忘れないように書いておこう
昨日 3年振りに カフェで おはなし会を開いた
病と戦っている 元メンバーの為にひらいたのだが
情けは他人の為ならず の本当の意味が このときも
あらわれた 他者へのギフトは思いもかけぬカタチで
おのれに還る。
みなが語ったのは おはなしカメさん 朝鮮昔話
アナンシと五 ジャマイカの昔話 火男 日本の昔話
それから 安房直子さん やさしいたんぽぽ
芥川の葉桜 アンデルセンの天使 そして わたしは
パーソナルストーリー ふらんす窓から
女学校と 宗教と 友情と 声と魂 のものがたり だった。
ものがたりは語り手の立ち位置 声 力量 ものがたりの構成
だけでなく 受け取る聴き手の 感性 どのように生きてきたか
で受け取り方が 違う。
語り手たるわたしのちから不足もあるのかも知れないが
声とは 何を伝え得るか 神とはなにか 赦しとはなにか
声をとおした 魂を乞うるものがたり 天上への希求のものがたり
をただ思春期にありがちな異性に向かう前の恋のエチュードと
15年前 捉えたひとがいた と知って 心底 驚いたのだった。
わたしは 過去 学歴 地位 美醜でひとを評価したことは一度もない。
性別も年齢も関係なかった。
惹かれるのは いつも声 だった。倍音を多く含んだ 少し掠れた
たくさんの細い糸が撚り合わさったような声
その輝きを多くのひとは気がつかないのだろう。
今回は 即興に任せた
なだらかな坂道 鬱蒼とした櫻並木
聳える灰色の鉄の門 明治時代に建てられた旧校舎
風雪にさらされたやはらかな木の色 白い漆喰の壁
暗い階段 高い天井 東に向かった 縦にひらく ふらんす窓
そして 渇いた心に 水のように光りのように滲み入る声
何十年か経って わたしは 回帰した。なぜ 無神論者が
神を求め 信じるようになったのか ものがたりを語る
真実を語ることを天命と信じるようになったのか 理解した。
すべてはふらんす窓のある教室からはじまったのだと。
そして 再び 聴き手を得て パーソナルなものがたりが
すべてのひとにとっての 普遍のものがたりになった。
長い時間 事実譚 を 語ってきて ものがたりが降って
くることも絶えていたけれど もう一度 ものがたりに
身も心も任せてみたい と ひしひしと思う。
今 現在 必要な モノ語りが あると思う。
ついてきてくれるひとに手渡す行が終えたなら ひとりで
ゆきたいと思う