天燈茶房 TENDANCAFE

さあ、皆さん どうぞこちらへ!いろんなタバコが取り揃えてあります。
どれからなりとおためしください

探査機「はやぶさ」、地球帰還準備完了!

2007-01-30 | 宇宙
「はやぶさ」試料容器のカプセル収納・蓋閉め運用が完了(JAXA宇宙科学研究本部 宇宙ニュースより)

先日の相模原市立博物館での吉川真先生の「はやぶさの地球帰還に向けた準備は完了しています」という頼もしい発言を裏付ける宇宙研の公式発表が出た!
機能を喪失し、迂闊に充電を試みると船体もろとも爆発する恐れすらあると云われていたバッテリーは「はやぶさチーム」の手で奇跡のように復活、それによって1月17日の深夜、小惑星イトカワ地表のサンプルが採取されている可能性のある地球帰還カプセルの蓋は確かに密封されていた。

地球帰還準備完了!
あとは姿勢制御プログラムの書き換えを行いイオンエンジンを噴かすだけだ。
イオンの翼で地球に向かって、宇宙を飛べ「はやぶさ」!帰って来い「はやぶさ」!!

そして、またしても驚異の「はやぶさ」不死鳥伝説を産んでしまった宇宙研の「はやぶさ運用チーム」にリポDで乾杯!

   , ノ)
  ノ)ノ,(ノi
  (    (ノし
┐) ∧,∧  ノ
..|( ( ....:::::::) (  ファイトオオオオオ!
 ̄⊂/ ̄ ̄7 )
 (/ 川口 /ノ
   ̄TT ̄
             _ _,_
            ∠/ ヽ  ノ   .∠/
          ∠∠=|・∀・ |=∠/
        ∠/     ̄¶' ̄ ∠/   いっぱああああああつ!!


       小 惑 星 探 査 時 の 栄 養 補 給 に
           _     ___     ____ __   __
   | ̄| ! ̄|┌┘└‐P│└PPi  ノ ,r┐ |ヽ、__,ノ/| !  r、 ヽ
    |_|丿  ! 厂|  hヾ l ┌─‐!∠ 、ー'  ,! __ノ | .!  | ) }
    ∠__ノ/___j___,!l、_).!、_ ̄ ̄| ∠__ノ |____ノ |  '‐' _ノ
                  ̄ ̄             ̄ ̄


。。。それにしても「はやぶさ」のバッテリーが古河電池製だとは知らなかった。
古河製って、南部縦貫鉄道の可愛いレールバス兄弟が使ってるトラック用バッテリーと同じじゃないか。
僕も今度の車検の時に愛車ビストロ号のバッテリーを古河電池製に替えようかなw

相模原市立博物館日曜講演会 「はやぶさ」のその後と地球衝突天体の観測 を聴く

2007-01-29 | 宇宙
(写真:JAXA謹製・イトカワの超精細模型(左)と初期に製作されたイトカワ予想モデル(右))

金曜日の夜から上京して都内某所で潜伏中。
今日は昼からJRを乗り継いで淵野辺駅で降りてバスに乗って、ここにやってきました。
相模原市のJAXA宇宙研本部相模原キャンパス。

…のすぐ隣にある、相模原市立博物館
この博物館の開催する日曜講演会“「はやぶさ」のその後と地球衝突天体の観測”を聴講しに来たのだ。
講師はJAXA/ISASの吉川真先生と日本スペースガード協会の山本威一郎先生。

吉川先生のお話は去年10月に佐賀県立宇宙科学館でのはやぶさ特別企画展での講演でも聴講させて頂いた。
今日の吉川先生の講演では、はやぶさの近況として
「最近は動きがないが、来月か再来月にはいよいよ地球帰還のためにイオンエンジンを点火する。」
「現在、それに向けて調整を行っている。」
とのことで、それから「はやぶさプロジェクトの概況と成果」「イトカワ到着までの運用。地球スイングバイについての説明」「イトカワ着陸と成果」等の説明。
「はやぶさ2」については、予算獲得のために引き続き頑張っておられるそうです。

続いて山本先生の講演ではNPO法人日本スペースガード協会の活動報告。
日本でも天体衝突のカタストロフィから人類を救うべく活動してる人達ががんばってるんですねぇ。日本スペースガード協会には誰でも入会できるらしいので、僕も人類を救うべく活動に参加してみようかな?

さて、講演後の質問タイム。気になる「はやぶさ」の近況について吉川先生に直接伺ってみた。
Q:「イトカワ地表のサンプルが入っている可能性があるカプセルの蓋を閉めるためには、故障して充電不能になったバッテリーをなんとか直して使用する必要があると聞いています。地球帰還を来月に控え、カプセルの蓋を閉めることはできたのでしょうか?」
A:「帰還に向けた準備は完了しています。」
おお、ということは無事に蓋を閉められたのですね!?バッテリーも再充電できたということでしょうね。

講演会終了後、演台の上に置かれたイトカワ模型を見ていたら「あ、そこのパンフレット持っていっていいですよ」と吉川先生から直々に声を掛けて頂いた。
「あ、先生!ありがとうございます!あの~、僕、去年の佐賀県の講演会でも先生のお話聞かせて頂きました。」
「それはそれは…遠いところからわざわざありがとうございます」
「あの…はやぶさのイオンエンジンに点火する日はもう決まっているんですか?」
「いや、地球帰還のためには『この日に点火しないといけない』という程厳しい制約がないので、様子を見ながら慎重にイオンエンジンの運転を始めるつもりです。」
「そうなんですか…。はやぶさ2も頑張って飛ばして下さいね。僕も応援してます!」

という訳で、吉川先生パンフレットありがとうございました。
「あ、しまった!先生にパンフにサインして貰えばよかった!!」

ハチロクが帰って来る!JR九州「SLあそBOY」8620形蒸気機関車、再復活!

2007-01-24 | 鉄道
SLが熊本で復活 JR九州、09年夏に(共同通信) - goo ニュース

JR九州が平成17年まで豊肥本線熊本~宮地間で運行していたSL「あそBOY」の機関車8620形58654号機が、再来年夏に2度目の復活を果たすことになった。

これはまさに奇跡の復活である。

58654は大正11年生まれの古豪。名機と謳われたハチロクこと8620形の一員で、昭和50年に引退するまで九州各地で走り続けてきた。その後、昭和63年に復活。以来、西部劇を気取った大人気の観光列車・ウェスタンSL「あそBOY」として阿蘇路で第二の人生を送ったが、そんな「あそBOY」の檜舞台である豊肥本線に立ち塞がる九州最大の難所「立野スイッチバック」の急勾配との連日の死闘は多くの人々を魅了すると同時に、大正生まれの老兵の身体を確実に蝕んでいった。そしてとうとう平成17年、機関車の背骨である台枠の歪みという致命傷を負った58654は走行不能寸前の危篤状態に陥り、同年8月28日限りで運行を終了、勇退した。
(この頃の詳しい状況は天燈旅社 さよならSLあそBOYにまとめていますので是非御覧下さい)

以来、SL復活を望む熱い声に応えるべくJR九州は58654を小倉工場に回送して徹底調査、なんとか改修して復活させる事が出来ないかと必死の努力を続けていると伝えられていたが、その後JR九州から58654の状況報告はなく、また台枠自体が大正の職人達が丹精した一品物の工芸品に近いものであることから「復活は絶望的か…」との見方が濃厚となっていたのである。

しかしJR九州はやってくれた!
既に失われていたと思われていた台枠の図面を見つけ出し、これを基に58654の主要部を4億円かけて新製、58654を生まれ変わらせて復活させるというのである!
そこまでやるか、JR九州!!

かくして、不死鳥さながらに甦る8620形58654号機は、寿命を縮める阿蘇の急勾配を避けて古巣でもある肥薩線を新たな舞台とし、熊本~人吉間で運行する予定であるという。さらにこれまでの西部劇調の装いからレトロな和風列車を新たなコンセプトとすることも発表されている。「あそBOY」専用のアメリカ風客車もJR九州専属デザイナー水戸岡鋭治氏の手で、氏お得意のジャポニズムデザインに生まれ変わることだろう。こちらも楽しみだ。

再来年の夏が待ち遠しい。新生ハチロクに早く会いたいよ!


「はやぶさ」も早く帰っておいで~!

2006-2007東欧バルカン旅行記その5(最終回) 遥かなり東欧、オリエント 

2007-01-24 | 旅行
(写真)夜のイスタンブール旧市街


2007年1月5日

夜明け前に、大音量のコーランの唱和に叩き起こされた。
僕の泊まっている部屋の目の前にある青のモスク、昨夜閉じ込められたそのドームの周りを取り囲む6本もあるミナレット(尖塔)にはスピーカーが設えられているらしく、朝の祈りの時間の到来を盛大に市内のムスリム達に知らせている。
「イスラームってとにかく何事もでっかくしないと気が済まない宗教なのかなぁ。。。それにしても、ミナレットってロケットみたいな形してるな、テレメトリセンターのドームを囲むロケット発射場みたいだ。。。」などとベッドに寝転んだままボンヤリ考えていたが、今日もイスタンブール市内をあちこち見て歩きたい、さあ起きるぞ。起きてメシを食うぞ。

僕の泊まっているホテルは屋上にあるテラス席のレストランでの朝食が「売り」らしい。そのテラス席というのは実は僕の部屋の天井の真上なのだが、ガイドブックを見ると「スルタンアフメト地区で一番眺めがよく人気のレストラン」と書いてあるので楽しみだ。

階段を登ってレストランに行くと、まあさっきまで居た部屋の数メートル上に垂直移動しただけなので見える風景は同じなのだが、テラスなので壁に遮られずに周囲を全周ぐるっと見渡せる。並び建つアヤ・ソフィアと青のモスクを同時に眺められるのはまた格別だ。でも朝食のメニューは大したことがない。それでもヨーグルトがうまかったからまあ良しとする(何だかどこに泊まっても同じこと言ってるな)。
ちなみに、トルコ人は1日に平均2リットルものヨーグルトを消費すると聞いたことがあるが、真意の程は明らかではない。


今日はトプカプ宮殿を見に行く。
15世紀以来、歴代のオスマン帝国のサルタン達の宮殿として帝国の中心だった宮殿だ。
大帝国の王宮だった割には小ぢんまりとした建物が並ぶが、それでも広大な敷地に無数の建物が並ぶのでじっくり見て回るとクタクタになる。それに、一つ一つの建物は大きくはないが珠玉の装飾が施されていたり、第一級の展示で埋め尽くされたりしているので、異様なまでに高密度な空間なのだ。

トプカプ宮殿で最も有名なのはハレム(後宮)であろう。ハレムの区画だけは別料金を取られたりグループで並ばせられたりするが、それでもこの宮殿の最深部を見に来る観光客は後を絶たない。
案内人の後ろについて見て回るハレムは「栄華を極めるサルタンの楽園」と言うよりは「美しいだけで窮屈な牢獄」という感じだった。
ここは実際に「鳥籠」と揶揄されていたらしい。
大帝国に君臨する帝王さえも避けて通れなかった「家庭問題」、煌びやかさの裏で繰り広げられる女同士の壮絶な権力争い、そしてすべてを宦官達によって見張られる息詰まる生活…
「想像しただけで恐ろしくなるな、こんな鳥籠で暮らすなんて…」
そんなハレムも、皇子たちの暮らした部屋には彼らの所属したスポーツチームのマークが描かれていたり、水遊びに興じた中庭があったりして楽しそうだった。


トプカプ宮殿は金角湾に面して突き出すような地形の上にあり、テラスから海を見ると眼下を線路が通っている。昨日の朝、ブカレストからの国際夜行列車に乗って通過した区間だ。
ちょうど、イスタンブール近郊行きの郊外電車が通過していく。100年前にはここをヨーロッパの王侯貴族や富豪を乗せたパリからのオリエントエクスプレスも通過したのだろう。彼らはトプカプ宮殿によって線路が大きく海側へ押し出されたこの区間を通る時、ヨーロッパとアジアを隔てるこの海を見て、自分達がとうとうオリエント(東洋)への入り口に到達したことを否応無しに実感したに違いない。
そして僕はこの海の彼方のさらに東の果ての日出る国からここへ来て、今自分の来た道程を振り返っている。
オリエントエクスプレスの乗客たちとは逆に、東洋の果てから来た旅人も今、何故か同じ感慨を抱いてこの海を見つめている。

「とうとう、ここまで来たなぁ…」

この空の向こう、遥かな平原を越え砂漠と山脈を越え海を渡った向こうには、僕の生まれた美しい島々がある。そしてここから先には、延々とアジアが横たわる。
ここはオリエントの入り口なのだ。

思う存分感慨に耽ったら、腹が減ってきた。
旅の最後にちょっと贅沢しようと思い、トプカプ宮殿内のカフェレストランに入り海を見ながらの食事と洒落込もうと思ったら、ここの料理が先程の感慨を吹き飛ばすような凄い不味さだった。
「こ、これは…!確か僕はパスタを頼んだ筈なのに、この『水道水の味のする団子状のもの』は一体何なんだ!?」
トプカプ宮殿で海を見てナルシストになった人は、海の見えるカフェに御用心。
以後絶対、金角湾を見ても激しく不味い料理しか印象に残らなくなりますぜw


口直しに宝物殿の「スプーン屋のダイヤ」や「エメラルドの宝剣」を見て余りのキンキラキンさに胸焼けしそうになり、もうこれで充分と思いトプカプ宮殿を後にする。
イスタンブール市内観光の締めくくりにと立ち寄ったのがここ地下宮殿。
宮殿と言っても実際は東ローマ時代につくられた貯水池の跡。発見されるまでは大都市イスタンブールのど真ん中にこんな地下空間があるなんて誰も知らなかったとされるが、実際は地下に水たまりがあることはみんな知ってたみたいで、穴を開けて水を汲み出したり魚を釣ったりしていたそうな。

この地下宮殿の名物がこの「メデューサ」。
地下宮殿を支える大理石柱の土台に巨大な女性の顔の彫刻が刻まれた石が使われているもので、貯水池の底に沈殿した土砂を取り除いたところ発見されたらしい。
「こんなものが地下から出てきたら、見つけた人は怖かっただろうなー!」
古代の女性像が何故ここで貯水池の土台にされたのか、詳しい経緯は分からないが、よく見るとメデューサという恐ろしい名前には似合わず穏やかな顔をした美人のようにも見える。古代には地上の神殿で陽射しを浴びていたのかも知れないのに、何の因果かここで顔を逆さに地下に埋め込まれた挙句化け物扱いされ、気の毒な気もする。

地下宮殿から地上に上がると、既に陽が暮れていた。
何となくガラタ橋の方に歩いていくと、桟橋沿いの屋台から馴染みのある香ばしい匂いがしてくる。屋台を覗き込むと、魚を鉄板で焼いていたオヤジから「サバサンド!」と声を掛けられる。
「これがガラタ橋名物のサバサンドか!」
サバを焼いてパンに挟んだサンドイッチなのだが、日本では「ご飯によく合うおかず」であるサバをサンドイッチにしてしまうというカルチャーショックなミスマッチさが受けて日本人旅行者に大人気のサバサンド。早速オヤジに鉄板の上でジュウジュウいっている焼きたてのサバをパンに挟んでもらい、熱々のところをかぶりつく。
「うまい!…でも、炊きたてご飯が欲しい!あ~やっぱり僕は日本人だな~」
でも、実際うまいんだ、このサバサンド。日本に帰ったら塩のきいていないサバとフランスパンを買ってきて再現してみよう。


サバサンドの後に甘いものが食べたくなり、スィルケジ駅前の喫茶店に入ってトルコ風デザートを試してみる。メニューを見てみて、一番訳が分からなかったのがこれ。何と「鶏肉入りプリン」!
正式には何という名前なのか知らないが、プリンのような杏仁豆腐のような柔らかくて甘いものに確かにササミのかけらみたいなものが入っている。
「これは…日本に帰っても再現のしようがない!」

さあ、いよいよ旅も終りだ。明日は日本へ帰る。
破壊と再建の街ベオグラードに天才発明家の夢を追い、吸血鬼の街で新しい年を迎え、トランシルヴァニアの素朴な村の生活に触れその行く末を想い、西洋と東洋の交錯する街で終わった今回の旅。
「さて…次はどこへ行こうかね?」
でも、実は僕の気持ちはもう決まっていた。ここはオリエントの入り口だ。入り口まで来たら、入りたくなるのが人情というもの。
「次は…この街が出発地になるな。イスタンブールのアジア側のターミナル駅ハイダルパシャ駅からアンカラエクスプレスに乗って、アナトリアへ行こう…!オリエントへ行こう!」
次の旅がいつになるかはまだ分からない。でも、いつかこの街から行くぞ、海峡の向こうへ!

(旅行記完)

2006-2007東欧バルカン旅行記その4 イスタンブール

2007-01-23 | 旅行
(写真)イスタンブール 旧市街エミノニュ桟橋から新市街ガラタ塔を望む


2007年1月3日

夜明け前のルーマニア、シギショアラ駅から乗り込んだブカレスト行き夜行列車は混んでいた。
通路に立っている乗客をかき分け(全席指定のはずなのに何で立ってる客がいるんだ?立席券でも売られているのか、或いは無札か?)、指定された2等座席車のコンパートメントに行ってみると、僕の席には男が座って「当然です」って顔している。訳が分からない。
そこに車掌が現れ、僕から指定席券とバルカンフレキシーパスを取り上げると裏に何かを書き付けて、それから僕の席を占拠している男をつまみ出してくれた。
車掌に「どうも」と言うとニヤッと笑いどこかに行ってしまった。

どうにか席にありつくも、コンパートメントは満席で、全員しかめっ面をして一生懸命寝ようとしている。何か…落ち着かない。こういう殺伐とした夜汽車は久しぶりだ。「青春18きっぷシーズンの満席のムーンライト九州の車内みたいな雰囲気だな。」
僕も寝ようと思ったが、なんか眠れない。悶々としてるうちに夜が明けてきた。昨夜、シギショアラで降り始めた雪は本降りになったようだ。暖冬で雪がまったくなかったルーマニアの大地も、ようやく雪に覆われようとしているのか。
そのうち、列車はどこかの駅に停車したまま動かなくなってしまった。「ヤバイ…大雪で不通にでもなったか…?」
今日はこの列車でルーマニアの首都ブカレストまで行き、そこで約3時間の乗り継ぎ時間を取った後でイスタンブール行きの国際列車「BOSPHOR EXPRESS」に乗ることになっている。もし今乗っているブカレスト行きが大幅に遅れてBOSPHOR EXPRESSに乗り遅れたら計画が大きく狂う。
「頼む…どうにか3時間以内の遅れでブカレスト北駅に着いてくれ…!」

幸い、列車は1時間半ほどで再び走り始め、そのまま雪の峠道を越えてどうにか2時間足らずの遅れでブカレスト北駅に滑り込んだ。
何とかBOSPHOR EXPRESSに間に合ったのはいいが、待ち時間の間に独裁者チャウシェスクの夢が跡「国民の館(ふざけた名前だ。実際は困窮した国民生活とは無縁の独裁者の私利私欲の居城だったというのに)」を見に行こうかと思っていたのだがおじゃんになってしまった。
それでも小一時間ほど時間があるが、ブカレスト北駅周辺はルーマニア国内でも一番治安の悪い超危険地帯なので、危なっかしくて駅の周りをブラブラ散歩するわけにもいかない。結局、駅構内のスーパーマーケットで夜汽車の旅に備えて必需品の水と食料を確保したりして過ごす(しかし、スーパーでも手荷物検査があったのには驚いた。この都市は一体何なんだ?昨日までの長閑そのものの田舎暮らしとの格差がありすぎる。)。


そうこうしているうちにBOSPHOR EXPRESSの発車時刻が近づいてきた。
乗り場に行ってみると、トルコ国鉄のクシェット(簡易寝台車)とルーマニア国鉄の個室寝台車を1両ずつ繋いだ短い編成がちょこんと停まっていた。
「これが、イスタンブール行きの国際寝台列車?」
栄光のオリエントエクスプレスの末裔であるはずのバルカン半島イスタンブール行き寝台列車なのに、BOSPHOR EXPRESSはたったの2両編成なのである。もちろん食堂車なんかない!


それでもルーマニア国鉄の個室寝台車は部屋もまあまあ広くて快適だ。
寝台にピシッと張られた清潔なシーツが嬉しい。
日本のJRのブルートレイン「はやぶさ」「富士」に連結されているA寝台1人用個室寝台「シングルDX」とほぼ同じ構造だが、ベッド幅が1メートル近くあってゆったりしているし上段ベッドも2つあって最大3人まで使えるようになっている。
部屋を覗いて写真を撮ったりしていると、初老の車掌が切符をチェックしに来た。バルカンフレキシーパスと寝台券を見せると預かって持っていってしまう。ヨーロッパの国際寝台列車では大抵、車掌が切符と一緒にパスポートを預かって深夜の国境通過時に通関手続きを代行してくれるので乗客は何も気にせず朝まで寝られるのだが、このBOSPHOR EXPRESSの車掌氏はパスポートを預かろうとしない。
「これは…まさか夜中に自分で通関手続きしないといけないって事?やったあ!!」
実は一度、夜中の国境駅のパスポートコントロールに並んで係員にあれこれ詰問されての国境越えっていうのをやってみたかったんだよね。


ブカレスト北駅を定刻よりやや遅れて発車した499列車BOSPHOR EXPRESSは、氷雨の降る憂鬱な空の下をトルコ目指してひた走る。
ルーマニアに入ってからずっと晴れたかと思えばすぐに雲って鉛色に閉ざされる空の下にいたが、明日は明るいアジアの入り口イスタンブールだ。鉛の空も嫌いじゃないが、やっぱり晴れた空が恋しくなる。
列車は湿りのせいで底冷えのする中を、停まったかと思うとまた動き出すという調子で走って行く。やがてどこかの駅で機関車が切り離され、どこからともなく現れた客車が先頭に連結された。乗り移って見てみるとハンガリー国鉄の寝台車だ。ブダペストとイスタンブールの間を2晩掛かりで走破する愛称なしの国際寝台列車らしい。


ブダペストから来た列車と併結したBOSPHOR EXPRESSは相変わらず憂鬱な空の下をひた走って行く。
日暮れも近づいた頃に停車した駅は、どうやらルーマニア最後の駅ギュルギュウだったらしい。車内で通関係員のパスポートチェックを受けるが、ここでも天下御免の菊の御紋章の入った日本国旅券を見せるとスタンプだけ押されてあっけなく手続き完了。
パスポートに押された出国印を確認すると、「あっ、入国印と書式が変わってる!」
そうなのだ。ルーマニアは1月1日付けでEU加盟国となったので、パスポートに押されるスタンプも早速EU諸国のそれと共通のデザインに変更されていたのである。結果として、僕のパスポートにはEU以前の独自デザインのルーマニア入国印とEU共通のルーマニア出国印が同じページに同居することになった。

ギュルギュウを発車すると列車はドナウ河を渡る。ドナウ河がルーマニアとブルガリアの国境となる。
4日前にセルビア共和国のベオグラードのカレメグダン公園から見たドナウと久しぶりの再会だ。
国境を越えた列車はブルガリア最初の駅に到着する。ここでも車内でパスポートチェックを受けて問題なく通関完了。ルーマニアと同時にEU入りを果たしたブルガリアの入国印はやはりEU共通のデザインだが、外周のラインが二重線になっていている。悲願のEU加盟なので気合を入れて凝ったスタンプを作ったのかな?
国境駅のプラットホームを何となく眺めていると、少年に声をかけられた。
「旦那、腹減ってないか?ピザやホットドッグあるけど食わないか?」
というような事を英語で叫んでいる。ブカレスト北駅の売店で買った食糧があるから何も頼まなかったが、ふと日本の駅の立ち食いそばや駅弁が恋しくなった。

さあ、ここからブルガリアの旅が始まるのだが、何しろ日は暮れてくるし街灯りひとつないところを走って行くし、手持ち無沙汰だ。食事を済ませて歯を磨いてしまえば、起きていてもやることはないし(実はこの寝台車のトイレの奥にはシャワーの設備もあって、物珍しいので寝る前に一風呂浴びてみようかとも思ったのだが、トイレの中が床下から外気吹きさらしで寒過ぎたのと何となく不衛生な感じがするのでやめておいた)、明日の未明にはトルコへの入国通関で叩き起こされるだろうからさっさと寝てしまうことにする。
「乗っているとやることがないっていうのは、日本のブルトレと同じだな。」
寝台車のベッドは弾力があって寝心地がよかった。

夜明け前、ドアを強くノックされて目を覚ます。
「…トルコへの入国か」
ドアを開けると警備兵が立っていて、「今すぐ降りてあそこでパスポートチェックを受けるように」と命令口調で言う。
来た来た来たーーー!!!念願の叩き起こし強制並ばせパスポートチェックだ!
すぐに上着を着込んで、寝台車を降りる。ここはトルコの入国駅らしく、赤い三日月と星のマークの駅名板が掲げられている。

夜明け前に叩き起こされた他の乗客たちと一緒に、パスポートコントロールの窓口に並ぶ。
「この緊張感!威圧的な雰囲気!これだよこれだよ!昔の映画に出てくるような、この入国審査を一度体験してみたかったんだ!」と一人で喜んでニヤニヤしている日本人乗客の姿は出入国審査官の眼にはさぞかし不審に見えたと思うのだが、ここでも無敵の日本国旅券の威光は健在で他の国の旅客があれこれ詰問されたり所持品のチェックを受けている中でポンとスタンプを押されただけで放免されてしまった。
「せっかくだから、もっとあれこれ取調べて欲しかったな」
とか思いつつ未明の駅のプラットホームを歩く。我がBOSPHOR EXPRESSはブダペストから来た寝台車を繋いで4両編成になっている。トーマスクック国際時刻表を見ると、ここに来る途中でさらにベオグラードから来たBALKAN EXPRESSも併結しているはずなのだが、ということはブダペスト発寝台列車とBALKAN EXPRESSはそれぞれ1両だけの列車(客車の単行列車!?)なんだろうか。
向かい側のホームには、同じ編成の列車が停車している。多分イスタンブール発のブカレスト・ブダペスト・ベオグラード行き列車だろう。深夜の駅で上りと下りの列車が並ぶ光景は、学生時代に青春18きっぷを使って散々乗車した「ムーンライト高知・松山・山陽」号の岡山駅での並びを彷彿とさせて感慨深いものがある(そういえばムーンライトも3方向行きの列車を1本に束ねた列車だったな)。
ホームで列車を眺めたり、小さな免税店を覗いてみたり、駅猫とあそんだりしていると「あんた、パスポートチェックは済んだか!?」と係員が回ってきて、空も白み始める頃に発車。


2007年1月4日

アジアが近づいてきた!
そう実感したのは、澄み切った朝の青空を見た時だった。昨日までの憂鬱な鉛色の空と氷雨は消え去り、爽やかな朝日が差し始めた。
我がBOSPHOR EXPRESSはその名の示す通りヨーロッパとアジアを隔てるボスポラス海峡のある街イスタンブールを目指してバルカン半島の先端をひた走る。既に辺りの風景にはどことなくアジアの匂いが感じられるような気がする。


最終区間に入った列車は、この旅に出て初めて見る海、マルマラ海に沿って走り、定刻より1時間程度遅れて終着駅イスタンブール・スィルケジ駅に到着した。
シィルケジ駅はボスポラス海峡でアジア側とヨーロッパ側とに分けられたイスタンブール市のアジア側旧市街に位置する終着駅である。
この駅は1889年に国際寝台車会社(ワゴンリ社)によってオリエントエクスプレスが運行を開始したのに合わせて開業した。
現在、オリエントエクスプレスの名を冠した列車はこの駅に発着する事はなくなったが、駅構内には今でもワゴンリ社がオリエントエクスプレスの乗客のためにつくった同名のレストランが営業を続けている。

さあ、イスタンブールだ。アジアの入り口だ。東ヨーロッパを横断して、とうとうここまで来たぞ!
まずは、予約しておいたホテルに行こう。まだ午前中だからチェックインは出来ないかも知れないが、荷物だけでも預けて、それからアヤ・ソフィアを見に行こう。駅前からトラムバイ(超低床路面電車)に乗って旧市街のスルタンアフメト地区のホテルへ向かう。この辺りはアヤ・ソフィアと青のモスク(スルタンアフメトジャーミィ)が並び立つ観光地帯で、イスタンブール歴史地域として世界遺産に登録されている。

青空に映えるアヤ・ソフィアに見惚れながら歩いていると、若い男から妙に流暢な日本語で話しかけられた。
「こんにちは。ホテル探してるの?どこのホテル?私が案内してあげますよ!さあ一緒に行きましょう!」
…怪しい。何なんだこの怪しさ満点の男は?
無視して歩き去ろうとすると「私、悪人じゃないよ!何で無視するの?聞こえてますか!ちょっとアナタ!」としつこい!
「ノーサンキュー!全然大丈夫です。ありがとう、さようなら!」と言い捨ててやると「全然大丈夫って日本語間違ってるよ!アナタ本当に日本人?日本人みんないい人のはずだよ」これには流石にムカついて、それから何を言われても完全にシカトしてたらやっと諦めてどこかに行ってしまった。やれやれ。

予約していたホテルを見つけて入り、プリントアウトしたバウチャーをフロントの女性に見せると、カウンターのパソコンをカタカタいじっていたが、困ったような顔をして「アナタの予約は入っていませんよ」
ハァ!?ちゃんとバウチャーもあるのに何言ってるの?
「アナタ、リコンファーム(予約再確認)しましたか?」
何ぃー!?再確認がいるのか!?
「アア、ナンテコッタイ。。。僕は再確認してないよ」
すると女性は「ちょっと待ってて…うん、大丈夫、OKですよ!今夜と明日は空き部屋があるから、安心して下さい」
やったーーー!!!
「ありがとう!ところで、今すぐチェックイン出来る?」
「もちろんいいですよ」
何とか確保できた部屋は最上階の角部屋で、窓からは金角湾と青のモスクが一望できる。
「随分眺めのいい部屋だな。」
部屋に荷物を置いて、さっそくアヤ・ソフィアに出かける。


東ローマ帝国によって東方正教会の大聖堂として建設され、その後オスマン帝国によってイスラム教モスクへと姿を変えたアヤ・ソフィア。
現在では宗教とは関係のない博物館となっているが、その内部はキリスト教とイスラム教の共存する不思議な空間だった。

アラビア文字でムハンマドの名を記したエンブレムの並ぶ上に目をやると、そこには聖母子のモザイク画がある。
かつてこの聖堂の内部を埋め尽くしていたキリスト教のモザイク画は、アヤ・ソフィアがモスクになると漆喰で塗り潰された。しかし、それによってモザイク画は外気から保護され、この聖堂が宗教から解き放たれた博物館となった現在、鮮やかに蘇る事になったのである。

アヤ・ソフィアの圧倒的空間を堪能してから、ガラタ橋を渡って新市街側に行ってみる。
ちょっと街を歩くと、あちらこちらから日本語で話しかけられる。
「こんにちは。私と一緒に観光しませんか?案内しますよ」
「お土産を買いませんか?私は悪い人じゃないから安心して!」
こんなのばっかりである。
ガラタ橋を歩いていると、「また会いましたね!元気ですか!」…今朝、ホテルの近くで会ったあの怪しい男だ。「またこいつか…」
ウンザリしながら歩いていると「あなた、何でそんなに機嫌が悪いの?ちょっと変よ」大きなお世話だ。
「でも、私あなたの気持ち理解できます。旅先では用心しないとね。」分かってるならつきまとわないでくれ。
「でもね、あんまり用心し過ぎるのもダメよ。相手を全く信用しないで、誰とも話もしないと、旅がつまらなくなるよ。」はいはいその通りですよ…でも、あんまり熱心に話しかけてくるので無視し続けているのもかわいそうになってきた。
「あなた、今朝から随分熱心に私に話しかけてきますね。」
「私、日本語教室の先生してますし、日本に何度も行ったことがあります。日本が大好きなんですよ。」
「そうですか。」
「あなたはずっと私を無視してたけど、あなたが用心深い人だって分かってるから私怒ってないから安心して。ちょっと日本人と話したかっただけね。それじゃ、私今から用事があるからこれでサヨナラね。あ、そうそう、これ私のやってるお店の名刺。きれいな絵を売ってます。よかったら見に来てね。」
オイオイ、日本語学校の先生だったんじゃないのかよ…しかし、得体は知れないが完全な悪人って訳じゃなさそうだな。もちろん完全にいい人でもないだろうが。


イスタンブール新市街の隠れた名物なのがこれ、テュネル(Tünel)。
世界で2番目に古い地下鉄の元祖で、全長わずか600メートル足らずのトンネルを行ったり来たりしている。
これを使うと新市街のきつい坂道を登らないで済むので、なかなか利用価値は高い。
陽もだいぶ傾いてきたので、今からガラタ塔に登って夕陽を見てみようか。

新市街のランドマーク、ガラタ塔は6世紀に灯台として建てられたもので、その後は要塞の監視塔や天文台や監獄などいろいろな用途に使われてきたらしいが、現在は展望台になっている。塔の最上階には展望テラスとレストランがあり、夜はベリーダンスのショーなどをやっていて団体ツアー御用達の観光コースになっているようだ。
とんがり帽子の屋根をかぶった塔の姿はどことなく童話の天文学者がとじこもって望遠鏡を覗いているようで幻想的なのだが、実際に登ってみると世俗的な観光地なのでがっかりする。
それでも、ここから見るイスタンブールの夕陽の美しさは格別だった。


夜行列車で到着するなりあちこち歩き回って、妙な客引きにもつきまとわれて、すっかりくたびれてホテルに帰って来た。
部屋に入ってまず目に飛び込んできたのが、ライトアップされた青のモスクの荘厳な姿だった。
「これは…!」
余りの美しさに、たまらず部屋を飛び出して青のモスクへと向かう。

青のモスクはその姿も美しかったが、内部は更に素晴らしかった。
その名の由来となったと伝えられる青く輝くタイルに彩られた高いドームには、高密度な祈りの空気、イスラームの宇宙を感じた。
やがてどこからともなくコーランを唱える声が聞こえ始め、ムスリム達が集まってきた。間もなく夜の祈りの時間らしい。異教徒は祈りの時間は遠慮しなければ、と外へ出ようとするも、既に扉は固く閉ざされ閂が掛けられている。
「閉じ込められた。。。こうなったら仕方がない」
やむなく、僕も敷き詰められたカーペットの一番後ろに正座して祈りに参加させてもらった。
「異教徒と言えども、僕は八百万の神を戴く日本人です。ムハンマドよ、ひとつ大目に見て下さい。」
ムスリムの祈りの声と共に、イスタンブールの夜はふけていくのであった。

(つづく)

2006-2007東欧バルカン旅行記その3 要塞教会

2007-01-21 | 旅行
(写真)トランシルヴァニア ヴィスクリー村の要塞教会


2007年1月2日
シギショアラ滞在2日目。

今朝はスッキリ目が覚めて、食欲もあるので早速朝食。
この街に来てから酒を浴びるように飲むは血もしたたる肉料理は食うはで、少々胃がくたびれてきていたので、朝食で新鮮な野菜や果物を食べたかったのだが、残念ながらトマトと缶詰フルーツとチーズが少々並んでいるだけだった。あ~あ。。。
でも、ヨーグルトがおいしいのでまあ良しとする。さすが、ヨーグルトの聖地(と思ってるのは日本人だけかも知れんが)ブルガリアの隣国だけの事はある。
ヨーグルトのお替りを取りにいくと、日本人らしい家族連れの旅行者と目が合った。バルカン半島に入ってから日本人と会うのはこれが最初だ。何となく会釈してから、テーブルに戻りヨーグルトを食べていると、日本人家族の奥さんらしき人がテーブルまでやってきて
「おはようございます。日本人の方でしょう?」と挨拶された。
「ええ、そうです…」
「シギショアラに滞在されているんですか?私たち、今朝4時に列車でこの街に着いたんですよ。今、家族でルーマニアを周っているんです。」
「それはそれは。見たところ小さなお子さんも連れておられるのに大変なハードスケジュールですねぇ」
「今日はどこか見に行かれる予定はあるんですか?」
「ええ、特に予定って程じゃないけど、そこの時計塔の中の博物館を見に行こうかなと。昨日は元旦休館で入れなかったもんで。」
「もしよかったら、私たちと一緒に行動しませんか?ちょうど今からタクシーを呼んで要塞教会を見に行くんですよ」
「いいんですか!?そりゃ有難い。是非ご一緒させて下さい!」

要塞教会とは、トランシルヴァニア地方独特の建築で、文字通り軍事要塞化した教会のことである。東方のオスマン帝国やタタール人との血みどろの抗争が続く中で村を守るべく発達したもので、村に敵軍が押し寄せると教会に立てこもって応戦したという。かつてはトランシルヴァニアだけで600近くの要塞教会があり、現在もその半数近くが残っていると言われるが、特に保存状態がよく美しい7つの教会が世界遺産に登録されている。
しかし、世界遺産に登録されたのはいいがそれらの大半は辺鄙な場所にあり、列車やバスではアクセスできずどうしてもタクシーを使うことになるが、悪名高いルーマニアのぼったくりタクシーを使うのが面倒なので見に行くのを諦めていたのだ。

見たところかなり旅慣れした様子のこの一家と一緒なら、タクシーの交渉もうまくいきそうだ。それにタクシー代も折半になるし。有難く同行させて頂く事にした。
ホテルに頼んで呼んでもらったアウディのミニバンタクシーに乗り込んでいると、ガラ・ディナーで一緒だったギリシャの船長さんに「おはよう!」と日本語で声をかけられる。何でも横浜、神戸、清水、広島に寄港したことがあり簡単な日本語なら解るとのこと。


みんなでタクシーに乗って、まずはシギショアラ近郊のビエルタン要塞教会へと向かう。

車中で簡単に自己紹介し合う。ご一家は滋賀県から来られたそうで、奥さんは元バックパッカーとのこと。道理で旅慣れてるわけだ。

ビエルタンまでは舗装された幹線道路で行けるのであっという間。長閑で小さな村だった。

村の中央に聳え立つ、要塞教会。
3重に城壁を巡らしたその姿はまさしく要塞、城である。闘う教会だ。
日本でも戦国時代に武装して織田信長と戦った寺院が北陸地方にあったなあ、延暦寺だっけ?とか考えながら要塞に登って行くと、あちこちから鶏や犬の声が聞こえてくる。平和だ。

教会内部は残念ながら閉鎖中(改修工事中だったのか、或いは冬季は誰も来ないから閉めてるのかは不明)だったが、堅固な要塞の頂点に本来そこにあるはずのない大聖堂が聳えている様子が不思議と違和感がなくて、美しかった。
ちょうど正午になり、人けのない要塞教会の鐘楼から突然響き始めた鐘の音を聞きながらビエルタンを後にする。


次に立ち寄った村も世界遺産の要塞教会の一つらしいのだが、何故か要塞がない。幹線道路沿いの集落の中に普通の教会の聖堂が建っているだけだ。
タクシーの運ちゃんが通りすがりの集落の住人に何かを聞くと、村人は村の向こうの丘を指差した。見ると丘の上に城跡らしきものが見える。
「あれか!」
さっそく、丘の上を目指してタクシーは走り始めるが、道はすぐに砂利道になり次にぬかるんだ泥道になり、タイヤがスリップして登れない。
「仕方がない。歩きましょうか。」
「そうですね。たまにはハイキングがてら丘に登るのも楽しそうです」しかし、この考えは甘かったのだ。。。


丘の下から見上げると、山上の要塞までつづれ折りの道が続いているのが見える。いや、確かに見えたのだ。
でも、タクシーを停めた場所から暫らく登ると道はどんどん細くなり、やがてなくなってしまった。
「あれ?丘の上まで続いてる道じゃなかったのかな?」
「でも、なだらかそうな斜面だからこのまま登れますよ。行きましょう」
そう、なだらかそうに見えたのだ。
しかし、登山やハイキングなど殆どしなくなってから既に十年以上、「己の体力の限界」と「山道を舐めてはいけないという事」をすっかり忘れていたのである。
「…なだらかな斜面も道がないと結構きついですね」
「………(息があがって無言)」
「ここって本当に世界遺産の教会なの~!?文化遺産じゃなくて世界自然遺産の間違いじゃないの?」
大人たちが苦しんでる中で一人、家族の女の子だけは元気だ。
「この前、小学校の遠足で登った琵琶湖の○○山より楽だよー!」とか無邪気に言いながらさっさと登っていく。
「うう…若さっていいなあ!うらやましい。。。」


息を切らしてどうにか辿り着いた丘の上には、世界遺産の要塞教会が…あれ?
「あの…これってどう見てもただの廃墟じゃないですか?」
「ここはきっとサスキズ村の要塞教会だと思うんですよ。政府観光局のサイトの案内を見ると『高さ7~9mの石造城壁に囲まれて、天守閣も付いています。村の中ではなく、村の近郊に建てられていることが、ほかの要塞との基本的な違いです。』とあるんですが。」
「う~ん、村の外にあるっていう点は一致しますね」
「でも『2000年に修復されました。』とも書いてありますよ」
「どうみても修復されてるようには見えませんね。完全な廃墟だし。」
「下の村に普通の教会があったでしょ?あれのことじゃないのかな」
「どうなのかなあ…??」


結局よくわからなかったが、せっかく苦労して登ってきたのだから廃墟の中を見て歩く。
本当に「朽ち果てた要塞」という感じで、詩心があれば思わず「つわものどもが夢のあと云々」と詠いたくなるような風情だ。
「ここが要塞教会なのか城砦なのかはよくわからないけど、とにかく遥か昔に多くの人があのきつい斜面を登って石を築き上げて砦を作り、ひょっとしたらここで血みどろの闘いを繰り広げたのかもしれないし或いは何事もなかったのかもしれないけれど、今ではすべての記憶が土に還ろうとしている。その事実だけで充分なのかもしれませんね。」


廃墟要塞を後に、一路次なる要塞教会を目指す。
「次に行くのはびっくり村です。」
「びっくり村?」
「本当はヴィスクリー村って言うんですけど、この前NHKの世界遺産の番組でここを取り上げてたんですよ。その時何度聞いても『びっくり村』と言ってるようにしか聞こえなかったもので、面白がってそう呼んでるんです」
びっくり村への道程は少々遠い。しかも途中から幹線道路を離れて舗装されていない道に入っていく。ガタガタのダート道を小一時間ばかり、どことなく阿蘇山の風景に似た原野をロバの引く荷車を追い越したりしながら進む。


ようやく到着したびっくり村ことヴィスクリー村は、小さくてカラフルな民家が肩を寄せ合うように建ち並ぶ可愛い村だった。
村の中は人口より鶏やアヒルの方が数が多そうで、人けがない。
タクシーの運ちゃんが村の観光案内所らしき建物の前にクルマを横付けして、ドアを叩くが応答がない。隣の民家が大音量でロック音楽を聴いているので聞こえないのかも知れないと思い、ドアをノックし続けると若い男女が「え?誰?何か用?」という顔でドアを開けた。


「こんにちは。日本から要塞教会を見に来たんです。」
と伝えると若い男女は顔を見合わせて何やら話し合った後、隣の家に向かって何か叫ぶと音楽がピタッと止んで窓から青年が顔を出した。そのまま何やら話し合っている。
運ちゃんの説明によると
「要塞教会は門に鍵が掛かっているから入れない。門を開けてやりたいんだけど、あいにく鍵は1本しかなくて、今現在誰が鍵を持ってるかよく分からないので今から村のみんなに聞いて来てやるからちょっと待ってろ。」
という状況らしい。
世界遺産の門の鍵を誰が持ってるかよく分からない、というのも何か凄い。

やがて、観光案内所の若い男性がお婆さんを連れて戻ってきた。お婆さんが鍵を持ってたらしい。
すると、同行している滋賀県のご一家の奥さんが「あ!この方、NHKの番組に出てこられた人ですよ!」とのこと。
そのことをお婆さんに伝えると「ああ、この前トーキョーのテレビが取材に来ましたからね」
ちなみにこの会話、僕の質問を滋賀県のご一家のお父さんが英語に翻訳してタクシーの運ちゃんに伝えて(お父さんは英語が堪能です)、それを運ちゃんがルーマニア語に翻訳してお婆さんに伝える、という2段階通訳を通している。慣れない言語間の会話はかなり大変だ。

お婆さんに門の鍵を開けてもらって、さっそく要塞の中に入る。
要塞とはいうものの、このヴィスクリー要塞教会はどことなく優雅で、可愛らしい感じがする。もちろん、教会の周囲はぐるりと分厚い城壁に囲まれているが、威圧感や重苦しさは余りない。

聖堂の前に、人名を刻んだ銘版が掲げられている。
お婆さん→運ちゃん→お父さんの2段階翻訳説明によると、「第1次世界大戦と第2次世界大戦で戦死したこの村の出身者の名を刻んでいる」とのこと。
「英霊顕彰碑か。護国神社みたいなものですね。」(後で調べたところ、第2次大戦後ソ連軍によってシベリアに抑留されて死んだ人の名も刻んでいることがわかった。ルーマニア人も日本人と同じ悲劇を経験しているんだなぁ…)


聖堂の中に入る。小さいけれど、可愛いくていい感じのする空間。巨大なゴシックの大聖堂にはない、人の祈りの温かさを感じる。
「ここにはパイプオルガンがあります。数年前に電気モーターを繋ぎましたけど、それまでは足踏み式でした。鍵盤を見てみますか?」
ええ~!?いいんですか?

聖堂の裏のオルガン室に上がると、オモチャのような小さな可愛い鍵盤。
「オルガンの演奏も聴きたかったなあ」



聖堂の裏手にある鐘楼に登ってみた。
ここは鐘突き堂であると同時に見張り塔だったに違いない。
床板の隙間から数十メートル下の地面が見える回廊から周囲を見ると、ヴィスクリー村の周囲に延々と荒涼としたトランシルヴァニアの大地が続いている。
「あの丘陵の向こうから、いつ突然オスマン帝国軍や韃靼人の軍勢が現れて戦闘が始まるか分からないで日々暮らしていた訳でしょう?…壮絶な日常ですよね。」

鐘楼から下りて、教会に併設した資料館を見せてもらう。
村の生活に関する資料が並ぶ小ぢんまりとした資料館だったが、お婆さんと観光案内所の人の説明で、この村をつくったドイツから開拓移民として移住してきた人たちは、今でもドイツの文化風習を大切に守りながら暮らしていること、それでも1989年のルーマニア革命以降は国外との行き来が自由になったために大部分のドイツ系住民は祖国ドイツに帰ってしまい、現在この村のドイツ系住民は激減していること、それによって空き家になったドイツ系住民の家を不法占拠して住み着くロマ人(ジプシー)が増えて困っていること、さらには残されたドイツ系住民も高齢化が進み教会に来られなくなり、現在この要塞教会は危機的状況を迎えつつあることが分かった。
村の人達の精神の拠り所して何百年も存在し続けたこの教会と村の文化が後世に受け継がれる事を願ってやまないが、そのために異邦人の旅行者に過ぎない僕達に出来ることは何だろう…?
でも僕はこの村と要塞教会にいつかまた来たい。また見たいのだ。その時までこの要塞教会と村が健在であるために僕に出来ることは一体何があるか…?考えなくてはならない。


これまで案内してくれたお婆さんが、自宅を見せてくれるというので喜んでお邪魔させて貰う。
びっくり村の大通り(幅10メートルくらいの未舗装の道路兼広場)に面したお婆さんの自宅は、通りに面した部分は小さいが奥行きが長い。まさにウナギの寝床状態だ。村が戦場になり略奪が始まった時に備え、通りから奥まったところに大切な家財道具を隠した名残りだという。
数十メートルも続く家の奥には逞しい鶏の一家が闊歩している。
「あのオンドリさん、人間より強そう。僕がケンカしたら絶対負けると思う。。。」
「でもお肉は硬くて美味しくなさそうだね」と小学生の女の子。うむむ、確かに。


お婆さんの家の中は、6畳ほどの一間だけ。1つの部屋を寝室にして食堂にしてリビングにして…という感じで生活しているらしい。
「日本の生活と似ていますね。」
部屋の隅に、さっき要塞教会の資料館で見た収納式ベッドと同じものが置いてある。夜になったらこれを引き出して一家で川の字になって寝るらしい。ますます日本と同じだ。
洋服ダンスの中には、色とりどりのルーマニアの民族衣装が収まっている。今でも何か行事があるとみんなこの服を着て教会に集うらしい。

戸棚の中にはイギリスのチャールズ皇太子のスナップ写真が飾ってある。
「チャールズ皇太子が数年前にこの村を訪問して、この部屋を見られたそうですよ。」
お婆さんが嬉しそうに洋服ダンスの奥からチャールズ皇太子が着たという民族衣装を取り出して見せてくれた。

お婆さんと観光案内所のお兄さんお姉さんにお礼を言って、ヴィスクリー村を後にする。
「何だか、夢の中の村みたいでしたね。あんな暮らしが今でも続いているなんて」
小さい頃に読み聴きした、おとぎ話の村。そんな村が、トランシルヴァニアには今でもあった。
しかし今、現実は容赦なくおとぎ話の村を飲み込もうとしている。ルーマニアには今でも300近い要塞教会が現存していると言われるが、その大部分は荒廃したり閉鎖したりしているらしい。高齢化や住民の流出、修復予算不足…
おとぎ話の村は間もなく本当におとぎ話の世界の彼方へと消え去ってしまうのだろうか?
我々に出来ることは、何かないのだろうか…?

シギショアラへと戻り、タクシーの代金を払う。
「え?そんなに安くていいの?」というような良心価格だった。ルーマニアのタクシーはぼったくりの雲助ドライバーばかりだと聞いていたのに、嬉しい誤算。今日一日頑張って案内してくれた運ちゃんにチップを渡して笑顔で別れる。
「ルーマニア人って…何だかいい人だね」
今日一日一緒に行動させてもらった一家と一緒に夕飯を食べる。
ガラ・ディナーの時は飲まなかった赤ワインをオーダーするが、飲みやすくて旨い!
食後、一家と別れた後でレストランの隣のウェイティング・バーで赤ワインを買って、一家の部屋を再訪する。
「こんばんは、今日は色々とお世話になりました。僕は明日の朝4時の列車でイスタンブールに向かいます。これはお礼です、是非飲んでください。それでは、さようなら!」

夜明け前にホテルをチェックアウトした。
カウンターのホテルマンが「さようなら。またシギショアラに来て下さいね!Come back Sighisoara!」と見送ってくれた。
「うん、また来たいよ。シギショアラにも、びっくり村にもね!それに…時計塔の博物館のヘルマン・オーベルト先生のロケットの展示もまだ見てないし。また来るよ、この街へ!」
雪の降り積もり始めた街を後に、首都ブカレスト行きの夜行列車に乗り込む。さようならトランシルヴァニア。おとぎ話の村とバンパネラの故郷。また来るよ!

(つづく)

2006-2007東欧バルカン旅行記その2 トランシルヴァニア

2007-01-19 | 旅行
(写真)トランシルヴァニア 要塞教会跡の丘から見るサスキズ村


2006年12月31日
ティミショアラはトランシルヴァニア地方の工業と文化の中心都市で、1989年にルーマニア革命の発端となる市民蜂起の勃発した地としても知られる。

昨夜はネットで予約した「ティミショアラ北駅から至近」というホテルがなかなか見つからず往生したが、街角で新聞スタンドの店仕舞いをしていたオヤジさんに道を聞くと
「兄ちゃん、もう大丈夫だ!安心しろ!そのホテルの事なら俺はよく知っている!いいか?この大通りを真っ直ぐ500メートル進め!教会が見えてきたら、右にターンだ!その先に、そのホテルは見えている!(多分そういう事を言ってたんだと思う)」と身振り手振りで教えてくれた上に「もう大丈夫だ!安心しろ」と握手までしてくれた。流石、東欧唯一のラテン系民族であるルーマニア人、旅人に優しいしノリがいい。
しかしホテルに着いた時には、セルビアとの+1時間の時差もあって既に午後11時半を回っていた。

今朝は朝8時には再びティミショアラ北駅へ。普通列車で出発する。


さあ、トランシルヴァニアだ。
バルカンの森の彼方の国トランシルヴァニア。吸血鬼伝説に彩られた大地。
高校生の頃、地理の教師が授業中の雑談で
「皆さんはドラキュラの話をご存知でしょうか?吸血鬼ドラキュラの故郷とされるのがルーマニアのトランシルバニア地方です。私は以前、国際研修でトランシルバニアへ行ったことがあるのですが、列車で移動中に見える風景はとても荒涼としていて、寂しくて、思わず後ろから吸血鬼に襲いかかられるような気がして怖くなりました。トランシルバニアの田舎はそんなところです。」
と話してくれたのを憶えている。
その話を聞いて以来、僕はトランシルヴァニアに行ってみたくて仕方がなかったのだ。
ちょうどその頃、親しかった現代国語の若い先生に薦められて吸血鬼伝説をモチーフにした萩尾望都の名作漫画「ポーの一族」を読んでいたこともあり、日本から遥か彼方の森の向こうにある荒涼とした大地、バンパネラの息衝く地に想いを馳せていたのだ。
いよいよ拾五年越しの夢が叶い、今からそのトランシルヴァニアに足を踏み入れるのである。


ティミショアラを発車して暫らくは、草原の中を列車は走って行く。
今は雪に覆われているが、夏には一面の緑の中を風が吹き抜けて気持ちが良さそうだ。
やがて、車窓が次第に山がちになってくると、いよいよ憧れの森の彼方の荒涼とした景色が広がる。
「ああ、ここがトランシルヴァニアだ。バンパネラの村だ。僕はこの景色を15年間も想い描いていたんだ…先生、僕はとうとうここまで来たよ」などと多少ヤバイ感傷に浸っていると、あることに気が付いた。
「何か…この風景、どことなく日本的だな」
そうなのだ。雪のトランシルヴァニアの山村の車窓は何故かとっても「詫び寂び」を感じて日本的なんである。家々が線路の近くまで建てこんでいるせいかもしれないが、中国地方のJR芸備線辺りを走っている感じに近い気がする。
そういえば、何となく風景が水墨画のように見えてくる気が。。。



ティミショアラから約3時間半、Devaという駅で乗り換えの為に下車。いかにも旧共産圏らしい威圧的だけど中はがらんとした駅舎。
駅前には社会主義時代を感じさせる無機質なアパート群と、真新しいショッピングセンターとマクドナルドが並び建つ。街外れの山の上には古城らしきものが見える。
列車の遅れを見越してここで3時間近く乗り継ぎ時間を取っていたが、ルーマニア国鉄のダイヤは予想以上に正確でほぼ定刻の到着。おかげで時間を持て余す。ショッピングセンターに入ってみたり(野菜と果物が盛り沢山!熊本名産の『デコポン』そっくりのオレンジを買った)、マックで世界中どこに行っても全く同じ味がするハンバーガーを食べたりして時間を潰す。



Devaからはルーマニア国鉄の最上級種別列車IC(インターシティ)526列車に乗車。今まで乗ってきた、日本のJR12系客車を草臥れさせたような色褪せた水色の客車とは比べ物にならない、白と深紅に塗り分けた颯爽とした列車が現れた(デッキの銘板を見るとフランス製だ)。さらに嬉しい事に、編成には車体にBord Restrantと書かれた車両が組み込まれている。食堂車だ!
早速、荷物を自分の席のあるコンパートメントに置いて、自転車用の盗難防止チェーンで座席の足に括り付けてから食堂車へと向かう。

欧州を汽車旅していて楽しみなのが食堂車での食事だ。
日本では既に北海道行きリゾート寝台特急にしか残っていない食堂車だが、ヨーロッパ各国では今でも食堂車が現役で、多数の列車に連結されて利用者に喜ばれている。
連結される列車によって食堂車のメニューに個性が出るのも魅力で、列車で移動しながら風景を楽しみつつ各地の郷土料理を味わう事ができるのだ。
さて、ルーマニア国鉄の誇るインターシティの食堂車はどんな料理を食べさせてくれるのか。。。と、期待しながら食堂車のドアを開けると…
「あれ?車内に厨房がない?まさか…」
残念ながら飲み物とスナックメニューしか出さないようだ。嗚呼、なんてこったい。。。
気を取り直して、カウンターで地元の銘柄とおぼしきビールをオーダー。それだけだと寂しいのでコーヒーも頼む。
「こうなりゃヤケ飲みしてやるw」
蝶ネクタイのウェイター氏が、仰々しくテーブルまで缶ビールを持ってきて栓を開け、グラスに注いでくれた。雰囲気だけは往時の食堂車そのものなので、まあ良しとしよう。しかし、あのウェイター氏、気のせいか酒臭いような?ちょっと千鳥足だし。


ビールとコーヒーで食堂車を「堪能」しているうちに、IC526列車は快調にトランシルヴァニアを突っ走り、日が暮れる頃に今日の目的地シギショアラに到着した。ほぼ定時で到着。積雪のある山地を走ったのにたいしたものだ。革命の頃までは「時間通りに走るとニュースになった」と言われていたというのが信じられない。

シギショアラは「トランシルヴァニアの宝石」と称えられる、ドイツからの入植者によって築かれた美しい街。
中世の面影が色濃く、というか殆どそのまま残っており、街の中心部の旧市街がそのまま丸ごと世界遺産となっている。
今夜から、この街に3日間滞在する。

ライトアップされた美しい塔が見える丘を目指して、階段道を延々と登り、息を切らしながらホテルにチェックイン。指定された部屋は最上階だったので、荷物を持ってくれたポーター氏と一緒にまた息を切らしながら階段を登る(世界遺産の建物には当然エレベーターなんかない!)。部屋に着いたらポーター氏共々完全に息が上がってしまい、思わず一緒になって笑ってしまった。

さて、今夜は大晦日。しかも嬉しい事に、シギショアラのホテルをネットで予約する際に手配会社から「ダブルブッキングになってしまった。済まないがホテルを替わって欲しい。」と連絡があり、代償にと年越しパーティの「ガラ・ディナー」に招待されているのだ。早速、小奇麗な格好に着替えてガラ・ディナー会場のレストランへと向かう。

ガラ・ディナーではボリュームたっぷりのご馳走を食べながら、飲めや踊れの大騒ぎ。ルーマニア人はラテン系らしく踊るのが大好き!みんな散々飲み食いしながら踊っている。しかもいつまでたっても大騒ぎが終わらない。
僕は隣席のギリシャ人の老夫婦(旦那さんは船長だったそうだ)と話しながら飲み食いしていたのだが、夜中近くなっても一向に終わる気配のない大騒ぎにとうとう船長さんがギブアップしてしまい「私はもう眠くて仕方がないから、部屋に帰って寝るよ」
僕もいい加減疲れ果てたので部屋に戻りたかったが、料理がまだ3品も出てくる予定らしいので頑張る事にする。ルーマニア料理のデザート「パパナシ」はうまいらしいから、何とか最後まで居残るぞ。でも既にワインをボトル1本空けてるしなあ…しかもウェイターが「トランシルヴァニアのワインです。おいしいでしょう?」とか言いながら、わんこそばみたいにドンドン追加で注いでくれるし。。。

とうとう日付が変わる時間になった。
ウェイターが各テーブルにシャンパンのボトルを配り、ガラ・ディナーの参加者はみんなボトルとグラスを持って外に出て行く。
僕も一緒に外に出て行くと、いきなり街の広場に花火が打ち上げられ始めた。
あちこちでシャンパンの栓を飛ばして酌み交わしたり、中にはシャンパンをかけ合って大はしゃぎしている連中までいる。

花火とシャンパンと狂喜乱舞の中、新しい年が始まった。
そしてこの時、ルーマニアは正式に欧州連合EUの一員となり新たな一歩を踏み出した。
しかし僕はこの時、旅の疲れとワインの酔いと喧騒のせいで朦朧となってしまい、そんなことを考える余裕はなかった。結局、パパナシは諦めて部屋に戻り、そのままベッドにぶっ倒れてしまったのである。



2007年1月1日
シギショアラの初日の出。

ホテルの最上階の部屋は、旧市街の中央広場に面していてシギショアラのシンボルである「時計塔」がよく見える。この時計塔、14世紀に街が商工ギルドの自治都市となったことを記念して建てられ、その後火災で焼け落ちてしまい17世紀に建て直されたものだそうだ。
窓から時計塔が見えるので、この部屋には時計なかった。時計塔が部屋の置時計代わりなのだ。

…頭が重い、二日酔いだろうか。。。って、そりゃあハードな旅で疲れてるのにワインをボトル1本飲めば潰れるわな、と新年早々反省の朝なのであった。それにしても、昨夜のガラ・ディナーは一体何時まで続いたんだろう?ルーマニア人って、タフ過ぎ。。。

二日酔いのせいで食欲がないので朝食は食べず、何となく部屋でダラダラして過ごす。
窓から旧市街を見下ろすと、日が高くなっても人けが全然なくてガラーンとしている。みんな、昨夜頑張りすぎて死んだように眠っているのに違いない。
それでも、美しい街並みを見ていると出掛けたくなってきた。
熱いシャワーを浴びて身体に喝を入れて、さあ世界遺産の街を見に行こう。


シギショアラの旧市街は、丘の上に広場を中心にして小さくまとまっているので30分も歩けば一回り出来る。そんな小さな街なのだが、その雰囲気は本物の中世のものである。重厚な城塁とたくさんの塔に囲まれた街並みは独特の威圧感があり、どことなく神秘的な雰囲気が漂っている。
そんなシギショアラ旧市街の時計塔の脇でひっそりと客を待つレストラン、そこは実はドラキュラのモデルである串刺し公ヴラド・ツェペシュことワラキア公ヴラド3世の実家(生家)だったりする。


ちょうど小腹がすいてきた(朝食を食べてないもんね)ので、せっかくだからドラキュラの実家で遅い昼ご飯をいただく事にする。
このドラキュラレストラン、完全な観光客向けの店なので味は期待していなかったのだが、前菜のとうもろこし粥の乗った煮込み肉は結構うまかった。でも前菜だけで腹一杯になるくらいボリュームがあるぞ。本当、ルーマニア人はよく食べる人たちだなあ。。。

腹も一杯になったので、時計塔の下の門をくぐって新市街の方に行ってみる。
新市街はどこにでもありそうな普通のヨーロッパの田舎町という雰囲気。旧市街に戻ろうとすると、何だか背後から妙な視線を感じるんだが…誰だ?
振り返ると「…屋根に見られていた」
この「屋根の目」、魔よけのような意味があるらしいのだが…人間の目にそっくりすぎて怖いぞ!夜になったらまばたきとかしてそうだし。何で町の中にこんな怖いものつくるんだ?


旧市街に戻って、ホテルのある通りの突き当たりに不思議な屋根のある階段がある。
この階段は街の一番高い位置にある「山上教会」に通じているらしい。

かなり急な階段を苦労して登ると、日が落ちて真っ暗な山の上に出た。
確かに教会らしい建物があるが、人けがなくてひっそりとしている。
しとしとと小雨まで降り始めた。
「これは、本当に吸血鬼でも出てきそうな雰囲気だなぁ。そういえば確か、この街にハーメルンの笛吹き男が現れたという記録もあるんだよなぁ…」
この時やっと僕も感じることが出来た「背後から吸血鬼に襲いかかられそうな恐怖」。
地理の先生もこんな気持ちだったのかな?

シギショアラはドイツ名でシェースブルグ。東方の地に入植したドイツ人移民は、迫り来る異民族の襲撃の恐怖から逃れる為に町の周囲を幾重にも城塁で囲み、以来500年以上に渡って自分達の文化を守り続けてきた。現在、美しい姿を残すシギショアラ旧市街は、故郷から遠く離れた地で暮らすことになった人々の感じた恐怖と、それに打ち勝ち自分達の精神の拠り所を守りたいという誇り高い気持ちを礎にした歴史の記憶そのものなのかも知れない。

(つづく)

2006-2007東欧バルカン旅行記その1 ベオグラード

2007-01-16 | 旅行
(写真)ベオグラード カレメグダン公園から見るサヴァ河


2006年12月29日

日本から飛行機を乗り継ぎ約20時間、ついにセルビア共和国の首都ベオグラードのニコラ・テスラ空港に到着した。

ベオグラード。「白い都」という美しい名を持つ都市。
しかし、そこは止むことのない戦闘と破壊を宿命付けられた、悲劇の都市である。
かつてこの街に首都を置いたユーゴスラヴィア連邦の解体と、1990年代以降泥沼化する民族問題。ついには20万人が死んだボスニア・ヘルツェゴヴィナ戦争での「民族浄化」の惨劇と、その後のコソヴォ戦争。1999年、NATO軍はベオグラードを空爆する。この都市が最後に戦火に包まれてから、まだ7年しか経っていない。

東西文明のせめぎあうバルカン半島の、ドナウ河とサヴァ河の合流点という要衝に位置する故に、有史以来幾多の戦火を経験した、破壊を運命付けられた都ベオグラード。
統計によるとベオグラードは平均70年に1回の割合で攻撃され炎上しているという。


フランクフルト空港でのベオグラード行き便との接続が悪く、ベオグラードへの到着は深夜になってしまった。
空港で客待ちしているタクシーは「100%ぼったくる。悪質運転手ばかりで危険!」との情報を得ていたので大事を取ってホテルに迎えの車を手配してもらっていた。手持ちのユーロを現地通貨ディナールに替えてロビーに出ると、僕の名前を書いたボードを持った青年が爽やか笑顔で出迎えてくれた。
「うわあー!やめてくれぇ」と言いたくなる位気恥ずかしいが仕方がない。
爽やか青年の運転するピカピカのBMWに乗って、飲み物や音楽までサービスして貰って市内へ向かう。
安全快適で楽チンなんだが、どうにもこそばゆくて座りがよくない。
「やっぱりこういうのは僕には似合わないね」
数十分の快適ドライブで気疲れしてクタクタになりながらホテルに到着。フロントにパスポートを預けて(セルビアでは警察への外国人滞在者情報の届出が義務付けられているらしい。こんなのは初めてだ。)、部屋に入ると一気に疲れが出て時差ボケも関係なく熟睡した。

翌朝、目覚めてカーテンを開けると郊外のニュータウンっぽい風景が広がっている。全面ガラス張りのモダンなビルが見える。(←追記:旧共産主義者同盟中央委員会ビルだった。このビルは1999年4月21日午前3時15分と27日午前1時05分、NATO軍によって空爆され廃墟となったが現在は改装されUSCEビジネスセンターとなっている。)案外小奇麗な街だな、というのが第一印象。
さあ出かけよう。


2006年12月30日

ホテルをチェックアウトして、「トラム(路面電車)の停留所はどこ?」と尋ねると「何でトラムなんかに乗るんですか?」と聞いてくる。
「中央駅まで行きたいんです」と言うと「トラムはやめた方がいい。タクシー使いなさい」とか言われる。
よく分からんが、面倒くさいのでタクシーを呼んでもらう。一応、外資系の有名ホテルなので悪質ドライバーのクルマは呼ばないだろう。
タクシーに乗って中央駅へ向かう。今日の夕方のルーマニア行き国際列車に乗るので、予め荷物を駅で預けておくためだ。
タクシーの運ちゃんは誠実そうな爺さんだったので一安心。英語は通じないがフランス語で「トレン、ガール(列車、駅)」と言うと何故か通じた。
ホテルのあるニュータウンから、サヴァ河を渡って旧市街の中央駅へと向かう。たいして距離はないはずなのだが、渋滞していて時間がかかる。渋滞の原因は何と、サヴァ河の橋が「トラムと道路の共用橋」でしかも「時間制限一方通行」のせいだった。
駅までの道すがら、運ちゃんが「ヤポーネ?ヤーパン?」と聞いてくる。「ヤー、ヤーパン」と答えると「ヤーパン、グレートカントリー!」「スモー、アサショーリュー!」と言ってくれる。相撲取りなら東欧だとブルガリア出身の琴欧州が有名なんじゃないかと思ったが、朝青龍を知ってる人がいるなんて驚く。

時間はかかったが無事に中央駅に到着。運ちゃんの請求もメーター通りの正規料金。駅構内の荷物預かり所にトランクを放り込んで、ついでに窓口でバルカン半島諸国とトルコの鉄道が乗り放題の「バルカンフレキシーパス」をバリデード(日付を入れて使用開始すること)してもらって、身軽になって改めて構内を見回す。
「…小ぢんまりしてて薄汚くて寂しい駅だな。」何だか、JR門司港駅を思いっきり裏ぶれさせたような駅だ。

でも、危険な感じはしない。窓口の職員も総じて親切だ。荷物預かりの係員氏に至っては即席のセルビア語教室を始めて数字の読みを教えてくれた程だ。

駅前にSLがいた。いかにも旧共産圏らしい特異なデザインで、ボイラーの位置が異様に高いので日本の9600型に似ている。


駅前の大通りを暫らく歩き、未だに空爆で瓦礫の山と化した政府機関のビルの廃墟がそのままの姿を晒す「空爆通り」を越え(カメラを出した途端、憲兵が飛んできた。撮影は原則禁止らしい)、マクドナルドのあるスラヴィヤ広場(ここのマック、NATO空爆時は怒った市民に襲撃されたそうだ)から小路に入って数ブロック歩くと瀟洒な洋館がある。
ここが、今回の旅の目的地の一つ「ニコラ・テスラ博物館」である。

エジソンの宿命のライバルとして、交流モーター、リモートコントロール、そして全世界を束ねる究極のネットワーク「世界システム」を提唱するも、孤独な晩年をおくりたった独りで世を去った天才発明家、ニコラ・テスラ。
永らく陽の当たらなかった彼の功績は近年、ようやく世界的に再評価されつつあり、生誕150周年となる2006年、ベオグラード国際空港は彼の名を冠してニコラ・テスラ空港と改名された。また、セルビアの100ディナール札紙幣には彼の肖像が描かれ、国民に広く親しまれている。
彼の死後に遺族によってユーゴスラヴィアにおくられた遺品、発明品、論文を収蔵・一般公開するこの博物館に行ってみたい、そう思ったのが今回の旅のそもそもの始まりだった。
ついにここに来た、ニコラ・テスラの殿堂に来た…しかし、何だか様子がおかしい。妙にひっそりしている。入り口のドアも閉まってるし。まさか、閉館日!?ここまで来てそれはないだろ。。。と不安にかられつつドアを押すと、開いた。
「よかった、閉館日じゃなかった」
でも、セメント袋とか工具が積んであるし工事中じゃないか?
奥のほうから顔を出した学芸員らしい女性に尋ねると、どうやら現在改装工事中だが区画を区切って公開はしているらしい。

展示スペース入り口に掲げられたこの銘板、ナイアガラ瀑布発電所に採用された交流発電機のプレートである。
下の方に特許が列記されているが、13件の特許のうち9件がテスラのものである。
まさに、テスラの功績なくして交流発電はありえなかったのである。

こんな展示もあった。
「ニコラ、テセラ 一流體機関 明治四十五年三月二十六日」と読める、日本の特許証だ。

展示は大幅に縮小されていたが、学芸員さんが付きっきりでこの博物館のシンボルのように鎮座する巨大テスラコイルの放電実演や、ネオン管の点灯実演までやってくれた。
入り口脇の机の上に並んでいた絵葉書を購入し、ゲストブックに日本語で記帳してから、ニコラ・テスラ博物館を後にする。
最初から応対してくれた若い女性の学芸員さんが、建物の外まで出て見送ってくれた。
改装工事は1月中旬には終わるそうなので、いずれまた見に来たい。


ニコラ・テスラ博物館の学芸員さんに教えてもらった最寄りの停留所からバスに乗車。
列車の時間までまだ少しあるので、カレメグダン公園まで行ってドナウとサヴァ河を見ることにする。

カレメグダン公園は市民も観光客も集まる有名な場所なので、すぐに分かるだろうと思ったのだが、それらしい停留所が見つからない。
そのうち、バスが方角を変えてさっき走った場所をまた通っている。
「いかん!このままだとニコラ・テスラ博物館に戻ってしまう」
やむを得ず次に停まった停留所で下車。
「ここは一体どこだ~?」
(追記:上の丸い屋根の建物は旧ユーゴスラヴィア連邦議会議事堂のようです。って、日本に帰ってから気が付いてもどうにもなりませんね、ハイ)

それにしても、ベオグラード市内には公園が多い。
歩いていると気持ちがいいが、これではいつまで経っても埒が明かない。
そこら辺を歩いてる人をつかまえて、道を聞きまくる。
「え~っと、セルビア語でエクスキューズミーって何だったっけ…スミマセン、カレメグダン?」
我ながらアホな事言ってるが、これですぐに伝わる。それにベオグラードの人は皆親切だ。嫌な顔などせずに教えてくれる。
結局、通りを500メートルほど行くとすぐにカレメグダン公園に着いた。


紀元前4世紀から要塞が造られていた丘の上にあるカレメグダン公園。
ドナウとサヴァ、二つの流れの合流を見下ろす風光明媚な場所だが、同時に軍事的に重要な攻略ポイントであるため、これまでに数え切れないほどの闘いがあり血が流された場所でもある。ベオグラードの宿命を見守り続けてきた丘なのだ。

カレメグダン公園には今も砦の遺構が残る。
砦の石積みの向こうには、紀元前から変わることのない大河の流れがある。

やがて、冬の陽は二つの大河の向こうに沈んでゆく。
川面からは霧が立ち昇り、辺りを幻想的な乳白色に包んでゆく。
かつて、この都を攻め落とそうとしたオスマン帝国軍の将兵は、真っ白な朝靄に包まれた都のあまりの美しさに戦意を失い、ここを「白い都(ベオグラード)」と呼んだという。
街の名の由来ともなった霧に包まれ、ベオグラードの一日が終わってゆく。

「さて、駅に行って列車に乗ろう。ルーマニアに行こうかね!」


カレメグダン公園の前から中央駅方面行きのトラムに乗る。
このトラム、物凄い急坂急カーブでカレメグダンの丘を駆け下りていくので運転席の後ろにかぶり付いて前を見ていると面白い。それに電車のくせにハンドル操作をせずに、アクセルとブレーキのペダルを踏んで運転している。ちょっと自分でも運転してみたくなる、楽しいトラムだ。
中央駅に着いたら、ルーマニア行き国際列車には食堂車が付いていないので乗車前に駅前で夕飯の買出し。マーケットのようなところで直径30センチはあろうかという巨大ハンバーガーを買う。預けていたトランクをピックアップして、いざホームへ。

夕闇迫る、威風堂々たるベオグラード中央駅舎。
かつてはパリへ直通する豪華寝台列車「シンプロン・オリエントエクスプレス」も発着していたという。
これから乗るのは、1日に1本だけ運転されているベオグラードからブカレストまで直通する夜行列車「361列車」。さすがにオリエント急行には及ぶまいが、どんな列車なんだろう。

これが361列車。
年期の入ったアメリカ製と思しきディーゼル機関車が牽く、ルーマニア国鉄の車両を連ねた列車だった。はっきり言って薄汚い。
「ユーゴスラヴィアはソ連とは距離を置いて独自の共産主義政策をとっていたから、アメリカとも交易があったんだろうな。そういえばユーゴは日本の宇宙研から科学観測ロケットを買ったりしてたっけ」とか考えながら、指定された2等座席車へ。

車内はこんな感じ。
今夜はルーマニアに入ってすぐの、ティミショアラという街で降りるので寝台車ではなく座席車。ヨーロッパ伝統の個室(コンパートメント)スタイルだ。
こちらも相当薄汚いですね。

定刻よりやや遅れて、361列車はベオグラード中央駅を発車した。
しばらくゴロゴロと広大な中央駅の構内を走っていたが、やがて停まってしまった。
「なんだなんだ?駅構内から出ないうちにもうトラブルか?」と訝しんでいると…

なんと、向きを変えて再び走り始めた。
どうやら駅構内でスイッチバックする配線になっているらしい。そういえば、件のアメリカ製ディーゼル機関車は中央駅を発車する時点で最後尾に連結されていた。推進運転で列車を駅から押し出した後で、改めてルーマニア方面行きの本線に乗り入れたと言うわけか。こういうのって、鉄道好きにはたまらない面白い運転方法だ。

とっぷりと日の暮れたベオグラード市内をサヴァ河に沿って走る。
今朝、タクシーで渡ったトラムとの共用橋の下をくぐる。河の向こうにはホテルから見えた旧共産主義者同盟中央委員会ビルも見えている。

カレメグダン公園も見えてきた。
砦の石塁がライトアップされて美しい。
さっき、あそこから見たサヴァとドナウの流れに沿って、列車はゆっくりベオグラードを離れて行く。

やがて車窓には街明かりも少なくなり、あとはひたすらドナウの流れに沿って暗闇の中を走って行く。
旧ユーゴスラヴィア連邦の首都だというのに、ベオグラード中央駅を発車してからほんの数十分も走ると車窓は真っ暗な原野になった。

ベオグラードには僅か20時間足らずの滞在だった。
数々の悲劇的な歴史を秘め、幾多の戦禍をくぐり抜けてきた、破壊の宿命を背負った都ベオグラード。
だがしかし、破壊の後には必ず力強い復興があった。
今まさに完全に解体したユーゴスラヴィア連邦の後を引き継ぐ新生セルビア共和国の首都として、新たな歴史を歩み始めた白い都。
その行く末を、これから僕も極東から見つめていきたいと思う。
願わくば、もう二度と戦闘と破壊の宿命がこの街に降りかかる事のないよう祈りながら。

コンパートメントには相部屋の客はおらず、気兼ねなく夜汽車の旅を楽しめそうだ。
誰もいないので今のうちに、残金の整理をする。50ユーロ分をセルビアディナールに替えたが、半分以上残ってしまった。
「いいさ、今度来た時に使うさ!」
ふと、手許の100ディナール札を見ると、髭を蓄えた発明家が微笑んでいる。ちょっと皮肉っぽい目で僕を見ているようだ。
「このニコラ・テスラさんを郷帰りさせるためにも、また来ないといけないようだなこりゃ」

真っ暗闇の中を列車は走る。何故かこの車両は室内灯が点灯せず、車内も真っ暗である。さらに何故か連結部から暖房スチームが漏れているらしくて、さっきからデッキの方から猛烈な勢いで湯気が上がっている。おかげで車内にはちっとも暖気がまわってこない。寒い…
ボロだし暗いし寒いし、余りにも悲惨なので怒る気にもなれず笑ってしまう。


やがて国境の駅に着いたらしい。車窓からルーマニアの紋章を標した表示灯が見える。コンパートメントにパスポートコントロールのポリスが周って来るが、日本国のパスポートを見せると何も言われず入国スタンプを押されて手続き完了。世界中の大抵の国にノービザ顔パスで行ける日本国パスポートは本当にありがたい。

さあルーマニアだ。
驚いた事に国境駅を通過した途端に列車が揺れなくなって乗り心地がよくなり、しかもスチームを繋ぎなおしたらしく、冷え込んでいたコンパートメント内がほかほかに暖かくなった。
「なんか凄いなルーマニア…念願のEU加盟目前なんで気合が入ってるのかな?」
これで灯りが点けば言う事なしなのだが、残念ながらこれは最後まで消えたままだった。

国境通過から小一時間、361列車はトランシルバニアの都市ティミショアラ北駅に到着した。
今夜はこの街に宿を取ることにする。

(つづく)

飛べるか?はやぶさ2

2007-01-14 | 宇宙
怒涛の強行軍だった年末年始の東欧バルカン旅行から帰国して、早1週間。
帰国後は溜まっていた仕事の処理に追われて忙しく、蓄積し続ける疲労に泣きたくなる毎日だったけど、ようやく帰国後初の完全休日となった昨日の土曜日に思いっきり寝られたのでどうにか復活しました。

さて、帰国直後から気になっていたのだが、小惑星探査機「はやぶさ2」に予算がついたらしい。
「次世代小惑星探査機」の名目で予算 5,000 万円が付きました.(「はやぶさ2を実現させよう」勝手にキャンペーン )
やったあ!みんなで頑張ってきた甲斐があったね!
と素直に喜べないのだ。はやぶさ2の予算要求額は5億円。実際についた予算はその10分の1だ。

…10分の1か。。。そりゃまあ、ゼロにならなかったのはいいが(実際、松浦晋也さんのブログを読むと「JAXA側が財務省に出す要求において、自発的に落としてゼロにした(2007.01.08 「はやぶさ2」その1:来年度予算折衝の結果)とある。ゼロになる可能性大、というかJAXA自身がゼロにする気だったのだ)、この5億円の内訳は緊急に発注しないと2010年の打ち上げに間に合わない観測機器類等の部品代ということなので、「部品が買えないと『はやぶさ2』作れないじゃん!どうするのよ!?」ということになる。

しかし、松浦さんのブログを読むと
「しかし「はやぶさ2」の2010年打ち上げが頓挫したわけではないようだ。私が会った関係者は、具体的なことを話してはくれなかったものの、誰一人として諦めてはいなかった。」とある。
「あの途方もない「はやぶさ」運用を続けている人たちだ。なにかウルトラCを考えているのだと思いたい。」(2007.01.08 「はやぶさ2」その1:来年度予算折衝の結果)

一体、はやぶさチームはどんな秘策を考えているというのか!?
相変わらず絶対絶命綱渡りの状況にある「はやぶさ2」は果して飛べるのか?
これからも暫らくは「はやぶさ2」から目が離せそうにない。
そして、来月にはいよいよ小惑星イトカワ軌道付近で待機していた「はやぶさ」のイオンエンジンに火が入り、故郷地球への途方もない旅が始まろうとしている。

「帰って来い、はやぶさ!」

「飛べ!はやぶさ2!」

今年も天燈茶房 TENDANCAFEは「はやぶさ」そして「はやぶさ2」を応援します。
どうぞ宜しく。
それから、「はやぶさ2」の予算がたとえ10分の1でも通ったのは、みんなで送った「応援メール」の力に由るところが大きいと思う。
メールを送った皆さん、ありがとうございました。






また行きたいぞ東欧

2007-01-09 | 旅行
イスタンブールから飛行機を乗り継ぎ、時計の針を1時間遅らせたり、また8時間進めたりして帰国。
日本は大寒波襲来と帰国ラッシュが重なり、乗り継ぎ国内線が大幅に遅れて結局自宅に到着した時には日付けが変わっていた。
数時間の仮眠の後、疲労と眠気で悲鳴をあげる身体に泣きそうになりながら出社。

仕事を始めながらも、時折頭の中に数時間前まで居た東欧とイスタンブールの想い出が去来する。
今頃、ベオグラードはドナウとサバ河から立ち昇る夜霧に包まれているだろう。
シギショアラ郊外の要塞教会には、村人達が朝の祈りに集い始めた頃だろうか。
イスタンブールでは青のモスクからの祈りの声を聞きながら、怪しい客引きが今日もしたたかにカモを探して徘徊しているだろう。

さあ、今度はどこの国へ行こうか。。。
とりあえず、明日は鯖を買ってきて焼いてパンに挟んで食べながら考えようかな。



旅の終わり

2007-01-07 | 実況

イスタンブール滞在中は結局一度もボスポラス海峡を渡らず、ずっと『ヨーロッパ側』の旧市街をウロウロしていた。
海峡の向こう側はオリエント、アジアの始まりだ。でも、今回の旅はバルカンをオリエント急行の末裔の夜行列車達で駆け抜け、オリエントを望む丘の上のトピカプ宮殿に立ったところで終わりたいと思う。この次、また旅する機会があればアナトリアの入口イスタンブール・ハイダルパシャ駅からアンカラエクスプレスに乗り込んでアジアのトルコ、オリエントの大地を列車で駆け抜けたいものだ。
朝焼けに浮かぶアヤ・ソフィアに後ろ髪を引かれつつ、千年の都を後にする。

イスタンブールに陽は落ちて

2007-01-05 | 実況

不気味に流暢な日本語で話し掛けて来る客引き詐欺師連中をかわしながら、負けずにイスタンブール散策開始。
とにかく街中がモスクのミナーレ(尖塔)だらけのイスタンブールは、イスラームの祈りをそこかしこに感じる聖なる都だ(なのに何でこんなに客引き詐欺師が多いのか…?)。
アヤソフィアでキリスト教とイスラームが不思議に調和して同居する荘厳な空間に圧倒され、ガラタ搭から夕陽を眺めて千年帝国に想いを馳せた後、鯖サンドの焼ける匂いをかぎながらホテルに戻ると部屋からはこの眺め。夜空に浮かび上がる青のモスクの余りの美しさに堪らず部屋を飛び出してモスクに駆け込むと、丁度祈りの始まる時間だった。
退去する間もなく出入り口を閉められ閂まで掛けられてしまったので、やむなく後ろの方の絨毯にひれ伏して祈りに参加させてもらった。ドーム内に響き渡る祈りの声にムスリムの宇宙を感じ、思わぬ神聖なひと時を過ごす事になった。

バルカン夜行列車、イスタンブールに到着

2007-01-05 | 実況

素朴なルーマニアの田舎町シギショアラの滞在を楽しんだ後、夜行列車を乗り継いでバルカン半島を駆け抜け、とうとうイスタンブール・スィルケジ駅に到着した。
ここから先はもうアジアだ。ヨーロッパを走破するオリエント急行の記憶を辿る旅は千年の都イスタンブールに終着した…とか感慨に耽る間もなく襲来する極悪客引き詐欺師軍団との闘いが始まるのであった。
なんなんだこの街の異様な客引きの多さは!?素朴なシギショアラが懐かしいよ。。。

ドラキュラとヘルマン・オーベルトの実家の街で新年

2007-01-02 | 実況

明けましておめでとうございます。
今年も天燈茶房を宜しくお願いします。
という訳で、ルーマニアの世界遺産の街シギショアラで新年を迎えたのである。
トランシルウ゛ァニアの宝石と称えられるこの美しい街には、ドラキュラのモデルとなったウ゛ラド・ツェペシュ公爵と、ロケットの元祖「V2」そしてアポロの「サターンV」を産んだフォン・ブラウンの師であるヘルマン・オーベルトの実家でもある。
日付の変わるまで続いたホテルのガラディナーの大騒ぎと新年を祝う花火の後は、皆くたびれて寝入ってしまい人っ子一人いない元旦の朝なのであった。
滞在中のホテルの向かいの時計塔にはオーベルト関連の展示もある博物館が入っているので、明日行ってみようと思う。