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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

丹治の地蔵盆

2015年03月30日 07時31分05秒 | 吉野町へ
最近はニュースでも取りあげられるようになった吉野町丹治のどろん子祭り。

今年は6回目になる。

どろチャリ、どろん子フラッグの競技もあればどろんこすべり台もしていると云うどろん子祭り。

団体のカメラマンも来て賑わっているそうだが「着替える子供を撮っている者がおってどなったこともある」と中二区の区長さんが話していた。

いやはや困ったことである。

この日は丹治の地蔵盆。

野菜の造りものや御膳、シンコダンゴ御供もあると知って訪れた。

早めに着いて聞取りをしようと思っていたが14時ころでは上第一、中垣内ともに誰もおられない。

街道を下って金龍寺角地にある中二区の木戸口地蔵尊へ。

雨が降ると判断して午前中にテントを立てたそうだ。

にわかに黒い雲に覆われて雨が降り出した。

本降りである。



中二区の木戸口地蔵さんの前には上から、4、4、6、8個の提灯を吊った「ダイガク」のような形を立てていた。

以前はそのような形態ではなく、地蔵さん周りを囲むように提灯を吊るしていたという。

かつて丹治の神社のマツリに高張提灯をかたげてオワタリをしていた。

ヨミヤにも高張提灯を掲げていたが、古座・新座の宮座行事と重なり、忙しくなった。

そのころから若い者もおらんようになった。

担ぐ人がいなくなった。

そういった事情があってやめたオワタリ提灯。

高張提灯の形式を継承した地蔵盆に掲げるようになったという提灯立て。

今から、6、7年前から金龍寺側と道路隔てた反対側に立てるようにしたと話す。

この日は雨天。

ビニールカバーを被せて調えた。

日が暮れた頃、提灯に灯りが灯った。

宮座行事の詳しいことは聞きそびれたが、今では両座を纏めてひとつの座にしたようだ。

丹治の地蔵盆のお供えは野菜の造り物だけでなく、串に挿したシンコダンゴ盛りもある。

近年は手間のかかるダンゴ作りはお店に注文するようになった。

盛りもしなくなった垣内・組もある。

今では挿すこともなく餅屋で作ってもらったダンゴを供えるようにした中二区の木戸口地蔵尊。

つい最近まで使っていたというシンコダンゴを串に挿す太い藁束と御供桶を倉庫に残していた。



桶の裏側に「地蔵尊御供桶 明治三拾三年旧八月」と墨書された記銘があった。

今ではシンコダンゴを挿すこともない中二区。

餅屋で作ってもらったダンゴを供えるようにしたと云う。



シンコダンゴは赤、緑の色粉を塗ったものだ。

昔からそういう形だったようであるがラップで包んでいるので判り難い。

しばらくすればどこからともなくやってきたおばあさんが置いていったダンゴ。



ラップ包みであるが、よくよく見ればドロイモ(サトイモ)と思われるイモに餡を塗している御供はイモボタであろう。

90歳のおばあさんはいつもそうしていると区長らが話していた。

奈良県の郷土料理の一つに挙げられるイモモチは東吉野村の鷲家で拝見したことがある。

史料によれば吉野町の他、下市町、天川村、野迫川村、下北山村などの吉野郡地方ではイモボタと呼んでいるようだ。

15時ころともなれば廻り当番のトヤ家がお供えをされる。

前日に家族とともに作っておいた野菜の造りものは流行りのふなっしーと吉野町アイドルのマスコットキャラクターのピンクルだ。

胸に「吉」の文字まである。串に挿すことなく乗せているだけの造りもの。



動かす際には注意を要する。そろりそろりと供えていた。

ジャガイモ、パプリカ、ズッキーニで目はナスビで作ったピンクルは親父さんの手作り。

ふなっしーは娘さんが作ったそうだ。

材料はウリ、水ナス、イトカボチャにピーマン。



表情が愛くるしい。

トヤさんが云うには、日程・行事名は知らないが国栖で夜中に家を回ってお菓子を貰う行事があると話していた。

御膳はのちほど持ってくると云われたが丹治では中二区以外に数カ所で行われている。

一時的にどしゃぶりとなっていたが、上ではやや小雨。

テント、提灯などの飾り付けの作業をしていたた上第一隣組に着いたのは15時だ。

トヤの人はサラリーマン。

気をもんではいるものの造りものは間に合わず野菜盛りにしたと云う。

かつては当地でも御供桶があって串に挿したシンコダンゴもしていたと云う。

一旦は失礼して下の垣内に移動した時間帯は15時半。

一カ所は上三組・中一組合同の中垣内の地蔵盆である。



ヒバの葉で作った屋根を設えたヤカタ納めの地蔵さんに供えた造りものは、またもやふなっしーだ。

ソーメンカボチャ、メロンマッカ、赤いパプリカでこしらえたと云う。



両端には紅白の餅を供えていた。

ここでもかつては串に挿した色粉塗りをしたシンコダンゴであった。

型に入れたダンゴは蒸して吊るしていたが、今では皿に置いた杉の葉に盛っている。

屋根葺きはヒノキ材。

お皿はなぜに杉の葉であるのか。

答えは簡単。

ヒノキであればダンゴがくっつくのである。

中垣内の地の北手にある山は「シロヤマ」と呼ぶ山城があったそうだ。

弘法大師が通ったとされる山道を歩く人物。

ちょん髷を結った侍が不審者であるかどうか、見張っていたと云う歴史的な街道である。

ここより南へ20mの地にも地蔵盆が行われている。

上二組・上三組合同の中垣内である。

こちらの造りものは映画「アナと雪の女王」に共演するオラフ。

映画を観たことはないが、今にも動き出しそうな表情のオラフはダイコン、ジャガイモ、タマネギで作った。

ニンジンの赤い鼻が決めてである。



手の材料は何だろうか。

左横にあるのは発泡スチロールで現した雪ダルマ。

なぜかダイコンの葉があった。

ここも屋根材はヒバである。



かつて藁束に串挿しのシンコダンゴを供えていた御供桶はお供えの飾り台に転用していた。

シンコダンゴはモチに替ったものの杉の葉を敷いて盛っていた。



御供はパンやお菓子にバナナもある。



丁度そのころやってきたお菓子貰いの子供たち。

オラフはここにいるよと云ってみたものの気がつかなかったようだ。



時間は16時半を過ぎていた。

県道を挟んだ向こう側でもしていると教えてくださった向丹治(むこうたんじ)の集落。

作業場のような場に地蔵さんを祭っていると云う。

向丹治ではきちんとした祭壇を組んでいた。

午前中出かけた桜団地の近くの赤土が採れる地の里道。

そこに安置されている地蔵さんはこの日だけここに移動していると云う。

一年のうち、この日だけは向丹治の垣内に下りてくる地蔵さん。

雨風にあたっては気の毒だとヤカタを作ろうとしたが「入れたらアカンと云われて断念した」そうだが、アカン理由は何であったのか判らないと話す。

この地蔵さんは眼病に効くとかで、聞きつけた人がお参りしている姿をときおり見かけるそうだ。

20年ほど前のことだ。「一週間ほど出かけはった。警察に捜索願を出して、探してみれば近くの山の中にいてはったから元の場所に戻ってもらった」と云う。



参考までに村の人が記録された写真を載せておく。



そのような逸話がある地蔵さんの祭壇には両脇の竹製の花立てがある。

さまざまなイロバナを飾っていた。

ヤカタ奥には串挿しのシンコダンゴを供えていた。



ここでは今でも健在の御供桶もあった。

お供えには生御膳もある。



垣内によっては飯盛り、汁椀、採れたての野菜盛りもあれば調理御膳の場合もある。

他所でも見られた野菜造りのふなっしーもある。



全体は黄マッカであるが、胴体内部はウリで周りにキュウリを詰めたそうだ。

手はバナナ、目はショウガ、足はトウモロコシ、ネクタイ・口がニンジン。

手がこんだ造りである。

これで3体目のふなっしー。

今年いちばんの人気はひっぱりだこである。

このころの時間帯は17時。

雨がざんざん降ってきた。

奈良県北部や平坦では警報が出たそうだ。

丹治の雨量はざんざんだったが少しはマシな降り。



小雨になったころを見計らってやってきた親子連れの子供たち。

次から次へと参拝されていた。

お参りを済ませたらお菓子・飲もの。



いずれを選んでも構わなく、2品をもらって次の地蔵さんへ巡っていった。

稀には一人でやってくる男の子もいる。



賽銭を入れて手を合わせていた。

そこへやってきた団体の親子連れ。



お父さんは赤ちゃんを前抱っこしていた。

昨今のおんぶは背中後ろではなく前抱っこ。

最近は背中おんぶは見かけたことがない。

時代も大きく変容している。

御膳も供えたころだと判断して小雨になった丹治を行ったり来たりする。

17時50分に戻った上第一隣組。



ここでもベビーカーを押す親子連れの参拝者が何組か来ていた。

祝儀と思われる御供袋が増えていた。



お供えは各戸がされたと思われるブドウ、バラ寿司、みたらしだんごなどがある。



シンコダンゴをやめて御供餅の盛りやトヤが話していた野菜盛りの御膳もあった。

赤、緑、黄色の色粉をあしらったパック詰めの花型シンコダンゴも供えていた。



テントを設えていた垣内住民も手を合わす地蔵盆巡り。

3人並んでお参りする子供たちもいた。



先に参った地蔵さんで貰ったお菓子を辻で食べていた子供たちだが作法はきちんとしている。

中垣内の2カ所も取材の礼をしたいが下の木戸口地蔵に向かった。

戻ってきた時間は18時20分。

この日の地蔵巡りは身体が限界だと言いだした。



丹治の地蔵巡りは小降りの参拝であるが、途絶えることはない。

高張提灯にローソクを灯していた。



夕闇の灯りの雰囲気が風情を醸し出す。

ふなっしーもピンクルもしっくりおさまっている後方に御膳があった。



3時間前はなかった御膳を見届けて5カ所巡りをした丹治をあとにしたが他に4カ所もある。

ワセダと呼ばれる地、吉野神宮駅踏切南の地、水分神社付近の民家、貯木場である。

18時を過ぎた時間帯。

金龍寺の住職がそれぞれの地蔵さん出向いて12体あるという地蔵さんに法要をされると聞いていたが、丹治の滞在時間は5時間。

体力の限界を感じて断念した。

金龍寺の御膳はもっとすごいと聞いていたが訪れる時間を確保することはできなかった。

全容は来年に持ち越しである。

(H26. 8.24 EOS40D撮影)

小名上出垣内の地蔵さん

2014年10月13日 07時20分59秒 | 吉野町へ
吉野町の小名(こな)へは度々出かける。

度々と云っても年に一度、あるか、ないかである。

地蔵さんに向かおうとしたときに目に入った白梅。

その後方には萱葺き家が建っている。

住まいをすることもないようになったと家人が云っていた。

2年前のことだ。

そのころの萱葺き家はそれほど朽ちていなかった。

いずれ倒れてしまうだろうと話す。

そろそろアラオコシをしたいが、雨が降るやもしれない。

ふんぎりがつかないと云う。



付近を流れる川沿いの道にはオオイヌフグリが一面に咲いていた。

小名(こな)上出垣内の地蔵さんは山の上にあった。

お参りするには登っていかねばならない。

「ジゾンタニ」と呼ばれる谷合いを登っていた。

高齢化した村人にとっては難儀な参拝。

いっそのこと下へ降ろして祀ってはどうかと意見が出て平成21年3月25日に遷した。

春になったというのに、その日はとても寒かったと懐古される。

当時は大勢の村人で溢れかえっていた広場にゴザを敷いて祝いの会食をしていた。

地蔵さんを遷した広場はかつて民家が建っていた。

随分前のことであるが、出火した。

焼けた民家は住むことができず、下の方に新築して移転した。

もう一軒もあったが、いつしかその家も下に移ったという。

家の墓地は道路向こう側に残していると話す。

今では走りやすい街道になったが、160年も前の江戸時代は「おねり」と云って、紀州の殿さんが参勤交代に行き交う伊勢街道であったと話す村人たち。

現在の街道は東へ道なりに向かえば宇陀市大宇陀の東平野に着くが、旧街道は途中で右折れすれば鷲家(わしか)である。

この日は上出垣内の地蔵さん。



赤い幕を張って提灯を吊り下げる。

お花を飾って御供を供える。



ローソクに火を点けて導師が前の席につく。

拍子木を打って般若心経を唱える地蔵さんのお参り。

三巻を唱えて御供を下げる。

お神酒をいただき村人の歓談の場に移った。



この年に集まった村人は9人。少なくなったと云う。

Ⅰさんが話した家の柱に貼ってあった文字は「二升五合」。

柱には同じ文字を書いた何枚もの貼り紙があった。

貼り紙は細長い縦型であったと云う。

一体何を現しているのか判らなかったと話す。

直会の場におられた男性が話すには「二升は升、升で、五合は半升と云って、家が益々繁盛するしゃれ言葉だ」と伝えられて納得された。

(H26. 4. 3 EOS40D撮影)

感動した丹治の地蔵盆御膳

2014年07月13日 07時26分09秒 | 吉野町へ
男の人が42歳の厄年になればそれぞれの地区にある地蔵尊に参ってモチを供えて巡拝すると聞いていた吉野町丹治。

前厄、本厄、後厄の3年間もしなければならないと云っていたが、参るのはご婦人だ。

朝7時頃にはぼちぼち出かけると聞いていたので朝日が上がる前に到着しておいた。

だが、2年前に下見していた4カ所の地蔵尊にはだれ一人も来られない。

数か所ある地蔵尊にも出かけてみたが、それらしき姿はまったくなかった。

どうやらこの年は厄年対象の人がいないようだ。

2年前に聞いていたお家は後厄だった。

おそらく三年参りは、前年で終わったようだ。



散策していた時間帯、2カ所の地蔵尊ではローソクと線香を灯していた婦人もおられたが、結局は遭遇することもなく諦めて帰ろうとした。

そのときのことだ。

上の地蔵尊近くに住むご婦人が家の外周りを清掃されていた。

箒で掃いておられた婦人に尋ねてみた地蔵尊参り。

時間帯は「もっと遅いかも知れませんなぁ」と云う。

供えたモチは夕方になれば、ご近所人がたばって持ち帰っても良いと云う丹治の風習。

それまで待っているわけにはいかない。

そのご婦人が話した地蔵盆の在り方。

「8月の地蔵盆にシンコを供えますねん、写真があるから見ますか」と云われてお邪魔した。

数年前まではシンコを作るのに当番の家(トヤ・当屋)に集まったという上の地蔵尊。

10軒の営みである。

粉挽きは店屋にしてもらっているが、「シンコはこんなんです」と見せてもらった家の記録写真。

なんと、地蔵石仏を安置した祠の奥には埋めるように花びらのような形の盛りがあった。

緑、黄、赤の色粉で花弁をあしらったシンコである。

赤い色はツバキを模したと云うし、鯛の形もある。

緑の葉はほんまもんのツバキだ。

ヒバの葉を添えて盛った器は木の桶だと云う。

お供えはシンコだけではなく、地蔵尊には御膳も供えると見せてくれた写真の映像は驚愕であった。

おじいちゃんが毎年悩みながら当家宅で作る野菜の作りもの。



トマト、ピーマン、ショウガ、トウモロコシ、マツタケなどはゴボウで象った船に乗せていた。

もしかとしれば、それは七福神であろうか。

もう一枚の写真は違う年の作りもの。

カボチャを土台にキュウリ、サツマイモ、ニンジン、ショウガ、ミョウガ、ミニトマトを配置した。



何が驚きかと云えば、カボチャのヘタと細長い赤トウガラシで作ったカニである。

今にも動き出しそうに見えるカニの足。

リアルに作った造りものに感動する。

記録された写真ではあるが、ゲラゲラと笑ってしまったのはこれだ。



ショウガで作ったロバ。

たてがみもある精巧な作りに目は点になった。

左側はブロッコリーで作った動物はセサミストリートのビッグバードのようにも見える。

愛くるしい二つの目は黒眼。

なんともいえない表情である。



カボチャにへばりついているのはピーマンで作ったカエルだ。

愛嬌たっぷりのカエルさんの姿がむちゃくちゃ面白く、笑いが止まらなかった。

その他にエノキで作ったクジャクの羽根とか、いっぱい見せてくれました。

こういう地蔵盆の造りものを供える丹治の行事は実にユニークである。

主要地方道桜井吉野線の国道が沿った丹治の町内。

丹治川に沿って南北に抜ける旧街道に連なって建てられている。

垣内は上第一・第二・第三垣内から下っていく旧街道。

国道の向こう側は向丹治(むかいたんじ)と呼ぶ垣内だ。

それぞれの垣内ごとに作って供える御膳であっても、わざわざ他の垣内の人が見にくるぐらいにおじいちゃんの作品は面白みがある。

丹治に祭る地蔵尊は12カ所もあると云うが、祠の所在地が判ったのは4カ所だけだ。

あっちにもあると云われるが見つからなかった。

丹治の地蔵盆は8月24日

第三垣内にある浄土宗金龍寺の住職が各地区に祭った12体の地蔵尊を巡って法要すると云う。

ただし、向かいのワセダには地蔵尊がなく、その日にどこからか寄せるらしい。

お寺も生御膳を供えていると寺婦人が話す丹治の地蔵祭り。

午後3時には飾り付けをして法要を待つ。

それから2時間後、順番にやってくるご住職を迎えて法要をするらしい。

その日は丹治地域どころか、近隣の子供たちがお菓子をもらいに大勢がやってくる。

帰るころには貰ったお菓子で袋がいっぱいに膨らむそうだ。

厄年参りは残念であったが、なにがでるやら、その日を祭るお楽しみの地蔵盆は是非とも訪問したいものだ。

ところで丹治には氏神さんを祭る神社がある。

神社名は大守・小守神社だそうだ。

毎月1日と15日は宮守さんが参拝をされていた。

今では第一日曜と第三日曜に移ったが、早朝に宮守さんがお供えをしているらしい。

この月の23日は祈年祭が行われるそうで町内には張り紙が貼ってあった。

また、丹治では12月7日に山の神の行事もあると云う。

上第一垣内の山の神は上流を遡って左折れの山道を登ったところにあるらしいが、所在は判らなかった。

行事は12月7日であるが、なぜか1月7日には山の仕事の製材は休むと云う。

元々は1月7日であったと思われる上第一垣内の山の神参りには供えたモチを撒くそうだ。

(H26. 2. 1 EOS40D撮影)

小名上出垣内の行事

2013年02月21日 06時52分56秒 | 吉野町へ
1月にどんどをしていると云う上出垣内。

庚申講は解散されたが「閏の年だけは杉の木の塔婆を奉りますねんや」と話す村人たち。

山の神が始まる前に所在を確認した。

場所は聞いたが崖面だと云っていた。

その崖が判らず木材所におられた男性に尋ねた結果はまん前。

山が崩れないように整備された壁面にあった庚申さんの石仏。

壁面に穴を開けて祀った青面金剛石仏の横にあった塔婆。

葉付きの杉の木である。

それには願文が残っていた。

「村内安全 講中安全 身体健吾諸願成就 祈願之塔 平成二十四年四月二十九日 小名 申講中」である。

旧暦ではなく新暦で行われているというから4年に一度の閏年の庚申講である。

そこにはイロバナも添えたと話す。

北谷の庚申講は2カ月に一度は集まっていた。

伊勢講もあったがすべて止めた。

ところが閏年の庚申さんだけは今でもしているという。

下出は今でもしているそうだが・・・場所が難しい。

大西に登っていく途中の山道だという。



4月3日は地蔵さんの行事がある。

桜が咲く頃だと話す地蔵さんの行事。

かつては山の頂にあった。

お参りするには困難な地。

志ある人たちが頂きにあった地蔵さんを山から降ろした。

同月の21日にはレンゾのお大師さんがある。

大蔵寺の会式というからそこは宇陀市大宇陀栗野。

吉野町の隣町であるが現在のお寺は無断で立ち入ることは一切できないようだ。



般若心経を唱えた婦人が毎年作っているキリボシダイコン。

住んでいた老婦人もいなくなって空き家状態の家は萱葺きである。

美しすぎるダイコン干しは撮っても構わないと了承を得て撮影させていただいた。



西の山から陽が落ちた時間帯であったがほっこりする。

ちなみにその婦人が話したシメナワ掛け。

名張から名阪国道を抜けた地に藁で作ったタイやクワがあったと云う話に興味がわいた。

(H24.12. 7 EOS40D撮影)

小名北谷の山の神

2013年02月20日 06時48分13秒 | 吉野町へ
5年ぶりに訪れた吉野町小名(こな)の山の神。

当時は上出垣内と云っていたが、この日は北谷だと話す。

小名は10月のマツリに花笠が登場する地である。

小名の山の神は下出、中出垣内でも行われている。

参加する人数も減ったそうだが、北谷は多いと話すが戸数は8軒。

今でも変わりなく山の神にお参りをする。

平成21年にはホデ(ホウデン)と呼ぶ「オニギリを中に入れた藁束を供えるように復活した」と聞いていた北谷垣内。

再訪したのであるが「昨年もしなんだわ」と云う高齢の婦人は「身体の具合がもうひとつなので今年もしませんでしたわ」と話す。

山の神の祠の前はとても狭い。

そこに穴を掘ってどんどの場を設ける。

雨が降れば下の作業場になると云う。

山の神の日はいつも寒い。

何年か前は大雪になったこともあるそうだ。

昔は男の人だけの集まりだった。

山行きしている人たちが参っていたが、現在は婦人も参る村の行事である。

この日は山の仕事をすれば怪我をすると云われていたが山の仕事も随分と減ったと話す。

山の神さんに供えるゴクノモチ。

地区の家からお米をもらって升半も搗いたゴクノモチは紅白色。

前日に搗いたトーヤ(当屋)は桶に入れて供える。

この年は3臼であったが、搗く量に特に決まりはない。

山の神を奉る祠の両脇は大木のヒノキ。

傍に植生するカシの木に絡みつくように樹生する。

どんどで暖をとっていた村人たち。

服忌の家は参加できない。



揃ったところで始まった山の神の行事。

祠の前に並んで手を合わせる。

婦人が唱える般若心経一巻で終えた。

山の神さんに無事を唱えたのである。

山仕事は危険を伴う。

明日から始まる仕事初めの儀式を終えればその場で直会。

持ってきたサイラの開きをどんどで焼く。

サイラはサンマやカマス。

山の神さんに海の幸を供えたのである。

シシャモも焼いて食べる海の恵み。

美味しくいただく焼け具合は火の加減が難しい。

ガスの火で焼くよりもこうしたほうが断然に美味いと話しながら食べる。



カマスの味がこれほど美味いと感じたことがなかった。

淡白な味に意外性があった。

食わず嫌いの我が家の生活感が変わること間違いなしである。

各家が作って供えたアズキノメシやモチゴメのセキハンも食べる直会は変わらない。



直に焼くことができないからアルミホイルに包んでいる。

各家庭の味わいにひとときを過ごす。

山村の時間は早い。

山影から挿し込む西日が落ちてきた斜光が映える。

(H24.12. 7 EOS40D撮影)

丹治を訪ねて

2012年03月14日 06時49分03秒 | 吉野町へ
この日はいつも雪が降って寒いのだと話す丹治の男性。

道も積もっていれば数十か所にあるお地蔵さんにもモチを供えるには足元が堪えるという。

この日というのは2月1日のことだ。

男の人が42歳の厄年になればそれぞれのお地蔵さんに42個(一升で搗く)ものモチを供えて巡拝する

それは前厄、本厄、後厄の3年間もしなければならない。

お参りに行くのは男性ではなく婦人というから奥さんだ。

未婚の男性の家ではどうするかといえば母親になる。

家の男性の厄除け祈願、健康を祈る行事は女性が務めるといった一風かわった風習が残されている吉野町の丹治。

上や下の地区それぞれに数人がかたまってお参りに行けば、ところどころで出あうらしい。

朝の7時ぐらいに出発してすべてのお地蔵さんにモチを供えるには1時間もかかるという。

お地蔵さんは上地区だけで12か所もある。

道路を隔てた小高い丘にも数か所あるそうだ。

地区を守っているかのような配置である。

供えられたモチといえば数時間後にはすべてが消えている。

そのモチは町内の人たちがご利益を頂戴するかのようにたばっていくのであった。

その日の午後に訪れたときには実際まったくなかった。

丹治地区ではこの月の26日には祈年祭が行われるという。

その案内を自治会の掲示板に貼りだされていた。

その場所をお聞きすれば下の地区に真っすぐ下っていったところに神社があるという。

神社名を聞くことを失念していたことを後悔した。

ネットなどで調べたところ大森神社であろうと思われる。

そうこうしているうちに雪が降り出した。

鹿路の峠ではうっすらと積もりだした。

(H24. 2. 1 SB932SH撮影)