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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



中曽根内閣の「副総理格」と見なされた政治家後藤田正晴(1914~2005年)は、大地主だった両親が亡くなったことで姉の嫁ぎ先の阿南市に移り、富岡中学(阿南市にある今の富岡西高校)を卒業、旧制水戸高校から東大法学部、さらに8番の席次で高文試験に合格して内務省に入省しています。・・・JR阿南駅

後藤田の富岡中学時代の同級生が同校を首席で卒業した小川信雄(1912~2002年)で、小川は貧しい家の出身だったために旧制高校に進まず、陸軍の特待生として徳島高等工業(現徳島大学薬学部)、さらに陸軍軍医学校で薬学を学び陸軍薬剤少佐まで昇進しています。・・・阿南駅からの商店街

戦後、小川信雄は故郷で薬局を開業、その後蛍光灯ランプ用の蛍光原料を製造する日亜化学工業という小さな会社を1956年(昭和31年)阿南市に設立しています。・・・阿南駅の駅前

蛍光体原料のメーカーとなった日亜化学工業は、のちに高輝度青色発光ダイオードを1993年製品化、開発を担当した中村修二氏は、2014年のノーベル物理学賞受賞のインタビューで、感謝したい人物の筆頭として小川信雄社長の名を挙げています。・・・阿南駅から徳島駅方向

小川信雄は、1989年(平成元年)に日亜化学の社長の座を譲り、新設の会長職に退いていますが、政治家後藤田正晴の地元後援会長として二人の交流は小川が亡くなるまで続いたようです。・・・これも阿南駅

昭和34~37年、自治省税務局長となっていた後藤田正晴が、まだよちよち歩きの日亜化学工業を強くバックアップ、今の日亜の恩人だったという噂話をこの阿南市で聞いたことがあります。・・・商店街から見た阿南駅

小川信雄は後のインタビューで「(同級生の)後藤田とは、この十年間会ったのは数えるほどだ。私は後藤田と会うことによって何がしかの恩恵を被っていると思われるのが嫌なのだ」と答えていますが、実際はどうだったのでしょうか。・・・阿南市のY字路

ところで今も阿南市(人口73662人)の郊外に本社のある日亜化学工業の報告書(株式非公開)を見ると、昨年(2014年)の連結売上高は3487億円、経常利益990億円(利益率28.3%)、総資産額7033億円、従業員8239名という超優良企業となっていました。・・・これもY字路

小川信雄が研究の支援をした中村修二氏はノーベル賞、起業した会社は超優良大企業に成長しているので、素晴らしい経営者であったことは間違いありませんね。・・・阿南商工会議所

参考文献: 後藤田正晴 異色官僚政治家の軌跡 保坂正康著



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