生成としての〈世界〉。一切のはじまりの場としての「私」。ただ一人の立ち会い人、目撃者としての「意識」(自我)。この〝関係〟(構造)においてすべては、「私」の世界経験は立ち上がり、展開していく。
「感ずる心は、自然と、しのびぬところよりいづる物なれば、わが心ながら、わが心にもまかせぬ物にて、悪しく邪なる事にても、感ずる事ある也、是は悪しき事なれば、感ずまじとは思ひても、自然としのびぬ所よろ感ずる也」(紫文要領、巻上)
「目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるゝにつけて、其のよろづの事、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、是事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也、其中にも、猶くはしくわけていはば、わきまへしる所は、物の心、事の心をしるといふもの也、わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也」(紫文要領、巻上)
「物のあはれ」という言葉は、「羊」ではなく、「狼」の言葉としてつづられている。悪しきことを思わないようにしても、立派であろうとしても、悪しきことは心に現象し、それを恣意によって否定し排除することはできない。
そのことをわきまえ、心に現象するものをただ「私」固有の出来事として、そしてこの〈世界〉が現象する場において現象に介入することなく目撃し記述すること。
さまざまな超越項──絶対者・客観・真理・正義によって心の現象を説明し、審判し、裁定することなく、逆にすべてが立ち上がっていくこの始原的地平に直面すること。
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理想主義者が根拠とし、相対主義者が後ろ盾にする「実体」(客観・真理・正義)ではなく、それらが立ち上がる起源、そしてすべての展開の第一の起点、それ以上遡行不可能な、〈世界〉生成の場を確定しておくこと。
なぜか。関係世界における関係存在としての「私」(たち)から立ち上がる関係項(関係子・接続子)としての客観。これらの存在(者)を最初に前提にした思考を棄却し、用法を誤らず、適切に生かすには、あらかじめそうしたものの権威の仮面を完全に剥ぎ取っておく必要がある。
すべての展開のはじまりも帰結も、ただ「私」に現象する出来事として引き受け、「個」として生き、「自由」を確保し、実践するには、そうしなければならない。