義和団事変の続きです。今回は大阪府咲洲庁舎からの展望と一緒に紹介しましょう。1990年8月、北京に籠城する外交官救出に向かった連合国軍は、あまりに急いだために兵士への食糧供給が置き去りにされ、列国軍は占領した地方の物資を現地調達する略奪競争がはじまっています。・・・京セラドーム大阪周辺部だけ光が当たっています。
8月11日、北京公使館街の東30kmにある通州城を攻撃した日本軍は城内にあった白米5万石を接収して兵士に給付、これを見た列国軍は、北京への抜け駆け競争にさらに拍車をかけたようです。・・・その拡大
翌日の連合国指揮官会議では、ロシアが疲労している軍を休ませたいと提案、日本は反対しますが、結局この提案が入れられ、北京攻略を15日とすることが決定しています。・・・あべのハルカス
しかし、通州城の白米を日本に先取りされた空腹のロシア軍は、北京一番のりを狙って13日までに北京城門まで進軍、14日の未明、まずロシアが攻撃開始時間と受け持ち場所を無視して単独で北京城の攻撃に出ています。・・・宝塚方向
各国軍もある程度予想していたのか、14日の夜明け前に北京城の城門に到着、イギリス軍(2250人)の受け持ち場所には偶然敵がいなかったためイギリス軍が午後3時頃に入城、日(7200人)、露(3480人)、米(1820人)も14日夕方までに入城、フランス軍(400人)の入城は15日の未明だったようです。・・・千里中央付近
北京では、ロシア、フランス、イギリス(特にインド兵)による略奪、放火、殺人、強姦が相次ぎ無政府状態となりましたが、皇城だけは、日本軍とアメリカ軍が押さえ、日米共同で守ったために今も故宮博物館に収蔵されている美術品の破損や略奪などの被害が免れています。・・・阪急西宮北口周辺
さて、義和団事変後の公使会議(日本代表は45歳の小村寿太郎)では、各国の救援軍派遣費や在留民損害費を清国へ請求する賠償要求額の問題が難航しています。(日本の国庫支出は、総額4千3百万円)・・・神戸
まず最初に日本の小村が接収した馬蹄銀を差し引いた実費5千万円(現在の2千億円程度)の要求額を出すと、、日本の40%の兵力だったロシアは1億8千万円(同7千4百億円)を要求、16%のドイツは1億3千万円(同5千2百億円)、15%のフランスが1億6百万円(同4千2百億円)、30%のイギリスは6千5百万円(同2千6百億円)と、西欧では常識だった法外な金額が提示され、各国は清国から支払いを受けています。・・六甲アイランド付近
原価しか請求しなかった日本外交を西欧諸国は幼稚と見たようですが、この事変への対応と賠償要求を通じた国際的信用(特にイギリスとアメリカの信用)を取り付けたこと、清国から感謝されたことで日本外交の目的は達成できたのでした。・・・関電南港発電所の煙突と関空ゲートタワービル
これ以降、中国人の日本を見る目が変わり、中国から日本へ渡る留学生が大幅に伸びていますが、明治時代の日本には、柴五郎、小村寿太郎など素晴らしい人物がいたようです。
参考文献:北京燃ゆ 義和団事変とモリソン ウッドハウス暎子著、北清事変と日本軍 斉藤 聖二著