1903年(明治36年)、初代伊藤忠兵衛が他界したときに八重夫人の指名で当時17歳であった精一が2代目伊藤忠兵衛を襲名、実質的な社長である店主代理には次女の婿であった忠三が指名されている。
伊藤忠兵衛の豊郷本宅
精一は1886年初代忠兵衛の次男として生まれたが、長男が夭逝したために早くから後継者とされていたらしい。
八重夫人は、伊藤忠商店の成長とともに1日で数万反を超える近江麻布の調達責任者となり、また社員採用と教育の責任者として多忙を極めるようになり、伊藤忠商店の実質的共同経営者になっていたようである。
丸紅飯田の100年誌に載っていた伊藤忠兵衛が使っていた印半纏
従って、彼女が初代伊藤忠兵衛の後継者として17歳の次男精一を指名したときも、彼女によって採用され教育されていた伊藤忠商店の幹部は、誰も逆らえない強い立場にいたのである。
2代目伊藤忠兵衛を襲名した精一(2代目伊藤忠兵衛)は、八重夫人の命で当時在籍していた滋賀県立商業学校を中退し、繊維問屋伊藤本店の丁稚として商人の道をスタートさせている。
2代目伊藤忠兵衛像
近江八幡にある滋賀県立商業学校は、2年後の1905年にウイリアム・メレル・ヴォーリズが英語教師として赴任しているが、当時から実業界を希望する優秀な学生が全国から押し寄せる名門校であった。
ウイリアム・メレル・ヴォーリズ
2代目伊藤忠兵衛は、得意先に商品を担いで訪問する地方回りの下積み仕事を5年間経験したあと、1908年には伊藤忠本店、伊藤京店、伊藤西店、伊藤糸店、伊藤染工場の5社を合同した「伊藤忠兵衛本部」の代表となっている。
伊藤糸店の宣伝用木版画
江戸時代、その商才を江戸っ子から妬まれていた近江商人の中で、伝統の商才を発揮して最も成功したのが初代と2代目の伊藤忠兵衛であろう。
伊藤忠兵衛翁碑
伊藤忠兵衛記念館には、2代目伊藤忠兵衛が使っていたステッキやカバン、蓄音機などが展示されていた。
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