーカン照りのこの日の気温は高い。

風も吹かない日は、車から降りた途端に汗が噴き出す。

辺りを見渡して、えっ、と思った祭場。



四方に立てた青竹に、幣を取り付けた注連縄を張っていた。

まさに神事の場のように思えた囲いの中に太めの藁束を立てていた。

奉書に紅白の水引で括っている藁束もある。

その後ろにある藁束は数が多い。

ざっと測ったその幅は直径が1m。

高さも1m程度のようだ。

ロープで縛って倒れないようにしている。

その中央に御幣を取り付けた御幣がある。

中央に仕込んだ青竹に挿していた御幣。

祭場を拝見して想定するオヒカリ移し。

広地中央には太鼓を設営していた。

合図に打つ太鼓は想定できるが、オヒカリ移しの作法はわからない。

虫送りの松明に直接、神火を移すのか、それとも祭場の松明に一旦は火移し。

そのことがわかるのは、日暮れの時間帯。

2時間は待たなければならない。

祭場付近を散策してみたら作り置きの松明が見つかった。



参集地にあたると思われる小屋に立てていた松明の数は13本。

細めの竹に2束重ねの藁束をロープ縛り。

落下しないように強く縛っている。

長さはおよそ2mにもなる松明である。

広地でしばらく散策していた。

その場に来られた男性は村役の一人。

もうすぐ区長も来られるようだ。

始まる前に話してくださった椿井(※夏越し)の虫送り。

藁束で作る松明は子どもが作るという。

やましろ音頭も鳴るが音源はカセットテープ。

7月に入ってからは、外に出ている子どもたちが椿井に戻ってこれるよう土曜にしているが、その年度によって若干の変動がある虫送りの日程。

最終的に決定するのは区長の役目である。

オトメ(御灯明)をもうてきて、点火する火点けの場は米藁で作った。

椿井の豊作を願う虫送り。

区長に副区長と農業実行委員長の3人が、松尾神社に参って神火のオヒカリを授かる。

虫送りの行程は、木津川堤防まで。

広地を出発して南北を走る国道24号線に出る。

信号を渡って堤防に出る。

下流にとんど場を設けているからそこまでのコースに大勢の子どもたちがやってくる、という。

合流された区長のHさんに取材許可の申し出に、その件はすでに伺っている、という。

この日の取材許可は、先に伺っていた写真家Kさんが取っていた。

この日は、滋賀県教育委員会文化財保護課主査のY氏とともに朝から行動していた滋賀県日野町の民俗取材。

虫送りが始まるまでには到着するであろうと伝えた。

ちなみに隣村の北河原にも虫送りをしているようだ。

いつもなら同じ日程ではないそうで、今年はたまたまの同じ日になった、という。

椿井と北河原、かつては同じ日にしていた虫送り。

大川と呼ぶ木津川堤防に合流。

どちらが早く虫送りの火を送るのか、競い合っていたそうだ。

略式白衣を着用した待ち合わせの3人が向かう先は急坂を登りきった地に鎮座する松尾神社。

神社を目指して出発する3人。

その直前に合流した滋賀県民俗調査を終えた2人とともに坂道を行く。

どこからか現れたのか、存知しない複数のカメラマンもついていく。

松尾神社に着いた3人。

まずは朱塗りの鳥居にて拝礼。



それから境内入り。

そして先に来ていた宮司と宮総代にも取材の挨拶をする。

拝殿に上がっても構わないと許しをいただいてから登る。

その拝殿に数多くの祭具が見られる。

これより夏越しの神事が始まるだけに、諸々の祭具について教えを乞いたいが時間がない。

次の機会にまた尋ねてみたい松尾神社の祭具の筆頭はなんといっても大きな鉄釜であろう。



時代的にはそれほど古くはなさそうだが、御湯神事があった思えるほどの形態に見惚れていた。

白馬の手綱を曳く2人の童子姿を描いた絵馬も興味を惹かれる。

「奉 縣御寶前祈雨成就満願」。



祈雨満寄成就に寄進奉納した年代が判別し難い墨書。

「●政九丙戌龍集初穂吉辰」から判断した時代は、文政九年(1826)だった。

寄進村は上狛村、林村、椿井村の三村。

幕末の『旧高旧領取調帳』」記載によれば、上狛村は津藩領。林村(※明治9年に上狛に吸収合併)は皇室領・公家領・女官領・京都守護職役知。また、椿井村も公家領だった。

松尾神社鳥居傍に立てている由緒書きによれば、「拝殿棟木に墨書銘があり、現在の拝殿が慶長十五年(1610)に再建されたことともに、有力農民の代表である“十二番頭”や、南村(上狛)と北村(椿井)の宮座一老、松尾社、御霊社の神主などの名が記されている」、「宮座に残されていた遷宮神事を行うときの絵図にも、狛野荘の荘官である下司、公文トネの席や、有力名主によって構成されていた中老座、ばく老座の席、能や狂言を演ずる舞台や楽屋、はしがかりなどが描かれており、これら中世の村政をつかさどった組織と松尾神社とのかかわりがうかがえる・・・」とあった。

上狛村、林村、椿井村に明確な宮座組織があった時代から、現体制に移った経緯はわからないが、他に、三村から寄進された武者絵の絵馬もある。



姿、形態から、たぶんに那須与一ではないだろうか。

神事前に急いで撮る絵馬。

慌ててシャッターを押した画像はぶれぶれだった。

本日の神事に参列される宮総代らも上狛10区と椿井1区を代表する氏子総代。

うち5人が宮総代に就くという。

なお、神社探訪された「旧木津川の地名を歩く会」が揚げている探訪記が詳しいので参照されたし。

他にも、柱に括りつけた大きな弓と矢がある。



奈良県・天理市の宮大工が納めた拝殿の上棟祭に奉った弓矢もある。

奈良県東部山間地に多くみられるゾーク(※社殿や拝殿、或いは社務所などを建て替える造営事業/上棟祭)に奉る弓矢と同じ形態。

地域によって形態が異なるのも調査対象だけに、ここ椿井の松尾神社の上棟祭もあらためて尋ねてみたい。

また、実物と思われる木製のプロペラも奉納されていた。



昭和五年三月吉日、上狛町 大井七造氏が寄進されたプロペラの機体を知りたくなる戦前の時代。

複葉機体の旧日本陸軍の九二式戦闘機が考えられる。

さて、神事である。

3人が持ってきたお神酒は本殿に2本。

もう1本は末社に供えてから始まる。

席に就いた4人。

目の前の祭壇に並べた神饌御供。



よく見れば、一つの三方に灯りが見える。

先に遷していた神火。

その前に置いた手持ち提灯である。

神事の始まり合図は太鼓打ち。

宮司自ら打つ太鼓の音色が拝殿に拡がった。

修祓に祓え詞。



夏越しの豊作願いに稔りをもたらせてくれる祝詞奏上。

参拝した3人の名を呼び、かしこみ、かしこみ申された。

祈願神事を終えたら手持ち提灯に神火移し。



決して消してはならない神火を調える区長の眼差しに映る。

揃って拝殿から降りてきた3人。



村に戻っていく道は、元々の参道である。

竹林に囲まれた石段の参道を下ってきた。

時間帯は午後6時45分。

広地に設えた祭場に丁度着く時間になろう。



たっぷり溜めた用水際の道を下っていけば、民家が建ち並ぶ狭い集落道に出る。

たまたま遭遇した家族さん。



おじいちゃんが作っていた松明がまた凄い。

藁束を4束重ねて作った長い松明。

途中で崩れないようにロープを締めていたところを撮らせていただいた笑顔のO家族。

後ほどの虫送りにまた出会う。

大勢の子どもたちで賑わっている祭場に着いた3役。



十分に間に合う余裕のある到着にしばらくは火点け待ち。

それにしても子供たちの人数がすごく多い。

何十人になるかわからないくらいの長蛇の列。

手にはみな手作りの松明を持っている。

役員さんが作った松明もあるが、ほとんどが自宅で作ってきた松明。

先ほどのご家庭のようにおじいちゃんとか、親が作るケースもあれば、なんと見習って作る子どもたちもいるとか。

心棒の竹は青竹もあれば枯れた竹とか、細めのススンボ竹もある。

近くに生えている竹といえば、ここ椿井は竹の生産地。

生業に素材の竹はいっぱいある。

火付けの時間はきっちり午後7時。

提灯に遷した神火。



消えないように持ってきた神火は奉書巻きにしていた松明に火移し。

すぐさま立ち上がった3役は、太く束ねた藁束に火移し。

手伝い役は、慌てて退避させる頂点に揚げていた榊の幣を取る。



火が移らないように退避させるとともに張っていたしめ縄も外す。

そして始まった松明の火移し。

危険のないように子供たちを安全誘導する手伝い役。

メラメラと燃え上がる松明。

火の確認ができたら、いざ出発。



一人、一人が順番待ちの子どもたち。

ざっと数えてみた松明の数は30本ほど。



子どもたちと一緒になって保護者も出発した。



わぁわぁいいながらの火付けに盛り上がる祭場。

小さいお子さんから高学年の小学生に中学生。



男の子も女の子も、みな嬉しそうな顔で出発していった。

温かい目で見送る3役や手伝い役も目を細めていた。



椿井の夏越しの虫送りは小雨決行。

稀に大雨になることもあり、そのときは中止になる。

大川の木津川に注ぐ椿井の水路に沿って練り歩く虫送り。



かつてはこの辺りも田んぼだった。

信号のない新道渡りにも安全配慮。

手伝い役は子どもたちが安全に渡りきるまでは交通整理。

その辺りにくれば田園が拡がるアスファルト舗装。

上狛川に架かる橋を渡って西へ、西へと練り歩く。

交通往来の激しい国道24号線を渡る信号にも交通整理。

事情を知らない運転手さんも驚く、大勢の松明持ち。

火が点いて燃える松明を見て、これは何ぞえ、と思う人はたぶんに都会育ち。

農村に見られる虫送りの大切さは、生活環境が変わり文化的になっても継承してきた。

椿井の子どもたちも次世代を継いでいくことだろう。

信号を渡ったそこが木津川。

坂道を登りきったところが堤防。

その松明行列に付いていくには難しい身体状況。

諦めて国道に沿って舗道をいく私の足は低速。

ふと西の空を見たら空が焼けてきそうな気配。

半数の子どもたちはとんど場まで先に向かっていったが、何人かは慌てず騒がず。

うまい具合に歩いていた姉弟がもつ松明火をとらえた。



流れる手前の雲の向こうが焼けてきた。



早く流れる雲はすっかり消えて見事な夕景が現われた。

とんど場に松明を送った戻りの子どもたちと交差するシーンに思わず口ずさむ歌は・・・。



夕焼け小焼けに日が暮れて~♪の童謡。

それとも夕焼け小焼けの赤とんぼ♪・・でしょうか。



抒情的な歌もあれば、云十年前に流行ったゆうぅーやけー うみのゆうやけ~♪とか、先行発売していたゆうひあかぁーくぅ~♪などの青春グループサウンド音源も自然に口にするこの日の夕焼けである。

出発地からおよそ1km先に設営したとんど場で火の番をしていた地元自警の消防団。



火が消えるまでの安全管理は任しといて、と云った一人の消防団員が話してくれた他の地域で行われている虫送り情報。

ここからすぐ近くの北河原の虫送りも来ていた。



現在は、堤防まではいかず、国道も渡らない手前に拡がる北河原の田園地の一角に替えたそうだ。

また、椿井からずっと南。

奈良県境になる市坂も虫送りにとんどをしているという。

市坂といえば、この年の4月30日に見た田んぼの護符を見つけた地域だ。

京都府の最南部に4地区が行っているとわかった農村行事の虫送り。



機会を設けて早めに調査をしたいものだ。

虫送り情報を聞いている時間帯もやってくる松明火の虫送り。

子どもたちが大勢いるとわかった椿井の虫送り。

とんど場から戻っていくときに拝見した奇妙な動きに関心をもった。

燃える松明に鋏を入れている父親に尋ねた。



縛っていたロープをきって藁束に空気を入れる。

そうすることで沈火しかかっていた松明火が再び勢いを増すのだ。

その役目をするのが保護者だった。



勢いを戻した松明火は燃え上がり、ぼたぼたと落ちる。

なるほど、と思ったこれもまた民俗のあり方。

虫送りに随行した歩数は午後5時からは939歩。

6時からは1021歩。

7時の虫送りが2204歩。

合計が4164歩。

普段、運動しないだけに歩く機会をくださった。

祭場に戻った時間帯は、午後7時半。



3役は祭場の清掃。

火種が残っていないかどうか確かめて、用意していたバケツに汲んだ水路の水で消火していた。



最後に戻ってきた家族さん。

お家へ帰ろう♪~のコマシャールソングで聞くカレーの唄も聞こえてきた。



ちなみに区長や消防団が云っていた隣村の虫送り。

今年の平成30年2月18日に立ち寄った北河原に春日神社がある。



その日は涌出宮の居籠祭に訪れていた。

時間的に余裕があったので、通りすがりに拝見した北河原の春日神社は美しく清掃されていた。

極端な云い方をすれば、散りひとつも落ちていない境内だった。

(H30. 7. 8 SB932SH撮影)
(H30. 7. 8 EOS7D撮影)
(H30. 2. 2 SB932SH撮影)
(H30. 2.18 SB932SH撮影)

市坂井後間の苗代田のイロバナ護符

2020年05月07日 10時13分04秒 | もっと遠くへ(京都編)
京都府の木津川市山城町綺田(かばた)でF家のミトクチマツリ(水戸口まつり)を拝見して帰路につく。

途中、隣地の山城町椿井にも苗代田はあったが、イロバナも護符もなかった。

地域によっては、護符のない地域もある。

むしろある方が珍しいのかもしれない。

椿井、上狛から国道24号線を南下する。

木津奈良道信号をさらに南下すればもうすぐ奈良県内に入る奈良バイパス。

京奈和道と交差する信号は木津ICの信号待ちに車が並ぶ。

なにげなく見た左手。

方角でいえばやや南東にJR関西本線・奈良線が走るその辺りの田園に白いモノが見える。

もしや、これはと思って軽トラぐらいしか通れない道幅狭い農道を行く。

近づいて確信を得た。



白いモノは護符だった。

そこにイロバナも添えている。



この日は日曜日。

たぶんに農家さんが作られた苗代田に立てた護符。

松苗も立てているから地区の行事で授かった護符に違いない。

イロバナはツツジ花。

水を吸い上げていないから萎れている。

立ててからまあまあの時間が経っているように思えたが、ここって、一体どこなのか。

カーナビゲーションに表示された地域は「木津川市市坂」だった。

帰宅して苗代の所在地を探してみれば、奈良バイパス木津IC東側JR奈良線西下の市坂(いちさか)の井後間(いごま)若しくは市坂の奈良坂(ならざか)のようである。

農道は奥にも進めるようになっていた。



道なりに行けば、そこにも苗代田があり、水口近くに立ててあった護符もみつかる。

さっきに拝見した護符は折っていたので文字がわからなかったが、この護符ははっきり読める。

中央に「護豊」を配置した護符。



右に「大年大神」。

左は「宇賀魂神」とあった。

ネットで該当地区を調べてみた感じでは、西山の地区に鎮座する宇賀魂神社のような気もするが・・・。

ここ市坂は初めて知る地域。

護符を奉る神社も調査しなくては・・。

護符、イロバナを発見するたびに増えていく行事の調査である。

ちなみに苗代田の向こう側に架線が見える。

JR関西本線・奈良線である。



電車が走ってきたら、と思って待ち構えていたが、ちょっと場を離れたときに・・・通り抜けた。

シャッターチャンスを外したが、悔いはない。

(H30. 4.30 EOS7DD撮影)

山城町椿井・坂ノ下の苗代田に黄菖蒲咲く

2020年05月06日 09時24分55秒 | もっと遠くへ(京都編)
木津川市山城町綺田(かばた)で拝見したF家のミトクチマツリ

午前中は筍掘りに午後は半日かけてミトクチマツリ(水戸口祭り)をする。

取材を終えて同町の南北を走る車道を走る。

帰路に見つけた苗代田。

黄色い菖蒲が咲いていた。

白い幌を被せていた苗代田に護符の有無を確かめる。

念のための確認であるが、護符はなかった。

涌出宮に御田の式と呼ぶ豊作を予祝する行事がある。

ここはどの地区になるのであろうか。

カーナビゲーションには表示されなかった地区。

帰宅してからネットマップで検証したら山城町椿井の坂ノ下。

椿井には椿井の氏神さんがある。

その神社行事には予祝行事がなかったものと推測される。

(H30. 4.30 EOS7D撮影)

山城町綺田・F家のミトクチに榊/松苗立てと籾撒き

2020年05月05日 10時06分49秒 | もっと遠くへ(京都編)
午前中は筍掘りに出かけていた。

毎年、旬の筍掘りと重なる忙しい時季。

いつも筍掘りを済ませてからの午後が稲作。

とはいってもはじめにするのは苗代田の荒起こし。

そして本日は、苗代つくりに榊と松苗を立て、種籾撒き。

ここら辺りに苗代はあるようだが、イロバナは見たことがないという。

さて、時間も合わせてくれたF家の苗代田。

どこかで見たような記憶がある。

この地は、以前にも来たことがある。

平成28年12月18日に砂撒き風習地域を聞き取っていた地区だった。

畑にいた男性が話してくれた。

高倉神社の氏子である男性がいうには、八朔行事に龍の頭と尻尾の話しをしてくれた地。

龍の頭が向こうで、こっちは尻尾だとか話されるがどうも要領を得られない。

そのことはともかく、その畑のすぐ、目と鼻の先に今から始める苗代田があった。

涌出宮に出仕される古川座は十人衆。

うち農作をしているのは3人。

他の人たちは、近年に広まったJA苗の購入。

苗代要らずにすぐさま田植えができる農作の効率化。

居籠祭で授かったサカキや松苗に種籾は神棚に留め置き、いや神まつりであろう。

豊作を願う場所は苗代から神棚に移った。

奈良県内の事例にも多くみられる時短、省力、効率化ケースである。

たまたまのめぐり逢い、である。

2日目の居籠祭も取材していた。

前夜は居籠舎内での撮影だった。

身動きできない場もあるが、行事の進行を妨げているような気がして、翌日昼間に行われる饗応(あえ)の儀は、遠慮し、居籠舎の外から拝見していた。

儀式がはじまって目配りされる涌出宮宮司。

手招きもされた場は居籠舎。

どうぞ、上がったそこで撮ってください、と。

気持ち的には申しわけなく上がらせてもらったが、進行を妨げない、写真家がとらえる映像に写り込まないように・・。

とにかく目立たないように、背なかを丸めて低い姿勢に立ち位置を考えて撮っていた。

就いた場所は古川座中が座る位置。

御田の式の際々である。

上座に座る一老さんに思わずお声をかけた。

宮司が座中一人ずつに撒く籾ダネ。

パラパラ、パラパラと落とされる籾ダネに反応した。



賜ったサカキや松苗などはどうされるのですか、と尋ねた結果が、「苗代に立てる」、であった。



もし、よろしければ撮影させていただければ・・とお願いしたら、受けてくださった。飛び上がるほどに嬉しいありがたいお言葉にそっと名刺をお渡しした。

出会いは千載一遇、ご縁をいただいた京都・木津川市山城町平尾に鎮座する涌出宮行事の居籠祭に感謝、感謝である。

ご縁をいただいた一老のFさん。

実は、二老であるという。

本来の一老は、都合で参加できない身。

その代わりを担う一老の代理である。

つまり、この年の居籠祭の参席は、一老の代理を務める二老であった。

古川座十人衆は一老から十老までの十人衆。

任期は2年ずつ。

それぞれの座中が上位に繰り上がる。

一老代理を務めた二老のFさんは来年も二老を務める。

つまり、来年も二老であるが、繰り上がった翌年も翌々年も一老を務める、ということだった。

前置きは少し長くなってしまった。本題に戻し、F家のミトクチマツリを記しておく。

苗代つくりの時期は4月末から5月のあたまになる。

そのころになればお電話を架けてもよろしいか、とお願いしたら、了解してくださった。

天候の具合もあるが、Fさんの状況が気になり、4月半ばに電話をかけた。

苗代作りをする日はまだ決まっていないという。

だいたいが4月末の29日のころから5月初めの3日にかけての、えー日にするという。

えー日、という日は、天気の良い日。

雨降りとか風が強い日でなく、穏やかな日だ、という。

だいたいが4月20日のころ。

土入れしてモミオトシの準備をする。

籾は消毒液に浸して一旦は乾かしておく。

干上がらないように、また、天候状態を見計らって苗箱を苗代に並べる。

その日が決まれば、午前中は筍掘り作業にする。

所有する竹林に出かけて筍を掘ってくる。

お昼ご飯を食べてからの午後に苗代つくりをする。

家族や子供、親族に食べてもらうだけだから苗箱の枚数は50枚。

それくらいの量の苗箱を並べるだけ。

世間ではもっと多いが我が家は慎ましい。

苗代の場には桜もないから、写真にならないから、とやんわり断りの方向にもっていこうとされるが、そこは民俗の記録。

涌出宮の松苗、榊に籾撒き。

その一連性にある豊作を願うありのままの姿を撮らせてもらいたいと、お願いして決まった日は4月30日。

その日は雨の降らない、しかも“大安”の日であった。

ここら辺りはサルが出没する。

イノシシに終われてここら辺に来たようだ。

それからと云うものは竹林保護に筍畑の電柵作りが欠かせない状況に追いやられたそうだ。

涌出宮から授かった榊は、T家も一旦は神棚に供える。

それから降ろして水に浸ける。だが、どうしても一部は枯れてしまう。

行事は2月半ば。

授かった榊を苗代に立てるのは、2カ月後の4月末から5月初め。

期間は長く、青々とした榊を保つのはとても難しい、という。

苗箱並べしてから幌被せ。これらすべての作業を終えてから榊を立て、籾を蒔く凡その作業を電話で伝えてもらって、全容はほぼ見えたのでは、と思った。

涌出宮行事から2カ月半後。

古川座長老家の苗代作りにようやく出会える。

遡ること2月18日の涌出宮行事である。

拝殿に座していた黒素襖姿の古川座一同が主役。



饗応する座の接待役に与力座の人たちがつく。

座の儀を経て御田の式。風呂敷を広げたところに宮司は籾を落とす。

金、銀の紙片もパラパラ落とす。

狩衣姿の“ぼうよ”は、なぞらえものの松葉の早苗を。

給仕は、「おかぎ」に「こかぎ」を配る。



これらを授かった古川座中。

誰しも苗代作りをしているわけではない。

農耕を営む人は座十人衆中のごく数人。

苗代をしているのは上座に座っていたお一人だった。

そのことを知ってすぐさまこの場に居られた代理の一老さんに取材主旨を伝えたら承諾してくださった。

この稀なる出会いのきっかけを作ってくださったのは宮司である。

拝殿に上ることは遠慮していたが、拝殿に居る宮司が手招きする。

断り申したが、根負けして甘えることになった。

その結果、古川座長老の席近くで撮ることになったその出会いである。

この日に授かった榊も松苗も籾も苗代にすると云ってくれたこと、すべてにお導きがあったのだろう。

まさかの問いに応えてくれる古川座・代理の一老さんがまさかの苗代作りをし、榊を立てるとは思いもよらない展開。

代理の一老さんがいうには座の十人衆になったときだけに榊などを座で授かることになる。

座中は2年ごとに繰り上がる。

例えば二老になった年から2年間を務める。

3年目になって一老になる。

その一老は2年間を務め終えたら座に出仕することはない。

取材を受けてくださった代理の一老さん、実は二老だった。

座の上座につくのは本来一老。

この年は事情があって仮の一老として上座に座られた。

そのときに私は上座付近に位置することになった。

なんという奇遇であろうか。

榊などを授かるのは座の儀式に出仕するときにしか受けることはできない。

つまり十人衆のときにしか榊を受け取ることはない。

座を引退すれば榊を受け取ることはない。

今年にまた繰り上がり、本来の一老となり出仕される。

任期はあと2年。

その次の年代は苗代を作ることがあっても榊を立てて豊作願いをすることはない、ということになる。

そのような事情を話してくれた二老のFさんは早速動き出す。

苗代作りの作業はじめに穴開きシートを敷く。



これまで奈良県内で拝見した穴開きロールシートよりも幅が半分。

この状態であれば一人でできる。

ヒタヒタの苗床に転がすロール。

乾いていないからコロコロ転がらない。

ちょっと転がしてはちょっとしか進まないが、一人でできるのがありがたい。

Fさんが作付する品種はヒノヒカリ。

筍掘りの合間にしたモミオトシは25日。

それから5日後の苗代作りである。

家族が食べる分量しか作付けしないので苗箱は50枚。

予め手渡しするところに配置していた苗箱を苗代田にいる田主に手渡す奥さん。



本来であれば息子夫婦も応援してくれるが、予定していた日は5月のGW中だった。

仕事の都合もあるが、天候具合で苗代作りの日程を思わぬ日に移す場合があっても、急には調整のできない会社勤め。

息子夫婦はこの日も仕事。

その代わりではないが初孫を預かった上での作業になった。

実は、と話す長老。

息子が苗代作業を手伝うことはなかった、という。

作業を見る、触ることもなかったその理由は話さないが、出張の多い仕事の関係だったろう。

孫は小学1年生。初孫は目に入れても痛くない。

この日、初デビューの苗代作り。

さてさてどうなることやら。

苗箱をすべて並べ終えた次は日焼け、鳥除けの幌を被せる支柱立て。



ぐにゃッ、と曲がった支柱を立てるには一人ではまずできない。

普段は手伝うことのない奥さんにこことばかりに・・・。

そんなときに孫さんが・・という願いはあるが、素知らぬふり。

その目が見ている先にJR奈良線の電車が走る。

幌を被せる両端は鉄杭を埋め込んで、幌の長さを合わせる。

その位置が決まれば幌被せ。

その状態になっても我知らずの孫。

おじいちゃん、おばあちゃんは何してんのやろなっ、て感じの見ているふり・・。



それが、なんと。

いきなり手伝うと云って、束にして置いていた曲げポールを手にした。

1本、1本をおばあちゃんに手渡し。



子どもは事情がつかめたから、支援したいと思ったのだろう。

あーして、こーしてといわなくても状況がわかれば子どもは自然と心を動かすのだろう、と思った。

実は、であるが、これには子どもの照れがあった。

写真ではちゃんと渡しているように見える。

そこまでできるようになったのは後半。

手渡しを始めていたときの身体は背中を見せてうしろ向きに渡していた。

つまり顔はあっちを向いていた。

それが照れである。

それを何度も繰り返す。

おじいちゃんもおばあちゃんも孫の動作を見て苦笑い。

何してんのや、と云われても笑いながらその動作を繰り返す孫さん。

実に微笑ましい姿だったが、終わり近くになって、やっと前向きに渡すようになったのが嬉しい。

日除け、鳥除けの幌を被せてようやく終えた苗代作り。

ポリバケツに浸していた松苗と榊はようやく出番を迎える。

画面ではわかりにくいが、青々としている榊は最近になって自前でこしらえたものだ。

松苗、榊を授かったのは、涌出宮で行われた2月18日の居籠祭の座である。

持ち帰ってから2カ月以上も経っておれば松苗は日焼けで枯れ葉状態になって色は茶色。

榊も枯れて葉っぱはチリチリになっているはず。

それが心配だったから新しく自前で榊を採取してきた。

ということは神事で授かったものではないということである。



ところが授かった松苗も榊も焼けずに葉は色落ちもしていなかった。

秘策があったとしか考えられない。

Fさんが云うには、毎日に井戸水を汲んで入れ替えていた、という。

ガチャガチャと呼ぶ井戸水の手押しポンプ揚げ。

今は電動機械での汲み揚げ。

一定温度の地下水である。

常に湧き出ていた新鮮な井戸水で保っていたから枯れることもなかった榊に新葉が出てきたという。

ただ、残念なことに松苗は茶色にならなかったものの白さが目立って枯れ具合になっていた。

だが、まだまだ緑色は十分に確保できたようだ。



授かった榊の軸はこんな形になっていると見せてくれる。

これは枝である。

角度がついている形からこれを「カギ」という。

2月18日にこのことを教えてくれたのは涌出宮の宮司。



準備ができた「カギ」のある榊を見せてくれた。

榊は長めと短めの2種類がある。

長い方が「おかぎ」。

短い方を「こかぎ」と呼ぶのが正式だと宮司が話していた。

幌を被せたら苗代作りは終わりであるが、その前にしておくことは苗代田の水張りである。

以前はもっと奥の方でしていた苗代田であったが、野菜作りをしている奥さんのために場所を替えたそうだ。

そのことがあって今の苗代田は山の谷から流れてくる水路から遠ざかってしまった。

仕方がないから水戸口(みとくち)はそのままの位置で、そこからパイプホースを引いて谷水を運ぶようにした。

水戸口は布切れを詰めて閉鎖していた。



苗代作りが終るまで一時的に止めていた詰め物を取ったとたんに谷から引いた水がどっと押し寄せる。

水は苗床とほぼ同じ高さの位置にまで流す。

苗床、ヒタヒタに浸かるくらいまで、というのはどこともである。



そうしておいた苗代にいよいよ立てる松苗と榊。

自前の榊はもう一つの苗代に立てた。



本来なら苗代田に作る水戸口に立てるのであるが、水路から流したホース辺りでも構わないと云って立てたから、これを水戸口祭りと呼んでいた。

綺田・F家の水戸口祭りは松苗と榊立てで終わることなく、もう一つの大事なおこないがある。

朱色で御供と書かれた涌出宮の御供袋がある。

御供袋に入っているのは籾種。

涌出宮で行われた2月18日の居籠祭の座において宮司が撒かれた籾種である。



松苗と榊を立てたところに袋から落とす籾種。

そんなに多くは入っていない籾種。

これをできあがった苗代の周囲すべてに撒いていく。

サッサと降って籾種を落とす。

落とす分量をどれくらいの感覚で振ればいいのか。

いわば目分量で振るその仕草。



籾種が落ちる瞬間をとらえたいが、なかなか難しい。

落とす分量に思案していたら、泥田に足を取られて倒れそうになることもある。

古川座中10人のうち農作をされているのは3人。

他の人は苗代さえしないJAからの苗購入。

昨今は多くのお家がそうしているという。

農家でない座中は授かった榊、松苗、種籾は神棚に奉る。

奇遇な出会いに苗代の水口まつりを拝見できたこと。

この上ない出会いに感謝する。作業が終わったあとも、Fさんは綺田の古川座の行事を話してくださった。



綺田を東西に流れる天神川は、不動川と同様の天井川。

昭和28年8月14日から15日にかけて発生した南山城地域・集中豪雨に天神川が決壊。

大規模な水害に見舞われたそうだ。

その天神川の南川堤すぐ下に鎮座する綺原(かんばら)神社がある

10月の第二金曜日の夕刻に、伝統行事の「あーえーの相撲」をしている。

本宮の涌出宮にも「饗応(あえ)の相撲」が伝わっている。

作法の基本は同じように、小学4、5年生が普段着にまわしをつけて、刀を持ち「あーえー、あーえー」を云いながら動くそうだが、若干簡略化されたものと推察する。

次の日の第二土曜日は、30年前に復活した神輿担ぎがある。

階段を下ったり、境内を何周も廻る神輿担ぎ、である。

綺原神社に架ける勧請縄がある。

涌出宮のいごもり祭(居籠祭)の折り、たまたま進入したときに見つかった勧請縄

いつ、どこで作られ、いつ架けられるのか、詳しく知りたかった古川座の勧請縄である。

勧請縄は、座中が揃って作業されるが、古川座に新しく加わった人が作る。

一老になった1年目に一老が作る、とか。

また、みんなが揃って、ということを云われるから、整理つかず頭がこんがらがってくる。

作る工程は、実際に拝見するとして、その作業日はいつか。

Fさんの話によれば2月14日に架けるそうだ。

場合によっては15日の朝でもいいらしく、それは本宮の涌出宮のいごもり祭の行事日と関連するようだ。

綺田・綺原神社のいごもり祭の行事日は、2月15日、16日、17日であるが、本宮の涌出宮のいごもり祭の行事日は、平成19年より3日間行事を圧縮した2日間の第三土曜日、第三日曜日。

それまでは綺原神社と同じ2月15日、16日、17日であったが、平日を避けた土曜、日曜日への移行。

その土曜日である。

その日の涌出宮では朝から松明作りがある。

その日の午前中、どの時間帯になるのか、当日でないとわからないが、古川座の一老は、綺田で作った勧請縄を涌出宮に持ち込まれるのである。

つまり、古川座は、2本の勧請縄を作って、1本は、綺田の綺原神社に架ける。

もう1本は、涌出宮に持ち込み

2本合わせてミコナワと呼ぶ。

行事日が変更する涌出宮の関係で予め作っておかねばならないが、綺田の勧請縄は14日に作って神社に架ける。

両方とも間に合わせるように、作る日も移動するので毎年、計算しないと・・。

さて、勧請縄作りである。

縄はモチワラを用いる。

作る際、清める意味のある塩水、でなく、なんと塩酒に手を浸して縄結いをするのである。

勧請縄に吊るす房はニキビともいうニッケの枝木。

シキビではなくニキビの呼び名がある樹木のようだ。

話題提供は古川座の他に、牛の鞍かけとか牛耕の際に使うマンガ(マンガン)にミシロ(筵)の編み方なども。

日が暮れるまで話し込んでいた綺田・平後(へいご)の地。

そろそろ引き上げ、長時間に亘って会話してくださった都合代理の一老役を務めたFさんに感謝申し上げる次第だ。

(H30. 2.18 EOS40D撮影)
(H30. 4.30 EOS7D撮影)

木津の布団太鼓巡行

2020年04月16日 10時54分57秒 | もっと遠くへ(京都編)
午前中の取材先は京都南部の山城町の涌出宮。

百味御食の取材を終えて帰路に就いていた行程中に遭遇した布団太鼓の巡行。

ただいま休憩中の状況の様相の際に車はのろのろ渋滞中。

信号待ち停車時に窓から押したシャッター。



ここはどこであろうか。

後日にわかったそこは木津川市木津馬場南。

国道24号線・大谷信号付近で見かけた木津大谷に鎮座する岡田国神社の布団神輿の巡行であろう。

江戸時代までは、天神宮・木津駅惣社天神社と呼ばれていた岡田国神社

ニュータウン建設に伴って、山の中腹の現在地に遷された、とある。

布団は三層構造。

地区ごとの布団太鼓それぞれに太鼓打ちの子どもがいる。

台車に乗せて曳行する布団太鼓は長いオーコ仕立て。

場所、場所によって担いでいた様相が見える。

紺地に白抜き紋。

社町の文字が見える。

近隣村の御霊神社、田中神社をともにする三神社に6基の布団太鼓を宮入するそうだ。

ネット調べによるが、地区、或いは組織は、岡田国神社が社町、義友会(五丁目・三桝町)。

御霊神社が敬神組(北大路町・南大路町・橋本町・江戸町・泉町)、拝神團(峠町・燈籠寺町・北畑町・南畑町・上津町・片山町)。

田中神社は西町(平成17年より休止していたが平成29年に復活)、小寺町(白山神社だったが、40年ぶりの平成15年に宮入)。

なんとかとらえた2枚の映像に3基の布団太鼓

祭り名称は、木津三社祭りであるが、木津町指定無形民俗文化財の指定名称は「木津布団太鼓台祭」だ。

行事日は、10月の第4土曜日と翌日曜日。但し、10月20日、21日が土日の場合は、20、21日になる、とあるから今年は20日と21日。

まさに当たり年であった。

(H30.10.21 SB932SH撮影)

南山城村高尾の十九夜講を訪ねて

2020年03月18日 10時09分38秒 | もっと遠くへ(京都編)
十九夜講があると聞いて調べている京都・南山城村高尾。

たぶんにこの日であれば、何らかの情報が掴めるのでは、と思って出かけた前年。

平成29年の9月19日に立ち寄った際に出合えた男性。

小字三升(さんじょう)にお住いのMさんが話してくれた概要によれば、実施日は19日の前日の敬老の日。

めいめいが参拝されて、その小屋に籠っていた、と話してくれた。

本年の敬老の日は、9月17日の月曜日。

時間帯は不明であるから、適当な時間を見計らって家を出た。

適当といってもある程度の照準を合わせての出発。

道作りをされてからの参拝であれば、午前中いっぱいに終えて小屋籠り。

その場で直来の食事をしている、と想定した上での出発。

到着した時間帯は正午の12時半。

小屋の扉は閉まっており、人影は見当たらず・・。

ただ、周辺は草刈りをしたような気配がする。

奇麗に整備された状態を見て、到着した時間帯よりも前に終わったのだろうと判断した。

小屋のある左側の奥。

相当数ある石仏群が目に入った。

赤い涎掛けが風景のなかにぽつんと目立っている中央の石仏は錫杖を手にする地蔵立像石仏。



よく見れば、辺りすべてが地蔵石仏のようだ。

手前にある青竹が真新しい。

左右ともシキビを立てていた。

石仏群の右手に小堂が建つ。



チェーンでブロックし施錠した装備に守られるのも石仏のようだ。

ここにもシキビを立てているから、間違いなく、今日か、昨日かにされた模様。

この場に佇んでいても仕方ない。

近くにある集落へ行けば、どなたかに合う可能性もないことはない。

とりあえずは空腹を満たすために摂る車中食。

ここら辺りは、食事をする処がない。

弁当持ち込みか、カップ麺をここで作って食べるしかない。

そう思って用意していたマルちゃんのたらこ味ラー油仕立て俺の塩うまみ塩焼きそば

たらこ味よりもインパクトのあるタラコのラー油・辛ソースが美味かった。

お腹を満たして集落を巡る。

一歩、入ろうとしたそこに草むしりをされている高齢の婦人がおられた。

一般的に十九夜講は女性が集まって営まれる講の集団である。

現役の講中であれば、参列していたかもしれない。

そう思って声をかけた小字三升に住む婦人。

十九夜講を尋ねたが、どうも不確かであるが「たきなん講」なら知っている、という。

婦人は昭和6年生まれの高齢者。

高尾からすぐの隣村になる奈良市邑地町出里が出里のNさん。

「ずいぶん昔のことやけど、“滝庵寺”に家で作った料理を持参して参拝・会食していました」と話してくれた。

「たきなん講」の名をはじめて知ったのは、平成29年1月20日。

南山城村北大河原にある農林産物直売所におられた2人の売り子さん。

うち一人が、高尾に住む女性だった。

その人がふっと言われた講が「たきなん講」である。

「たきなん講」を充てる漢字は「滝庵講」。

Mさんも話していた滝庵寺は、高山ダム築造によって水中に沈んだ。

高尾の人たちは、全戸が高山ダムに沈むことから高台に全戸が移転したのである。

N家前の道端で話しをしていたそのとき。

軽トラで走ってきた車内の人に声をかけられた。

十九夜講のことは、その方が知っていると云って紹介してくれた。

男性は昭和28年生まれのNさん。

自己紹介ならびに取材の主旨を伝えたら承諾してくださった。

だが、今年の十九夜講は、昨日に終えたばかり。

日程は固定日でなく、不定期日程。

日にちが決まれば電話してあげると携帯電話番号を登録してくださった。

同乗していた奥さんの出里は奈良県の山添村。

取材件数の多い山添村であるが、大字はどこであるのか聞きそびれた。

今から出かけなくてはならないという婦人。

行先は新設された道の駅「お茶の京都 みなみやましろ村」。

平成29年の4月15日がグランドオープン道の駅

当日は、相当賑わったそうだ。

今では落ち着いているが、土曜、日曜、休日ともなれば車、バイク、人が溢れるくらいになる。

この日も祝日の敬老の日。

立ち寄るお客さんは多い。



余裕時間はたっぷりあるのでトイレ休憩も兼ねた施設見物。

産直売り場にある商品の品定めに食事処のメニュー調査。

コンビニエンスストアもある道の駅は便利であるが、ときおり訪れてはなにかと購入している北大河原・農林産物直売所の商品とはまた違う。

地産地消であっても栽培者が異なるからだろう。

そのことは否定でなく、偏っていないから買い物者としては2カ所とも訪れたくなる。

トイレを拝借、用足し。



その室内の一角に昔の写真や各種の散歩マップを掲示していた。



新設された南山城村の道の駅を祝して掲示された「むらさんぽ2記念写真展」である。



むら散歩地図に書いてあった昭和44年に完成した高山ダム築造のため高台に移転した大字川端の写真展である。



かつての村の状況に記憶に残る暮らしぶりを村人が語った資料にぞっこん惚れた。

貴重な証言の数々が記されている。

「現在の高山湖周辺マップ」に「田山~広瀬地区の拡大」に「むらさんぽ02夏の号 湖底に眠る集落マップ」まで。

病後の平成27年11月3日に拝見した南山城村・諏訪神社で行われた田山の花踊りの地も紹介している。

神社、寺院に如意輪観音・弥勒菩薩・地蔵尊などの石仏。

お旅所、塚、山の神、モリサンに墓地までを案内する現在状況の観光マップに民俗有無を求めて目がキョロキョロする。

「このへんに水車があったんやで・・・石臼があってな・・・」、「小学4年生になったらここで水泳すんねん・・・学校の先生が授業に連れてきよんねん・・」、「月ヶ瀬梅林行くのに使ったバスは満員でものすごい人やった・・・」、「家の周りはすべてが茶畑・・今と違って高いこんもりした茶園だった・・」などの証言。

「⑦だんだ坂の石地蔵」のキャプションに「いたずら封じのために作ったという謂れがある。田山の入り口を守る塞神(※さいのかみ)。観音寺からここまでたむし送り(※7月末に行われる稲作の害虫を追い払う行事/※田の虫送り)が行われていた。現在も石地蔵は残っている」。

「⑤如意輪観音・子安地蔵」には「十九夜講という。安産を願う女性たちの集まりによって1812年に建てられた如意輪観音が今もある。隣には、同じく十九夜講が建てた子授け・子育ての神である子安地蔵が祭られている」とある。

ちなみに「滝庵寺・三升石塔墓地」も「川端にあった滝庵寺と墓地が移動。今は、寺社はなく、入り口に籠り所が、その奥のお堂に如意輪観音像が造立されている」と記載していた。

先ほど拝見してきた小屋に小堂に安置する観音像のことである。

高尾の川端地区に三升地区。

また田山地区も含めた地域の民俗話題がいっぱい。

午後3時近くになったこの日はここまで。

またの機会にと思って道の駅を離れる。

帰路のコースに選んだ高山ダム湖に沿う府道を走る。

今にも降ってきそうな暗雲。



停めた地は高山ダム湖に架かる高山橋。

現在の橋が架かるまでは、石で造られた欄干のない沈下橋だった。

橋の下を覗き込んでも沈下橋の姿は見えない。

そこから数km走ったところにあった六字名号石碑。



文字のすべては判読できないが、右は庚申塔ではないだろうか。

さらに走った右側に大きな岩がある。



これこそが川端の春日神社のお旅所岩である。

(H30. 9.17 SB932SH撮影)

山城町・北河原の春日神社

2019年12月28日 10時14分37秒 | もっと遠くへ(京都編)
さて、いごもり祭が始まる前の時間帯である。

涌出宮に向かう道中に寄り道。

宮司も祭礼に勤めると聞いていた同町隣村の北河原に鎮座する春日神社に立ち寄った。

祭祀の時間帯はいつされるのかわからないが、鎮座地がどこであるのか知っておきたくて立ち寄った。

当社の注連縄は三本房仕立て。

鳥居と社殿前扉に架けていた。

(H30. 2.18 SB932SH撮影)

山城町綺田・綺原神社の勧請縄

2019年12月27日 09時59分41秒 | もっと遠くへ(京都編)
木津川市山城町・棚倉涌出宮で行われるいごもり祭(居籠祭)を拝見していた。

午前中の後半から午後にかけて行われる七度半(しったはん)の呼び出しの取材させてもらったお家がある。

呼び遣い役を送迎する車の尻について廻った村巡り。

涌出宮へ戻る際にも車の追っかけ。

村の道に印のようなものはない。

記憶が鮮明なうちに覚えておこうと思って車を走らせた。

あの筋、この筋であろうと、記憶を辿る走行路。

印はないがどことなくここら辺りと思ってハンドルをきったら、そこにあった古川座総本家。

次回に訪れることがあれば間違いなく行けるだろう。

そこから東に向かおうとした里道。

その先にあるのは踏切である。

JR西日本・奈良線である。

棚倉涌出宮もまた奈良線。

駅舎は棚倉駅になる。

その棚倉駅から北上。数km先、目の前にあった踏切。

里道は狭いが軽自動車であれば難なく通過できると信じて渡り切った。

そこはさらに細くなった里道。抜けるのがたいへん。

細心の注意をはらいながらおそるおそる動かすが、いつどこで車と遭遇するのかヒヤヒヤものだった。

集落を抜けて視野が広がる地。

鬱蒼とした鎮守の森が目に入った。

鳥居向かい側の広地に停車してみる神社の様相。

近寄った鳥居に刻印があった。

「式内 綺田座健伊那太比賣神社」とある。

銅製の変額に「綺原神社」とある。

鳥居に架けてある注連縄は一般的な形式であるが、市販のものでなく手編みである。



手水鉢傍に立ててあった由来書きに「ここに鎮座されます。綺原神社(かんばらじんじゃ)は“大日本史”、“日本書記”、“延喜式”にも綺原座健伊那太比賣神社(かんばらにますたて(※かんばらにますたけ)いなだひめじんじゃ)として記述されており、祭神は“タテ(※タケ)イナダヒメ”とされ、“タテ(※タケ)”は健康、“イナダ”は稲田で、達者に農事にいそしめるよう祈願されたものだと考えられます。ここの地名“綺田(かばた)”は、その昔、紙織(かむはた)、または、神織(かむはた)とも呼ばれ、神に献ずる衣服を織る技術者および養蚕技術者を祀った社とも言われており、綺氏一族(秦氏一族)の創起だと言われております。現在は、菅原道真公を祭神とする天神社および八王子社併せ、おまつりしております」とあった。

なお、”健”は、いわゆる“たける”の呼び名。例えば“ヤマトタケルノミコト”を充てる“倭建命”から自ずと判断されるから、※印に補完表記しておく。

手水で清めて参拝。

石段を登っていくときに見上げた向こう側に菅原道真公の神使いである牛像が見える。



ふと見上げたそこに勧請縄が目に入った。

左右に建つ「奉納 式重塔」に架けてある。

「式重塔」とはどういう意味をもっているのだろうか。



勧請縄に吊った樹木の下がりの数は12。

一年の月数を現わしているようだ。

もっと近づいてみれば幣もあるが、竹製の弓・矢がある。



この形は、涌出宮居籠祭・勧請縄取換の儀で見た弓・矢と同じだ。

ならば古川座の人たちが作って奉納したのであろう。

社務所、境内にはどなたもおられない。

いつ、どこで作って奉納されたのか。

平成22年度・京都府ふるさと文化再興事業推進実行委員会が企画(事務局は京都府立山城郷土資料館)、文化庁の委託事業としてDVDに記録映像化した『重要無形民俗文化財 京都府木津川市・涌出宮の宮座行事』がある。

宮司から手渡され、一時期借用していたDVD記録映像によれば、朝に座中が集まって勧請縄や弓、矢を作るようだ。

作業場は、座中の当屋家の前庭である。

当屋制度があるように思えたテロップである。

「古川座では、涌出宮と地元の綺原(かんばら)神社に奉納する二本の勧請縄を作る」とあった。

また「二本の勧請縄は、長さが違うだけで飾りつけは同じで、しきびのさがりを作る」とある。

樹木の下がりは、しきび。

つまりはしきみ(※樒)であった。

作業映像を見る限り、弓・矢は予め当屋が作っているように思える。

続くテロップは「一本の勧請縄に、12房のしきびのさがりを吊るし、「24枚の紙垂(しで)を取り付け」、しのぶ竹で作った「弓に4本の矢をセットした飾りを2組吊るし」、水引で括った弓・矢を取り付ける。

できあがった勧請縄のうち、一本は綺原(かんばら)神社に運んで、「式重塔」に架ける。

架け終わったころに氏子たちが早速の参拝に、ようお詣りやす、と迎えていた。

もう一本は、涌出宮に運び、膳の料理とともに、大松明製作中の与力座の一老に手渡していた。

できるなら、翌年の勧請縄作り、ならびに勧請縄架けは拝見したいものだ。

(H30. 2.18 EOS40D撮影)
(H30. 2.18 SB932SH撮影)

山城町涌出宮居籠祭の禁忌神事

2019年12月22日 10時05分28秒 | もっと遠くへ(京都編)
午後に始まる涌出宮居籠祭の饗応の儀(あえのぎ)までの数時間は、関連する神事ごとが行われる周辺調査に費やす。

神事の最中は、誰も見てはならぬ、他見を許さない非公開の神事に「森廻し神事(みややまど)」、「野塚神事」、「御供炊き神事」、「四ツ塚神事」がある。

意を決して、「森廻し」の場を探した人がいる。

この日に初めてお会いしたKさんが宮司と面会をされていた。

手には、「森廻し」など、禁忌神事の場所を明示した地図を持っていた。

Kさんは、その地図を頼りに出かけた時間は夕刻を過ぎていた。

暗闇に見える範囲で登ったそこに・・・。

そのときの探訪記は「京都ブログ」に載せている。

地図に書いていた森廻し神事場のルート。

大まかな地図だけにルート探しは困難だった。

涌出宮を出てはじめに立ち寄る「山の神」。

次が「谷山不動」。

不動尊のある谷山ということであろうか。

次は「光明山」。

近場ではなさそうな”山”道を行くのだろう。

戻ってくる道もたぶんに山道。

着いた処が「城山」とあるから、山から山への旅路であろう。

不動川を渡って名称のない⑥の地。

そこから、再び不動川渡り。

北に向けて歩くルートに「しへい屋敷」とある。

地図ルートによれば⑨~⑪。3カ所になにかがあるようだ。

また、棚倉駅の西に東に⑦と⑧。

これらもまた名称が記されていない。

番号だけで手がかりの名称がなければそこはどういう処さえわからない地図であるが、右に書いてあるキャプションで少しはわかる。

資料地図にキャプションがある。

「15日の野塚は神社より線路を渡った西の方角の小川のほとり」とある。

目印は“小川”であるが、西側は新興住宅地に。

調査報告書が発刊された以降に住宅開発。

野神の場所も移動している可能性も考えられる。

「16日は、これよりやや神社寄りの駅にあたる田の中」。

そこら辺りは、今や田んぼの姿さえ見えない地に見つけることは難しい。

「17日は、神社の東方の方角の柿の木の所にある」。

これもまた難しい柿の木が植生する地である。

一旦は涌出宮を離れて綺田の食事処で昼飯を摂っていた。

その食事前と食事後に探していた「四ツ塚神事」と「野塚神事」の場である。

「森廻し神事」、「四ツ塚神事」の場は、平成29年の3月20日に行われた「女座」行事が終わったあとに宮司自ら案内して教えてもらっていた。

遠く離れた場以外の涌出宮の本殿周辺にある場である。

いずれも、その場に立ててあった榊幣で神事の場がわかる。



1カ所は、すぐ近くに布袋像がある場。

映像は前日の17日に撮ったものだが、翌日の18日にはお供えしたと思われる黒塗りの折敷があった。



そこにあった丸い形の石は何であろうか。

不思議な丸石である。

前年に拝見していた森廻りの場。

同じような様相にある神事の場をまた見ていた。

鬱蒼とした樹勢に囲まれる場にそれぞれ砂盛りを施している。



その手前に張った注連縄は結界であるから一歩たりとも侵入してはならん場。

幣を括りつけた榊が示す神聖な処。

当地が「四ツ塚神事」の場である。

竹で支えていたが何らかの動きがあったのか、斜めになっていた。

車も走る一本道に石標が建之されている。



「内式 和岐座天乃夫岐賣神社」とあり、他の面には「北 蟹満寺十丁 高倉宮十五丁 筒井浄妙塚十五丁」に「東 北吉野 神堂寺廿町」とあるからここもまた神域であろう。

この「四ツ塚神事」の場、というか通りにもう一つ。



大樹の幹に幣が置いてあった。

これは「四ツ塚神事」でなく「森廻し神事」の一つ。

11カ所あるうちの一つである。

なお、この年の森廻し役を務めたのは古老のYさんと若手のKさんのお二人。

暗闇に行われる秘儀を担ったそうだ。

さて、「野塚神事」の場である。

菊約さんが手にする地図を拝見するまでは手がかりまったくなし。

与力座の人であれば当然にご存知の場。

その件について七度半の呼び遣い役に送迎されていたNさんに話題を投げたら教えてくださった。

場は2カ所あるという、そこは棚倉駅の西側。

線路の向こう側にあるが、地図を書いてもわかりにくいから案内してあげましょうと車で送ってくださった。

かつては田んぼが一面に広がる地だった。

こんもりした段丘のような地であったが、住宅開発の折りに段丘は崩され平たんな地になった。

建築された住宅地は縦横一角がわかりやすいが、元々あった野神の地がすっぽりその地に収めるには角地利用と相成った。

そして野神の地とわかるように大きな岩で碑を建てた。

大きな文字で彫った「いごもり祭 野神」の碑。



黒っぽい方の碑には前年度、いやもっと前のものとも思われる竹串に挿した幣があり、その前に今年のいごもり祭の幣があったが、横になっていた。

竹串を挿す地は硬い。

以前の幣を取っ払いたくなかったのだろう。

やむを得ずの判断にそうしたと推定したのだが・・・。

もう一つの碑にはその痕跡すら見られない。



野神の神事は一度に2カ所とも、ではなく日にちを分けているのだろう。

その野神の地に祭る祭具が、前日に拝見したマグワ(※馬鍬をマングワ或いはマンガンなどと呼ぶ地域もある)にカラスキ、スキ、クワのミニチュア農具。

人目につかない深夜に行われる野神の神事は秘儀。

決して見ることさえ許されない秘儀であるが、終わったあとに見つけた人は持ち帰っても良しとされている。

そういえば、18日の朝である。

本殿、末社などに野菜盛り神饌を供えていた時間帯に奉っていたミニチュア農具。

三方に盛っていた農具は午後の祭典には消えていた。

おそらく供えてしばらくしてから宮司が下げたのであろう。

その農具はその日の深夜の野神神事に祭られるのだろうか。

Nさんが案内してくれた場はもう一つある。

棚倉駅北側の線路を渡って東側である。

あそこがそうだという地には野神の碑はない。



植生されている植木の傍がそうである、というが、岩、若しくは大石などのような印しそのものもない。

植木の幹辺りにある大石がそうであるのか断定できるわけでもない。

17日の朝に拝見したミニチュア農具は3体。拝見した場もまた3カ所。

それぞれに奉られるようだが、手にした人は我黙して語らずのようだ・・。

また、この他にもかつては坊があった山の高台にもある、といっていたのは、地図に示された「城山」若しくは「谷山不動」であろうか。

秘儀の場はもう一つある。

中谷宮司が見せてくださったその場所は居籠舎。

この日の深夜に行われる「御供炊き神事」の場である。



四脚門の勧請縄を取り換え際に古い方の縄から取り出したヤブニッキの葉付きの枝。

コウジブタ2枚に盛ったヤブニッキは火種に使う。

香ばしいという爽やかなニッキの匂いが居籠舎に充満する、という。

なんとも言えないその香りに包まれる中に行われる「御供炊き神事」。

中央に据えているのが竈である。黒く煤けた竈は年代物であろう。

左右側に配した道具は、いごもり祭の歴史を数えてきた歴史的な桶。



桶周りに「□別相楽郡平尾村氏神 涌出森神用具 文化十三丙子年(1816)十二月新調 神主 □□代」とあった。

数えてみれば200年前からずっと使い続けてきた桶もまた涌出宮の歴史を語る。

「御供炊き神事」は秘儀。

決して見ることのできない禁忌の神事であるが、平成19年7月に著者印南敏秀氏によって発刊された『京文化と生活技術―食・職・農と博物館―』によれば、それは鳥占(とりうら)であるそうだ。

いごもり祭の最期を〆る神事。

つまり2日間(※かつては3日間)行われてきたいごもり祭の成否を占う儀礼。

古くは鳥占であったろう、と記されている。



垢離をとった御供炊きが炊いた御供を、古川座の一老が、樫の葉にのせて四ツ塚に供える。

夜明けに供えた塚の御供を確かめにいく。

もし、御供が消えていたならば、いごもり祭の明け、つまり終わりである。

その明けに一老は太鼓を打ち鳴らして、 “いごもり祭は無事に終えた”と村人たちに告げる太鼓打ち、である。

仮に、御供が残っておれば、神への祈願が通じなかったことになり、祈祷日待ちとなる。

古くは、そうであれば、はじめからいごもり祭をやり直したそうだ。

それほど四ツ塚の占いは大切なものであった。



鳥占は、卜占(ぼくせん)の一種でもあるが、棚倉涌出宮・四ツ塚の場合は年占(としうら)であろうか。

年頭に山に入り、捕らえた鳥の腹中に残っている穀物の有無をもって、その年の吉凶を占う。

鳥によって行われる吉凶を占う鳥占であるが、野や里に住む鳥獣の可能性も拭えない。

奈良県行事に「狐の施行」行事がある。

これまで数例を拝見、取材記録してきた事例であるが、山中に入って狐が好むアブラアゲメシを供える地域があった。

山中を歩き回って、獣がいそうな処に御供を供える。

時間をかけて相当な距離を歩く行軍のような感じでもあるが、数か所の地域で見た供えた跡。

供えて1時間足らずの時間帯に再び拝見したその場に供えた御供はすっかり消えていた。

鳥獣が食べたということであるが、「狐の施行」は、その字のごとく、山に住む鳥獣に施しである。

施行は、寒の入りから寒中において行われる。



つまり食べ物が少なくなった時季、山に住む鳥獣に施しておこうという民間信仰であるが、「狐の施行」は鳥占でなく、あくまで鳥獣に施すものである。

(H29. 3.20 EOS40D撮影)
(H30. 2.17、18 EOS40D撮影)