天燈茶房 TENDANCAFE

さあ、皆さん どうぞこちらへ!いろんなタバコが取り揃えてあります。
どれからなりとおためしください

熊本県八代港にクルーズ客船「飛鳥II」が入港しました

2015-10-25 | 鉄道

今日(平成27年10月25日)、熊本県八代市の八代港にクルーズ客船「飛鳥II」が入港しました。

「飛鳥II」の八代港入港は今では毎年秋の恒例行事化しています。
地元の熊本市のデパート「鶴屋百貨店」が船をチャーターして、二泊三日程度のショートクルーズのツアー旅行として売り出しているのです。
今年は、韓国の釜山で開催された花火大会を海上から眺めるというツアーだったようです。



という訳で先週の金曜日に釜山までのツアーに出発した「飛鳥II」が今日の午後に八代港に帰ってくるので、見に行ってきました!


午後4時半頃、いつもの八代外港の岸壁に行ってみると、既に乗客を降ろした「飛鳥II」が接岸中。
もうすぐ回航のために出港するようです。


午後5時少し前、2隻のタグボートに真横に引き出されて離岸。

最近の新造船は横向きのスラスタを備えているので大抵は自力でスイスイ離岸しますが、1990年に「クリスタル・ハーモニー」として就航して以来、建造から既に25年が経過している「飛鳥II」はタグボートに曳いてもらわないとスムーズに離岸できない模様。

…それにしても、最近頻繁に入港する中国や台湾からのツアー客を乗せた世界最大級の超大型クルーズ客船を見慣れてしまうと、日本船籍では最大の客船である「飛鳥II」も小さく見えるなぁ…


秋の夕陽に照らされての離岸。


タグボートに曳かれながら、徐々に船首の向きを変えて旋回します。


一瞬、船首がまっすぐこちらを向きました!


自力航行に切り替わり、加速していきます。


タグボートにエスコートされて八代港を出て行く「飛鳥II」。


夕陽に向かって…


夕焼けに浮かび上がる「飛鳥II」とタグボートのシルエット。



さようなら、「飛鳥II」!
また来年…



2015夏 ドイツ/クロアチア/ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紀行 19:帰国 KLMオランダ航空1792便と869便の旅

2015-10-25 | 旅行記:2015 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
Photo:ドイツ上空を飛ぶKLM1792便からの眺め


18:ミュンヘン散歩~アルテ・ピナコテークからの続き

2015年8月14日



今日は日本へ帰国するために、ミュンヘンのフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス空港を朝9時半に出発する便に乗らなければならない。

昨日ドイツ鉄道DBのSバーン(都市近郊電車)に乗っていたら突然運転停止になりそのまま引き返したのを目の当たりにしたばかりなので何だか不安である。
中央駅から空港まではSバーンで40分程度しかかからない筈だが、念の為に早起きして飛行機の出発3時間以上前には空港に向かって移動を開始する。


結局、今朝はSバーンは途中駅で動かなくなる事はなく定時で空港駅まで走ったので、相当早く空港に着いてしまった。
搭乗手続きを済ませて手荷物を預けて、搭乗ゲートまで来てもまだ出発まで2時間もある。

まぁ、乗り遅れそうになるよりは早く着きすぎた方が絶対に良い。
まだ誰も居ないゲート前で、滑走路を眺めながら待つこと暫し。


ようやく現れた、今日これから乗る飛行機。
ミュンヘン発アムステルダム行きのKLMオランダ航空KL1792便、機材はボーイングB737-700…あれ?オンライン・チェックインの表示ではKLMシティホッパー所属のブラジル製エンブラエル機の筈なんだけど(笑)

機材変更されてても席が足りなくなるということはもちろん無く、無事に窓側席に座ってミュンヘン空港を離陸。
さらば南ドイツ、バイエルン。
これより乗り継ぎハブ空港であるアムステルダムのスキポール空港に向かってドイツ上空をひとっ飛び。








ミュンヘンからアムステルダムまではドイツを縦断して僅か1時間少々の空の旅だ。
一応国際線なのだが、シェンゲン協定圏内のヨーロッパ域内線なので感覚的には日本の国内線と変わらない。
機内食もスナック扱いで、配られた菓子袋を開けてモグモグやってるうちにもうスキポール空港に到着。




スキポール空港では3時間半待ちで、日本行きの便に乗り継ぐ。
KLMオランダ航空KL869便、福岡行きは14:45にマレーシア航空の便の後に出発。


マレーシア航空の飛行機が出て行った直後に、福岡行きKL869便の機材が到着。
毎度お馴染みのトリプルセブン、ボーイングB777-200だ。
「Hadrian's Wall(ハドリアヌスの長城:イギリスの世界遺産)」という機体愛称が書かれているのが見える。

KLMのB777には福岡空港への就航を記念して、そのものズバリ「福岡」と漢字で愛称が書かれた機体も存在するらしいのだが、いまだに一度もお目にかかったことがないので残念だ。

搭乗ゲート前で暫く待って、これから帰国するツアーの団体客が大勢集まったところで搭乗開始。
「Hadrian's Wall」の機内に入ると…


なんと、外観からは分からなかったが機内はピカピカに更新されたリニューアル機材だった。
これはラッキー!
座席モニターも大画面でUSBの差し込み口もあるのでiPad miniの充電もバッチリだ(笑)

ところが…
CAさんに「この機材、当然Wi-Fiも使えるんでしょう?」と聞いてみると「いえ、生憎対応しておりませんので…」とのこと。
ええ~、せっかくUSBもあるのにWi-Fiが使えなかったらあんまり意味無いじゃないのよKLMさん…

KL869便は予定通り定刻にスキポール空港を離陸。
ヨーロッパを離れシベリアを横断して、福岡までの10時間超の長旅が始まる。
とは言え、全ての予定を無事にこなしての帰り旅なので気楽な道中だ。

Wi-Fiが使えずネットにつながらない機内での楽しみは、映画と機内食。
今回のKLMオランダ航空の機内食は…


↑画像をクリックするとトレイのふたが開きます
離陸後すぐに出てくる夕食はフライドライスとチキンの煮込み。
アムステルダム発のKLMの機内食はデザートがとても美味しいので毎回楽しみだ。

夜食はアイスクリーム。今回も機内が消灯されて真っ暗な時に突然配られた(笑)

ギャレーでこっそりリクエストするともらえる、隠しメニューのCup Noodleも勿論ゲット!


↑画像をクリックするとトレイのふたが開きます
到着前の朝食はこれも毎回お馴染みの、マッシュポテトとズッキーニのソテーとオムレツの三色定食。
メインは脂っ濃くて起きがけには少々キツイが、カットフルーツとヨーグルトがとても美味しい。

かくして機内で食べたり飲んだり、すっかり寛いでいるうちにあっという間に10時間が過ぎ、KL869便は無事に福岡空港に着陸した。



2015年8月15日



朝8時半、福岡空港に到着したKL869便から日本に降り立った。
一つの旅が、また無事に終わった。

思えば、今年は正月から数カ月おきに、長期休暇の度にヨーロッパへ飛んでいる。
福岡空港からのKLMオランダ航空への搭乗にももうすっかり慣れた。…まぁ今回は、行きにちょっとしたオーバーブッキング騒ぎもあったけどね(笑)

そして、実は既に次の旅の計画も立ち上がっているのだ…

次は年末年始の冬の旅。行先は、またしてもヨーロッパ!
中欧ポーランドの首都ワルシャワを起点に、ハンガリーの古都ブダペスト、そして今回の夏の旅でも列車で通過した国オーストリアの音楽の都ウィーンを国際列車で周る、オペラと鉄道旅行を満喫する鉄道音楽紀行になる予定です。

もちろん、次回も帰国後にまた旅行記を書き綴るつもりですので、どうぞまたお付き合いを!
…そんなにしょっちゅう海外旅行三昧の放蕩ぶりで大丈夫かと思われるご親切な読者の方も居られるかもしれませんが、どうぞご心配無く。次回は、コツコツ貯めた航空マイレージを使っての無料特典航空券でのタダ旅行ですから(笑)

それでは、来年の年明け早々にまたお会いしましょう。
天燈茶房亭主mitsuto1976 拝

…って、ええっKLMオランダ航空が来年早々に福岡路線から撤退するって!?
でも、代わりにフィンエアーが福岡に新規就航するのか。
それならまぁいいか


2015夏 ドイツ/クロアチア/ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紀行:完

追記:この旅行記でも何度もミュンヘン中央駅を訪れているが、実は夏のこの時点で既に少数ながらシリア方面からの難民と思われる人々が駅に到着して行政関係者に保護されている様子を目にしていたが、人数がまだほんの数人だけだったということもあり、特に気にも留めることはなかった。

この夏の旅が終わった翌月からシリアからの難民のヨーロッパ流入が激増し、大きな国際問題にまで発展したのはご存知の通りである。

僕が国際列車で移動したミュンヘン―ザルツブルク―フィラハ―リュブリャナ―ザグレブの鉄道ルートがその後まさに難民の大移動ルートとなり、今現在(2015年10月25日)ではザルツブルクで鉄道による移動は完全に封鎖されて国際列車も運休が続いており、運行再開の目処は全く立っていない。

さらにハンガリーの国境封鎖と、それにクロアチアとスロベニアも追従する動きを見せており、今後冬の寒さと降雪が迫る中で難民を巡る動きは一刻の猶予も無く、厳しさを増すばかりである。

ヨーロッパの旅を愛する者として、難民問題の一刻も早い解決と、人々が暖かく冬を乗り越えられる事を心から願い、祈っている。

2015-10-25 天燈茶房亭主mitsuto1976

2015夏 ドイツ/クロアチア/ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紀行 18:ミュンヘン散歩~アルテ・ピナコテーク

2015-10-25 | 旅行記:2015 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
Photo:Alte Pinakothek アルテ・ピナコテーク


17:ドイツ博物館のカールツァイスからの続き

ドイツ博物館でカールツァイスのプラネタリウムを堪能した後、午後のミュンヘンの街に繰り出す。
トラムを乗り継いで向かった先は…


アルテ・ピナコテーク。

ミュンヘン市内に3つあるピナコテーク(ギリシア語で「絵画館」の意味)を名乗る美術館の一つで、古典絵画を収蔵するアルテ・ピナコテークはその最古参である。

バイエルンの王家が所有する膨大な美術品コレクションを広く市民の目に触れさせたいというルートヴィヒ1世(芸術に破滅的に傾倒した狂王として知られるルートヴィヒ2世の祖父に当たる)の命により、1836年に開館した世界的に名高く由緒正しき美術館だ。

…実はアルテ・ピナコテークは昨日の夕方に訪れたノイエ・ピナコテークの真向かいにあり、さらに斜向かいには現代美術のピナコテーク・デア・モデルネもあって、この辺り一帯が3つのピナコテークが集まる大美術館ゾーンとなっている。



3つのピナコテーク全てを観て回りたいところだが、気合を入れて全館を鑑賞すれば数日以上はかかるだろう。
さすがにそんな日程の余裕は無いのが残念だが、せめて実質ミュンヘン滞在最終日となる今日の午後はアルテ・ピナコテークに収められた名画の数々をひと時堪能したいと思う。







僕の好きなブリューゲルの作品コレクションがあるのが嬉しい。
人が居なくなる僅かな時間に、絵を間近からじっくりと眺める。


こんな細部まで観る事が出来た。
…やっぱり恐ろしいわブリューゲル。これは夢に出そうだぞ。


そしてブリューゲルに影響を与えた天才、いや鬼才の画家ヒエロニムス・ボス!





アルテ・ピナコテークにあるこのボスの作品は「最後の審判」の断片らしいが…
美しすぎて面白すぎてそして怖すぎる。凄すぎるぞヒエロニムス・ボス…


エルスハイマーの「聖家族のエジプトへの逃避 」に描かれた星空…
実際の星座と同じ配置になっているのだろうか?



アルテ・ピナコテークからの帰り道。
まだ明るいのでちょっと寄り道して、トラムからドイツ鉄道DBのSバーン(近郊電車)に乗り継いでみる。



所持しているミュンヘン市内1日乗車券で乗れる範囲まで行ってみようと思っていたのだが、途中のミュンヘン郊外のどこかの駅でSバーンは緊急停車。
結局Sバーンの電車はそのまま動かなくなってしまい、乗客たちは駅から少し離れた場所にある広場まで歩かされる羽目に。

どうやら車輌故障のようで、Sバーンの乗客はここから代行バスに乗れという事らしい。
…どうせ今夜は用事もないし、僕も知らん顔してこのまま代行バスに乗ってみるのも面白そうだと思ったが、肝心のバスはいつまで待っても現れない。



待ちくたびれた乗客たちのうんざり顔を尻目に、僕は駅に取って返して反対方向行きのSバーンに乗って中央駅まで帰ることにする。
ところが駅に戻ってくると、さっき止まってしまった電車が今度は中央駅行きの表示を出して出発待ちをしており、そのまま何事もなかったかのように発車して中央駅に戻ってきてしまった。

…結局、車輌故障ではなかったようだし、一体何であの駅でSバーンの電車が止まって乗客を降ろしてしまったのか、そしてどうして折り返して中央駅まで戻ったのかは謎のまま。

ドイツ鉄道DBは日本のJR以上にダイヤが正確で信頼性も高いと思っていたのだが…どうなってるんだドイツ鉄道。


色々あったが、無事に中央駅裏のホテルに戻ってきた。

旅先でのよく分からない出来事も、済んでしまえば何だか面白い思い出になる。
帰り道にスーパーマーケットで買い物してきたパンと野菜やハムとチーズで適当に作った夕食を食べながら、ようやく日が暮れ始めたミュンヘンの裏通りを眺める。

明日には、もう日本へと帰る。
今年の夏の旅が終わろうとしている…

19:帰国 KLMオランダ航空1792便と869便の旅に続く

2015夏 ドイツ/クロアチア/ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紀行 17:ドイツ博物館のカールツァイス

2015-10-24 | 旅行記:2015 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
Photo:Zeiss Planetariumドイツ博物館


16:ノイエ・ピナコテークと夕暮れの駅からの続き

2015年8月13日


ミュンヘンで宿泊した中央駅裏のホテルの部屋からは、青いトラム(路面電車)がBayer通りを走っているのが見える。

今朝はホテルの目の前にある停留所からトラムに乗って出かけよう。
中央駅前でトラムを乗り継いで、向かった先は…


ドイツ博物館

言わずと知れた世界最高峰の博物館として名高いドイツ博物館、ここを訪れるのはこれで2回めだ。
前回来たのは3年前のゴールデンウィーク休暇の時だった(→HAYABUSA - Zuruck zur Erde ~ドイツ宇宙紀行 2012初夏~ その12:ミュンヘン、ドイツ博物館





“世界最大のおもちゃ箱” とも称されることがあるドイツ博物館。
この世のありとあらゆる事柄がつめ込まれた空間といった趣なので、本当におもちゃ箱に迷い込んだような気分になってしまう知的迷宮なのである。




カメラ好きには堪らないであろう、カメラとレンズの森をくぐり抜け…




ロケットボーイ達の飽くなき宇宙開発競争の歴史を垣間見たら…




目の前に出現するのは、宇宙を知ろうとした人類の挑戦と冒険の記録、天文学の展示室。

その片隅にひっそりと佇む、奇妙な機械がある。






ウニか栗のいがのような無数の突起に覆われた、無骨な機械の塊。
決して美しいとは言い難いが、何とも不思議なオーラをまとったような存在感のあるこの物体こそ、人類史上初めての光学式プラネタリウム投影機。

1923年に地元ドイツのカールツァイス社によって製作されたツァイス・プラネタリウム投影機モデル1、ツァイス1型である。





…“プラネタリウム”という名のつく機械の歴史は古く、1781年にオランダ北部フリースラント州にあるFraneker(フラネケル)という小さな町に住む羊毛加工業者にしてアマチュア天文学者のアイゼ・アイジンガーが、自宅リビングの天井にたった一人で作り上げた機械式のリアルタイム惑星運行表示装置がその起源である。
(この「アイジンガー・プラネタリウム」を僕は今年の初夏に念願叶って初めて見に行くことが出来た。→2015初夏 オランダ・チェコ紀行 2:Franeker 世界で最初のプラネタリウム“アイジンガー・プラネタリウム”

「アイジンガー・プラネタリウム」は歯車じかけで動く太陽系の惑星運行シミュレーターだが、夜空に光る星々を人工的に暗闇に再現する光学式投影機としてのプラネタリウムの元祖はこのツァイス1型だ。

アイジンガーのプラネタリウムが彼の自室の天井で惑星の運行を開始してから一世紀以上を経た1923年10月、カールツァイス社からドイツ博物館に納入されたツァイス1型が一般公開を開始、人々は昼間に人工の星空を見る事が出来るようになった。

ここドイツ博物館は、光学式プラネタリウム投影機が初めて人類の前に出現した記念すべき場所であり、プラネタリウムの聖地なのだ。

そんなドイツ博物館には、もちろん今でもプラネタリウムがあり来館者の人気を集めている。
僕も入館と同時に館内のレセプションコーナーでプラネタリウム鑑賞券を買い、初めての聖地でのプラネタリウムを楽しもうと思う。
…実は前回ドイツ博物館に来た時は確かプラネタリウムが改修工事中で観ることが出来ず、プラネタリウムファン憧れの聖地ドイツ博物館のプラネはまだ見たことが無かったのだ。

現在のカールツァイス社の公式サイトにはドイツ博物館のツァイス1型について紹介したページがあり、それによると投影開始当初はドイツ博物館には10メートル(33フィート)の小ぶりなドームが造られ、その中でツァイス1型の投影が行われたらしいが、ドームはその後拡張されて現在は15メートル(49フィート)の中規模サイズのものになっている。
ドイツ博物館の本館建屋正面玄関の上にそびえる塔の最上部に鎮座する巨大な筒状の構造物が、そのプラネタリウムドームである。


迷路のように入り組んだドイツ博物館の館内をさ迷うようにして、どうにか本館最上階のプラネタリウムドーム室の入り口に到着。
正午の上映開始までまだ1時間半もあるので閑散としている。ゲートは施錠されていて係員もいないのでドーム内にはまだ入れない。
一刻も早く聖地でプラネタリウムを観たいと思ったが、やはりいくら何でも気が早すぎたようだ(笑)

仕方がないので、ドーム周辺の屋上バルコニーから博物館周辺の風景を眺める。


ドイツ博物館はミュンヘン市内を流れるドナウの支流イーザル川の中洲に建っている。
本館最上階からは真夏の青空のもとに緑豊かなイーザル川とミュンヘンの街並みを一望することが出来て、なかなか気持ちが良い。




ドイツ博物館本館の時計塔も見える。
…よく見るとBarometer(気圧計)とHygrometer(湿度計)がそれぞれの面に備えられていることが分かる。

やがて上映開始時刻が近づくとプラネタリウムドーム室入り口付近には人々が集まり始め、エントランスが人であふれた頃にようやくゲートが開いて入場開始。
さぁ、いよいよ念願のプラネタリウムの聖地へ…!!


これが、世界で初めての光学式プラネタリウム投影機がデビューを飾ったドイツ博物館のプラネタリウムドームの内部だ。
つい最近、大規模なドームの改修と機材の更新入れ替えが行われたばかりとのことで、15メートルの中規模サイズのドーム内はとても近代的な雰囲気。
座席も以前より定員を減らして、その分ゆったりとしたものに交換したらしくて座り心地も抜群なので、これは投影中に居眠りに気を付けなければならない厄介なタイプのプラネタリウムだ(笑)


コンソールも今どきのプラネタリウムらしい、デジタル制御のモニタが並ぶ。


こちらも今どきらしい、デジタル投影のフルドームシステムもカールツァイス製。
ツァイス・パワードームVELVETが備わる。


そしてこれが、現在のドイツ博物館プラネタリウムの御本尊、カールツァイスSKYMASTER ZKP4
…なんと、僕の地元九州にある宗像ユリックスのプラネタリウムで使用されている投影機と同じモデルだった。
(→宗像ユリックスプラネタリウムでカール・ツァイスを見てきました

光学式プラネタリウム投影機の元祖であるカールツァイスの投影機がデビューした場所であるドイツ博物館のプラネタリウムでは、初代のツァイス1型以降何度か機材の更新・モデルチェンジが行われたが、その都度必ず同じカールツァイス社製の投影機が使用され続けてきた。

1960年にドーム径が10メートルから15メートルに拡大された際に初代ツァイス1型に代わって投入されたのはツァイスIV型(日本の渋谷・五島プラネタリウムや名古屋市科学館の旧プラネタリウムで使用されていたものと同じモデル)であり、その後1988年にツァイス1015型に置き換えられた後、現在のZKP4に至るまでカールツァイス社の歴代の名機たちがこの「プラネタリウムの聖地」に君臨し続けてきたのである。

そして始まった、聖地でのプラネタリウム投影。
…カールツァイスの投影機に特有のあたたか味のある優しい星空が、真夏の光り輝くミュンヘンの青空のもとにあるドーム内の暗闇に広がる。
それは、旧ユーゴスラビア時代からザグレブの街にも、そして4年前からは僕の故郷九州にもある人工の星空。
世界中の人々を魅了してやまない、ここドイツ博物館で生まれた奇跡の星空…

投影終了後、御本尊のZKP4を間近からじっくりと眺める。


脚部に輝くSKYMASTERのロゴが頼もしい。



ZKP4はカールツァイス社製プラネタリウム投影機の現行モデルの中では最も小型で、ドイツ博物館プラネタリウムの15メートル径ドームはその対応能力ぎりぎりの大きさの筈だが、コンパクトな機体に内蔵された7000本の光ファイバーが生み出す星空の投影は全く無理を感じさせなかった。



さすがは光学式プラネタリウム投影機の元祖・カールツァイス。
ZKP4の小さな機体からも、プラネタリウムの聖地を与る名機の貫禄を感じさせてくれた。

かくして念願叶い、聖地でのプラネタリウム投影を堪能してすっかり満ち足りた気分で、僕はドイツ博物館を後にした。
この世界最高の博物館には今後も幾度となく訪れる機会があるだろう。
その度に、最上階のドーム内に秘められた奇跡の人工の星空は、代替わりを繰り返しながら末永く僕を迎え楽しませ続けてくれると思う。

ありがとう、そしてまた会おう。
プラネタリウムの聖地、ドイツ博物館と歴代のカールツァイスたち。

18:ミュンヘン散歩~アルテ・ピナコテークに続く

バック・トゥ・ザ・フューチャー 「デロリアンが見た未来」がやって来た

2015-10-22 | 映画・演劇・コンサートを観る
今朝8時半頃、正確には2015年10月22日午前8時29分(日本標準時)、遂に1985年からデロリアンが到着しました!

…映画「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2」が公開された当時、僕はちょうど中学2年生。
リアルに“中二病”真っ盛り(笑)の科学好き中学生達は皆、この映画に熱狂したものです。
僕もよく放課後の理科準備室に友人達と集まって、熱く「バック・トゥ・ザ・フューチャーに見るSF映画と科学談義」に花を咲かせたものですよ、懐かしい…

まだインターネットも無い時代、圧倒的に情報量が不足していた地方在住の僕たちに科学の面白さと多くの知識・情報を供給してくれたのは、バック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズのような当時の極めて良質なSFエンターテイメント作品だったと思います。本当に素晴らしい作品でした…

天才科学者“ドク”の言葉に科学の無限の可能性を学んだ僕たちはその後、科学者や発明家にはなれなかったけれども、気がつけばそれでも自分なりに科学と関わろうと奔走し、小惑星探査機「はやぶさ」を命懸けで応援したり人前でロケット打上げの魅力を語ったりするような少々暑苦しいオトナになってしまいました(笑)

現実は映画の中で描かれたような未来とは少々違う、様々な問題を孕んだ2015年になってしまいましたが、それでも「ああ、今デロリアンが着いたな…!」と思うと、僕は興奮を抑えられませんでした。
何だかんだ言っても、結構エキサイティングで凄い未来に生きてる自分を、あの頃放課後にたむろしていた中学2年生たちに見せてやりたい気がします。

…ところで、実は僕はこれまでに何度かデロリアンに“第一種接近遭遇”しています。
その際に撮影した秘蔵の写真をこっそり公開!


写真1:2013年1月2日にポーランドのワルシャワ科学技術博物館内に着陸していたデロリアン。
なぜ中欧ポーランドにデロリアンが!?ドクの家系の実家はワルシャワなんだろうか(笑)
(→Muses Europa Eisenbahn 2012-2013中欧鉄道音楽紀行 22:MUZEUM TECHNIKI 科学技術博物館


写真2:2015年7月に日本の大阪市内某USJにて。これは一応オフィシャルだけど実はレプリカらしい…?
(→関西で夏休み前哨戦

2015夏 ドイツ/クロアチア/ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紀行 16:ノイエ・ピナコテークと夕暮れの駅

2015-10-18 | 旅行記:2015 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
Photo:ミュンヘン、Bayer通りの夕暮れ


15:国際列車MIMARA号の旅からの続き

ミュンヘン中央駅の裏、Bayer通りに面したホテルにチェックイン。
もう午後4時を回っているが、これからちょっとミュンヘンの街に出かける。

ホテルの部屋に荷物を置いて、中央駅前からUバーン(地下鉄)に乗って、向かった先は…


ノイエ・ピナコテーク。

ミュンヘンの街にはピナコテーク(ギリシア語で「絵画館」の意味)を名乗る美術館が3つあり、それぞれ古典(アルテ・ピナコテーク)・近代(ノイエ・ピナコテーク)・現代(ピナコテーク・デア・モデルネ)の各分野の作品を多数収蔵している。

どの館も大変充実した素晴らしいコレクションで知られており、出来れば3館とも観て回りたいところなのだが、たまたま今日はノイエ・ピナコテークが“ナイト・ミュージアム”の日で夜8時まで開館している水曜日なので、まずはノイエ・ピナコテークを観に行くことにしたのだ。



“ナイト・ミュージアム”のノイエ・ピナコテークはあまり人も多くなく、じっくりと作品を鑑賞して楽しむことが出来た。











ノイエ・ピナコテークの真髄である印象派や、ゴッホとゴーギャンを収めた展示室を独り占めできるという贅沢なひと時を過ごす。
長旅の疲れが名画に癒される…







ノイエ・ピナコテークからUバーンとトラムを乗り継いで中央駅裏のホテルに帰ってきたが、夕焼けがきれいなのでBayer通りを少し散歩することにした。

トラムの通りに沿って歩くと、中央駅の操車場に面した団地の公園に出たので、夕陽に照らされた列車たちを暫し眺める。







夕陽に向かって、高速列車ICEが行き交う。



Bayer通りからコメルツ銀行の角を曲がって歩くと、ミュンヘン中央駅構内の線路を跨ぐハッカー橋に行き着く。




構内入れ替え中の、City Night Lineかユーロナイト(国際夜行列車)の寝台車らしき車輌。





近郊電車や、プッシュプル運転のインターシティが足元を走り抜けるのを見ているのはなかなか楽しい。
ここハッカー橋は地元ミュンヘン市民もお気に入りの散歩道らしく、橋の欄干に腰掛けてビールを煽りながら夕陽と列車を眺める若者たちや、子供と一緒に列車に手を振る家族連れの姿も多く見かけた。

「あっ、ICEが出発していくぞ!」



「またICEが来た!」

結局、夕陽がすっかり沈んでしまうまでハッカー橋の上で列車を見送り続けたのだった。
やっぱり、汽車を見るのは楽しいなぁ…
これは世界中、万国共通の楽しさだね。

17:ドイツ博物館のカールツァイスに続く

やつしろ全国花火競技大会…の臨時列車を見てきました

2015-10-17 | 鉄道

今日(平成27年10月17日)は、熊本県八代市で年に一度の大規模な花火大会(やつしろ全国花火競技大会)が開催される日。
九州各地から花火見物の人々が八代市にやって来ます。
僕も、今日は花火大会見物に出かけましたよ。

…もっとも、僕が見たいのは花火ではなくて、大挙して押しかける見物人を八代市まで運ぶ臨時列車なんですけどね(笑)
今日は、九州各地からJR九州の列車たちが普段は走らない熊本県の鹿児島本線に応援に駆けつけ、ピストン運行を行います。
そんな今日だけの“一年に一日だけの特別な臨時列車たち”を、八代駅の3駅北隣に位置する有佐駅のプラットホームで待ち受けて、秋の日の午後の花火列車見物と洒落こみましょう!


先ずは、一見いつも走っている普通列車に見える817系。
でも、よく見るとちょっと違う。福岡県から応援に来た福北ゆたか線仕様の車輌です。
編成も通常の倍の4連に増結されていて「八代花火大会号」という愛称が付けられた臨時列車です。


続いて、783系特急電車ハイパーサルーンが下り列車で登場…
おっと、2番線に入って後続の列車を待避するかと思ったら直接1番線に入ってきちゃった。


数分間だけ停車して、すぐに八代駅に向かって発車。時間調整ですかね。


30分もしないうちに、八代駅で乗客を降ろして折り返し回送でまたやって来ました。
今度も2番線には入らず、通常の列車が使用する3番線に停車。


上り列車も有佐で暫く停車。


ハイパーサルーンが有佐駅に停車していることを証明する写真を撮影(笑)


有佐を後に、熊本方に引き上げるハイパーサルーン。


ハイパーサルーンに続いて、元「リレーつばめ」787系が登場!
今度はポイントを渡って2番線に入ってくれたのできれいに撮れました(笑)


デビュー当時は水戸岡鋭治デザインのTSUBAMEのロゴが大きく描かれていて超絶にカッコ良かった、グリーン車のコンパートメント通路側。
つばめの看板を下ろした今でも、エンブレムにつばめが健在。さすが水戸岡さん、車輌の事をよくわかってる。




夕陽につつまれて787系が発車。
だんだんと日が傾いて、辺りが夕焼けに。これは今夜は絶好の花火大会日和になりそうだ。…僕は花火は見ないで帰るけどね(笑)


ここで、SL人吉がやって来ました。
有佐駅のプラットホームの端に茂っていたススキや秋の草を使って、ちょっと構図で遊んでみました。


展望車も夕陽を浴びて…


こちらは、熊本の車輌基地から肥薩線に送り込まれる気動車の回送列車。
どうせなら今日は花火大会の臨時列車として八代まで客扱いをすればいいのに…




八代花火大会号の811系
熊本地区では普段はまず見かけないレア車輌、しかも八代行きの行先幕を出している姿が見られるのは今日だけ。


787系も八代駅で乗客を降ろして、折り返して来ました。


787系は折り返しも2番線に停車。


八代行きの普通列車の415系1500番台と顔を合わせる787系。


815系も787系と顔合わせ。そして3番線を通過中の列車は…


八代駅で折り返してきた811系の熊本行き八代花火大会号。
上りは有佐駅を通過してしまうんですね。


またまた八代行きの815系が到着。
有佐駅から列車に乗って花火に出かける人の数も多くなってきました。


すっかり日も暮れて…
ギンギンギラギラ夕陽が沈む。


787系も有佐駅を発車。


787系に代わって2番線にやって来たのは415系1500番台。
415系1500番台同士での顔合わせも実現。


さぁ、そろそろ花火大会が始まるよ!

2015夏 ドイツ/クロアチア/ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紀行 15:国際列車MIMARA号の旅

2015-10-17 | 旅行記:2015 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
Photo:ミュンヘン中央駅に到着した国際列車MIMARA号


14:サラエボ発ザグレブ行き396列車の旅 後編からの続き

2015年8月12日

今朝は早起きして、朝一番でホテルの朝食ビュッフェをかき込んでからすぐにチェックアウト、そのまま大急ぎでザグレブ中央駅に向かう。



早朝6時半のザグレブ中央駅、構内の片隅にある行き止まり式プラットホームには、今日これから乗る列車の編成が既に据え付けられていた。




オーストリア鉄道とクロアチア鉄道の客車を連ねた編成の先頭に立つのは、昨日乗ったサラエボからのザグレブ行き国際列車を牽引していたのと同じ塗色のクロアチア鉄道の電気機関車。
この列車が、ザグレブ発のヨーロッパ国際特急ユーロシティ「MIMARA」号だ。

ちなみに列車愛称の「MIMARA」とはザグレブ市内にあるミマラ博物館や、その館名の由来となったクロアチア人の篤志家の名前にちなんでいるらしい。
ベルリンの壁崩壊とその後の東欧民主化革命の直後、ユーゴスラビア連邦が解体していく最中の1992年に逸早く西側との直通運行を開始した、それなりに歴史ある国際列車である。


僕が予約しておいた1等車のドアに掲げられたサボには、ザグレブ発Villach(フィラハ)経由フランクフルト行きの表示がある。
EC212列車としてVillachまで走った後、列車番号がEC112に変わるようだ。

そしてこの1等車の客車はオーストリア鉄道所属の車輌だが、クロアチアからスロベニアを経て自国オーストリアを横断した後ドイツに入り、さらに延々とドイツ領内をひた走って遥々フランクフルトまで行くという長距離運用である事がこのサボからわかる。


こちらはクロアチア鉄道の車輌である2等車のドアのサボ。
この客車のサボには列車番号EC212としてのフィラッハまでの駅名しか書かれていない。どうやらこの車輌はEC112にはならず、途中フィラハで切り離されるらしい。

クロアチア鉄道は自国の車輌を遥々フランクフルトまで送り込むような長距離広範囲運用は組んでいないようだ。

乗車前にこれから乗る列車の編成を組む各国の客車やサボを見てプラットホームを歩くのも楽しいが、そろそろ発車時刻なのでオーストリア鉄道の客車の1等車に乗り込む。


コンパートメントの出入り口には、最近ヨーロッパでもあまり見かけなくなった紙の予約票の差込口が。
ちゃんと僕の予約を表すザグレブ―ミュンヘンの印字をした紙片が差込まれている。でも他の席は誰も予約しておらず空席の模様。


これがオーストリア鉄道の1等車コンパートメントの室内。
ゆったりした大きな本革シートが備えられている。これならバルカン半島からドイツを目指す長旅も快適に過ごせそうだ。

午前7時頃、所定の発車時刻より何故か若干遅れてMIMARA号はザグレブ中央駅を発車した。


3日前、この街に着いた時に歩いたザグレブ技術博物館のある界隈の通りと水色のトラムがMIMARA号を見送ってくれた。

さようなら、ザグレブ。また来る日まで…

ザグレブを後に、MIMARA号は一路西へ、隣国スロベニアへと向かう。
車窓には3日前に国際寝台列車LISINSKI号から見た美しい風景を再び見ることが出来る。











国境の駅Dobovaでは僅か十数分の停車時間中に極めて速やかにクロアチアの出国とスロベニアの入国手続きが車内で行われ(クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの国境駅での何とものんびりした出入国手続きとは凄い差だ…)、列車はザグレブ発車時の遅れも完全に取り戻して定時運行でオーストリアを目指す。

午前11時、いつの間にかオーストリア領内に入っていた列車はフィラハ駅に到着。
ここでMIMARA号はクロアチア鉄道の2等車客車を切り離し、その後更に他の列車との併合連結作業を行う。



ここでMIMARA号と連結する列車はフィラハ近郊にあるクラーゲンフルトという街から来た列車愛称無しのユーロシティEC112で、MIMARA号はフィラハから先は列車番号をEC212からEC112に変えるので、どうやらMIMARA号は愛称無しのユーロシティEC112の付属編成という扱いらしい。
鉄道好きな人なら、日本で例えると国鉄時代の寝台特急「さくら」の長崎発着基本編成に対する佐世保発着付属編成のようなものだと考えると分かりやすいかも。

さて、MIMARA号はフィラハで基本編成と連結して長い編成になり、進行方向も逆向きに変わって発車したが、どうやらクラーゲンフルト発の基本編成の方には食堂車が連結されているらしい。
ちょうどランチタイムなので、コンパートメントを出て何車輌か先の食堂車まで行ってみることにしよう。

ヨーロッパの鉄道の旅での楽しみの一つが、日本ではもう味わうことの出来なくなった食堂車での食事である。
最近はヨーロッパでも鉄道の高速化が進み、食堂車を連結しない高速列車も増えているが、オーストリア鉄道のユーロシティでは今でも食堂車が健在だった。



とは言え、日本同様に人的サービスの削減は進んでいるらしく、EC112の食堂車を切り盛りするのはウェイターの若い男性一人だけ。
オーダーを取りに来るのも随分待たされた挙句
「ランチメニューのコース料理は全部売り切れです、アラカルトしかありませんのであしからず」と言われてしまったが、それでも本場の大きなソーセージにかぶりついて舌鼓を打ち、コーヒーを飲みながら車窓を眺めるのは鉄道の旅の醍醐味、ああヨーロッパを旅しているなという気分にさせてくれるひと時である。

そして食堂車で食事をしているうちに、MIMARA号は旅のハイライト区間に差し掛かった。
ヨーロッパアルプスの東部を登り切りトンネルで越える、タウエルン峠越えである。





かつてこの峠を越えて走っていた豪華列車オリエント急行の末裔「タウエルン・オリエント・エクスプレス」の愛称にもなったタウエルン峠、まさにアルプスの天空を往くようなダイナミックな風景が車窓に展開する。
ザグレブまで行くときは国際寝台列車LISINSKI号で夜中に寝て通過してしまったのが悔やまれるような素晴らしい眺めに、暫し見とれる。







タウエルン峠を貫くトンネルを抜けて、麓の高原地帯のスキー場や夏のリゾート地を眺めながら走り、アルプスの山を下ってきてしまうと、列車は午後2時に定刻にザルツブルク中央駅に到着。



ザルツブルクを出て1時間半も走れば、もうミュンヘンに到着する。


15:41、EC112「MIMARA」号は定刻通りにミュンヘン中央駅に到着した。
…フィラハからはまた随分と派手なラッピングが施された電気機関車「Taurus」が先頭に立っていたようだ。

EC112はミュンヘンから先もドイツ国内を走り続け、終着駅のフランクフルトに着くのは4時間後になるが、僕はここで列車を降りる。

クロアチアから遥々お疲れさま、MIMARA号。この先も終着駅まで、ご安全に!



16:ノイエ・ピナコテークと夕暮れの駅に続く

2015夏 ドイツ/クロアチア/ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紀行 14:サラエボ発ザグレブ行き396列車の旅 後編

2015-10-11 | 旅行記:2015 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
Photo:日の暮れた終着駅ザグレブに到着した396列車



サラエボ発ザグレブ行き396列車の停車駅と走行ルート表

13:サラエボ発ザグレブ行き396列車の旅 前編からの続き

真夏の午後の陽もすっかり傾いて、西陽に照らされながら396列車はひた走る。



午後5時45分、定刻より30分ばかり遅れてボスニア・ヘルツェゴヴィナ領内で最後の停車駅Dobrljinに到着。



この駅でボスニア・ヘルツェゴヴィナの出国審査が行われる。

車内に乗り込んでコンパートメントを巡回してきた審査官が乗客全員のパスポートを預かって、駅のプラットホーム上にあるプレハブの国境事務所に持って行ってしまうのを眺めて、暫しぼんやりと車内で手続きが終わるのを待つ。

数十分後、乗客の手元にパスポートが返されると列車は出発。
無事に戻ってきたパスポートのページをめくってみたが、どういう訳だかボスニア・ヘルツェゴヴィナ出国のスタンプはどのページを探しても見つからなかった。
ひょっとしたら、無害な日本人のパスポートにまで一々スタンプを捺すのが面倒になって省略したのかも知れない。





国境地帯を走り、国境の川を渡って…


午後6時10分頃、クロアチア領内で最初の停車駅Volinjaに到着。

駅構内にはザグレブ中央駅行きの行き先電光表示を出した最新型の近郊電車が停車しているが、東ドイツ製の30年選手の中古オンボロ客車で編成された我が396列車と比べたら乗り心地も良さそうだし速そうだし、何より冷房完備で涼しくて快適そうなので、思わず暑苦しいコンパートメントから飛び降りてあちらの電車に乗り換えたくなる…

だが、Volinjaではクロアチアの入国審査が行われるので、不用意に不審な行動を取らずに入国審査官が車内に巡回して来るまでおとなしく待っていないといけない。




スルプスカ共和国鉄道の朱色の電気機関車とも、ここでお別れ。
すぐに、クロアチア鉄道の機関車が代わりに連結される。

コンパートメントまでやって来たクロアチアの入国審査官にパスポートを見せて、入国スタンプを捺してもらったら、定刻より約30分遅れのままで18:45にVolinjaを発車。






今朝サラエボに昇った太陽が、クロアチアの大地に沈もうとしている。
長い長いバルカン半島の、旧ユーゴスラビア横断の鉄道の旅の一日が終わろうとしている…


遠きクロアチアの山野に日が落ちて、自転車で家路を急ぐクロアチアの人。
今日もお疲れさま…


ザグレブ行き396列車も、車体を夕陽に染められながら家路を急ぐ。




午後7時過ぎ、最新型近郊電車と並走しながらSunja駅に到着。




流線型の最新型電車と、SL時代の古めかしく重厚な給水塔の組み合わせが鉄道好きには楽しい。


駅構内に、日本のJR貨物の最新鋭ハイブリッド機関車HD300形そっくりの入れ替え用ディーゼル機関車を発見。

Sunja駅では所定のダイヤでは1分停車ですぐ発車する筈なのだが、接続する近郊列車が遅れていたらしく15分ほど停車して結局定刻より50分遅れで発車。
こうして、ボスニア・ヘルツェゴヴィナから引きずっている遅れはクロアチアでもどんどん拡大していく…


午後8時頃、Sisak駅を発車。
駅構内の扇形庫を備えた転車台には、SLの保存機も顔を覗かせているのが見えた。
状態が非常に良さそうなので、動態保存機で復活運転も行っているのかもしれない。





さぁ、終点のザグレブまであと少し。夕陽を追いかけてラストスパート!







すっかり日の暮れた午後8時50分、396列車は定刻よりちょうど1時間遅れで、夜の終着駅のザグレブ中央駅に到着した。
サラエボ駅からおよそ10時間の列車の旅だった。




すぐに入れ替え用のディーゼル機関車が連結され、396列車だったボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦鉄道とスルプスカ共和国鉄道の客車たちはザグレブ中央駅裏の操車場に引き上げていく。
ザグレブで一晩休んで束の間の休息を取ったら、明日には再びサラエボ行きの397列車になってボスニア・ヘルツェゴヴィナに戻る旅に出るのだろう。

お疲れさま、サラエボとザグレブを結ぶ唯一の国際列車…今日はありがとう。

さて、僕も一昨日泊まった駅前のビジネスホテルに戻って休むとしよう。
シャワーを浴びて一晩ぐっすり眠ったら、僕もまた明日の朝にはザグレブを発って新しい旅に出る事になる。

15:国際列車MIMARA号の旅に続く

2015夏 ドイツ/クロアチア/ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紀行 13:サラエボ発ザグレブ行き396列車の旅 前編

2015-10-11 | 旅行記:2015 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
Photo:朝のサラエボ駅で発車を待つザグレブ行き396列車


12:束の間のサラエボ~戦争の記憶からの続き

朝のサラエボ駅のプラットホームには、ザグレブ行きの396列車が据え付けられて発車を待っている。

駅構内の切符売り場に張り出された時刻表によると、どうやら2015年8月現在ではサラエボ駅に発着している列車の殆どが近郊の町までの短距離列車ばかりで、国境を越えて運行される長距離列車はこのザグレブ行き系統のみらしい。

かつてはハンガリーのブダペストや、ユーゴスラビアの連邦首都であったベオグラードまで行く列車もあったらしいのだが、内戦による線路の破壊や戦後の混乱によって運行を取りやめてしまったのだろうか。





ザグレブ行きの396列車を牽引する電気機関車。
車体にはボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦鉄道の所属であることが表記されている。





牽引される3輌編成の客車は、昨日ザグレブ中央駅からサラエボ駅まで乗ってきた397列車と全く同じ。
やはり同じ編成が毎日、ザグレブとサラエボの間を行ったり来たりしているようだ。

ちなみに3輌の客車はボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦鉄道とスルプスカ共和国鉄道の所属の車輌を混結して運用している模様で、塗装が車輌ごとに異なっていてとても賑やかな外観の編成となっている。


客車に乗り込む為にデッキのタラップを登ろうとしたら、客車のメーカーズプレートを発見。
1984DRとあるので、1984年に製造された元・東ドイツ国鉄(DR)の中古車であることが判った。

396列車は10:43、定刻にサラエボ駅を発車。
再びザグレブに戻る一日がかりの鉄道の旅が始まる。






サラエボ駅を発車後、しばらくすると操車場と車輌基地の隣を通るのだが、そこに思わぬ車輌がいるのを発見!
車体長が極端に短く寸詰まりで天井高が低い、この独特な形状の車体…
スペイン製の高性能な振り子式連接車輌、タルゴだ!

数年前、ドイツ鉄道の夜行列車として使用されていたタルゴが引退してどこかに売却されたらしいという話は聞いていたが、何とボスニア・ヘルツェゴヴィナにやって来ていたとは。
それにしても、サラエボからどこまで行く系統の列車でタルゴが使用されているのか気になる。今度ボスニア・ヘルツェゴヴィナに来るときは是非とも乗ってみたいものだ。

…さてサラエボに別れを告げて、396列車は一路クロアチアを目指し真夏のボスニア・ヘルツェゴヴィナの青空の下をひた走るが、どういう訳だか停車駅に着く度にさして理由もないのに遅れが生じていて、しかもそれがどんどん拡大していくのがいかにもボスニア・ヘルツェゴヴィナ流(笑)

まぁどうせザグレブに帰るだけだし、急ぐ旅でもない。ここはのんびり時間を忘れて、南欧バルカン半島の夏休みのローカル線の旅を満喫することにしよう。


サラエボ近郊の、時刻表に記載されていないような小さな駅にもこまめに停車していく。


車窓にはモスクもよく見かける。

かつてオスマン帝国による影響を多く受けた歴史的経緯もあって、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦はイスラームを信仰するムスリムであるボシュニャク人が多数を占めており、イスラーム文化のエキゾチックな雰囲気が漂っている。




駅にしばらく停車して、ローカル列車と行き会うこともしばしば。


駅名表記にキリル文字が見られるようになると、列車がボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦からスルプスカ共和国に入った事がわかる。





心和む山里の風景にも、よく見ると内戦の悲劇の傷跡が…

この地には夥しい数の墓標だけでなく、今なお処理されていない危険な地雷が山中に多く残されている為、迂闊に山を歩くのは非常に危険だという。
風景が平和で美しいだけに、そこに残されたあまりにも深い戦争の傷跡が心に痛い…



午後2時過ぎ、396列車は昼下がりのDoboj駅に到着。
Dobojはスルプスカ共和国の鉄道の要衝、らしい。
この時点で既に定刻ダイヤから20分以上遅れているが…


広いDoboj駅構内には客車が放置されているだけで、特に行き合い列車も無かったようだが、396列車は何故かきっちり10分間停車して出発。
日本の鉄道のように、駅の停車時間を切り詰めて回復運転を行うなどということは全く無い(笑)





次に停車したどこかの駅では、しっかり列車交換。
…やって来たこの行き合い列車、なんだか編成内容からして昨日乗ったザグレブ発サラエボ行きの397列車のような感じだがサボが見えず、はっきり確認することは確認は出来なかった。


その次に見かけた列車は、なんと客車と無蓋貨車を併結した混合列車!?
でもよく見たら機関車も重連だし、何だかいかにも不自然な編成なのでひょっとしたら回送列車かも。

その後、396列車はBanja Luka駅でスルプスカ共和国鉄道所属の客車を1輌切り離し(おそらくここで運用を終えて車庫に入る「たすき掛け行路」が組まれている模様)、代わりの車輌を増結したり機関車を交換したりと何やかやと作業をこなしてから発車。

もちろんその都度、列車の遅れは拡大していく訳だが、もう今さら何も気にならない。
「なぁに、どうにかなるさ。今日中にザグレブに着ければ、それでいいさ!」(笑)

行けども行けども、車窓は緑のボスニア・ヘルツェゴヴィナの森…



「あっ、腕木信号みたいな形の信号機だ!…でも肝心の腕木が無いね」


列車のコンパートメントから開け放した窓を見上げると、そこには青い空と白い雲。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの夏の旅…


サラエボ発ザグレブ行き396列車の停車駅と走行ルート表

14:サラエボ発ザグレブ行き396列車の旅 後編に続く

2015夏 ドイツ/クロアチア/ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紀行 12:束の間のサラエボ~戦争の記憶

2015-10-06 | 旅行記:2015 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
SARAJEVO/CAPAJEBO 2015


11:ザグレブ発サラエボ行き397列車の旅 後編からの続き

夜のサラエボ駅は、到着した397列車の乗客たちが立ち去ってしまうと、だだっ広いコンコースが閑散としてしまった。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都の表玄関だというのになんとも寂しい限りだ。
せめて写真でもと思い駅舎内でカメラを構えると、とたんに警備員から「NO PHOTO!写真はダメだ!!」と警告を受ける。おそらくテロ対策だろうが、ヨーロッパの鉄道駅でここまで取り締まりが厳しいのは珍しい。
強引に撮影しようとして揉め事になったり、大事なカメラを没収されたりしたくないので、大人しく引き下がる。

長旅を終えてサラエボに着いた記念の写真が撮れなくて残念だが、気を取り直して今夜の宿に向かう。
今夜はサラエボの目抜き通りに面したホテルを予約しておいた。はやくチェックインしてひとっ風呂浴びてからぐっすり眠って、国際列車の旅の疲れを癒やしておきたい。

サラエボ駅前にはトラム(路面電車)のロータリーがあり、目指すホテルまではトラムで行けるらしいのだが、あいにく電車賃のボスニア・ヘルツェゴヴィナ通貨を持っていない。
駅の構内には両替所も無いし、ひょっとしたらタバコ屋に頼み込めばユーロでもトラムのチケットを売ってくれるかもしれないが、なんだか面倒くさくなってきたのでトラムに乗るのは諦めて徒歩でホテルを目指す。

駅とホテルの位置関係は一応、頭に入れておいたのだが、それでも目抜き通りに出てからちょっと道に迷い、近くを歩いていた人に道を聞きながら何とかホテルに辿り着いた。
駅からホテルまで歩く間に、サラエボの街がとても治安が良くて住民も親切な人が多いことがよく分かった。夜なのに小さな子供を連れた家族連れやお年寄りや若い女性も大勢道を歩いていたし、そんな人たちに片言の英語でホテルまでの道を聞くと、ボスニア語で身振り手振りを交えてとても丁寧に教えてくれたからだ。





2015年8月11日



日の出の太陽の光と、街に響き渡るアザーン(礼拝の時間を告げるモスクからの呼び掛け)で目を覚ます。
サラエボはイスラームだけでなく東方正教会とカトリック、そしてユダヤ教とが共存する街で、モスクや教会にシナゴーグ、バザールまでもが存在するという。

そんな人種・民族と宗教のるつぼであり、長い歴史を秘めた魅力的な街であるサラエボだが、僕には滞在する時間がほとんど無い。今日の午前中にサラエボ駅から再びクロアチアの首都ザグレブに戻る列車に乗らないといけないのだ。
今回の旅では「クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナを結ぶ国際列車に乗ってみること」が目的の旅程を組んだので、サラエボには一晩だけの束の間の滞在になってしまった。

せめて、ホテルから駅に戻るまでの道すがらにサラエボの街歩きをしようと思う。
今日も長旅の列車に乗るのに備えてホテルの朝食ビュッフェを腹一杯食べて、気力と体力をつけたらさぁ行こう!


ホテルの面した大通りが、サラエボの街を貫くにぎやかなメインストリート。
朝から多くの車が行き交う通行量の多い幅の広い道路には街路樹の並木が続き、トラムの線路が中央を通り、道の両側は高層のマンションや商業ビルが立ち並んでいる。

だが…
道の両側に立ち並ぶビルをよく見ると、そこに異様な痕跡があることに気が付く。


大通りに面したマンションの外壁一面を覆う、夥しい数の無残な穴。
この穴は、銃弾の跡だ。

今から20年前まで、この街は悪夢のような戦争の最前線だった。
ユーゴスラビア崩壊に伴うボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争で、1992年から1996年までの間、ここサラエボは包囲され市街戦が繰り広げられた。
そして、街の目抜き通りに建つビルの上層階には狙撃手(スナイパー)が身を潜め、通りを歩こうとする者を全て射殺したという。

…いつしか、サラエボ市民はこの大通りをこう呼ぶようになったという。
「スナイパー通り」と。




「スナイパー通り」を駅の方に歩いて行くと、派手な黄色い外壁の建物が見えてくる。


ホテル「ホリデイ・イン サラエボ」

世界中の街にあるホリデイ・インの一つだが、ここはボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争のサラエボ包囲時、激しい市街戦が繰り広げられるまさに戦争の最前線の「スナイパー通り」にあるにもかかわらず、最後まで通常営業を続けていた。

戦場のサラエボにあるホリデイ・インに宿泊していたのは、世界中から集まったジャーナリスト達だ。
サラエボの惨状とボスニア・ヘルツェゴヴィナでの戦争の悪夢は、このホテルからまさに命懸けで世界中に報道され、多くの人々が現在起きている目を覆わんばかりの事実を知ることになった。

「ホリデイ・イン サラエボ」は戦闘終結後にホリデイ・イン系列から売却されたが、現在も「ホテル ホリデイ」として内戦時のサラエボ包囲の頃と同じ建物で営業を続けている。




「ホテル ホリデイ」のエントランスには、オリンピックのシンボルマークとエンブレムのモニュメントが掲げられていた。1984年2月に開催されたサラエボオリンピックの名残りだ。
「ホリデイ・イン サラエボ」も元々は平和の祭典であるオリンピックにやって来る世界中の人々を迎える為に建てられたのだろう。

だが、それから僅か8年後に、このホテルがこの世の地獄と化したサラエボの街の姿を世界中に発信する最前線基地になろうとは…!

現在、再び平和を取り戻したサラエボの街角に、一度は地獄を見たこの街が、世界で一番平和に輝いた頃のままの姿で佇み続けるこのモニュメントは、僕たちに静かに何かを語りかけてくれているような気がした。



どうか二度と再び、この街に戦争の悪夢が訪れることがありませんように…
その為に僕に出来ることは一体何だろう?その答えは、この旅の先に見えてくるのだろうか…



「ホテル ホリデイ」から「スナイパー通り」を挟んだ斜向かいに建つボスニア・ヘルツェゴヴィナ国立博物館。
ここもサラエボ包囲の市街戦で破壊されたが戦後に修復が進み、間もなく展示が再オープンされるという話がある。
この次にこの街に来たら、「ホテル ホリデイ」に泊まって国立博物館を見学するのも良いかもしれない。


国立博物館の前の「スナイパー通り」の交差点を駅の方に曲がった所にあるのは在サラエボのアメリカ合衆国大使館。
広大な敷地の周囲が要塞のように高い柵で覆われ、常に警備員と職員が道行く人にも目を光らせているような印象だ。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争時にはアメリカとNATOもボスニア・ヘルツェゴヴィナ領内の空爆を行った過去があるので、今でもかなり警戒している模様。


そしてアメリカ大使館の先に、サラエボ駅がある。

昨夜着いたばかりのこの駅から、もう旅立たなければならない。
サラエボには、先程少し街歩きして見た場所以外にも見どころがたくさんある。このまま去るのは本当に惜しい。必ず、いつかまたこの街に来ようと思う。


サラエボ駅のプラットホームには、小さな可愛らしいタンク機関車のSLが保存展示されていた。
このSLもまた、この地で過酷な戦争を生き延びてきたのだろう。

今、この駅を発着する列車と乗客、旅行者たちを静かに見守るSLは
「どんな過酷な状況でも、生きていればいつか必ず穏やかな日々が戻ってくる。
線路の先には、この国と世界の輝く未来がきっとある。
だから、旅人たちよ、生き抜いて旅を続けるんだ!」と力強く励ましてくれている。
そう感じながら、サラエボ発の列車に乗りこの街を去る。

さようならサラエボ。
束の間の滞在だったけれど、僕に多くのことを語りかけてきてくれたこの街に、いつか必ずまた戻ってくる…!

13:サラエボ発ザグレブ行き396列車の旅 前編に続く

2015夏 ドイツ/クロアチア/ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紀行 11:ザグレブ発サラエボ行き397列車の旅 後編

2015-10-04 | 旅行記:2015 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
Photo:日の暮れた終着駅サラエボに到着した397列車



ザグレブ発サラエボ行き397列車の停車駅と走行ルート表



10:ザグレブ発サラエボ行き397列車の旅 前編からの続き

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの入国駅Dobrljinでは結局、定刻より25分遅れて12時15分に出発。
無事に手元に戻ったパスポートのページをめくってみると、かすれた薄いインクでボスニア・ヘルツェゴヴィナの入国スタンプが捺されていた。

397列車はDobrljinを出ると、後はもう停車駅に着く度に列車の遅れが拡大していくような有様。
今さら先を急ぐ気など全く無い、なぁにどうにかなるさ、今日中にはサラエボに着くだろうさ、と言わんばかりの、のんびりとしたローカル線国際列車の旅が続く。




ボスニア・ヘルツェゴヴィナ領内に入ると、駅名がロシア語などに用いられるキリル文字による表記に変わった。

一言で「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」と呼んでいるが、実際にはボスニア・ヘルツェゴヴィナは2つの共和国で構成された連邦国家である。
その2つの共和国のうちセルビア人が主体となっているのがスルプスカ共和国で、言語もセルビア語でキリル文字が用いられる。
サラエボ行き397列車が国境を越えてボスニア・ヘルツェゴヴィナ領内に入ったDobrljinの一帯はスルプスカ共和国の領内であり、車窓にもキリル文字の表記が見られるようになる。

ところが一つ困ったことには駅にはセルビア語のキリル文字の駅名表示しか無く、そして僕はキリル文字が全く読めないので、今どこの何という駅に着いたのか、列車は今どこを走っているのかがさっぱり分からなくなってしまった。
手許に用意しておいた、インターネット経由で手に入れた397列車の停車駅時刻表と見比べようにも、既にかなりダイヤに遅れが生じている上に時刻表に記載されていない駅にも頻繁に停車しているようで、もう何がなんだかわからない有様。

…まぁいい、あくせく状況を調べるのは諦めて気ままに行こう!
「なぁに、どうにかなるさ」、多分これがボスニア・ヘルツェゴヴィナの流儀なんだろうから。



397列車はスルプスカ共和国のどこかの名も知らぬ小さな駅に停車しながら、相変わらずのんびりと走っていく。


駅構内に、腕木信号機を発見!
信号灯のレンズも割れていないし、まだ現役で使われているものなのだろうか?


停車駅ごとに、それなりの数の乗客の乗り降りがある。
1日に1往復だけの国際列車も、ローカル線の地元の人達の足として活躍しているようだ。


駅前広場に静態保存されているSLを発見。

ずっとコンパートメントの客室にこもって座っているのにも飽きてきたので、397列車の編成を歩き回って車内の散歩をしてみよう。


編成最後尾まで行って、デッキのドア窓から走り去る線路を眺める。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは基本的に山林か田園地帯の風景が延々と続く。

一方こちらは編成の最先頭。397列車を牽引する電気機関車の顔が間近に見られる。



ヨーロッパの鉄道で広く使用されているリンク式(ネジ式)連結器の構造も手に取るように見えるので、鉄道ファンなら見ていて飽きない。

デッキの出入り口ドア扉にはこの列車のサボ(行き先表示)が張り出されている。
同じ編成がザグレブとサラエボの間を行ったり来たりして運用されているようで、往復分の両方の列車番号と停車駅が上下互い違いに表示されていた。毎日、終着駅に着いたら上下を逆に入れ替えるのだろう。



こちらのドアには、サボの印刷が間に合わなかったのか、コピー用紙に列車番号と駅名を適当にプリント出力したものが無造作に差し込まれていた。
この大雑把さが、いかにもバルカン半島(笑)

ボスニア・ヘルツェゴヴィナに入ると停車駅ごとに乗客の乗り降りが頻繁になり、車内が混み合ったかと思うと一斉に下車してがら空きになったり。
空いているコンパートメントも目立つようになってきた。


397列車で使用されている、2等車の切符で乗れる1等個室コンパートメント客車の室内。
古びてはいるが、さすがは1等車。かなりゆったりとしていて乗り心地は良い。おそらくドイツあたりで優等列車に使用されていた客車の中古車を譲り受けて使用しているのだろう。

ただし、さすがに古さのせいか、時々窓が開かなくなっているハズレの部屋もあって、運悪くそういう部屋に座ってしまうと真夏の陽射しが降り注ぐ下ではかなりつらいかも(もちろん冷房などは付いていない!)。






窓を開けて外を見ると、山あいに小さな町並みが広がるボスニア・ヘルツェゴヴィナの美しい風景。
ここは山が多い国で、どこか日本の山里の風景に似ている気がするので心が安らぐ。


だが町並みをよく見ると、丘陵の一面が墓地になっていることが多い事に気が付く。
…紛争の犠牲者が埋葬されているのだろうか。のどかな山村の風景にも、胸が痛む歴史の記憶が残されていた。




ボスニア・ヘルツェゴヴィナの野を越え山越え、畑と川を越えて汽車は往く。


窓から外を見ていると、地元の人との思わぬ出会いがあったり。




そして時々、思い出したように小さな駅に停まる。


ようやく、駅名表示がキリル文字とアルファベットの併記になってきた。ここはStanariという駅であることが分かるのが何気に嬉しい。
…でもStanari駅も397列車の停車駅時刻表には記載されていないんだよなぁ。
もうそろそろ、スルプスカ共和国と共にボスニア・ヘルツェゴヴィナを構成する共和国であるボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦の領内に入る。





ところが、スルプスカ共和国からボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦に入ってしばらく走った後で停車した駅で列車が動かなくなってしまった。
どうやら列車の車輌に何か技術的な問題が発生したらしく、鉄道の技術スタッフと見られる人たちが駆けつけて車体の床下を覗き込んで何やら検査しているが、いつまで経っても列車が発車する気配がなく埒が明かない。


発車を待ちくたびれた乗客たちは、列車から降りて散歩を始めた。
まぁ、こういう運行トラブルはヨーロッパの田舎ではよくあること。焦っても始まらない、のんびり列車の出発を待つ。
「なぁに、どうにかなるさ」!


停車したまま動かない列車を、興味深そうに見に来た近所の子供。
もうそろそろ日が暮れるから、キミも家に帰ったほうがいいよ~


結局、1時間近く停車していたが何とか修理が完了したらしく、397列車はおっかなびっくりといった感じで再び走り始めた。
さぁ、終着駅サラエボまであと一っ走り…


午後7時半過ぎ、ザグレブ発サラエボ行き397列車は定刻より1時間半ほど遅れてサラエボ駅に到着した。
ザグレブから約10時間半の長い長い列車の旅だった。





すっかり日が暮れて暗くなった空の下に突如、きらびやかな都市サラエボの夜景が現れ、周囲の山並みにモスクからのアザーン(礼拝の時間を告げる呼び掛け)がこだまする。
サラエボにはムスリム人(ボシュニャク人)の市民が多いことが窺い知れる、エキゾチックな旅の一日の終わりとなった。

12:束の間のサラエボ~戦争の記憶に続く

2015夏 ドイツ/クロアチア/ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紀行 10:ザグレブ発サラエボ行き397列車の旅 前編

2015-10-04 | 旅行記:2015 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
Photo:朝のザグレブ中央駅で発車を待つサラエボ行き397列車


9:ザグレブ散歩~トラムに乗って現代美術館へからの続き

2015年8月10日

朝9時、駅前のビジネスホテルをチェックアウト。
今日は丸一日列車移動のハードな日程となるので、ホテルの朝食ビュッフェをたっぷり食べて腹ごしらえを済ませた。
気合を入れて、ザグレブ中央駅に向かう。




ザグレブ中央駅のコンコース列車発着案内板に表示された、9:18発の列車にこれから乗車する。列車種別はBrziとあるが、これは特急や急行より格下の「快速列車」というような位置付けらしい。
SISAK・DOBOJ経由のSARAJEVO(サラエボ)行き…
そう、クロアチアの首都ザグレブとボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボを結ぶ国際列車だ。

現在、ザグレブとサラエボを直通運転する列車は1日に1往復のみ。この9:18発サラエボ行き快速列車は“唯一の隣国の首都行き国際列車”ということになる。


これが、そのサラエボ行き「国際快速列車」、特に列車名や愛称は付いておらず単に列車番号で397列車と称している。
昨日の朝にミュンヘンから国際寝台列車LISINSKI号でザグレブ中央駅に到着した時にも見たが、今朝も昨日と同様に電気機関車が牽引する古びた客車の3輌編成で発車を待っていた。

乗車券は既に昨日の朝にザグレブ―サラエボの往復切符を購入してあるので、そのまま397列車に乗り込む。

昨日、切符を買う時にザグレブ中央駅の窓口の中年女性職員氏は「サラエボ行きの列車は2等車だけみたいよ。」などと言っていたが、実際には3輌の客車のうち真ん中の1輌が1等と2等の合造車でその両隣りはどちらも1等車だった。だが、別に座席指定されている訳でもないし、他の乗客も等級の違いを気にしている様子もないので「これはおそらく、古い1等車を格下げして2等車扱いで運用しているのだろう」と判断して、適当に空いていた1等の客席に腰を下ろす。客室は全て6人個室のコンパートメントだった。

午前9時18分、397列車は定刻通りにザグレブ中央駅を発車、一路サラエボを目指し走り始める。



ザグレブ中央駅を出た直後は市街地を慎重にゆっくりと通り抜けるように走っていたが、やがてサヴァ川の鉄橋を渡ると周囲の風景がひらけて田園地帯となり、397列車も一気に加速してかなりの高速走行で駆け抜けていく。



列車が本腰入れて走り始めるのと同時に、車掌氏が巡回してきて車内検札が行われた。

さて僕は1等車のコンパートメントに座っているのに持っているのは2等の切符で、しかも難解なクロアチア語で手書きされているので何と書かれてあるのか全く解らないという状況なので、「あっ、なんだかこれって宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』でジョバンニが車掌に検札を受けるシーンみたいだ」などと思いつつ、ちょっと緊張しながら昨日買った切符を手渡すと、車掌氏は別に「これは三次空間の方からお持ちになったのですか?」などとは言い出さずに何やら切符の台紙の裏にチェック印を記入しただけで返してくれた。

どうやら僕の予想通り、この列車では2等の切符でも1等車のコンパートメントに乗って構わないようだ。


397列車は十数分おきにザグレブ郊外の小さな駅にこまめに停車しながら走っていく。
国際列車とはいえ、ザグレブ都市圏の近郊輸送も担うダイヤとなっている。





のどかで美しいクロアチアの田園風景を眺めながら快調に飛ばしてザグレブから約40分、午前10時にSISAKに到着。


SISAKはかつては大規模な機関区がある鉄道の要衝だったようで、駅構内には立派な扇形庫を備えた転車台が残り、雨ざらしだがSLも静態保存されている。

SISAKからさらに走ること約1時間、午前11時にVolinjaに到着。



ここがクロアチア領内での最後の停車駅となり、車内に出国審査官が乗り込んできて乗客のパスポートのチェックが行われ、出国のスタンプが捺された。

Volinja駅では乗客の出国手続きが行われるのと同時に、397列車の越境準備も行われる。
ザグレブからここまで397列車を牽引してきたクロアチア鉄道の電気機関車が切り離されて、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ鉄道の機関車に付け替えられた。



真っ赤で派手なクロアチアの電気機関車から、くすんだ朱色のボスニア・ヘルツェゴヴィナの電気機関車に交換したが、見たところ機関車の形状が全く同じなのでどうやら同型式同士での機関車交換のようだ。

これが日本のJRのブルートレインなら、鉄道会社の管轄が変わっても運転士が交代するだけで、同じ機関車が直通で乗り入れて牽引ということになるのだが…
国が変わるとなるとそういう訳にもいかないらしい。
だが、ここVolinjaでも国境など関係無かったかつてのユーゴスラビア連邦時代は、機関車が交換されずに直通で運行を行っていたのだろうか?
…などと、ふと思う。

30分足らずで乗客の出国審査と機関車交換を終えて、国境の駅Volinjaを出発。

やがて397列車は、おそらくクロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの国境となっていると思われる川を鉄橋で渡る。



ボスニア・ヘルツェゴヴィナの国境地帯には、現在でも内戦時に埋められた地雷が処理されること無く大量に残されていると聞く。
一見のどかで風光明媚なこの風景の中にも、恐ろしい戦争の遺物が今も隠れているかも知れないと思うと背筋が寒くなる…


戦争の記憶に少し緊張もしたが、397列車はどうやら何事も無くボスニア・ヘルツェゴヴィナ国内に入ったようだ。
車窓には山すそに、とうもろこし畑が続いている。どことなく日本の農村を走るローカル線に似た雰囲気の車窓が広がる。











さてザグレブを出てからここまでほぼ定刻のダイヤ通りに走ってきた397列車だが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの国境地帯で急に走りが鈍り始めた。
Volinja国境駅を出ると10分足らずでボスニア・ヘルツェゴヴィナ側の入国駅に到着する筈なのだが、なかなか駅にたどり着かない…



結局、定刻より10分程度遅れて11時40分頃にボスニア・ヘルツェゴヴィナ領内での最初の停車駅Dobrljinに到着。



Dobrljin駅ではボスニア・ヘルツェゴヴィナの入国審査が行われる。
入国審査官が車内に乗り込んでくるがパスポートチェックは車内では行われず、乗客のパスポートをすべて回収すると列車を降りて、駅にある国境事務所に持って行ってしまった。

パスポートが手元に戻ってくるまで、何もすることがない。真昼の田舎の駅で、静かでのんびりとした時間が過ぎていく…
そんなことを言っているうちに、とっくに発車時刻を過ぎてしまった。
これが『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ時間』って奴か。同じ旧ユーゴスラビア同士でも、時間にきっちりしていたクロアチアとは随分勝手が違うな…

まぁ焦っても仕方がない。それに、郷に入れば郷に従えだ。これがボスニア・ヘルツェゴヴィナの流儀だろうし、こういう呑気な旅も悪くない。
そのうちパスポートも戻るだろうし、列車も再び走り始めるだろう…


ザグレブ発サラエボ行き397列車の停車駅と走行ルート表

11:ザグレブ発サラエボ行き397列車の旅 後編に続く