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2015夏 ドイツ/クロアチア/ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紀行 12:束の間のサラエボ~戦争の記憶

2015-10-06 | 旅行記:2015 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
SARAJEVO/CAPAJEBO 2015


11:ザグレブ発サラエボ行き397列車の旅 後編からの続き

夜のサラエボ駅は、到着した397列車の乗客たちが立ち去ってしまうと、だだっ広いコンコースが閑散としてしまった。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都の表玄関だというのになんとも寂しい限りだ。
せめて写真でもと思い駅舎内でカメラを構えると、とたんに警備員から「NO PHOTO!写真はダメだ!!」と警告を受ける。おそらくテロ対策だろうが、ヨーロッパの鉄道駅でここまで取り締まりが厳しいのは珍しい。
強引に撮影しようとして揉め事になったり、大事なカメラを没収されたりしたくないので、大人しく引き下がる。

長旅を終えてサラエボに着いた記念の写真が撮れなくて残念だが、気を取り直して今夜の宿に向かう。
今夜はサラエボの目抜き通りに面したホテルを予約しておいた。はやくチェックインしてひとっ風呂浴びてからぐっすり眠って、国際列車の旅の疲れを癒やしておきたい。

サラエボ駅前にはトラム(路面電車)のロータリーがあり、目指すホテルまではトラムで行けるらしいのだが、あいにく電車賃のボスニア・ヘルツェゴヴィナ通貨を持っていない。
駅の構内には両替所も無いし、ひょっとしたらタバコ屋に頼み込めばユーロでもトラムのチケットを売ってくれるかもしれないが、なんだか面倒くさくなってきたのでトラムに乗るのは諦めて徒歩でホテルを目指す。

駅とホテルの位置関係は一応、頭に入れておいたのだが、それでも目抜き通りに出てからちょっと道に迷い、近くを歩いていた人に道を聞きながら何とかホテルに辿り着いた。
駅からホテルまで歩く間に、サラエボの街がとても治安が良くて住民も親切な人が多いことがよく分かった。夜なのに小さな子供を連れた家族連れやお年寄りや若い女性も大勢道を歩いていたし、そんな人たちに片言の英語でホテルまでの道を聞くと、ボスニア語で身振り手振りを交えてとても丁寧に教えてくれたからだ。





2015年8月11日



日の出の太陽の光と、街に響き渡るアザーン(礼拝の時間を告げるモスクからの呼び掛け)で目を覚ます。
サラエボはイスラームだけでなく東方正教会とカトリック、そしてユダヤ教とが共存する街で、モスクや教会にシナゴーグ、バザールまでもが存在するという。

そんな人種・民族と宗教のるつぼであり、長い歴史を秘めた魅力的な街であるサラエボだが、僕には滞在する時間がほとんど無い。今日の午前中にサラエボ駅から再びクロアチアの首都ザグレブに戻る列車に乗らないといけないのだ。
今回の旅では「クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナを結ぶ国際列車に乗ってみること」が目的の旅程を組んだので、サラエボには一晩だけの束の間の滞在になってしまった。

せめて、ホテルから駅に戻るまでの道すがらにサラエボの街歩きをしようと思う。
今日も長旅の列車に乗るのに備えてホテルの朝食ビュッフェを腹一杯食べて、気力と体力をつけたらさぁ行こう!


ホテルの面した大通りが、サラエボの街を貫くにぎやかなメインストリート。
朝から多くの車が行き交う通行量の多い幅の広い道路には街路樹の並木が続き、トラムの線路が中央を通り、道の両側は高層のマンションや商業ビルが立ち並んでいる。

だが…
道の両側に立ち並ぶビルをよく見ると、そこに異様な痕跡があることに気が付く。


大通りに面したマンションの外壁一面を覆う、夥しい数の無残な穴。
この穴は、銃弾の跡だ。

今から20年前まで、この街は悪夢のような戦争の最前線だった。
ユーゴスラビア崩壊に伴うボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争で、1992年から1996年までの間、ここサラエボは包囲され市街戦が繰り広げられた。
そして、街の目抜き通りに建つビルの上層階には狙撃手(スナイパー)が身を潜め、通りを歩こうとする者を全て射殺したという。

…いつしか、サラエボ市民はこの大通りをこう呼ぶようになったという。
「スナイパー通り」と。




「スナイパー通り」を駅の方に歩いて行くと、派手な黄色い外壁の建物が見えてくる。


ホテル「ホリデイ・イン サラエボ」

世界中の街にあるホリデイ・インの一つだが、ここはボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争のサラエボ包囲時、激しい市街戦が繰り広げられるまさに戦争の最前線の「スナイパー通り」にあるにもかかわらず、最後まで通常営業を続けていた。

戦場のサラエボにあるホリデイ・インに宿泊していたのは、世界中から集まったジャーナリスト達だ。
サラエボの惨状とボスニア・ヘルツェゴヴィナでの戦争の悪夢は、このホテルからまさに命懸けで世界中に報道され、多くの人々が現在起きている目を覆わんばかりの事実を知ることになった。

「ホリデイ・イン サラエボ」は戦闘終結後にホリデイ・イン系列から売却されたが、現在も「ホテル ホリデイ」として内戦時のサラエボ包囲の頃と同じ建物で営業を続けている。




「ホテル ホリデイ」のエントランスには、オリンピックのシンボルマークとエンブレムのモニュメントが掲げられていた。1984年2月に開催されたサラエボオリンピックの名残りだ。
「ホリデイ・イン サラエボ」も元々は平和の祭典であるオリンピックにやって来る世界中の人々を迎える為に建てられたのだろう。

だが、それから僅か8年後に、このホテルがこの世の地獄と化したサラエボの街の姿を世界中に発信する最前線基地になろうとは…!

現在、再び平和を取り戻したサラエボの街角に、一度は地獄を見たこの街が、世界で一番平和に輝いた頃のままの姿で佇み続けるこのモニュメントは、僕たちに静かに何かを語りかけてくれているような気がした。



どうか二度と再び、この街に戦争の悪夢が訪れることがありませんように…
その為に僕に出来ることは一体何だろう?その答えは、この旅の先に見えてくるのだろうか…



「ホテル ホリデイ」から「スナイパー通り」を挟んだ斜向かいに建つボスニア・ヘルツェゴヴィナ国立博物館。
ここもサラエボ包囲の市街戦で破壊されたが戦後に修復が進み、間もなく展示が再オープンされるという話がある。
この次にこの街に来たら、「ホテル ホリデイ」に泊まって国立博物館を見学するのも良いかもしれない。


国立博物館の前の「スナイパー通り」の交差点を駅の方に曲がった所にあるのは在サラエボのアメリカ合衆国大使館。
広大な敷地の周囲が要塞のように高い柵で覆われ、常に警備員と職員が道行く人にも目を光らせているような印象だ。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争時にはアメリカとNATOもボスニア・ヘルツェゴヴィナ領内の空爆を行った過去があるので、今でもかなり警戒している模様。


そしてアメリカ大使館の先に、サラエボ駅がある。

昨夜着いたばかりのこの駅から、もう旅立たなければならない。
サラエボには、先程少し街歩きして見た場所以外にも見どころがたくさんある。このまま去るのは本当に惜しい。必ず、いつかまたこの街に来ようと思う。


サラエボ駅のプラットホームには、小さな可愛らしいタンク機関車のSLが保存展示されていた。
このSLもまた、この地で過酷な戦争を生き延びてきたのだろう。

今、この駅を発着する列車と乗客、旅行者たちを静かに見守るSLは
「どんな過酷な状況でも、生きていればいつか必ず穏やかな日々が戻ってくる。
線路の先には、この国と世界の輝く未来がきっとある。
だから、旅人たちよ、生き抜いて旅を続けるんだ!」と力強く励ましてくれている。
そう感じながら、サラエボ発の列車に乗りこの街を去る。

さようならサラエボ。
束の間の滞在だったけれど、僕に多くのことを語りかけてきてくれたこの街に、いつか必ずまた戻ってくる…!

13:サラエボ発ザグレブ行き396列車の旅 前編に続く