マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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森のさなぶり

2015年01月06日 07時45分32秒 | 高取町へ
高取町のさなぶり行事は同一日に佐田の他、薩摩、吉備、でも行われている。

森は佐田とともにイノコ行事が行われている村である。

さなぶりに村の豊作を祈願する地は素盞嗚命神社。

佐田と同じようにここでもかつては煮たソラマメを供えていた。

上手く炊かないとマメ皮が弾けて崩れると云うマメ御供。

炊き方によってマメ皮が弾けて崩れる。

たいがいの奥さんは難しいから炊くことも供えることもしなくなったと長老は話す。

ソラマメを炊くのは区長(総代)の奥さんの役目。

失敗したら難儀なことになったと話すソラマメは甘う炊いた。

とても美味しかったソラマメは参拝する子供の楽しみだったと述懐される。

月当番の人が本殿前にお供えをして各燈籠にローソクを灯す。

ブルーシートを敷いた上にゴザ敷き。

その場に並んで佐田と同様に2礼、2拍手、1礼をして参拝を終えた。

どの村でも神職は出仕されないさなぶり行事であるが、薩摩だけは唯一。

小嶋神社の宮司さんであるが、薩摩在住であることから出仕されていると云う。

区長の挨拶を経て乾杯をする。

下げたお神酒はおつまみでいただく。



村の田植えが終わってひと息つける「さなぶり」の宴の話題は村で起こった事件になる。

アライグマは見ていないがタヌキはいる。

イノシシは猟師が60頭も捕ったそうだ。

その捕ったイノシシは痩せていた。

自然しだいの天からの恵みが水。

吉野川の分水を田んぼに引くが一割ぐらい。

大方は天の恵みの雨だと話す。

これが鳴いたら水替えをしなければと云ったのはⅠさんだ。

鳴いた鳥はホトトギス。神社上空を鳴きながら飛んでいった。

直会が始まるころに遅れてこられた男性がいた。

どこかで見たことがあるような・・・。

数分間、記憶を辿って思い出した。

奈教附小の自然観察会に来られていた奈良野鳥奈良支部のKさんだった。

田植えを終えて大急ぎで直会の場にやってきたと云う。

在地が森だったとは・・・森の出合いで懐かしい観察会の話題に話しが弾む。

1時間ぐらいの直会は村の相談ごともある。

しばらくその場に佇んでいた。

気になったのは拝殿に掲げていた絵馬である。

高取町森の素盞嗚命神社には3枚の絵馬を拝殿に掲げていた。



氏子たちのお許しを得て撮らせてもらった森最古の絵馬は享保十年(1725)に奉納された。

絵馬は剥がれているので判断は難しいが、兜を被った武者が虎と戦っているように見えた。

他に2枚の絵馬があったが、慶應と明治。

「村の歴史やな」と云った氏子たちとともに絵馬を拝見していた。

直会を終えて帰り際、住民が薩摩の「ゴンザ」を見たかと云うのである。

森でも「月当番が炊いて直会にするんやけど、今年はないなぁ」と云った。

野鳥観察をされているKさんが云うには高取町の雛祭りに母親ら婦人会が「ゴンザ」を炊いて観光客にふるまったそうだ。

具材はコンニャク・サツマイモなどにシシ肉で炊いたもの。

「とん汁みたいなものや」と云っていた。

特別なこともなく淡々としている村行事の「さなぶり」は各地で行われているが、村の風習を知ることにもなる。

月当番だった婦人は庚申講でもある。

この日に参拝された際には庚申石にオヒカリを立てていたのであった。

そういえば隣村の薩摩にも神社下に庚申石があった。

講中の存在が気にかかる。

(H26. 6.29 EOS40D撮影)

佐田のさなぶり

2015年01月04日 07時07分01秒 | 高取町へ
田植えを終えて村の豊作を祈願する「さなぶり」行事を取材している。

この日に訪れたのはイノコ行事や春日神社のヨミヤ、下宮さんのお祭りを拝見した高取町の佐田である。

二毛作をしていた時代は7月に入ってからであったが、今では6月末の日曜日である。

すべて田植えを終えたら村の豊作を祈願する。

「さなぶり」行事をされる春日神社は束明神古墳がある地だ。

古墳を巡るツアーは大勢の団体客が訪れるが、「春日神社の参拝はしませんな」と云う。

そこに立っていた燈籠には「嘉永四年(1851)二月吉日」の刻印があった。

寄進者は3名。

いずれも「的場」姓である。

年番さんが本殿にお供えをしてローソクを立てる。



集まった村人たちは拝殿前で横一列に並んだ。

総代が前に出て2礼、2拍手、1礼の作法で祭典を終えた。



神職は登場することもなく、ただそれだけである。

20年以上も前は総代の奥さんが炊いたオタフクマメを皿に盛って供えていた。



参拝を終えてオタフクマエを肴に下げたお神酒を飲んでいた直会。

今では豆を炊くこともなく市販のおつまみをいただく直会になった。

場は和やかな雰囲気で盛りあがる。

昨今はイノシシが出没する佐田の里。

直会の最中に鉄砲を持った男性が現れた。

イノシシ撃ちの猟師である。

サツマイモは喰い荒らすし田んぼは穴ぼこだらけ。

アライグマ・・・そんな甘いもんじゃない。

山へ駆けあがっていった猟師は三方から追っているという。

そんな姿を見た村人たちは、鉄砲で追うシシマツリがやってきたと云った。

直会をされていた拝殿。



その場に置いてあった古い消防ポンプに目がとまった。

消防団の庫に置いてあったが手狭になったことから拝殿に移したと云う。

消防ポンプは手押し型、江戸時代後期に各地で採用された「龍吐水」と呼ばれている道具である。

一節によれば享保年間にオランダから輸入されたのが始まりだとか・・・。

これまで奈良市上誓多林や山添村切幡で拝見したことがあるが、佐田の製造会社・年代は判読できかった。

おそらく近代のモノだと思われるが、貴重な民具史料である。

(H26. 6.29 EOS40D撮影)

さなぶりは最終日

2013年10月11日 08時26分46秒 | 高取町へ
田植えを終えて氏神さんにその旨を奉告する「さなぶり」がある。

農業を営む村の人の願いは豊作である。

田植えを無地に終わりました、すくすくと育って秋の実りが豊作になりますようにという願いである。

何年か前に聞いていた高取町の森。

そろそろ終わりになる頃だと思って出かけた素盞嗚命神社。

鳥居を潜ってみたものの境内は雨、風に煽られた木々が落ちている。

さなぶりがあれば清掃しているはずだと思った。

もしかとすれば翌週であるかも知れないと考えて再訪した。

境内は奇麗になっている。

いつであったのか近くに居られた婦人たちに尋ねた結果は、この日の数時間前。

さきほど終わって帰ったという。

残念だったよねと話す婦人の話しによればすぐ近くの北隣の佐田ではそれより2時間前の昼過ぎに春日神社でさなぶりがあったという。

西隣の薩摩では森と同じ時間帯だったのだ。

たいがいは6月の最終日曜日になるようだ。

甘辛く煮たソラマメを供えると聞いていた森のさなぶり。

佐田、薩摩での神事の様相は判らなかったが、集まった氏子たちはそれぞれの神社で会食をするらしい。

(H25. 6.23 SB932SH撮影)
(H25. 6.30 聞き取り)

高取町寺崎のとんど

2011年02月28日 08時43分43秒 | 高取町へ
茅原の大とんどと称されている県内でもっとも代表的な御所市吉祥草寺の左義長。

逆立ちした円錐形が特徴的だ。

その流れがあるのかどうか判らないが形状が似たとんどの地域がある。

茅原よりも小ぶりで行われている同市の稲宿(いなど)。

高取町でも同型のとんどが行われている。

寺崎のとんどは19時に火が点いた。

村の人が群がるように集まっている。

火種は提灯に入れて持ち帰る人も居る。

佐田や越の人の話しによれば与楽(ようらく)もそうであるという。

分布はどこまで広がっているのだろうか。

この時期の調査対象でもある。

(H23. 1.14 EOS40D撮影)

佐田束明神春日神社のヨミヤ祭り

2010年11月02日 07時30分00秒 | 高取町へ
高取町では体育の日辺りが運動会の催しとなっているため秋祭りの日程が大きく変化している。

佐田もご多分に漏れず元々8、9日だった祭りを繰り上げて第一土曜になった。

祭りはヨミヤ祭りとも言って夜に行われる。

漢字で充てれば宵になるのか夜であるのか判らないと話す住民たち。

3時間をかけて前夜に搗いたモチは佐田ふる里館に供えて提灯の出発を待つ実行委員会。

館の正面には天照皇大神の掛け軸を掲げる。

その前に供えた御供モチは2斗3升も搗いた。

御供桶(ごくおけ)の中に入れたモチ。

白い布のようなものをその上に被せた。

それはカサモチと呼ぶ。頂点には御幣を挿す。

それは三つある。

会食がほどなく半ばにさしかかったころ即興で歌が始まった。

佐田の伊勢音頭だ。

手拍子で歌う声が館外まで聞こえてくる。「(アーヨーホイナー)ここの やかたはーはーいなー (ヨイヨイ) めでたーいぃー やあーかぁーたあー (ヨーイセ コーラセ) つるが こがねのよー すを かーけーる (ホンマカヨー ドーコイセ ヨーイヤノ アレワイセー コレワイセー ソリャヨ-イトセー)」が流れた。

伊勢音頭は各地で歌われているが佐田は独特の節回しじゃろと言ってはばからない。

館の外には提灯が置かれている。

提灯立てがあるのだが、雨が降りそうだと軒先に置かれた提灯。

ご神灯が2基。

色彩された提灯が6基。

それはヤカタ(屋形)提灯とも呼ばれている高張提灯。



さらに笹竹に十二個の丸型提灯をぶら下げたものが2基ある。

それはススキ提灯の名がある。

葛城山麓で見られるススキ提灯とは趣が異なる形だが、十二振り提灯の変形とも考えられる。

この丸型提灯は10月末辺りに行われている下宮さんのお祭りでロープに数珠繋ぎして持っていったものだ。

同じ提灯も祭りによって使われ方が替わるのだ。

会場で30分も歌われた伊勢音頭。

その手拍子とともに会館を出た。



提灯にローソクを点してそれぞれの役目に就く。

先頭は委員長。次は御供桶を担ぐ3人の若者。

後続はヤカタ(屋形)提灯を掲げる6人。後ろはススキ提灯の2人だ。

北、中、南垣内から選ばれた人たちだ。

その後ろは村の人が続いて練り歩く。

一旦は集落の北の端まで練り歩く。

そこでUターンして中央に向かう。

そこからは南の端へ行く。

そこから戻って西側を歩く。

集落全域を錬り歩くのだ。

途中、2回ほど休憩したが、その間も伊勢音頭は途切れない。

昨年まではそうではなかった。

佐田には古座と新座の2座があった。

南のトーヤの家から出発して北へ行く。

そして氏神さんに行くコースだった。

ごちそう料理もトーヤが作っていた。

「ゴンザ」と呼ばれる雑煮。

サトイモ、ダイコンにコンニャクの煮染めだったそうだ。

それはタヌキ汁とも呼んでいた。

昔はカシワの肉だったという人も居る。

それがいつしかコンニャクに替わった。

肉をだましてコンニャクに化け、タヌキ汁になったんだろうと話す住民。

営んできた宮座を解体し、1座に統合して祭りを継続していきやすいように改正された初年度のヨミヤ祭り。



向かう先は束明神古墳に鎮座する春日神社だ。

圓常寺脇の参道階段を登り詰めた処が神社。

6個のヤカタ(屋形)提灯を鳥居に上げるとき、突然と掛声がかかった。



「ちくちくどん それっやってくれ」と大合唱が数回繰り返される。

「意味は判らんが、昔からやっているしきたりみたいなもんで、一種のセレモニーじゃ」と言う。

ススキ提灯は境内外れに置かれた。

会長の挨拶を終えたら祝いの手拍子が始まった。

「いおぅてくれ いおぅてしゃん しゃーんしゃん いおぅてしゃん おっしゃんしゃんの しゃーんしゃん」で境内は御供撒きに転じた。



村の人が連なってやってきてのはこれが目当てだったのだ。

手には袋。玉垣の後方から御供モチが撒かれると手入れようと手が伸びる。

真っ暗な境内での御供撒きは直接キャッチするのは難しいが、今宵のお祭りを楽しまれて家へ帰っていった。

明日は祭りの片付け。委員会の役目は会館で反省会をしてヨミヤ祭りを終えた。

(H22.10. 2 EOS40D撮影)

続、森の行事

2010年10月31日 07時31分01秒 | 高取町へ
高取町の森に住むEさん70歳。農作業を営む傍ら鶏を育てている。

白い鶏はめでたいと言ってお伊勢さんに奉納されたこともある。

当主は5月5日にタネを撒いて苗を作る。

田んぼに水を引いて苗代作り。

それが終わった8日は久米れんど。ヨモギのモチのアンツケモチを作る。

家の阿弥陀さんに供えて向かいの永明寺にも供える。

各戸が持ち寄るらしいが数は判らないという。

久米れんどは畑仕事の休日の日。

ねんどのモチはノドが通らんという。

休息の日を迎えたあとは農作業が始まる本番。

田んぼを歩いた足型は窪んでいる。

そこにオタマジャクシが残ってしまう。

それはカラスの格好のエサになるのだと話す。

正月を越して春になったら山菜採り。

田植えが終わればシメジ採り。

秋はギンナンを拾ってくる。山へはシシ狩りにも行く。

自然のサイクルに合わせた営みをしてきたEさん。

その恵みをよばれてきた暮らし。自然と上手につきあうことが大切だと話す。

そのEさんが語った。森辺りは飛鳥の墓村やったという。

その周囲には薩摩、土佐、兵庫、吉備などの地名がある。

これらは飛鳥の宮を造る際にやってきた各地の人たちが住んだ処だ。

こういう県外地名は大和郡山市にも見られる。

城下町を形成するにあたった新庄町、丹後庄町、美濃庄町もそれと同じことなのであろうか。

(H22.10. 1 記)

高取町森のイノコ

2009年12月27日 07時43分54秒 | 高取町へ
「イノコの晩に モチの搗かん家は 箸の家建てて 馬のクソで壁塗って ここの嫁はん何時貰う 3月3日の朝貰う 鰯三匹 酒五合 新米藁で祝ぉたろか ペッタンコ ペッタンコ もひとつおまけに ペッタンコ ペッタンコ」と掛け声をかける子供たちは家の門口の地面に藁棒を叩きつける。

収穫が終わって最初の亥の日に行われている高取町森地域のイノコの行事。

かつて子供たちだけで行っていた。

イノコをしたら家の人が祝儀をくれる。



それを先輩が預かってお菓子を買ってくれた。

余ったお金は分けてくれたのだと懐かしそうに話す男性経験者。

そのころは青年団が仕切っていて男の子だけでしていた。

今は子供会の主催行事で女の子も参加するようになった。

昔は土の地面で崩れた藁は自然に帰った。

舗装された地面になったから流れんようになって掃除の箒を持った親が随行する。

環境問題も優しく対応するようになったイノコ行事。



祝儀は駄賃になるので、少なかったら藁に水を浸けて障子にぺっぺっと飛ばして訴えてやったと昔を思い出す男性。

大らかな時代は戻って来ないだろうと笑った。

永明寺前に集まったイノコの子供たちは幼稚園児から小学6年生までの男女。

「イノコの晩です」と呼び鈴を押して声を掛ける。

出てきたお家の人に了解を得てから藁棒叩きを始める。

ご祝儀をいただいたら次の家に走っていく子どもたち。



イノコが始まったばかりだというのに、既に叩かれた藁棒はボロボロになってしまった。

北の端まで行って、森の街道を戻って西の端の家まで。

50軒余りの地区を巡るには相当な時間と体力がいる。

(H21.12. 8 Kiss Digtal N撮影)

佐田下宮さんのお祭り

2009年11月23日 06時27分00秒 | 高取町へ
佐田の下宮(しもみや)さんの塚穴に水が溜まっているのは猿沢池に繋がっていると伝わっている。

子どものときは人阿入れるほどの穴だったが土が崩れて小さくなった。

今夜は宮講の人がその下宮さんにお参りする日。

講中の一人は日が暮れる前から境内でシバ組みしたトンドを燃やして待っている。

かつて雨乞いをしていた下宮さん。

夜に弁当と持って提灯の灯りで暗い道を歩いていった。

そして雨が降るまで般若心経を唱えていた。

その夜はお籠もりの日だった。

分水ができてからは雨乞いをしなくなったが、秋が終わるころに下宮さんのお祭りとして心経を唱えている。

佐田ふる里館に集まった講中は出発前にしばらく歓談。

時間がきたら提灯をロープに数珠繋ぎにする。

さぁ行こうかと法被を着た講衆。

提灯に火を点けて夜道を歩き出したお渡りだ。

唄う伊勢音頭は稲刈りを終えた田畠に広がる。

約1kmほどの森の中に下宮さんが鎮座する。

持ってきた提灯は両脇の木に括り付けて注連縄のように張る。

トンドの周りにゴザを敷き、そこに座る。代表者数名は灯明を点した前に座り、般若心経一巻を唱え手を合わせる。



それだけで祭礼は終わった。

そのあとは村の行事や役員などの報告会。



お菓子を肴に酒を飲む。

子どもも一緒に楽しむ籠もりは1時間ほどで終わった。

その夜は県北中部地域に強い雨が振った。

佐田の下宮さんの雨乞いが関係したかどうかは天の答えを聞くしかないだろう。

(H21.10.25 Kiss Digtal N撮影)

続、佐田のイノコ

2009年01月31日 10時01分34秒 | 高取町へ
イノコの駄賃。

(H20.12. 8 Kiss Digtal N撮影)



<亥の子の歌>

亥の子の晩に 餅せん家は

箸の家 建てて 田んぼの土で 壁塗って

※(NHKが放送した際「馬の糞」ではふさわしくないと「田んぼの土」に替えられた。

ここの嫁はん 何時貰う

正月三日の 朝貰う

鰯三匹 酒五合

さいらの腐ったんで 祝ってやれ

ドンブラコ ドンブラコ

(通常はここで終了し「もひとつおまけにドンブラコン」を加える)

※ 当日は「馬の糞」に「いおうてやれ」、「どんないわ」、「さいらのわたで」と囃していました。