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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



1704年に付替えられた大和川によって運ばれた土砂で海が浅くなり、2キロ近く離れた堺港に船が入れなくなったことが堺の衰退につながったという説がある。

現在の堺港



しかし、「堺市史」や「大和川付替えと流域環境の変遷」によれば、堺の衰退には4つの複合した要因があり、大和川の土砂流入はそのうちのひとつに過ぎないという。

大和川大橋の下流にある阪堺大橋



最大の要因は、1639年のポルトガル船の渡航禁止令によって、堺に入港する外国との交易船が完全に途絶えてしまったこと。

阪堺大橋下流の湾岸道路の高架橋が大和川最後の橋



次に徳川時代に入り、水運に恵まれた大坂に諸国の蔵屋敷が集まり、大坂が天下の台所として大発展したことで堺の地位が低下したこと。

湾岸道路の高架橋を河口側から見る



3つめに大阪湾には、もともと海岸線に沿って右回りの海流があり、それに乗って運ばれた砂は、湾の先端にある堺港付近に堆積しやすい地形であったこと。

最後に大和川付替えによる土砂の堆積があったこととしているが、大和川から運ばれた大量の土砂を活用した新田開発が1723年頃より盛んになっている。

湾岸道路の下から大和川の河口を見ると明石海峡大橋が見える




大和川右岸(北の大阪側)の新田開発は、大坂淡路町の両替商であった加賀屋甚兵衛が中心となり、河口から西に向かって1730~1843年頃まで続いている。

1754年に建てられた加賀屋の新田会所跡が、今も大和川の右岸から程近い加賀屋新田の一画、南加賀屋4丁目に残されている。



阪神高速湾岸線が大和川を斜めに渡る高架橋付近の川幅は、300メートルに広がっているが、ここ辺りまでの両岸が江戸末期までの新田(埋立地)のようで、1704年の完成時より河口が2キロも西に移動している。

現在の河口の先には、明石海峡大橋が見える



その後も大和川の両岸は、埋め立てられ関西電力発電所のある住之江区南港南の西端と堺市西区の北端を現在の河口とすれば、大和川河口は江戸末期よりさらに5キロも西に移動していることになる。



また川幅が500メートルくらいに広がっている南港南地区から大和川左岸を見ると、シャープの大工場群があるので、日本を代表する先端企業、シャープも大和川の恩恵を受けているのである。



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