「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。みんなだまされたというけど、じゃあ、だまされたと言っている人は他の人をだましてはいなかったか。本当はみんなで夢中になって、だましたりだまされたりしていたのではないか。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたよう な民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたか を思い出してみれば 直ぐにわかることである。
戦争中、街で人の服装をチェックして「非国民」と言っていたのは、あなたたちでしょうと。市民の生活を圧迫していたのは市民。戦争責任といういけど、戦時体制の締め付けに狂奔していたのが、あらゆる身近な人たちであったことは何を意味するのか
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである
いくらだますものがいても、だれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は 成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど 批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。(略)
だまさ れていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。
伊丹万作
伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年(明治33年)1月2日 - 1946年(昭和21年)9月21日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優、エッセイスト、挿絵画家。 本名は池内 義豊(いけうち よしとよ)。 「日本のルネ・クレール」と呼ばれた知性派の監督で、挿絵画家として活躍後、同窓の伊藤大輔の勧めで映画界に入り、片岡千恵蔵プロダクションへ入社した。
1946年(昭和21年)、6月頃から田中正三の生涯を描く構想を練っていたが[1]、病状が悪化し、同年9月21日午後6時30分、伊藤大輔と妻子に看取られながら、京都市上京区の自宅で死去[28]。満46歳没。辞世の句は「病臥九年更に一夏を耐へんとす」[30]。
万作は、脚本家として弟子を取らなかったが、橋本忍だけには目をかけアドバイスをしており、実質的な弟子であった。伊丹の助監督から後年名を成した監督としては市川崑がいる。
息子 伊丹十三
自殺したということになっている。某宗教団体のことを映画化しようとしていた矢先だった。
伊丹万作の 予言とおりになりそうです。今や 事実を伝えることさえ 命がけです。
根性の無いわたしは ドキドキしながら ブログを書いています。