昔は、松明というか、ローソクを灯した提灯を手にしてお渡りをしていた。
夕方の午後5時半に出発していた宇陀市大宇陀栗野のお渡り。
今は、本校の田原小学校に統合され、昭和38年に廃校になった栗野分校の跡地に建築されたときわ老人憩いの家が出発地。
現在は村の集会所としても利用するこの日限りの祭り当屋の家。
かれこれ10年ほど前に改正された。
午前中は、祭り当番垣内の針ケ谷垣内の人たちが寄り合ってゴクツキをしていた場である。
17個の木桶に入れた御供餅は、オゴク、コゴクの2種。
かつては、子どもの小遣いになる小銭を入れていた大判のゴクダマをオゴク。
数多く搗いて作ったコモチはコゴクと呼ぶ。
いっぱい詰まった木桶の御供餅。
かつては人足がオーコで担いで渡御について神社まで行っていただろう。
担ぐ人足も当番垣内からとなれば難しい。
やむない措置に運ぶ道具は軽トラに載せて移送するが、木桶は二つだけの2人が抱える形で随行する。
現当屋のアニトーヤ(兄当屋)に受け当屋のオトウトトーヤ(弟当屋)は、白ネクタイを結んだワイシャツ着用。
黒いスーツ姿に黒色の烏帽子を被った裃袴姿でお渡りする。
先頭は、左右両人が高く掲げる御神燈の高張提灯もち。
かつては紋付袴を着用していたが、現在は略されて法被姿で盛り上がる祭りの姿。
20年ほど前に切り替えたようだ。
提灯の次は、菟田野古市場に鎮座する宇太水分神社禰宜の三家(みやけ)邦彦氏。
その次は、榊を手にする栗野区長のFさん。
そして、榊をもつアニトーヤ(兄当屋)にオトウトトーヤ(弟当屋)。
続いて垣内総代も榊をもつ。オーコ担ぎの太鼓打ち、2人が抱えるオカガミの名がある御供餅。
祭りの一行が岩神社に向かって歩き出すお渡り行列。
やや離れた位置から出発した垣内氏子たちも後ろについて神社に向かった。
岩神社で行われる時間から数えて20分前の出発である。
太鼓は移動しながらも打つ太鼓。
ドン、ドン、ドン・・カッ、カッ・・。
太鼓の音色は遠くまで届いているだろう。
ここ栗野の山林地。
錆丸太材の生産地である。
錆丸太は作業を施して、美しい黒い斑模様を表面に磨きあげる桧丸太。
一般的には磨き丸太と称されることが多い。
伐採した桧材は、伐りださずに山中の場で、檜皮剥ぎをしてそのまま放置する。
その際、皮剥ぎした部分が地面と接地しないようにしておく。
そのままほっとけば、湿気にあたって錆びた感じになるという錆丸太。
自然が勝手に作り出す付着するカビの力によって錆させる。
栗野の桧材は、戦後に植林(※杉材も)したものであるが、それ以前は山林地でなく、切り拓いた段々畑の地だった、と話してくれる。
植林に囲まれた栗野の地をお渡り一行は、太鼓の音とともに歩き進む。
お渡りに歩く速度は早い。
集会所を通る道はかつての通り。
新設した現代道は集会所より東。
往来する車の速度が早くなる見通しのいい直線道路。
お渡りは集落を抜けて大通りに合流する。
そこからのお渡りは道路東に寄り添うように歩く。
往来する車を見届けて一斉に渡り切る一行である。
しばらく歩いたら神社へ行く参道道に。
下り坂の参道から神社に繋ぐ橋。
津風呂川に架かる宮前橋を渡って一の鳥居下に着く。
およそ8分間で着いた栗野の渡御だった。
区長の話によれば、昭和57年に起きた大災害。
上流の川上から川下へ流れる濁流。
大きな被害はなかったようだが、調べてみれば昭和57年7月31日から8月3日の数日間。
台風10号に引き続く低気圧によって発生した豪雨。
県下各地で甚大な被害が出た。
伊勢湾台風以来の大災害に災害対策基本法施行後初の災害対策本部がおかれ、災害救助法の適用により陸上自衛隊が派遣された。
降雨量が最も多かった地域は県南東部。
栗野など大宇陀辺りは大雨が・・。
大和川の氾濫などで王寺町を中心に田原本町や天理市に被害があったと新聞が伝える記録があった。
被害地は山崩れが発生した西吉野村も。
土砂で埋まった丹生川を堰き止めた。
生々しい写真映像に、私が住まいする大和郡山市稗田の団地周辺が海のような状態になったことは今でも記憶に残っている。
当時、勤めていた大阪・中央区にある情報処理会社の3交替勤務。
大型コンピュータ運用管理の係責任者だった。
通勤に利用していた最寄りの駅付近の水路が豪流で歩行不能。
若いもんが住んでいた稗田団地では、家から一歩も出られない状況だったが、そこはなんとか自転車に乗ったらしく、少しは前に進んだが、気がついたら水没した田んぼに落ちていた、と後日に報告してくれたことまで思い出した。
話題は栗野の祭りのお渡りに戻そう。
境内に建つ二の鳥居に整列するお渡り一行。
先に到着していたのは軽トラで運んできた大量の御供餅。
境内に敷いた砂利に轍痕が見える。
竹製の高張提灯は、二の鳥居に括りつけ、転倒しないように立てる。
到着したら早速始める作業がある。
まずは、先に軽トラで運んだ木桶に納めた御供餅。
社務所に運び込んだ木桶の御供餅を見ていた受け当屋のMさん。
夏祭りの神事を終えた直後に行われる当屋引き渡しの儀式をもって正式に秋祭りまでの期間の当屋を務める。
なお、一番上に盛った大きな御供餅。
形状が平べったいその餅は、ゴクダマだ。
受ける人、社務所から運んで手渡す人たちが動き出した。
お渡りに運んだ二つの木桶もみな手渡し受け。
社殿前、或いはその下置いて並べた。
平成23年11月5日に斎行された栗野岩神社の式年造営竣工報告祭の模様をとらえた映像放送がある。
収録ならびに編集、配信は宇陀市NPO法人メディアネット宇陀によるもの。
その放送によれば、式年造営に本社、末社のすべての社殿を補修、塗りも奇麗にされた。
併せて末社の配置も替えたと伝える。
本殿の背後にある巨大な岩山はご神体。
本社に向かって左側の社殿は合祀された三社。
一番左に山ノ神・大山祇神。
真ん中に妙見宮・天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。
そして右端に春日社・天児屋根命(あめのこやねのみこと)。
本社に向かって右側は四社の合祀。
左から宗像社・宗像大神(むかなたおおかみ)。
次に稲荷社・稲荷神。猿田彦社・猿田彦命。
一番右端に金刃比羅宮(ことひらぐう)・大物主神。造営前の神社はそれぞれ単立の社殿が境内に点在していたが、造営を機会に合祀された。
合祀の三社、四社それぞれの1神の御扉を開けたそこに供える木桶の御供餅と二段重ねのオカガミもある。
当屋引き渡しの儀式の後に行われるゴクマキ用の木桶餅も並べた。
次の支度は旗の支柱立て。
年季の入った丸太木のてっぺんに榊を挿す。
その支柱に鏡、刀を添える。
赤、青、黄、緑に白の五色旗も吊って立てた。
右に鏡と勾玉、左は刀の五色旗。
10分ほどで神事の場を調えた。
整列される祭りの一行。
中央にアニトーヤ(兄当屋)にオトウトトーヤ(弟当屋)。
両者の傍に栗野の区長と祭り当番垣内の針ケ谷垣内総代。
後方列に針ケ谷垣内氏子と次に受けるオトウトトーヤが属する下出垣内の氏子たち。
この日の大祭である夏祭り神事の斎主を務める三家禰宜。
祓詞に祓の儀。
次に献饌。
社務所内にあった供物置きから一つ、一つをお手繰り送りで渡す神饌。
本社殿前の三家禰宜が受け取って並べられる。
その様子をじっと見守る垣内の人たち。
子どもたちはじっとしとられんようだ。
玉串台の前に立ち祝詞を奏上される。
そして、斎主、区長、アニトーヤ、オトウトトーヤの順に玉串を奉奠する。
そのころともなれば、当番垣内の人たちだけでなく、村の人たちがぼちぼちとやってきた。
目当ては、神事を終えて、当屋の引継ぎ。
これらを終えてから始まるゴクマキである。
(H30. 6.24 EOS7D撮影)
夕方の午後5時半に出発していた宇陀市大宇陀栗野のお渡り。
今は、本校の田原小学校に統合され、昭和38年に廃校になった栗野分校の跡地に建築されたときわ老人憩いの家が出発地。
現在は村の集会所としても利用するこの日限りの祭り当屋の家。
かれこれ10年ほど前に改正された。
午前中は、祭り当番垣内の針ケ谷垣内の人たちが寄り合ってゴクツキをしていた場である。
17個の木桶に入れた御供餅は、オゴク、コゴクの2種。
かつては、子どもの小遣いになる小銭を入れていた大判のゴクダマをオゴク。
数多く搗いて作ったコモチはコゴクと呼ぶ。
いっぱい詰まった木桶の御供餅。
かつては人足がオーコで担いで渡御について神社まで行っていただろう。
担ぐ人足も当番垣内からとなれば難しい。
やむない措置に運ぶ道具は軽トラに載せて移送するが、木桶は二つだけの2人が抱える形で随行する。
現当屋のアニトーヤ(兄当屋)に受け当屋のオトウトトーヤ(弟当屋)は、白ネクタイを結んだワイシャツ着用。
黒いスーツ姿に黒色の烏帽子を被った裃袴姿でお渡りする。
先頭は、左右両人が高く掲げる御神燈の高張提灯もち。
かつては紋付袴を着用していたが、現在は略されて法被姿で盛り上がる祭りの姿。
20年ほど前に切り替えたようだ。
提灯の次は、菟田野古市場に鎮座する宇太水分神社禰宜の三家(みやけ)邦彦氏。
その次は、榊を手にする栗野区長のFさん。
そして、榊をもつアニトーヤ(兄当屋)にオトウトトーヤ(弟当屋)。
続いて垣内総代も榊をもつ。オーコ担ぎの太鼓打ち、2人が抱えるオカガミの名がある御供餅。
祭りの一行が岩神社に向かって歩き出すお渡り行列。
やや離れた位置から出発した垣内氏子たちも後ろについて神社に向かった。
岩神社で行われる時間から数えて20分前の出発である。
太鼓は移動しながらも打つ太鼓。
ドン、ドン、ドン・・カッ、カッ・・。
太鼓の音色は遠くまで届いているだろう。
ここ栗野の山林地。
錆丸太材の生産地である。
錆丸太は作業を施して、美しい黒い斑模様を表面に磨きあげる桧丸太。
一般的には磨き丸太と称されることが多い。
伐採した桧材は、伐りださずに山中の場で、檜皮剥ぎをしてそのまま放置する。
その際、皮剥ぎした部分が地面と接地しないようにしておく。
そのままほっとけば、湿気にあたって錆びた感じになるという錆丸太。
自然が勝手に作り出す付着するカビの力によって錆させる。
栗野の桧材は、戦後に植林(※杉材も)したものであるが、それ以前は山林地でなく、切り拓いた段々畑の地だった、と話してくれる。
植林に囲まれた栗野の地をお渡り一行は、太鼓の音とともに歩き進む。
お渡りに歩く速度は早い。
集会所を通る道はかつての通り。
新設した現代道は集会所より東。
往来する車の速度が早くなる見通しのいい直線道路。
お渡りは集落を抜けて大通りに合流する。
そこからのお渡りは道路東に寄り添うように歩く。
往来する車を見届けて一斉に渡り切る一行である。
しばらく歩いたら神社へ行く参道道に。
下り坂の参道から神社に繋ぐ橋。
津風呂川に架かる宮前橋を渡って一の鳥居下に着く。
およそ8分間で着いた栗野の渡御だった。
区長の話によれば、昭和57年に起きた大災害。
上流の川上から川下へ流れる濁流。
大きな被害はなかったようだが、調べてみれば昭和57年7月31日から8月3日の数日間。
台風10号に引き続く低気圧によって発生した豪雨。
県下各地で甚大な被害が出た。
伊勢湾台風以来の大災害に災害対策基本法施行後初の災害対策本部がおかれ、災害救助法の適用により陸上自衛隊が派遣された。
降雨量が最も多かった地域は県南東部。
栗野など大宇陀辺りは大雨が・・。
大和川の氾濫などで王寺町を中心に田原本町や天理市に被害があったと新聞が伝える記録があった。
被害地は山崩れが発生した西吉野村も。
土砂で埋まった丹生川を堰き止めた。
生々しい写真映像に、私が住まいする大和郡山市稗田の団地周辺が海のような状態になったことは今でも記憶に残っている。
当時、勤めていた大阪・中央区にある情報処理会社の3交替勤務。
大型コンピュータ運用管理の係責任者だった。
通勤に利用していた最寄りの駅付近の水路が豪流で歩行不能。
若いもんが住んでいた稗田団地では、家から一歩も出られない状況だったが、そこはなんとか自転車に乗ったらしく、少しは前に進んだが、気がついたら水没した田んぼに落ちていた、と後日に報告してくれたことまで思い出した。
話題は栗野の祭りのお渡りに戻そう。
境内に建つ二の鳥居に整列するお渡り一行。
先に到着していたのは軽トラで運んできた大量の御供餅。
境内に敷いた砂利に轍痕が見える。
竹製の高張提灯は、二の鳥居に括りつけ、転倒しないように立てる。
到着したら早速始める作業がある。
まずは、先に軽トラで運んだ木桶に納めた御供餅。
社務所に運び込んだ木桶の御供餅を見ていた受け当屋のMさん。
夏祭りの神事を終えた直後に行われる当屋引き渡しの儀式をもって正式に秋祭りまでの期間の当屋を務める。
なお、一番上に盛った大きな御供餅。
形状が平べったいその餅は、ゴクダマだ。
受ける人、社務所から運んで手渡す人たちが動き出した。
お渡りに運んだ二つの木桶もみな手渡し受け。
社殿前、或いはその下置いて並べた。
平成23年11月5日に斎行された栗野岩神社の式年造営竣工報告祭の模様をとらえた映像放送がある。
収録ならびに編集、配信は宇陀市NPO法人メディアネット宇陀によるもの。
その放送によれば、式年造営に本社、末社のすべての社殿を補修、塗りも奇麗にされた。
併せて末社の配置も替えたと伝える。
本殿の背後にある巨大な岩山はご神体。
本社に向かって左側の社殿は合祀された三社。
一番左に山ノ神・大山祇神。
真ん中に妙見宮・天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。
そして右端に春日社・天児屋根命(あめのこやねのみこと)。
本社に向かって右側は四社の合祀。
左から宗像社・宗像大神(むかなたおおかみ)。
次に稲荷社・稲荷神。猿田彦社・猿田彦命。
一番右端に金刃比羅宮(ことひらぐう)・大物主神。造営前の神社はそれぞれ単立の社殿が境内に点在していたが、造営を機会に合祀された。
合祀の三社、四社それぞれの1神の御扉を開けたそこに供える木桶の御供餅と二段重ねのオカガミもある。
当屋引き渡しの儀式の後に行われるゴクマキ用の木桶餅も並べた。
次の支度は旗の支柱立て。
年季の入った丸太木のてっぺんに榊を挿す。
その支柱に鏡、刀を添える。
赤、青、黄、緑に白の五色旗も吊って立てた。
右に鏡と勾玉、左は刀の五色旗。
10分ほどで神事の場を調えた。
整列される祭りの一行。
中央にアニトーヤ(兄当屋)にオトウトトーヤ(弟当屋)。
両者の傍に栗野の区長と祭り当番垣内の針ケ谷垣内総代。
後方列に針ケ谷垣内氏子と次に受けるオトウトトーヤが属する下出垣内の氏子たち。
この日の大祭である夏祭り神事の斎主を務める三家禰宜。
祓詞に祓の儀。
次に献饌。
社務所内にあった供物置きから一つ、一つをお手繰り送りで渡す神饌。
本社殿前の三家禰宜が受け取って並べられる。
その様子をじっと見守る垣内の人たち。
子どもたちはじっとしとられんようだ。
玉串台の前に立ち祝詞を奏上される。
そして、斎主、区長、アニトーヤ、オトウトトーヤの順に玉串を奉奠する。
そのころともなれば、当番垣内の人たちだけでなく、村の人たちがぼちぼちとやってきた。
目当ては、神事を終えて、当屋の引継ぎ。
これらを終えてから始まるゴクマキである。
(H30. 6.24 EOS7D撮影)