天燈茶房 TENDANCAFE

さあ、皆さん どうぞこちらへ!いろんなタバコが取り揃えてあります。
どれからなりとおためしください

遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 6、プラハ行き国際列車

2012-01-30 | 食べる
ベルリン中央駅 コンコースのクリスマスツリー


遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 5、国境の港街からの続き


Szczecin Główny駅から乗り継ぐのは、国際急行列車EC179。ALOIS NEGRELLI という愛称が付いている。
ポーランドのSzczecinからドイツのベルリン、ドレスデンを経由してチェコのプラハまで、途中2度も国境を越えて走る。




EC179に使用されているのはチェコの車輌で、まだ新車のようで車内もとても綺麗。
2等車はヨーロッパ伝統のコンパートメント(6人個室)。
見知らぬ同士の乗客が個室内で相席になるスタイルで、日本ではまず考えられない方式だが、束の間顔を合わせた乗客同士で思わず会話が弾んだりして、旅が楽しくなることもある。僕の好きなスタイルの客室である。

EC179には食堂車も連結されている。
日本では既にごく一部の寝台特急列車に残るのみの希少な存在となった食堂車だが、ヨーロッパではまだ昼間の列車にも食堂車が健在だ。


14:32、EC179は定刻にSzczecin Główny駅を発車。
すぐに食堂車へ行ってみる。




街中のカフェレストランのようなお洒落な食堂車の車内。
まだ発車直後のせいか誰も客がいないが、愛想のいいウェイトレスのおばさんが出迎えてくれた。

早速、メニュー表を見てみる。
ヨーロッパの国際列車の食堂車では大抵、その列車が経由する国・地域の名物料理をメニューに載せているので、列車の中に居ながらにして地元の味を楽しむことが出来る。



会計は列車の経由する各国の通貨で支払うことが出来るのも国際列車の食堂車ならではだが、最近はクレジットカードでも支払えるようだ。

美味しそうな料理がたくさん用意されているのであれこれ迷ったが、僕の好物のドイツ・オーストリア名物のチキンのカツレツ、シュニッツェルをオーダー。
しかし、ウェイトレスのおばさんによると「ドイツとの国境の駅を越えないと、料理を出せないのよ。ちょっと待っててね」とのこと。
ポーランド国内の走行時間はたしか30分程度だった筈なので、車窓を眺めながらのんびり待つ。



EC179はポーランドとドイツの国境と思しき駅に十数分停車してから発車。ここでもパスポートのチェック等は一切無い。
実にあっけない国境越えと、ポーランドとの別れだった。
そしてドイツに無事に戻って来られたことを祝って、ノンアルコールビールで一人、乾杯。
厨房からは、国境を越えるのを待っていたかのように、カツレツを揚げる音と香ばしい匂いが漂ってきた。


やっと出てきた、お待ちかねのシュニッツェル。
ウェイトレスのおばさんが「Bon Appetit!」と声をかけてくれたのが嬉しい。


シュニッツェルを食べているうちに、車窓はすっかり夕暮れになった。
食事を終えて会計を済ませる頃には、EC179はもうベルリン市内の高架線上を通勤客を乗せたSバーンと並んで走っていた。
ノンアルコールビールとシュニッツェル、合わせて356コルナ。これをユーロに換算して14.8ユーロ。

16:53、ベルリン中央駅に到着。





EC179はドイツ鉄道(DB)の101型電気機関車に牽かれて、さらにプラハまで旅を続ける。
プラハには何年も前に一度だけ行ったことがあるが、たしかあの時も大晦日に着いたのだった。教会の塔が並び建つ、美しい街だった。またプラハに行きたい…
などと想いを巡らせながら、EC179ALOIS NEGRELLI を見送る。


ペーネミュンデ、そしてポーランドの旅を終えて、再びベルリンに帰ってきた。
僅か2日間のことだが、多くのことを感じて多くのことを考えたせいか、随分と長い旅をしてきたような気分だ。

今夜は2011年の大晦日。ホテルにチェックインしてから、年越しの街を見に行こうか…

遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 7、ベルリンの蒸気機関車たちに続く

遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 5、国境の港街

2012-01-28 | 旅行
UBB(ウーゼドム海岸鉄道)ペーネミュンデ駅で折り返す列車が到着


遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 4、博物館からの続き

ペーネミュンデは現在では人口数百人の小さな村になっており、ホテルはない。
だが、ペーネミュンデのあるウーゼドム島は島全体が東ドイツの夏の行楽地となっており、UBB(ウーゼドム海岸鉄道)に乗って暫く走ればリゾートホテルやコテージが建ち並ぶ町もあるので、泊まる場所には事欠かない。

尤も、今は真冬のシーズンオフ。誰もいない寒々としたリゾートホテルに一人で泊まるのは侘しいので、このままドイツを出て隣国のポーランドまで行ってしまうことにした。
ウーゼドム島の東端部は第二次世界大戦後にドイツからポーランドに割譲された為、島の中に国境線が通っている。その国境を越えた先に、島で最も大きな街であるŚwinoujścieがある。



ŚwinoujścieまではUBBの列車で直接行くことができる。
ペーネミュンデから約1時間、終点の駅の手前数百メートルのところで国境を越えたらしいのだが、列車はそんなことお構いなしといった風情でŚwinoujście Centrum駅に到着した。
パスポートチェックも何もない、島の中の小さな国際列車の旅だった。


Świnoujście Centrum駅は駅名は立派だが、街外れの住宅地の裏にあるプラットホーム1面だけのとても小さな終着駅。
もうすっかり日は落ちて真っ暗だし、ここからŚwinoujścieの街の中心までは1キロ程あるが、事前にインターネットの地図サービスで道程を把握しておいたので歩いて行ける。
生まれて初めて入国したポーランドの地方都市を、夜でも何の躊躇もなく歩けるとは、素晴らしく便利な時代になったものだ。

駅前から伸びる住宅地の大通りを歩いて行くと、やがて小さな広場に出た。


ささやかだが、心落ち着くクリスマスの装飾が輝く広場から伸びる石畳の路地の先に、これも予めインターネットで予約しておいたホテルをすぐに見つけることが出来た。
辺りに微かに海霧と潮の香りが漂っている。ここŚwinoujścieは港街だ。
ホテルにチェックインして部屋に荷物を置いたら、また外に出て港まで歩いてみることにした。

Świnoujścieは、市街地が水路で二分されている。
この水路はウーゼドム島をヨーロッパ大陸と隔てるオーデル川がバルト海へと流れこむ河口部に当たるもので、上流域には広い潟湖が広がっており外海から直接船が行き来する。
その水路の両岸に港が出来て発展した街がŚwinoujścieなのだが、バルト海からやって来る大型船を航行させなければならない関係上か水路には橋が架けられておらず、街の両岸を結ぶフェリーが24時間運行されている…らしい(情報収集に使ったŚwinoujścieの公式観光案内ホームページに記載された難解な英文を何とか読み解こうと格闘したが、それ以上のことはよく解らなかった)。
明日は、ペーネミュンデ方面には戻らずポーランド国内を経由する列車に乗ってベルリンへ戻ることになっているので、水路の向こう岸にあるらしいポーランド国鉄の駅への行き方を実際に調べておきたかった。

潮の香りを頼りに路地を歩くと、すぐにフェリーターミナルが見つかった。
このフェリーは地元に住んでいる人の自家用車と歩行者は無料で乗れるらしいので、そのまま船に乗り込んで向こう岸まで渡ってみることにした。


次々やって来る自動車が船内一杯に詰まったところで出港。
地元の人々の生活の足となっている「渡し船」は、Świnoujścieの普段着の顔を見せてくれて楽しい。

幅数百メートル程度の水路を横切るだけの10分足らずの船旅を終えて、向こう岸に到着。

フェリーを降りたクルマが走り去る道路のすぐ向かいに、線路と架線柱が見えた。
Świnoujście国鉄駅はフェリーターミナルの目の前の便利な場所にあった。
やれやれ、これで一安心、明日の朝は迷わず駅まで来て列車に乗ることが出来る。

せっかくここまで来たので、ちょっと駅を覗いていくことにする。


駅の構内には、堂々たる長大編成の列車が停車中。


近くまで寄ってサボ(行先表示板)を見てみると、首都ワルシャワまで行く寝台列車だった。
寝台車のデッキでは、若い車掌が石炭ストーブにコークスをくべている様子も見えて、思わず
「ああ、このままこの夜汽車に乗ってワルシャワまで行ってしまいたい!」という衝動にかられる。

…そして衝動が抑えられず、ちょっとだけ車内を覗いてみた。


3段ベッドの、2等寝台車(シーツや毛布等の寝具が備え付けられていないので、簡易寝台『クシェット』かも?)。
日本の昔のブルートレインのB寝台と同等の設備で、かなり狭いが、清潔でそれなりに快適そうだ。

寝台車の車内を見てますます乗っていきたくなったが、ぐっと我慢してそのまま下車。
長い編成を眺めながらプラットホームを歩く。


「寝台特急『はやぶさ』の最盛期の頃と同じ、1等個室車1輌組み込み2等車多数連結の15輌編成だな」などと思いを馳せつつ歩いているうちに、プラットホームの端まで来てしまった。


線路が行き止まりになっている辺りのプラットホーム上に、小さな待合室があり
Świnoujście PORTという駅名票がある。
どうやらŚwinoujście駅の先端部は港に面した別の駅という扱いになっているらしい。


待合室の時刻表に記載された列車は、1日に僅か2往復のみ!
夜に2本の列車が到着し、早朝と夜に1本ずつの列車が発車するだけの駅のようだ。まあ、発着本数が多い隣の駅まで歩いても10分もかからないから問題ないのだろうが…


Świnoujście PORT駅を出たすぐ前が、旅客船ターミナルになっていた。
バルト海の対岸、スウェーデンのYstadとデンマークのコペンハーゲンへと向かう夜行フェリーが発着している。
このフェリーの時刻に合わせて、Świnoujście PORT駅まで2本だけ列車が入ってくるのだろう。

再びプラットホームを歩いてŚwinoujście駅まで戻り、昨日ベルリンzoo駅で購入しておいた帰りの切符に記載された明日乗る列車の時刻を駅に掲示された発車時刻案内と照合して確認していると、Świnoujście PORT駅行きの「始発列車」が入ってきた。
午後8時前の始発列車がプラットホームの向こうで停車し、暫くしてこちらに向けて折り返し発車するのを見届けてから、港の水路の向こう岸に戻る。
途中、小さな雑貨屋でミネラルウォーターを買ってホテルに帰り、シャワーを浴びると何も食べずに水だけ飲んでそのまま寝てしまった。
ミネラルウォーターが、わざわざ成田空港内の銀行で両替して準備しておいたポーランド通貨ズロチで購入した唯一の買い物となった。

2011年12月31日

ホテルのロビーに用意されていた朝食を済ませてから、チェックアウト。
昨夜歩いた路を歩いてフェリーターミナルに向かう。



今朝もフェリーの航送甲板一杯にクルマが詰まるまで待ってからの出港。
特に出航ダイヤは決まっていないようで、年末休暇の朝のせいか積荷のクルマがなかなか集まらないので少々待たされる。


ようやく出港したフェリーの甲板から、ウーゼドム島側のŚwinoujście市街を眺める。
昨日一日を過ごしたウーゼドム島。ロケットの聖地ペーネミュンデのある島。いつか、必ずまた来よう…
そう心に誓った。




フェリーは港の中を縫うように、水路を渡っていく。
朝霧の中に佇むスカンジナビア半島から来た大型船を見ていると、この次ここに来る時はバルト海を渡る船旅もいいかななどと思う。
それが実現するのは何時になるかはわからないけれど。




ヨーロッパ大陸側(正しくはここもヨーロッパ大陸からは水路で隔てられたヴォリン島という島であるらしい)のŚwinoujście市街地に到着。
昨夜のポーランド国鉄のŚwinoujście駅が見えてきた。

今日はこの駅から、ポメラニア地方の中心都市であるSzczecinへと向かう近郊列車で出発する。
Świnoujście11:43発、Szczecin Główny駅行き近郊快速R88428。



ポーランドが社会主義国だった頃から使われていると思しき、無骨で古めかしい車輌のR88428列車。
だが、きれいに整備されているし車体への落書きなども無いので、決してみすぼらしくはない。




車内も小奇麗だが、何とも質実剛健なプラスチック製座席!
色もデザインも悪くはないが、さすがにこの硬い椅子にずっと座り続けるのはつらそうだ。座布団程度はサービスして欲しいところ。


Świnoujścieを発車すると、森の中を走っていく。
時たま森の中に工場や小さな町が現れる。あまり代わり映えのしない風景が続く。

森の中を走ること約2時間足らず。
13:32、終点のSzczecin Głównyに到着した。


ここで1時間の待ち合わせの後、ベルリン経由プラハ行きの国際急行列車に乗車する。

遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 6、プラハ行き国際列車に続く

嵐の海への船出 ~はやぶさ2、開発スタート!

2012-01-28 | 宇宙
「はやぶさ2」ミッションイメージ画像 提供:JAXA


平成24年1月25日に開催された文部科学省の宇宙開発委員会に於いて、
小惑星探査機「はやぶさ」の後継機「はやぶさ2」の開発段階への移行が承認された。
遂に、「はやぶさ2」の開発が正式にスタートする!

「はやぶさ2」、正式に開発段階へ移行(12/01/25 月探査情報ステーションブログ)

だが、これは「はやぶさ2」の打ち上げに向けての嵐の海への船出 である。
「はやぶさ2」プロジェクトに認められた平成24年度の予算案は要求額の半分にも満たない30億円程度。しかも、来年度以降も継続して予算が認められる保証すら無い。
プロジェクトチームは今後、まさに綱渡りの予算やり繰りを強いられながらの「はやぶさ2」開発となるのだ。

それでも、僕たちは彼の「旅立ち」を信じて応援し続ける。
苦難に満ちながらも動き始めた「はやぶさ2」を、決して止める訳にはいかない!
…さあ、今こそ声を上げよう。
「はやぶさ2」の実現を願う、ただそれだけの想いを今、声に出して呼びかけよう!

はやぶさ後継機に関する予算の状況について
(元「はやぶさ」プロジェクトマネージャ、川口淳一郎先生からのメッセージ:はやぶさプロジェクトサイト)

今、僕たちに求められているのは、ささやかだが僕たちにしか出来ないこと。
「はやぶさ2」の打ち上げと、それに続く壮大な物語のその先が見たいから…

翔べ!はやぶさ2!
天燈茶房亭主mitsuto1976は「はやぶさ2」を応援しています

遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 4、博物館

2012-01-22 | 博物館・美術館に行く
The Peenemünde Historical Technical Museum


遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 3、廃墟のエネルギーセンターからの続き

暫しV2…A4を見上げて佇んでいた。



このペーネミュンデの地から、人類が初めて宇宙に送り出したロケット。
「宇宙へ行きたい」という明確な意志を持って生み出された究極の機械。
それは確かに宇宙空間へと到達した。およそ有史以来人類が抱き続けた夢を、遂に現実のものとしたのだ。
その後、宇宙へ行く手段の原点としてV2の技術は引き継がれ、磨き上げられ、人類を直接宇宙へ、月へと送り届けるに至った。
技術の進化はゆっくりと、だが着実に続き、やがて人類の夢を託された探査機たちが更に遠くの宇宙…
火星へ、外惑星へ、彗星へと旅立っていった。

それはすべて、この美しい流線型の姿をしたロケットから始まった。
V2は現在、世界で主流となっている大型液体燃料ロケットの始祖であり、人類を宇宙へと導いた祝福されるべき聖母である。


だが、V2はもう一つの顔を持って生まれた。
栄光に彩られた宇宙ロケットの始祖とは真逆の顔…戦争の狂気が生んだ、おぞましい悪魔の報復兵器。
それもまたV2の偽らざる素顔である。

ベルリン工科大学の学生であった若き日のヴェルナー・フォン・ブラウン。1931年暮れ、彼がベルリンの街角で、ドイツ陸軍のロケット開発プロジェクトの中心人物であったヴァルター・ドルンベルガーたちと出会ったことから歴史は大きく動き始める。
資金不足に喘ぎながら、小さなロケットを製作し打ち上げ実験を行なっていたVfR(ドイツ宇宙旅行協会)の会員であったフォン・ブラウンは、陸軍からの申し出により豊富な資金を得ることの代償として「兵器として」ロケット開発を推進することとなり、それはやがてA4ロケットという形で結実する。

人類最初の宇宙到達を成し遂げてから約2年後の1944年9月、
“報復兵器” を意味するV2という忌むべき名前をナチス宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルスより与えられた宇宙ロケットA4はベルギー国内へ、パリへ、ロンドンへと“墜落”を開始する。
宇宙へ… 月へ、火星へ、そしてもっと遠くへ翔ぶ筈のロケットが、
戦争の悪魔の手によって次々に街へと堕ちていく。人の上に堕ちていく。
それはもはや宇宙ロケットではない。人類が初めて手にしてしまった大陸間弾道ミサイルへと変わり果てたのだ。

報復兵器V2の犠牲となった人々は、推定で1万2685人。
そしてそれを上回る数の人々が、敗色漂う戦時下での無理矢理な報復兵器大量生産に従事させられ、劣悪な労働環境下で力尽き死亡したとされる。

こうして数千発ものV2がナチスの、人類を地獄へ道連れにしようとするかのような滅亡の断末魔とともに発射されたのだ。

ドイツの敗戦直前、フォン・ブラウンはV2開発チームのスタッフたちとその家族、そして膨大な量のV2の資料と部品類と共にペーネミュンデを脱出、アメリカ軍に投降した。
戦後、フォン・ブラウンと彼のV2プロジェクトチームはアメリカに渡り、V2を元に宇宙ロケットの技術を更に発展させていく。
一方、ペーネミュンデに残されたV2の遺構を占領したソビエト連邦は、スターリンによる恐るべき粛清を解かれシベリアから戻ったばかりのロケット技術者セルゲイ・コロリョフにV2の調査と復元を命じた。
こうして、ナチスから解放されたV2はアメリカとソビエトという2つの大国の手中に収まり、人類を高みに導く宇宙ロケットであると共に世界を破滅させ得る殺戮兵器でもあるという二面性をそのままに、東西の2つの大国の覇権争いの渦に巻き込まれていく。

やがて始まる冷戦期、V2はフォン・ブラウンとセルゲイ・コロリョフという生涯相まみえることのなかった二人の男と、そしてアメリカとソビエトの熾烈な宇宙開発競争に於いて極限まで進化を遂げていく。
それは最初の「人工の星」を地球周回軌道に乗せ、人を月に送り、宇宙空間に人が定住する場所をつくり上げた。
そして同時に、世界中のいかなる場所も思いのままに攻撃出来る手段を人類に与え、終わりのない恐怖の象徴となった…

すべては、ペーネミュンデから始まった。
この地でV2…A4の開発を始めた時、フォン・ブラウンは自分が造り上げようとしているロケットがやがて、宇宙へと翔び立つことを予見していた筈だ。
しかし、同時にそれが殺戮の為に使われるということも当然ながら承知していただろう。
「宇宙へ行く」という夢のためなら、彼は悪魔に魂を渡すことも躊躇しなかったということか。
だが、果たしてそれ程の覚悟と信念、もはや諦観というべき境地に人は立てるものなのだろうか…
それとも、彼自身が夢に取り憑かれた悪魔となってしまっていたのだろうか?
夢を叶えて宇宙に行く為には、そうまでしなければならなかったのか…?


その謎を解く鍵が、ここペーネミュンデの歴史技術博物館 にはあるかも知れない。
フォン・ブラウン本人が、そして後にセルゲイ・コロリョフも働いていた往時のペーネミュンデの研究開発施設群で唯一現存する機械工場とエネルギーセンター(火力発電所)だった建物が現在、遠目には廃墟のようにも見える一種異様な外観はそのままに内部は歴史を伝える博物館の展示室となっている。


展示室の入口、かつて機械工場の事務所だったと思しき区画の階段ホールに置かれた、2つの物体。
ひとつは無残に潰れている。
その形状から、恐らくV2の金属製のフェアリング(いや、「弾頭」と呼ぶべきか)であると思われる。






最初の展示室で見学者を出迎えるのは、ロケットの黎明期の記憶だ。


ヘルマン・オーベルト
オーストリア=ハンガリー二重帝国(現ルーマニア)生まれのドイツのロケット工学者。
彼の著作「惑星空間へのロケット」(肖像写真の右上にその本が見える)はドイツにロケットブームを巻き起こし、VfR(ドイツ宇宙旅行協会)設立のきっかけとなり、そして少年時代のフォン・ブラウンにロケットに人生を捧げる決意を促した。
後にはフォン・ブラウンと共にV2開発にも携わることとなる人物である。


アメリカには孤独な先駆者ロバート・ゴダードが、
ソビエトには「ロケット工学の父」コンスタンチン・ツィオルコフスキーがいた。
戦後、両国はフランスと共に戦勝国としてV2の技術を獲得することとなる。

次の展示室では、いよいよペーネミュンデでのロケット開発の幕が上がる。


ペーネミュンデで大きな役割を果たした3人の人物。
ペーネミュンデ実験場設立の立役者、カール・ベッカー
ドイツ陸軍兵器局ロケット開発責任者ヴァルター・ロベルト・ドルンベルガー
そしてヴェルナー・フォン・ブラウン

3人の重要人物と対面した後、いきなりそれは現れた。
展示室の床の木枠の上に無造作に置かれた、奇妙なかたちをした壊れた機械たち。
…まぎれも無く本物の、かつてV2だった部品たちだ。


エンジンの燃焼室上部の燃料噴射ノズルと、の一部。


別角度から。
このノズルは、この建物が博物館の展示室となる以前からここに置かれていたことが的川泰宣先生の「月をめざした二人の科学者」の冒頭に書かれている。
的川先生も1990年10月にこの部品たちと対面されていることになる。


燃料噴射ノズルのズームアップ。
水と混合されたエチルアルコールと液体酸素からなる液体燃料はこのノズルから燃焼室内に供給され、25000キログラムの推力を生んだ。


液体燃料を燃焼室へと送り込むターボポンプ


ターボポンプの駆動に用いる蒸気を発生させる為の酸化水素水タンク
これらは元は潜水艦用に開発されたものをロケットエンジン用に改良したという。


ロケット噴射ノズルスカート下部に設置される、ロケットの飛翔方向を変えるための排気舵(推力偏向板)

これらの部品類は皆、現在使用されている液体燃料ロケットの構成部品の基礎となったものである。




ペーネミュンデで実験が繰り返されるロケット。
だがそれは、恐るべき報復兵器の完成までの過程でもあった。
自らの手で着実に進化していくロケットを目の当たりにしながら、フォン・ブラウンは何を思っただろう。
間もなく到来する宇宙旅行時代への期待と憧憬…
そして、同時に繰り広げられるであろう殺戮への戦慄…
或いは…

そして、これがV2の真実である。



暗い小部屋の展示室。
そこにあるのは、宇宙から叩き落されたロケットと人間の鎮魂の空間だった。
ヨーロッパの都市に墜落したV2。戦争の悪魔によってミサイルへと変貌させられたロケットの、あまりにも哀しく惨めな姿。

…僕は思わず言葉を失った。
宇宙が好きで、ロケットが好きな者にとっては目を背けたくなるような世界。泣きたくなるような絶望。
だが、これが現実なのだ。
ロケットは、原罪を背負って生まれたのである。


それでも、宇宙への飛翔を決して諦めることがなかったのもまた、人間の真実の姿だ。


世界初の人工衛星、スプートニク1号
戦後にソビエトで開発された大陸間弾道ミサイルを転用した宇宙ロケットで、それは打ち上げられた。

現在、世界各国でロケットの打ち上げが行われている。
V2の子供たちが、ようやく本来の目的地…宇宙へと飛翔する日が到来したのだ。


博物館の最後の展示室に掲示された世界地図には、しっかりと日本の2つのロケット射場「Kagoshima(内之浦宇宙空間観測所)」と「Tanegashima(種子島宇宙センター)」の名が刻まれている。
種子島宇宙センターから打ち上げられる液体燃料ロケットH-IIA/H-IIBは、V2の遠い遠い子孫だ。日本から宇宙へ、ロケットはこれからも飛び続ける。きっと、記憶の彼方にペーネミュンデの空を微かに夢見ながら…




博物館の展示室となっている区画以外に、エネルギーセンター時代のまま残されている部屋があった。
がらんとした作業室の中には、どこか教会の大聖堂のような、祈りと誓いの空気が濃厚に漂っているような気がした。


すべての展示を見終えてエネルギーセンターの外に出ると、真冬の北ドイツの短い日はもう暮れかけようとしていた。


エネルギーセンターの裏はそのまま港になっていた。
かつてペーネミュンデの火力発電所を動かすための石炭が輸送船から降ろされていたであろう岸壁には、今は漁船や観光船が停泊している。
この海はペーネの河口、バルト海だ。
かつてフォン・ブラウンやセルゲイ・コロリョフも見たであろう海を紅く染める夕陽を見ながら、僕はここに来るきっかけとなった謎に対する答えを見出そうとしていた。

ロケットは何故、殺戮の道具として生れなければならなかったのか。
フォン・ブラウンは何故、そうまでして宇宙を目指そうとしたのか。


「そうするしかなかった」のだろう、きっと。

ロケットが例え戦争を背景とせず、真に宇宙へ行くだけの為に開発されたとしても、いずれそれは兵器に転用されたであろう。
そしてナチスの報復兵器としてのV2が生まれなければ、人類の宇宙への夢が叶う時が来るのは相当遅れたであろう。或いは、今尚それは実現していなかったかも知れない。

フォン・ブラウンもまた、人間として自分の夢を叶える為にひたすら努力しただけだったのではないか。
悪魔など実はいない、それは考えたくはないが、すべての人間の中に普遍的に存在するものなのではないのか…?

もしそうなら、それは余りにも哀しいことなのだけれど…

…今は、ここまでしか考えられない。
それが真実なのかどうか、それを確かめる術もない。
そして海は、静かな暗闇に包まれようとしていた。


ペーネミュンデを去る前に、もう一度V2に会いたくなった。


V2の隣には、無人有翼飛行爆弾V1も展示されていた。
V2以上に戦果を上げていたというパルスジェットエンジン搭載の飛行爆弾は、今では皮肉にもペーネミュンデのエネルギーセンターを狙い撃ちするかのような姿勢のままで沈黙していた。




V2は何も云わず、夜が訪れようとしている冬空を目指し屹立しているだけだった。
でも、僕はここに来てよかったと思った。

そして、いつかまたここに来たいと思った。



UBB(ウーゼドム海岸鉄道)の列車に乗って、ペーネミュンデを後にする。

さらばペーネミュンデ。
そこは、ロケットの聖地だった。そして、人間の真実を記憶した特別な場所だった。


遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 5、国境の港街に続く

遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 3、廃墟のエネルギーセンター

2012-01-15 | 旅行
ペーネミュンデ エネルギーセンター跡の廃墟に続く線路とV2実物大モデル


遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 2、ベルリン発ペーネミュンデからの続き

ペーネミュンデ駅から続く線路跡を辿って行った先に見えた、廃墟の中に立つV2。
その正体を見極めようと、廃墟となった巨大な赤レンガの建物に近づいてみることにした。

線路跡の先は柵で仕切られていて立ち入れないようなので、線路に沿って伸びる小路を歩いて木立の中を進んで行く。



木立の向こうに廃墟が見えているのだが、木や柵が邪魔をしてなかなか建物に近づくことができない。

ペーネミュンデはV2の試験発射が行われていた最中の第二次世界大戦下に連合国空軍による度重なる空爆を受けており、報復兵器の研究開発施設と工場は尽く破壊された。
当時の建築物としては僅かに機械工場とエネルギーセンター(火力発電所)が残るのみだと的川先生の「月をめざした二人の科学者」 には記されている。
だとすると今、僕の目の前の冬枯れた木立の向こうに聳える、あの高い煙突を備えた廃墟はまさにそれだと思われる。

しかし、かつてエネルギーセンターだった建物は、遠い世界大戦の記憶の奥底から21世紀も十数年が経過した現代へと引き戻されるのを拒むかのように、
中々、日本から遥々やって来たロケット好きな旅行者を袂に招き入れてくれない。


どうにも困ったものだと思いつつ、一旦ペーネミュンデ駅まで戻ってみることにした。
今来た小路を引き返し駅前の交差点まで来ると、果たして線路跡を渡った先に博物館の看板が出ているのに気がついた。


看板の先には、これまたV2開発期の当時からの生き残りだと思われる古めかしい赤レンガの建物を利用した博物館があった。
小さな入り口の銘板にはHistorisch-Technisches Museum Peenemünde (The Peenemünde Historical Technical Museum) とある。
直訳すると「ペーネミュンデ歴史技術博物館」だ。的川先生の本に拠ればペーネミュンデには宇宙博物館があり、1999年の夏には「日本の宇宙開発の成果展示会」が開催されたとあるが、恐らくこの歴史技術博物館のことだろう。

早速、歴史技術博物館に入ってみることにする。
チケットを買って、ついでに荷物を預かって貰おうと、拙いドイツ語の挨拶Guten Tag に続けて英語で話しかけるも、中々通じないので難儀する。
的川先生はペーネミュンデに向かう途中で宿泊した町のホテルで白髪紳士のホテルマンから「この歳になるまで日本人を見たことがなかったんです」と言われて呆気に取られたそうだが、博物館の売店でチケットを売っていた若い女性の職員は勿論、生まれて初めて見た日本人旅行者に戸惑っていたせいで言葉が通じなかったという訳ではなく、恐らく単に僕の英語の発音が酷過ぎるせいだろう。
やっと僕が荷物をクロークに置いて行きたがっていることを理解した彼女は、トランクを受け取ると笑顔でチケットを手渡してくれた。

さあ、ペーネミュンデの“宇宙博物館”を見てみよう…と展示室の入口へと進むと、いきなり屋外に出てしまった。
広い敷地の奥からこちらへと続く構築物は、あれは港から石炭を火力発電所の炉へと運ぶコンベアではないだろうか。



そしてその向こうには、先程近づけなくて途方に暮れたあのエネルギーセンターが見えるではないか。
「何だ、あの廃墟は博物館の一部になっていたのか… 最初からこの博物館に来ればよかったんだな」
そう、今ではペーネミュンデでの報復兵器の研究開発に関連する遺構は、すべてペーネミュンデ歴史技術博物館の展示施設となっているようなのだ。
遠目には廃墟に見えたエネルギーセンターも、博物館の入口から見ると外観はきれいに修復されていて現役の工場のようにも見える。だが、空爆で破壊されたのか或いは自然に朽ち果てて崩れ落ちたのか、3本並んだ煙突のひとつだけ他と高さが揃っておらず背が低くなっていた。

エネルギーセンターの手前の敷地の展示物を見ながら歩いて行く。
ペーネミュンデで働いていた労働者(ソ連軍の戦争捕虜か?)に関する記念碑などが並ぶ向こうに、気になる展示物があった。


ベルリン市内でお馴染みの通勤電車・Sバーンの赤とクリームのツートン塗色をまとった鉄道車輌である。
架線のない空に哀しげに張り上げたパンタグラフが目を引く通り、気動車ではなく電車だ。
ペーネミュンデ駅から続いている線路跡に載っており、駅からこちらへ歩いてくる途中で見えたものだ。


英文も用意されていた案内板に依ると、どうやらペーネミュンデで働いていた多くの人達の通勤用に使用されていた車輌らしい。
今では非電化ローカル私鉄UBBのペーネミュンデ支線となっているこの地の鉄道も、往時は電化されており首都圏のSバーンと変わらぬ姿の通勤電車が走っていたということか。




ペーネミュンデ通勤電車の車内には、現役当時の路線図と時刻表が展示されていた。
路線図を見るとかつてこの辺りの路線は一部区間では複線電化されており、各研究施設や工場へと枝分かれした支線が張り巡らされていたらしい。
時刻表を見ても、朝晩の通勤時間帯にかなりの頻度で列車の運行が設定されたダイヤになっている。

通勤電車の車内で投影されていた、ペーネミュンデ空爆と第三帝国降伏以来打ち棄てられスクラップ同然になっていた電車がこの地に戻り、ドイツの鉄道技師マイスターの手で現役当時の姿に蘇るまでを追ったドキュメンタリー映像に思わず見入った。

「ペーネミュンデは、ロケットだけでなく、消え去った鉄道の幻まで秘めた場所だったのか…」



ペーネミュンデの歴史が染み込んだような電車から降りると、
そこにはあのロケットが天空を睨み鎮座していた。






1942年10月3日。
よく晴れていたというペーネミュンデから、一つの美しい流線型をした人工物が空へと翔び立った。
水とエチルアルコールと液体酸素を推進剤として63秒間の燃焼を終えた時、それは地上からの高度84.5キロメートルに到達。
そこは既に地球大気圏ではない。
人のつくった物体が、宇宙に到達した瞬間であった。

だが、やがてその物体は“間違った惑星”への着陸を余儀なくされる。

人類初の宇宙ロケットA4はやがて報復兵器を意味するV2という名で呼ばれるようになり、
遙か宇宙へと飛ぶのではなく、地球にいる人類の頭上へと墜落させられることになるのだ…



人類を宇宙へと導く筈の美しいロケットは何故、おぞましい殺戮の道具となったのか?
それを生み出した男…フォン・ブラウンは何故、悪魔と契約を結んでまで宇宙を目指そうとしたのか?

その謎を解くために、僕はここまで来たのだ。


遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 4、博物館に続く

遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 2、ベルリン発ペーネミュンデ

2012-01-12 | 旅行
Zinnowitz駅にて ペーネミュンデ行き乗り場


遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 1、プロローグ ベルリンからの続き

2011年12月30日

冬のヨーロッパの夜明けは遅い。
まだ真っ暗な午前8時、ホテルをチェックアウトしてzoo駅へ。ここからSバーン(ベルリン市街・近郊電車)に乗って、数駅先のベルリン中央駅へ。



ベルリン中央駅は、2006年にドイツで開催されたサッカーのワールドカップに合わせて開業した、東西ベルリン統合後の新しい鉄道中央駅。
それまでは長らく、西ベルリン側はzoo駅、東ベルリン側はost駅がそれぞれ中央駅としての機能を分担していたが、両駅の中間に位置する場所を大規模に再開発して、新生ドイツの首都にふさわしい近代的な巨大ターミナル駅が誕生した。
ベルリン中央駅はベルリン市内を東西方向と南北方向に貫く路線が駅構内で立体交差した構造となっているのが特徴で、ここを起点にドイツ国内のみならずヨーロッパ各国へと向かう多くの列車が発着している。

ベルリン中央駅の駅舎上層階にある東西方向プラットホームに到着するSバーンを降りて、ショッピングモールが広がる中層階を通り抜けて地下の下層階にある南北方向プラットホームへと向かう。
ここからRE(Regional Express、日本のJRでは快速列車と特急列車の中間クラスに該当する列車種別)に乗り換える。


ベルリンからドイツ北方へと向かうRE18308に乗車。
赤い客車は背の高い2階建て車輌で、しかも走行方向によっては最後尾に連結された機関車が客車側に設置された運転室から遠隔操作されて編成を推して走る(プッシュプル方式)というとてもユニークな形態の列車だが、これはドイツを始めヨーロッパでは割りとポピュラーな運行方式である。

座席が6~7割ほど埋まる程度の乗客を乗せて、定刻の08:33にRE18308は機関車に推されてベルリン中央駅を発車した。
いよいよ、ペーネミュンデへと向かう鉄路の旅が始まる。
プラットホームから続く地下区間を抜けて地上へと出ると、ようやく夜が明けて辺りが薄明るくなってきたところだった。朝のベルリン近郊を、RE18308は「こんなに速く後ろから客車を推して大丈夫か、バランスを崩して転覆したりしないかな」と思わず心配になる程の小気味良い速度で快調に飛ばしていく。
2階の高い位置にある窓からの眺めも格別で、実に爽快な旅立ちとなった。






ベルリンを離れて森と田園風景の中に入ると車窓には雪が舞い始めたが、
すぐに雪は止んで印象派の絵画のような趣きのある曇り空となり、
やがて冬なのに緑の鮮やかな牧草地の上に宇宙まで抜けるかのような濃い青空が広がった。


RE18308はダイヤ通りの定時運転で北ドイツの田園地帯を駆け抜け、11:03にZussow駅に到着。
ここがDB(ドイツ鉄道)とローカル鉄道のUBB(ウーゼドム海岸鉄道)の接続駅であり、ペーネミュンデのあるウーゼドム島へと続く路線が分岐している。
RE18308の到着したプラットホームの向かい側に、小さな可愛らしいUBBの列車が待っていた。多くの乗客がUBBの列車へと乗り換える。
すべての乗客が乗り込むのを待っていたかのように、僅か4分の接続時間で11:07にUBB29419列車はZussow駅を発車。
UBBは非電化単線のローカル線だが、走っているのは軽快なトラム(新世代型路面電車)のような真新しい車輌で、ディーゼルエンジンの動力が搭載された部分が完全に独立した別車体となっている連接構造なので、客室内は非常に静かでとても快適な乗り心地だ。


暫くすると川を渡るが、この流れによってウーゼドム島はヨーロッパ大陸から切り離されバルト海に浮かぶ島となっている。つまりこの川は海峡でもある。
チェコに源を持ち、ポーランドを流れて来たオーデル川から続く水の流れは幾つかの小さな海峡となってバルト海へと注ぎ、その一つがペーネ川と呼ばれペーネミュンデの地名の由来となっているようだ(ミュンデはドイツ語で河口という意味)。

海峡の川を渡ってウーゼドム島に入り、11:46にZinnowitz駅に到着。ここで降りて、もう一度列車を乗り換える。
ペーネミュンデへと向かう路線はUBBの中でも支線扱いとなっており、Zinnowitz駅とPeenemunde駅との間で折り返し運転を行なっているので、ここでUBBの列車を乗り継ぐ必要がある。



Zinnowitz駅のプラットホームの一端を欠き取った「0番のりば」のような場所に、Peenemundeと表示した車輌が停車していた。
これが、宇宙ロケットが生まれた町へと行く列車だ。

ペーネミュンデ行き列車の発車時刻までまだ時間があるので、Zinnowitz駅のプラットホームを散歩する。


小さなレールバスが、側線に留置されている。
車体の汚れ具合から、既に運用から離脱して廃車解体待ちといった風情だが、かつてペーネミュンデ支線で使用されていた車輌だろうか。


ディーゼル機関車も側線で休んでいた。
こちらは足回りに手入れされ使い込まれた形跡があり、まだ現役で使用されているようだ。

鉄道好きの興味の向くまま駅の構内を見て回っているうちに時間が過ぎた。
12:12、ペーネミュンデ行きUBB24118列車はZinnowitz駅発車。



この線路の向こうに、“約束の地”がある。
Zinnowitzから先のUBBの沿線はかつて、ペーネミュンデで開発されていたV2と、パルスジェットエンジン搭載の無人有翼飛行爆弾V1のそれぞれの研究開発施設が立ち並んでいた地域で、
ペーネミュンデの一つ手前に駅があるKarlshagenという集落にはフォン・ブラウンの住んでいた宿舎があったという。
今はただ長閑なヨーロッパらしい森と田園が広がるだけで、往時の宇宙ロケット基地…いや、報復兵器開発の秘密基地だった頃を偲ばせるものは何も無い。


12:26、UBB24118列車はペーネミュンデに到着した。

「遂に…やって来たぞ、ロケットの聖地へ!!」

僕がペーネミュンデへの興味を抱くきっかけの一つとなった、的川泰宣先生の著書
「月をめざした二人の科学者 アポロとスプートニクの軌跡」によると、
的川先生も1990年10月にこの地を訪れられている。
折しも東西ドイツ統合直後、それまでは西側の者には近づくことすら難しかった旧共産圏・東ドイツの辺境がようやく一般の旅行者にも解放された時期で、ちょうどIAF(国際宇宙航行連盟)の学会総会が開催されていたドレスデンから列車とバスを幾度も乗り継ぎ、途中一泊しての長旅で的川先生はペーネミュンデのとなり町Karlshagenに到着、学会で知り合った地元出身の青年科学者に案内してもらってペーネミュンデを見て回られたそうだ。
その時、ペーネミュンデの責任者から「ここに入った日本人は、あなたが初めてだと思いますよ」と言われて的川先生は驚かれたそうだが、それ以来二十年と少しの間にペーネミュンデを何人の日本人が訪れたのだろうか。
ともあれ21世紀も10年以上が経過した今日、的川先生が来られた時には乗ることが出来なかったペーネミュンデ行きの列車に乗って、旅行者は首都ベルリンからここまで僅か4時間余りで来ることが出来る時代になったのである。






ペーネミュンデの駅は、片側1面のプラットホームにバス停のような簡便な待合所があるだけの小さな終着駅だった。
観光客風の乗客数名を降ろして、列車が折り返し走り去っていくと辺りは冬の静寂に包まれる。


ペーネミュンデは現在では夏の避暑地であるウーゼドム島の観光名所の一つとなっているようで、駅前にはカラフルな観光案内の看板も出ていた。
バルト海を巡る観光船も出ているようだが、さすがに冬のこのシーズンには運休しているのだろう。

ペーネミュンデ駅のさらに先へと、線路は枯れた冬草に埋もれながら続いている。


この地で報復兵器が急ピッチで研究開発されていた頃には、日夜大勢のロケット研究者や科学者、エンジニア、そして軍人や作業従事者を乗せた通勤列車が発着し、
ロケットや有翼機の製造資材・部品等の物資が貨物列車で運び込まれて、ペーネミュンデ駅は大いに賑わっていたであろうが、線路も草に埋もれ赤錆た今では遠い歴史の彼方である。

…だが、線路を辿って歩いていくと、突如として遠い記憶を呼び覚ますかのような一種異様な光景が広がっていた。


線路は、工場の跡地のような巨大な赤レンガづくりの廃墟が見える区画へと伸びている。
その先には、廃車となった鉄道車輌と思しきものと一緒に、確かに見憶えのある物体が天空を目指し屹立している…

「あれは… ロケットだ、V2だ!!」

遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 3、廃墟のエネルギーセンターに続く

遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 1、プロローグ ベルリン

2012-01-08 | 旅行
夜のベルリン、クーダム大通り



 大いなる夢を成し遂げるためには、
人は時に悪魔に魂を売り渡す程の覚悟と揺るぎようのない信念、
或いは諦観の境地が求められることもあるのだろうか…





人類の飽くなき宙(そら)への想いを乗せて地上を翔び立ち、煌めきながら大宇宙へと羽ばたくロケット。
それは好奇心と努力の調和であり、進歩と発展の賜であり、そして何より平和の象徴である。
だがしかし、現在世界中で用いられているロケットの大部分…液体の燃料と酸化剤を推進剤として用いる「液体燃料ロケット」は、その起源を遡るとすべて最終的にひとつのロケット、いや“報復兵器” へと辿り着く。
第2次世界大戦末期、ナチスの支配するドイツ第三帝国陸軍によって連合国への報復攻撃に使用されたV2(或いはA4)ロケットは、人類史上初の大陸間弾道ミサイルとして余りにも多くの人命を奪った。
それでもV2は「最初に宇宙空間に到達した人工物」であり、
宇宙への旅を夢見て、月を、火星を目指した一人の科学者、ヴェルナー・フォン・ブラウンがその夢を託して心血を注いで造り上げた宇宙ロケットの始祖に他ならないのである。



ロケットは何故、おぞましい殺戮の道具として生れなければならなかったのか。
フォン・ブラウンは何故、悪魔と契約を結んでまで宇宙を目指そうとしたのか。
宇宙が好きで、そこを目指す宇宙機・探査機・衛星たち“宇宙の子”を載せて翔び立つロケットが好きで、そのことに情熱を燃やす人たちが好きな僕の中でそれは大きな謎で在り続けた。
そして、そんなロケットが初めて宇宙へ旅立った地…遙かバルト海の沿岸、かつてV2の秘密基地が建設されたペーネミュンデに自分の足で立ち、自分の目で見て確かめたかった。

2011年暮れから、僕は念願を果たしドイツ東部ポーランド国境近くの小さな港町ペーネミュンデへと旅した。
大いなる謎を秘めたロケットの聖地、V2の生まれた地を目指す旅の記録に、暫しお付き合い願いたい。


2011年12月29日

前泊した博多駅近くの馴染みのビジネスホテルを夜明け前にチェックアウト、早朝の福岡空港発成田空港行きANA便で午前中早い時間には成田空港の第1ターミナルに到着した。
飛行機を降りたボーディングブリッジの先がそのまま出国審査カウンターに直結していて、成田に着くなりあっという間に出国手続き完了。



更新したばかりの真新しいパスポートに出国スタンプが捺されると、思わず
ああ、よかった。また新たな旅に出られる…と幸せな気分に浸ってしまう。
何しろ、前回の旅先であるエジプトのカイロ市内でパスポートを盗まれるという一世一代の大失態を演じてしまって以来暫く自粛していたので、実に約2年半ぶりの日本出国なのだ。
(→天燈茶房TENDANCAFE ダマスカス・カイロ2009夏旅行

今回は、成田から欧州大陸までの移動はルフトハンザドイツ航空を利用。
ルフトハンザは成田発だとフランクフルト行きの便は話題の超大型機エアバスA380を使用しているのでちょっと乗ってみたかったのだが、Webの公式ホームページで予約した福岡空港発着でドイツ・ベルリンまでの正規割引航空券で指定されたルートは乗り継ぎ時間の関係か成田発ミュンヒェン乗り継ぎとなってしまった。


こちらがそのルフトハンザのミュンヒェン便、LH715便 エアバスA340-300
午後1時過ぎには定刻通りに離陸。
この日の関東地方は冬晴れで、青空への爽快な出発となった。

そして何と!
twitter宇宙クラスタの方が地上から僕の乗ったLH715便を激写して下さっていたのだ!

Fifth Starさん撮影

成田離陸後、奇しくも筑波宇宙センター上空辺りで旋回して東北新幹線に沿うように北上したらしいLH715便は、そのままシベリアへと抜けて北極圏の長い夕暮れを迎える。



やがて機内では機内食の昼食や免税品販売サービスも終わり、消灯されて乗客も寝静まった。
そっと窓の日除けを上げてみると、A340-300の右舷には三日月が上っていた。翼は月影で輝き、その前方には微かに宵の明星も見ることが出来た。僕も、暫く仮眠を取った。

一眠りしているうちに広大なシベリアを飛び越えてしまい、目覚めるとLH715便はもうウラル山脈上空に差し掛かっている。この先はもうヨーロッパだ。
配られた機内食の夕食を慌ただしく食べ終えて、ほぼ定刻の現地時間午後5時半にミュンヒェン・フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス空港に到着。
時計の上では僅か4時間半しか経っていないが、実際には12時間半のユーラシア大陸横断フライトだった。



ドイツの入国審査を急いで通過して、1時間半後にはルフトハンザの国内線ベルリン行きLH2050便に乗り継ぐ。
ミュンヒェンから約1時間で、ベルリン・テーゲル空港に到着。



ドイツの首都であるベルリンには空港が幾つかあるらしいが、その中でも最も大規模だというテーゲル空港も日本の地方都市の空港のようなとても小さなターミナルしかない。これもやはり、ベルリンの街が冷戦期に長らく東西に分断されていた影響で一つの大きな空港が造れなかった為なのだろうか。
尤も、ドイツの東西統一を果たして久しいベルリンでは首都にふさわしい新空港が整備中で、2012年には新空港が完成しテーゲル空港も廃港となる予定だという。

テーゲル空港からは路線バスX9系統に乗って、20分ほどで西ベルリンのzoo(ツォー)駅前に到着。今夜のホテルもこの近くに予約してある。
zoo駅はその名の通りベルリン動物園の前にある駅なのだが、東西分断時代には西ベルリン側の実質的な鉄道中央駅として機能していた。その名残で、今でもzoo駅周辺はベルリン市内の交通ターミナルの一つとなっている。



ホテルにチェックインする前に、zoo駅のドイツ鉄道(DB)の旅行センター(日本のJRだと「みどりの窓口」にあたる)で明日乗るペーネミュンデまでの列車の切符を購入した。
事前にDBの公式ホームページで乗り継ぎを調べて、乗車経路を記したメモを用意しておいたので、とてもスムーズに購入できた。
DBの公式ホームページではヨーロッパのほぼ全域の鉄道の時刻を簡単かつ正確に調べることが出来る。一説によるとドイツ以外の欧州各国の駅窓口でも時刻検索用に愛用されているという、実に利用価値の高いサイトである。
実は今回の旅で、ペーネミュンデまで鉄道で行くことが出来るということを知ったのも、何気なくDBサイトで行き先欄に「Peenemunde」と入力して検索してみたところ、たちどころにペーネミュンデまでの列車の乗り継ぎ経路が表示されたからなのだ。 


DBの旅行センターで購入した切符は、日本のJR券のように磁気券ではなく(これは駅に自動改札などが存在しないせいだろう)、A4サイズの書類に印刷された大きなものを渡される。
僕は今までヨーロッパ旅行の際は主に乗り放題のユーレイルパス等を使用していたので、DBの旅行センターで切符を買ったのは実はこれが初めてなのだが、
三つ折りのA4用紙の上段に乗車する列車の発着時間などのデータが詳しく記載された行程表になっていて下の段がチケット本体となっており、自分の乗る列車の時刻などが行程表で一目でわかるし乗り継ぎの詳細も確認しやすい。
機能的で乗客に親切な、とても良いシステムだと感心した。
ベルリンzoo駅発ペーネミュンデ行きの切符、2等車利用で片道42.60ユーロ也。

ペーネミュンデまでの切符は無事に購入できたので一安心。
夜の西ベルリンの繁華街、クーダム大通りを散歩してホテルに帰ろう。



クリスマスは終わったが、年越しを控えてクーダムの街路樹は華やかなイルミネーションで輝いていた。

「さあ、明日はいよいよペーネミュンデへ行くぞ!」

華やぐ街角に、ロケットの聖地への旅立ちへの高揚感もいやが上にも高まる。ホテルでは荷解きをせぬまま、シャワーで大陸横断の疲れだけを洗い流してドイツで最初の夜の眠りに就いた。

遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 2、ベルリン発ペーネミュンデに続く

Happy New Year! ~ペーネミュンデに行って来ました~

2012-01-05 | 日記
明けましておめでとうございます

2012年も天燈茶房TENDANCAFEを宜しくお願いします mitsuto1976


僕は年末年始の休暇はドイツへ旅行していて、昨日帰って来ました。
ドイツ北部、バルト海沿岸にある小さな港町ペーネミュンデ に行ってきたのです。
ここは、実は人類史上に名を残す記念すべき場所。
初めて宇宙空間に到達した人工物である液体燃料ロケットが打ち上げられた場所なのです。

有史以来、人類が空へと伸ばし掲げ続けた手が遂に宇宙へと届いた輝かしい栄光とは裏腹に、ここは永遠の悲劇の始まりの地、原罪の地でもあります。
今日、世界各国で打ち上げられ人類の進歩と平和に貢献している液体燃料ロケットは、第2次世界大戦末期にナチスの報復兵器「V2」としてペーネミュンデで産声を上げたのです…

人類の夢と叡智の結晶が、何故おぞましい殺戮の道具として生み出されなければならなかったのか…?
そのことは、宇宙が好きで宇宙機とそれを飛ばす情熱あふれる人たちが好きな僕の中で常に謎で在り続けてきました。その地へ行けば、何か答えが見えてくるかも知れないと考え続けていました。

でも、何より僕は大好きなロケットが初めて宇宙へ旅立った地を純粋に見てみたかった。
行ってみたかったのです、ペーネミュンデへ。
特に今、僕の周りでもいろいろと気がかりなことがあり、それらのことも彼の地で考えてみたかったのです

念願叶ってペーネミュンデへと旅して感じたことの記録を、これから少しづつ綴っていこうかと思います。
今回も、どうか気長にお付き合い下されば幸いです。