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遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



きのう 竜と王妃 書き上げました。ファンタジー 『カイアス王』につづく 北の国シリーズの②です。 銀の印鑑は太平洋戦争末期 上海を舞台にした 関東軍特務機関の岡崎中尉と 上海のちいさな商社 興亜通商の事務員 聡子のものがたり......

ノートにイメージとプロットが書いてあるのを午後みつけて デティールをふくらませていきました。上海は当時 国民党 関東軍など間諜入り乱れる魔都だったようで ゼスフィールド機関とか松機関とか特務機関がしのぎを削っていました。特務機関には現地で徴用された民間人 陸軍中野学校出身者がいて さまざまな謀略にたずさわっていました。 たとえば松機関は 陸軍登戸研究所がつくった偽札を中國にばらまくのが仕事でした。その偽札と阿片の密売が関東軍の資金源(岸が仕切っていた)だったのです。悪名高い731部隊は登戸研究所のつくった毒薬の実験を中国人捕虜をつかってしていました。

「特務機関 岸信介」で検索すると 岸が戦前しようとしたこと 戦後のやくわり 岸の孫である安倍がなにをめざしているか見えてきます。岸は満州国を自分の作品だといっていますが 満州のNO2であったようです。 鉄、調査部の残党が、戦後再結集して作り上げたのが、戦前の大本営発表機関、同盟通信の兄弟会社「電通」でした。戦後の長いアメリカ支配はすでにそこでできあがっていました。日本の敗戦も既定の事実として あったようですね。岸 弟の佐藤栄作 日産の.....も明治天皇になった寅之助と同じ郷里 長州の田布施の出身です。

それから こんどは関東軍のどの部隊がレイテに転戦したか調べました。栄光の関東軍は戦争末期 つぎつぎに南方に投入されていくのです。満州に移住したひとびとも慣れない軍装で南方にむかい 満州には15万人の男子が残っただけでした。

ミンダナオやレイテにわたった関東軍は輸送船をアメリカ軍に轟沈されたりして 助かったものも装備も糧食もなく現地調達となりました。そしてアメリカ軍と反日ゲリラに追われ  生きるためになんでも食ったものは腹をこわし 食わなかったものは座ったまま死んでゆきました。

ここでもすでに1%のために99%が塗炭のくるしみをなめるという図式ができあがっていました。

 

 



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ホロコースト元来はユダヤ教の宗教用語である燔祭(獣を丸焼きにして神前に供える犠牲)を意味するギリシア語で、のち転じて火災による大虐殺、大破壊、全滅を意味するようになった。現在では、第二次世界大戦中のドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺を指す。英語では、前者2種の意を普通名詞 (holocaust) とし、後者を定冠詞をつけて固有名詞(the Holocaust)として区別している。動詞としても使用されることがある。

ホロコーストの語源から考えれば ユダヤ人への虐殺より ヒロシマ ナガサキ 東京大空襲がより相応しい。 1945年8月6日 8月9日 そして3月9日飛び立ったB29は10日未明首都を襲い 10万人の女子ども多くの非戦闘員を焼き尽くした。

レビ族は神宝 祭祀をつかさどる一族であり 日本に渡来している → こちら

皇室はエフライム族の末裔との説がある。 → こちら

ユダヤ暦 → こちら 

ヒットラーの予言 → こちら

この記事はこちらのリンク先から ヒントをいただきました。たいへん興味のある奥深い指摘ですが 一部に若干疑問の点もありますので 読者のみなさまはご自分で検証してください。

 → こちら

シャガールにユダヤの12氏族を描いた版画があります。昨年 旅先で出会い なんとしても手に入れたくなった一枚が我が家にあります。それはエフライム族の版画です。

ヒットラーの予言 → こちら

以下抜粋

「しかしその報復として、米英を背後で操るユダヤが、日本を絶滅させる恐れがある。 ユダヤの天才的な科学者たちが、炎の絶滅兵器を開発するからだ。 彼らはそれをアメリカ軍に与え、日本に対して使わせる。 日本の都市3つがこれで火星のような廃嘘になる。そうさせる最初の契機に、イギリスが深いかかわりを持つ。 また決定段階ではユダヤの「真実の男」が、より深いかかわりを持つようになるだろう。」

読んで字の通り「原爆」の予言だと思われる。原爆は1938年ごろ、 イギリスにいたユダヤの原子物理学者レオ・シラードが思いつき、先輩のアインシュタインに知らせた。 アインシュタインは当時のユダヤ系のアメリカ大統領ルーズベルトに知らせ、 ルーズベルトはオッペンハイマー博士などユダヤ系の天才科学者たちを動員して、 1944年に最初の数発を完成させた。しかも、それを実際に命令して広島・長崎に投下させたのは、 ルーズベルトの後任者で、やはりユダヤ系のアメリカ大統領トルーマン(→Truman)だった。 「真実の男(→true man)」というつづりと、ひとつしか違わない。

と見てくると、上の予言のうち、外れたのは「日本の3つの都市がその兵器で廃嘘になる」というところだけ。 しかし、これもアメリカ軍の作戦では、広島・長崎の次に東京か仙台か松本、 更には京都などが目標に挙げられていたという説もあり、本当は「3つ」になるところだったのかもしれない。

ヒットラーは未来世界についても 予言を残しています。

「このように、最高の頭脳がシステム化して結合する。それが未来の支配の形だ。 ひとつの意志がここから全国民を動かすのだ。それが人間の頭脳であろうと、頭脳のような機械であろうと、 やることは同じだ・・・・・・」

「未来の社会はどんな様相を見せるだろうか。同志諸君、申し上げよう。 まず闘争によって選りぬかれた貴族階級が現われる。 新しい中産階級、無知な大衆、新しい奴隷、仕えるものの集団、「永遠の未成年者集団」があろう。 そしてこれらすべての上に、さらに新しい貴族がある。特別の指導的人物である。 このように、支配をめぐる闘争によって、国の内外に新しい身分が成立する。 しかも東方が巨大な実験の場になる・・・そこに新しいヨーロッパの社会秩序が生まれるのだ」(ラウシュニングに語った言葉)

だが少数の彼らが現われる一方、他方の極には、何をどうやっても絶対に浮かび上がれない連中も現われるのだ。 それはカネだけの問題でもない。より正確にいえば、精神の問題だ。 限りなく心が豊かになっていく精神の貴族、精神の新しい中産階級が現われる半面、支配者が笑えと言えば笑い、 戦えといえば戦う「無知の大衆」「新しい奴隷」も増えていくのだ。」

「人間だけではない。国もそうだ。恐ろしく豊かな、労せずして肥っていく国が現われる。 他方、何百年かかっても絶対に払いきれないほどの借金をかかえ、水一杯すら容易に飲めない国も現われる 気候もそうだ。とほうもない旱魃や熱波におそわれる国と、寒波や洪水におそわれる国が出る。 災害におそわれつづける地域と、楽園のような地域、人っ子一人いなくなる荒地と、 無数の人間が鼻をくっつけ合って生きる都会とが分かれる。

以上



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今日 BSをみました。埼玉稲荷山古墳から出土した ワカタケル王の名が金でゾウガンされた 鉄剣 の話。

ワカタケル 雄略天皇 (欽明天皇という説もある ....ヤマトタケルの息子 )⇒ こちら

この方が 伊勢外宮をつくられたそうだ、ついでに古事記もこのあたりからなのだそうだ。

毛人国 55国 蝦夷..? 65国 を滅ぼす。

頭がよく 戦に強く 残虐で 女好きで 新奇なものもすきで 徳がある....  女好きのほかは信長に似ている....

とても魅力的な王である。 たまには 敵の視点で古代の物語を語るのもよいかもしれません。

けれど本命は そのあと のアーカイブでした。

YOU カメラマンになるには.... の冒頭で わかき日の糸井重里さんと......さんが

憲法って いま 流行りだよね

人権ってあるの知らなかった

なくなっちゃうかもしれないから大事なんだよね

あの戦争で多ぜいのひとが亡くなったから この憲法になった

わたし 憲法 読んで 泣いちゃった.....

........

まさに この 時に ぶつけてきたのかな NHKの良心はまだ残ってる....

NHKのお偉いさんやチームセコウは読まないでね。



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ニギハヤヒ 天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命が日本を統一した王だと思っています。今の皇室のご先祖 ニニギ天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊は天照大神の孫であり、天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原から地上に降りたと古事記ではされていますが、古事記も日本書紀も1300年前 女帝持統天皇の命により 皇室の正当性を内外にPRするために編集されたものなのです。

古事記では 兄に天火明命(あめのほあかり)がいる。『日本書紀』の一書では天火明命の子とする。⇒ こちら

剽窃されたながれがなんとなくわかりますね。

一説には ニギハヤヒの后神が瀬織津姫 瀬織津姫は水の神であり 熊野三社の隠された主祭神ではといわれています。

わたしは 古い神社に池がかならずあり 水神も祀られている(宗像三姉妹なども)のは 日神と対になる水神を祀っているからなのだろうと考えていました。

ところが 伊勢の旅で感じたのは.....。

本伊勢 .... 伊雑宮(まことの伊勢神宮という考えがある)の神は蛇....古代は龍=蛇

先日伊雑宮の記事で「先代旧事本紀大成経」のことをあげました。(天皇家の始まりを聖徳太子が編纂させたものとされ伊雑宮の正当性が述べられています)。忌部(いんべ)氏とト部(うらべ)氏から、太古から神の魂霊として密封されて御神体となっていたという50個の土簡(はにふだ・タブレット)が持ち込まれ、その中には初期の天皇は龍蛇族の特徴を備えていたと言う記述もありました。

そして近くに川  瀧原宮にも川..... 伊勢神宮のもとといわれる五十鈴川に祀られている古代の神は瀧まつりの神.....

神様が龍族だから 川や水がそばにある。龍は火(日)神であり 水神であるのでは.....

いまでも 天皇のお身体を龍体というのはその名残ではないのか......

そして 天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命の墓所が 大三輪山  すなわちオオモノヌシはニギハヤヒ 最初のころはこのお山で天皇の即位式がおこなわれていたそうです。

もうひとつの本伊勢 籠神社の主祭神は彦火明命 相神は天照大神 豊受大神

伊勢神宮には1600年の間 天皇は行幸されなかった。 古代は大三輪神社 石上神宮 大和神社に参拝された。(昨年 語りで奈良 和歌山をまわったとき 引かれるようにこの三社のお参りをしました)

石上神宮 祭神

     布都御魂大神 (ふつのみたまのおおかみ) - 布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊

     布留御魂大神 (ふるのみたま-) - 十種神宝に宿る神霊

     布都斯魂大神 (ふつしみたま-) - 天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)に宿る神霊

     宇摩志麻治命 (うましまじのみこと) ニギハヤヒの子

大和神社 祭神

     中央に大和大国魂大神  ニギハヤヒか

     左に八千矛大神(オオクニヌシ) 

     右に御年神(ニギハヤヒの子)

天照大神と大和大国魂大神を宮中にいっしょに祀ったところ タタリが起きて 倭姫がご神体のお供をされて 神の安息の地をさがす旅に出たという。

? 天照大神 もとはといえば ニギハヤヒ それともこのとき女神なのか?よくわかりません。

大和大国魂大神もニギハヤヒ.....

そうだとしても そのとき 二神 ごいっしょに とは わたしには考えにくい。だって タタリがあったのだから。

どの神のお供をされたのか? 

斎王のやくわりは...... という 謎 ....   巫女 なのか 

そして もうひとつ 五十の謎

伊勢神宮は 磯の宮と呼ばれていたそうだ イソ 五十 五十鈴川 五十 伊雑宮 いざわのみや 地元ではいぞうさん イソ 五十 五十のタブレットがあった。

50音 ことたま 一音一音が神という考えがある。天皇陛下は即位の大嘗祭で四方八方に向って アイウエオン カキクケコン....とことたまを発せられるそうだ。

ア......ン はじめとおわり 阿吽

文字とはことたまが眠った状態......ここで語りとつながるのです。

ふたつの本宮 籠神社と伊雑宮の神文はダビデの星 ..... イセ とは イスラエル なのか ......

 

 

 

 



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伊勢にいって..感じたものは あたりまえのことながら 縄文があり 原始的な根源的な 古・神道の世界の痕跡がいまだに残っているということでした。

ずうっと昔 神とは山であり川であり自然そのものでした。石に神が降り立ったことから 石 が尊崇の対象となり かたわらには 木 がありました。 そして その地に祠が建てられ 権力者たちは 土地の力を利用して大きな社をつくりました。そのむかしのにおいが伊勢にも隠しようもなく残っています。(瀧祭神 饗宇治川橋姫.....五十鈴川の神 土宮.....土の神 ほか)

中世 お伊勢参り(お蔭まいり)は庶民のものでした。

当時、庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限があったが、伊勢神宮参詣に関してはほとんどが許される風潮であった。特に商家の間では、伊勢神宮に祭られている天照大神は商売繁盛の守り神でもあったから、子供や奉公人が伊勢神宮参詣の旅をしたいと言い出した場合には、親や主人はこれを止めてはならないとされていた。また、たとえ親や主人に無断でこっそり旅に出ても、伊勢神宮参詣をしてきた証拠の品物(お守りやお札など)を持ち帰れば、おとがめは受けないことになっていたという。 ⇒ こちら

一方 すでにUPしたように 明治天皇以前 天皇はだれひとり伊勢に参拝されませんでした。明治天皇が伊勢に参拝されたのには特別な理由があったのでしょう。明治5年といえば 明治政府が発足してまもなくであり不平士族は一触即発という状態であったことでしょう。そのなかで国家護持のうしろだてとして 神 の存在が必要だったのではと思います。ハゲタカのごとき欧米列強にむしられないように守りつつ 一方で一刻も早く欧米に追いつき追い越せと無理に無理を重ねた明治時代。時代をひっぱり 民衆の不平不満をねじ伏せ 国をひとつの方向に持ってゆくためには 天皇は神でなくてはならず 式年遷宮で古代をそのまま引き継ぐ 伊勢神宮はうってつけの存在であったのでしょう。

⇒ こちら

国家神道とは明治政府により「日本民族」の統一という求心的政治イデオロギー的使命を負わされ天皇家ゆかりの伊勢神宮を頂点として作られたピラミッド型組織に絡めとられた宗教的思想体系と権力構造のことを言います。

...........

さて わたしが感じる 氣 は 

い 多少の湿り気を含んだ 包み込むような 氣 

① 男性的な あるいは女性的な

② あたたかな あるいは ひんやりしたというか しめやかなというか

ろ (乾いている感じが多い)一方向 の 氣

① 地の底からズズーンととよもすような (下から)

② 刃で突き刺すような (ご神体のほうから)

③ ときになにかで増幅されたような

ヴァリエーションはありますが....このように大別されます。

わたしがすきなのはもちろん い の自然のエネルギーをもっと大きくしたような 氣 です。御社とおなじくらい木もエネルギーをもっています。交流しただけで(もらうだけではいけなとわたしは思うのですが)...涙があふれてきます。慈愛でつつまれるような....それは至福です。..... (いつか そのような 氣 がにじみでるようなヒト になりたいと思います)

これは わたしにとっては ヒントになります。ここから感じるのは たとえば 大神神社と出雲大社は 氣 が異なる 大神神社と石上神宮の 氣 はにかよっている などなどですが これはあくまでも自分のためのものです。大斎原 玉置神社 瀧原宮 伊雑宮 ..... 前宮 なぜだか とてもなつかしく思出だすだに 胸に溢れくるものがある。......それは日本の山や川や瀧 天然の事物の凝縮したものなのです。....わたしはこの国がすきです。....だから 安倍さんとはまったく違う意味で日本を取り戻したい。....そのためにできることは..... 清めること 火を灯すこと。 ささやかながら 日々 つづけること。

 

 



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宇治橋をわたり 右の奥 いすゞ川ちかくに瀧まつり宮があります。社殿はありません。石畳を設け、玉垣をめぐらして祀られてきたのです。

なんとなく石段をのぼるのが憚られました。しんとした霊妙な氣 女性的な氣....

瀧祭宮にはさまざまな伝承があります。

瀧祭宮は倭姫命が伊勢神宮をここへ遷す前からあったとされる。蛇(龍)を祀っていたと言われる。

瀧祭宮の地底に、常世の国や龍宮があり、水神=龍神説が定着すると、天の瓊矛(ぬほこ)の鎮座地とみなされるようになった。

つぎに風日祈宮橋をわたって....脚がもう限界でようやく橋をわたりました。

風日祈宮の祭神は、風雨を司る神とされる級長津彦命と級長戸辺命(しなつひこのみこと、しなとべのみこと)ご夫婦の神さまです。本来は農耕に適した風雨をもたらす神であったが、元寇以降は日本の国難に際して日本を救う祈願の対象となりました。このみ社はぎょっとするほど 氣 が強かった。泣きたくなり あたまがガンガンいたしました。忘れがたいお宮のひとつです。

そして とうとう 正宮 長蛇の列 思いもかけない強い 氣 わたしがいままでご参拝した神社のなかで もっとも強い氣は出雲大社でありました。もっともそれは遷宮の前でご神体が拝殿に鎮座しており(あとでわかった)その真裏を通ったせいもあったのでしょうが 心臓が止まりそうな 思わずよろめくほどの 氣でした。お伊勢さまの 氣 は増幅されたように強く 切っ先が鋭い刃のようにも感じました。

荒祭宮は「荒魂を祭る宮」の意味だそうで 瀬織津姫をお祀りしているという説があります。あまり長い列なので並ばずに端でご参拝いたしましたが ぼうーっとしていたのか よく覚えていません。

脚がいたんで ヤマツミの神さまはお参りできませんでした。今回は短時間のあいだに 正宮とほとんどの別宮に参拝させていただきましたが 倭姫神社と饗宇治橋姫あえどばしひめ神社にご参拝できなかったのが残念です。饗宇治橋姫神社について書こうとすると消えてしまいましたのでやめておきます。

今回の旅で 謎が ほどけると思いきや 今はまた霧のなかです。少なくとも龍神の気配はそこここに感じさせていただけた....太古から存する大地と水とひかりがあり  しめやかな 慈しみの氣があった 木々が語った。それだけで今は充分です。

氣 について書きましたが どう感じるかはそれぞれの方の霊籍によるのではないでしょうか。ですからわたしが感じたからといって そこにいかれた方がすべて感じるものでもないと思います。すべてよし...です。帰り道 日本の野や山はうつくしかった....清流は澄み 輝いていた .... この国はうつくしい この国にふさわしいヒトになりたい。としみじみ思いました。

 

 



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外 宮

外宮へのご参拝ははじめてでした。わたしは元伊勢が主たる目的の旅でしたから 申し訳ないことに お伊勢さまには さほど期待してきたのでもなかったのです。けれども 参道のどのあたりであったのだろう 氣 が変わった。正直のところご正宮のことはぼーっとしていたのかあまり覚えていません。戦慄を感じたのは 風宮 土宮でした。とくに土宮の氣はとても強かった。外宮の千木が水平に切られているが、雄々しいといいますか凛々しいといいますか力強い氣を感じます。お山にのぼって多賀宮 このたび遷座する場所がすばらしかった。もちろん今のお社も。それから駆け足で月夜見宮にお参りしました。月夜見宮から感じたのは女性的なやさしい氣でした。

月讀宮

神明つくりの神殿が向かって右(東)から月讀荒御魂宮、月讀宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮.....と並んでいるのは 瀧原宮と似ています。月讀宮、月讀荒御魂宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮の順にお参りいたしましたが 月讀さまはとても濃やかなやさしい氣  伊弉諾さまは剣のような鋭い氣でした。

一言主神社にお参りした折 境内の片隅に 苔むし雨風にあらわれて文字の判読も難い石碑があり そこに 日讀 月讀 と読めました。日月と称し、三光といい 参道の灯篭には 日 月 星の穴がうがたれていることが多い。それなのに日本では月神の神話がほとんどありません。(星も)月讀さまはどのような神なのか やはり隠されてしまった神なのか ...... スサノオさまが古事記に組み込まれたため そのご神威が 天域 海 夜の国 と曖昧になってしまったのか....... アマテラスが女神にされたため 性別がかわってしまうこともあったのではないか......とか 妄想をたくましくしました。

 ⇒ こちら

 ツクヨミの原義は、日月を数える「読み」から来たものと考えられる.例えば暦=コヨミは、「日を読む」すなわち日読み=カヨミであるのに対して、ツクヨミもまた月を読むことにつながる。

「読む」は、『万葉集』にも「月日を読みて」「月読めば」など時間(日月)を数える意味で使われている例があり、また暦の歴史を見ると、月の満ち欠けや運行が暦の基準として用いられており、世界的に太陰暦が太陽暦に先行して発生したのである。「一月二月」という日の数え方にもその名残があるように、月と暦は非常に関係が深いつまり、ツクヨミは日月を数えることから、時の測定者、暦や時を支配する神格であろうと解釈されている。その他にも、海神のワタツミ、山神のオオヤマツミと同じく、「ツクヨのミ」(「ツクヨ」が月で「ミ」は神霊の意)から「月の神」の意とする説がある。

 



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内宮前にバスが着いたので 三交タクシーにTELし迎えにきてもらいました。運転手さんは栗須さんというとても親切な方でした。道中たのしくおはなししてまいりましたが なんでも 伊勢にお参りにくるのは女性が圧倒的に多いそうです。それも パワースポットにとても詳しいとか....その方々はどこがお勧めでしたか?と聴くと 「月讀宮」とのことでした。

伊雑宮 いざわのみや いぞうぐう から 五十鈴宮 磯宮ではなかったかともいわれています。

シンとした霊気 なかへ進むにつれ 神気がみなぎるのを感じます。男らしい包み込まれるような  氣です。拍手が響きます。ただただ感謝のみでした。 もはや「日の元の国をおまもりください」 のことばも必要ではありません。守っていてくださるのだから......あとはわたしたち次第なのです。

先日 伊雑宮 についてはUPしましたのであとはそちらをごらんください。

伊雑宮について

伊雑宮の御田植えの祭りの日には7匹の龍が、的矢湾から川をさかのぼって伊雑宮の大御田橋まで上がってくる。

木を切ったところ 倭姫のお墓が出てきたので 倭姫神社に祀った。

この神さまは蛇 (龍蛇)神である。

この伊雑宮にもともとあったご神体である、「草薙の剣(天叢雲剣)」は、 現在熱田神宮のご神体となっている。

騒がれるまで 灯篭は六ぼう星 いわゆるダビデ紋であった。

ご神体はなんだかわからない。箱に入っている。

この地の海女さんは、六芒星の印をつけた額当てをしている。

⇒ こちら



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今回の旅の発端となったのは いつものようにひらめき そして友人からお土産にいただいた倭姫命ものがたりでした。ページをひらいたときキーンと眩しいものがつらぬいたのです。偶然といいますか 千葉の友人からそんなこととは関わりなく 6月28日に瀧原宮と伊勢の弾丸ツアーに申し込んだと連絡があり 即申し込んだというわけです。

早朝5時到着 白い霧が深い原初の森からしのびやかに涌いてくる しっとり湿った空気が身にまとわりついてくるけれど それはまるで精霊に....きたのだね...とうとうここまできたのだね....と迎えられているようでありました。御手洗..みたらしは神社の脇を流れる清流でした。さらさら流れる清い水で口をすすぎ 手を浄め 奥にすすむと しだいしだいに濃密な 氣がたちこめる 細かい微粒子が降ってくるかんじ....どこだっただろう 玉置神社で感じたような それから近江楽堂でマリアム(マグダラノマリア)を語ったとき 天上から降ってきた七色の微粒子もこんな感じだった....と思うまもなく 視界がひらけた。

なんといったらいいだろう。白の玉石 黒の玉石に区切られて古色蒼然としたお社が整然とならんでいるさまを.....ことばもなく 誘われるように おずおずと瀧原宮に進み出た。感謝の想いしかでてこなかった。こられたこと 国土がお守りいただいていること その御礼だけ.....

......ずっとここにいたかった。大木がたっている。見るだけで熱いものがこみあげ視界がぼやける。いつまでもそこにいてください。夜も昼も.....時の流れのなかに変わらずにいてください 人の世のうつりかわりをお見守りください。わたしたちは一生懸命日々を送っていきます いのちをつないでまいりますから......

 

以下は(lucaの)ものがたりです。

とおいむかし あまてるくにてるおおみかみがこの国をひとつにまとめてくださいました。おおみかみさまは男らしいあたたかなご気性で 家臣やくにびとたちにしたわれておりましたが とうとうみまかられてしまいおおみわのおやまが墓所となりました。それから歴代のすめらみことは即位の儀式をおおみわのお山でおこなうようになったのです。.....ところが時がたち代がかわるにつれて あまてるくにてるおおみかみだけではなく もうおひとはしらの神をたいせつにするようになり 宮廷であまてるくにてるおおみかみとアマテラスという女神 ニ柱がいっしょにまつられるようになったのです。......すると都で疫病がはやるようになりました。ご神意を占ってみると 神の思し召しは宮廷からもっとひろやかな場所にまつられたいとのこと そこで やまとひめが御杖代となり 神の安住の場所をさがす旅に出られたのです。やまとひめは旅をかさねて....とうとう宮川の支流におおかわのたきはらのくにといううつくしいくにをみつけ 神を祀られました。

 

⇒ こちら

倭姫命世記によると、第11代垂仁天皇の皇女倭姫命が、宮川下流の磯宮(いそのみや)より天照坐皇大御神(天照大神)を祀る地を探すために上流へ遡ったところ、宮川支流大内山川の流域に「大河の瀧原の国」という美しい場所があったので草木を刈り新宮を建てたが、その後すぐに神意により現在の内宮のある伊勢市宇治館町に新宮(五十鈴宮)を建てたため、天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)を祀る別宮となったとされる。神宮ではこの説を採るが、一般には伝説上の話であり、起源は明らかでないと考えられている。

804年(延暦23年)の皇太神宮儀式帳及び927年(延長5年)の延喜太神宮式には、天照大神の遙宮(とおのみや)と記述されており、それ以前からあったと考えられている。皇太神宮儀式帳では瀧原宮1院1号で、延喜太神宮式では別号とされているため、創建当初は瀧原竝宮は瀧原宮に含まれ、804年から927年の間に独立したと考えられている。

太神宮諸雑事記の771年(宝亀2年)12月条に651年(白雉2年)9月の神嘗祭に瀧原宮祭使が洪水の難によって遙拝したとあることから、651年には神宮別宮であったとする説があるが、他の史料がないことから確実視はされていない。

続日本紀の文武2年(698年)の記事に現れる多気太神宮を瀧原宮と考える説がある。



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金曜の夜 伊勢に向かいました。以前から伊勢神宮とはなにか知りたいと思いわたしには確認したいことがいくつかありました。それは「氣」です。ご祭神によって氣は異なります。その神社の由緒もひもとけるのではないかと感じたのです。もちろん これは自分のための確認に過ぎません。しかし そのまえに奇妙なことに気づきました。それは1600年ものあいだ 天皇が伊勢を参拝されなかったという事実です。明治天皇が伊勢神宮を始めて参拝されたのは明治5年、そして明治22年の式年遷宮は特別な年であったのでした。

式年遷宮と 憲法

⇒ こちら

⇒ こちら

「古代の姿を寸分違わず保っている」という、現代の伊勢神宮「神話」である。この「神話」に信憑性をあたえているのが、式年遷宮という慣行だ。20年に一度、宮を建て替えて皇祖神が新殿に遷る神宮最大の祭である。飛鳥時代末期、女性天皇・持統の下で690年に始まり、今年10月に第62回を迎える。目の前に古殿があるのだから、そっくりそのまま造り替えることができる、だから「古代のまま」そこにあるといわれれば、だれしも納得しよう。

 だが調べてみると、事実は大きく違っていた。ひとことでいえば、当初に比べて驚くほど立派になっているのである。そこには〈成長-停止-復興-過剰-修正〉という、長期中断を含む変遷の大きなうねりがあった。伊勢神宮といえども、歴史の時間をまぬがれることはできなかったのである。そうした過程の全てをひっくるめて、伊勢神宮の現在があることがわかった。

 考えてみれば、当然のことであろう。しかし、こと伊勢神宮に関しては、「古代のまま」という神話が罷り通ってきた。この伊勢神宮「神話」は、記紀神話とは別種の、もうひとつの「神話」なのである

 式年遷宮に着目することによって、もうひとつ、現代につながる思わぬ発見があった。それは、欽定の大日本帝国憲法が式年遷宮の年に合わせて発布されたことだ。これには一瞬、わが目を疑った。思ってもみなかったことだからだ。その後、あたう限り文献を渉猟したが、これを指摘する論書はまったく見当たらなかった。調べてゆくなかで、驚きはさらにひろがった。この年、明治22年には皇室に関わる重要事案が目白押しなのであった。たとえば、宮中三殿に皇祖皇霊が遷座する、皇室典範が制定される、歴代天皇陵の指定作業が完了する、(のちの大正天皇の)立太子礼が大幅に前倒しして挙行される……。

 憲法は紀元節に合わせて発布されたが、この日取りは明治天皇自らの発案なのであった。発布年を式年遷宮の催行年に合わせたのも、天皇の意思であった可能性が高い。皇祖神が遷座する日、明治天皇は東京から伊勢に向って遥拝するのであった。皇祖をまつる伊勢神宮は、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と謳う欽定憲法の内実を担っていたのである。「古代復興」を旗印に、この年の式年遷宮において伊勢神宮は大いに「改正」されたが、同時に、欽定憲法の発布を最大限寿ぐのであった。

以上

そして 式年遷宮の今年 明治憲法に戻ったような自民党の憲法改正案が取りざたされている、これは偶然の一致でしょうか?

なぜ 歴代の天皇は伊勢神宮を避けたのか 参拝しなかったのか?

参拝する必要がなかった..?  ....祖霊ではなかった? 

明治時代に ある意図をもって伊勢神宮は利用されたのではないか?



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こちらのサイトには興味深い納得させられる仮説が述べられています。伊雑宮に祀られているのが蛇神という地元の方のことばもこの仮説に信憑性をあたえています。わたしは瀧原宮と伊雑宮 五十宮が対称に.....ただ 瀬織津姫のことだけふれられていないのが残念でした。 籠.....龍......瀧

⇒ こちら

以下抜粋

瀧祭神(たきまつりのかみ)

内宮の宇治橋を渡り第一鳥居をくぐると、五十鈴川の御手洗場の脇に、「瀧祭神」(たきまつりのかみ)を称する石神を祀っている。御垣と御門だけで社殿はない。祭神は、五十鈴川の水神であるというが、御神体は石そのものであり、極めて縄文的な神祀りであるように思う。由来によれば、延暦二十三年(804)神祇官に奉った『皇大神宮儀式帳』にも、瀧祭神が記されている、とあるので、1000年以上の歴史があることになる。

 現在では、別宮に準じた奉祭がされているが、鎌倉時代には、五十鈴川の対岸にあって、この神こそアマテラスの前身とされていたらしい。また重要な祭りに先立って祭られる社であったともいい、このことから滝祭神は伊勢神宮の原型であったのだろう。『日本書紀』以前の伊勢神宮は、縄文的な石神を祀る社であったと推測できる。

  
瀧原宮(たきはらのみや)
瀧原竝宮(たきはらならびのみや)

 
度会郡大宮町に鎮座するともに内宮の別宮で、昔から「大神の遙宮(とおのみや)」とも言われている。祭神は「天照坐皇大御神御魂」(あまてらしますすめおおみかみのみたま)であり、社殿は両社同格で、二社並んで鎮座している。
  
伊雑宮(いざのみや)

 三重県志摩郡磯部町大字上之郷に鎮座する内宮の別宮で、アマテラスの御魂を祀る。ここもまた古くから「大神の遙宮」と呼ばれ、漁師や海女の信仰が深い。寛永(1624~43)のはじめ、幕府により発禁処分とされた『先代旧事本紀大成経』は、ここ伊雑宮を伊勢神宮の本宮であったとしている。
発禁処分後も信奉者は絶えず、多くの神社が自社の縁起を作るときなどに引用するなど、その影響力は測り知れぬものであったらしい。正確な祭神名は「天照坐皇大御神御魂」(あまてらしますすめおおみかみのみたま)といい、これもまた瀧原宮と同じである。
 

伊雑宮は本来、五十宮と記すのが正しいという説がある。伊雑は後世改められたものらしい。伊雑宮は“いぞうのみや”とも発音する。すなわち、“いそうのみや”(五十宮)=磯宮である。

伊雑宮は、内宮・外宮、両宮の争いに一枚加わった格好になったのだが、両宮が抗争中であるにもかかわらず、協力して伊雑宮を叩いたという事実には、何ともやりきれない気持ちになる。

伊雑宮の祭神は「伊射波登美命」と下されたものの、それ以前は、 「天照大神御魂」(延暦二十三年(804)『皇太神宮儀式帳』)が祭神であり、明治以降は再び「天照大神御魂」を祭神としている。

 明治に到るまで争いが続いた両宮と伊雑宮であったが、共通していた思想は、「荒木田神主」の伝承や、外宮が国常立尊を祭神とするなど、祭神は男性神であるということである。また、伊雑宮の「天照大神御魂」とは、アマテラスの荒御魂のことであろうか。内宮の荒祭宮は、アマテラスの荒御魂を祀る別宮であるが、祭神は「天照大神御魂」ではない。あくまでも荒御魂である。 ここには、明確な区別がある。

天照御魂神」を名乗る神社は、全国に数カ所あるが、そのいずれもが天照国照天彦火明命を祭神とする神社なのである。

蛇神

内宮家「荒木田氏」の伝承がある。「天照大神は蛇神で、斎宮はその后である。そのため斎宮の御衾の下に、毎朝蛇のウロコが落ちている、とみえている。」

これはとりわけ重要である。この証言は、アマテラスが男性神であることを、認めていることになるからだ。それも「荒木田氏」自らである。代々、内宮神職を世襲している「荒木田氏」自身が、『記紀』に真っ向から対立する主張をしていたということは、この主張の真実性を裏付ける結果になっている。

もう少し考えを進めると、『記紀』のいう女性神・アマテラスは、男性神・アマテラスに奉仕する立場であった、ということができそうだ。すなわち斎宮(いつきのみや)である。斎宮とは、伊勢神宮における斎王のことであり、アマテラスを奉斎する女性のことであり、時には神懸かって神託を下す。言うなれば巫女のことだ。しかも、天皇の未婚の皇女を代々斎宮として選任していた。『記紀』では初代斎宮を、垂仁天皇の皇女「倭姫命」としているが、実際の斎宮制度は、早くても天武天皇より後のことだと思う。
伊勢神宮では、様々な神事を、斎宮が中心となって行っていた。この斎宮の立場は、高天原におけるアマテラス(オオヒルメムチ)と、瓜二つである。

内親王による奉斎をしていた神社に、賀茂別雷神社がある。通称上賀茂神社と呼ばれるこの神社には、川から流れてきた丹塗矢と同床して妊娠した「玉依姫」の縁起がある。神との聖婚である。上賀茂神社は、伊勢神宮の斎宮に対して、斎院(いつきのいん)というが、役目は同じである。ちなみに斎宮も斎院も、本来は居所のことであり、職制としては斎王が正しい。

 「荒木田氏」の伝承は、まさに神との聖婚を思わせる。

 豊受大神

豊受大神は御饌神である。すなわち食物神だ。外宮の祭神として、全国に知られる神なのであるが、『記紀』から、その姿を読むことはできない。
  

 このトヨウケの元の地とは、あの『海部氏本紀』の籠神社である。アマテラスは、崇神天皇の御代に、「大和」の「笠縫邑」を出た後、吉佐宮に遷座している。吉佐宮とは、籠神社の前身であり、このことが、籠神社を元伊勢神宮と呼ばせる所以である  籠神社には摂社に、真奈井神社があり、古称を与謝宮と言い、現在はここを奥宮として、別名、豊受大神宮と呼んでいる。

また、当地こそが「比治の真奈井」であるとしており、大化改新以降、与謝宮を籠神社と改称し、養老三年(719)、現在地に遷座し、旧地を奥宮と定めたのである。祭神は、彦火明命であり、アマテラスではない。すなわち、豊受大神は火明命と同体である。

 『但馬故事記』は、ホアカリをニギハヤヒと同一視してはいるが、その讃え名は「天照国照彦櫛玉饒速日天火明命」と呼び、『先代旧事本紀』で」 いうニギハヤヒと名前の順列が入れ替わっている。同書は異録四書、いわゆる際物扱いの書であり、学術的には偽書であるかも知れないが、『記紀』をはじめ、他の古史古伝と共に、提供される民族伝承は貴重な情報であることに違いはない。

 内宮と外宮

内宮と外宮は、その通称からも判るように、陰陽思想のもと建築設計されている。 「内宮と外宮では、寸法、千木の切り方、鰹魚木の数、桁を組む位置と梁の関係等に相違があり、千木の切り方の水平と垂直、鰹魚木の十本と九本など、内宮を陰、外宮を陽とする陰陽思想で構成されている。」 (『歴史読本』昭和六十二年三月号、『伊勢神宮と日本人』村上重良氏 論文より引用)

というように、外観には明確な区別がある。陰・陽はそのまま内・外の意味である。これは偶然ではなくて、陰陽の陰だから内宮であり、陽だから外宮と呼称するのだと思われる。また陰・陽は、女性・男性にもあてはまる。

従って、内宮の祭神がアマテラスだというならば、アマテラスは我々が認識しているように女性神であり、外宮のトヨウケは男性神でなければならない。

外宮の鰹魚木は九本である。これは、初めから男性神のための宮であることは明白だ。 その男性神とは、五十鈴川の龍神であった。そうであるならば、その元である籠神社の「籠」とは、「龍」が本来の文字であったのではないか と思えてならない。 籠神社の名称の由来は、彦ホホデミが籠に乗って竜宮に行った故事にちなんでいると言うが、竜宮は龍宮であり、彦ホホデミが龍になって、というのが本来の故事であり、それが名称になったのではなかったかと思われる。

そもそも、伊勢の宮(神宮の前身である宮)は、前述した瀧祭神を祀っていたものと思われる。この宮は、五十鈴川底におられる龍神が御神体ともいうらしい。すなわち「蛇神」である。「荒木田氏」の言い分は、このことだと思う。伊勢神宮の創祀は、垂仁天皇の皇女「倭姫命」による、アマテラスの伊勢鎮座に、始まったことになっている。「荒木田氏」は、このときから奉仕したと伝えられるから、創祀以来の禰宜職であるわけだ。これが伊勢の瀧祭神の鎮座の時かと問われれば、そうではないだろう。

天皇家の祖神がアマテラスであると言うのならば、天皇家は本来、神を祀る側であったことになり、女王であり大巫女であった「邪馬台国」のヒミコにぴったり重なってくる。そして、祀る側が祀られる側になるために必要だった道具こそ、『日本書紀』だったのである。 『日本書紀』には天皇家の祖、女性神アマテラスが書かれていて、あるべきところに、伊勢神宮がある。天皇とは名誉大王の持統であったが、こうした後付の既成事実によって、天皇=最高位になっていき、同時に、最高位としての大王位は消滅してしまったのである。

元来は男性神を祀っていながら、十本の鰹魚木を持たされた女性神の宮とされたという矛盾は、実は少なからず現代までも残っている。

天照大神の御装束は、なんと男装束なのである

皇祖神としての天照大神の重要性が高まり、従来のアマテラス、すなわち瀧祭神とは別の天照大神を、皇室唯一絶対の氏神として昇格させる必要があったというわけだ。天照大神を私物化できるほどに、皇室は強大になっていったわけである。

その結果、旧アマテラスは、外宮という宮を与えられ、そちらに遷座させられたのだが、その外観は内宮と同格である。皇室の祖神と国家原初の祖神を同格にしなければ、批判を回避できないと考えたのだろうか、それだけ原初の祖神が大きかったわけである

以上

つまり 上記サイトでは 現天皇家はある意味で正統ではないといっているのですが ....... それだからといって天皇家の価値がさがるものでも尊崇の念が消えるわけでもありません。隠さないことがたいせつだと思います。真実に如くものはないのですから。

 

オオモノヌシ=天照国照天彦火明饒速日命=豊受大神?=大歳神=賀茂別雷神 =  .....

瀧原宮 瀧原竝宮? 日前神宮 国懸神宮のつくりに似ているみたいです。

 



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はじめは 瀧原宮にご参拝したかったのですが おなじ 遥宮 とおのみや の 伊雑宮の写真を拝見したらビシビシと波動がきて 今は伊雑宮によりひかれています。(月読宮にもお参りしたいですね)昨年 和歌山県を3度にわたって旅したとき 熊野三社参拝の予定が 玉置山 大斎原 神倉山に惹かれていったのと似ています。ネットでしらべてみたら とても興味深い記事にであいました。

それは 当然のように ニギハヤヒにかかわることでもありました。

⇒ こちら

⇒ こちら

以下抜粋

皇女・倭姫命は、土着の神の抵抗にあい、大和で 祀ることができない皇祖神・天照大神の御神鏡を奉じ、祭祀にふさわしい場所を探してい た彼女は伊勢にたどりつき、五十鈴川のほとりに磯宮を建て、ようやくそこに皇祖神を 鎮めることができた。これが伊勢内宮の起源である。外宮は皇祖神が飢えることのなきよ う、雄略朝に、伊勢の地に食物を司る神・豊受大神を勧請したものであった。
伊勢神宮は朝廷の宗廟として、その創建以来、私幣禁止を原則としていた(今でも伊勢 神宮に賽銭箱がないのはこのためである)。そのため、国家による保護は神社の死命を決 することになる。だが、国家はどうしても内宮の方を重視する傾向がある。
そこで、外宮では鎌倉時代、いわゆる神道五部書を広め、豊受大神は単に食物を生産す るだけの神ではなく、天御中主尊、国常立尊と同体で世界万物の始源神であるという宣伝 を行うようになった。この外宮の主張に基づく神学こそ、いわゆる伊勢神道である。
『神道五部書』は古人に仮託されてはいるが、実際には鎌倉時代初頃の外宮の神官が古伝 に基づき、造作したものであろう。ところがその五部書の一つ、『造伊勢二所太神宮宝基 本紀』にやっかいな記述がある。それによると、往古、朝廷が伊勢神宮に祭祀用の土器を 納める際、内宮・外宮・別宮そして礒宮(磯宮)はそれぞれ別の扱いになっていたという 。また、内宮側の史料『皇大神宮儀式帳』にも伊勢内宮は礒宮から現在の位置に移ったと ある。これによれば、現在の伊勢内宮と別に、それよりも古い礒宮があったことになるの である。ここから後世、大問題が生じることになる。
源平合戦の頃から戦国時代にかけて、伊勢の地はしばしば戦乱に巻き込まれていた。特 に伊勢別宮の一つ、伊雑宮(現三重県志摩郡磯部町)は志摩の九鬼水軍から大規模な略奪 を受け、再建もままならなかった(この時、伊雑宮から奪われた文書が『九鬼文献』のタ ネ本になったとする研究者もある)。伊雑宮はたびたび幕府や朝廷に再建の願いを出した が容れられることはなかった。その上、万治元年(一六五八)、伊勢内宮より、伊雑宮が 幕府に提出した文書の中に偽作の神書があるというクレームがついた。
すなわち、それらの神書によると、伊雑宮こそ日神・天照大神を祀る真の礒宮であり、 外宮はツキヨミを祀る月神の宮、内宮にいたっては天孫・ニニギを祀る星神の宮に過ぎな いというのである

延宝四年(一六七六)から七年にかけて、当時、江戸の出版界では知られる存在だった 戸嶋惣兵衛の店から、不思議な本が出版された。それは『神代皇代大成経』という総題が 付された一連の神書であり、神儒仏一体の教えを説くものであった。序文によると、その 由来は聖徳太子と蘇我馬子が編纂し、さらに太子の没後、推古天皇が四天王寺、大三輪社 (大神神社)、伊勢神宮に秘蔵させたものだという。この『大成経』はたちまち江湖の話 題を呼び、学者や神官の間で広く読まれることになった。
ところが伊勢両宮の神官たちは、たちまち『大成経』が秘めている危険性に気付いた。 『大成経』の神話は、伊雑宮を日神の社とし、外宮・内宮をそれぞれ月神・星神の宮とす る伊雑宮の主張を裏付けるような内容になっていたのである。伊勢神宮が国家の宗廟であり、幕府もタテマエ上は朝廷の権威に支えられている以上、 その秩序を乱すような異説は厳しく取り締まられなければならない。内外両宮からの度重なる訴えにより、幕府は『大成経』刊行の背後を詮議した。
天和元年(一六八一)、幕府はついに『大成経』を偽書と断じ、禁書とした上で版木ま で焼いてしまった。また、戸嶋惣平衛は追放、この本を版元に持ち込んだ神道家・永野采 女と僧・潮音道海および偽作を依頼したとされる伊雑宮神官は流罪、と関係者一同の刑も 定まり、『大成経』事件は一応の終結を迎えた。

幕府による弾圧の後、多くの学者たちが『大成経』の偽書たることを論じた。徳川光国 をはじめとして、吉見幸和、多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長、平田篤胤、橘守部・・・  だが、こうして学者たちが繰り返し、偽書たることを強調したというところに、かえっ て『大成経』事件の反響の大きさをうかがうことができよう。中には山崎垂加のように、 『大成経』が真正の古典たることを信じ、自説の例証に引用する学者さえあった。また、 各地の神社の由緒書にも、しばしば『大成経』の影響を見ることができる。
「古史古伝」の世界にも『大成経』が与えた影響は大きい。特に『秀真伝』およびその同 系の文献である『三笠文』『神勅基兆伝太占書紀』は、『大成経』を事実上の下敷きとし て書かれたと思われる。また、「古史古伝」では、しばしばニニギの兄・天火明命とニギ ハヤヒを混同する記述がある。この混同はすでに『先代旧辞本紀』十巻本から始まってお り、必ずしも『大成経』独自の伝承とはいえないが、『大成経』が直接の典拠となった可 能性は高い。さらに山田孝雄によると、しばしば神代文字の配列に用いられるヒフミ歌と いう呪言も、『大成経』を初出とするという(「所謂神代文字の論」)。
公開時、ただちに時の権力から弾圧を受けたということからいっても、後世への影響か らいっても、『大成経』こそ、まさに「古史古伝」の元祖と呼ぶにふさわしいだろう。
なお、最近、おりからの予言ブームで、『大成経』の「未然本紀」をいわゆる聖徳太子 の未来記と同一視する説が現れている。たしかに「未然本紀」は聖徳太子が自らの没後に 起きることを、あらかじめ記し残したという体裁にはなっている。しかし、これは『太平 記』で四天王寺に伝えられた未来記とはあくまで別物であり、混同してはならない。  

以上

 こちら

伊勢神宮の内宮と外宮の南東の方角には、伊勢神宮の奥宮である『伊雑宮』がありますがここは、封印された第3の伊勢神宮と噂されています。






篠原央憲氏の『ユダヤ人と日本人の秘密』には、奇妙な話が記載されています。


民俗学者の筑紫申真氏は、伊勢神宮の奥宮である伊雑宮を訪れたときに、そこに祀られているのは蛇神だと地元の人たちがこともなしげに語るのを聞いて驚愕している。

彼の記憶に甦ったのは、鎌倉時代の高僧が遺した記録である。そこでもアマテラスが蛇神だという噂が記録されていた。

以上

蛇神 龍蛇神  オオモノヌシ 日神 ニギハヤヒ という連想が当然のように浮かびます。

⇒ こちら

 

 なんとか回れそうな感じですね。 あとは お参りして どう受け止めさせていたけるか....わたしにはそれしかありません。

 



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長野へ福島川内村での語りが無事にすんだ御礼のお参りに行きたかったのですが 日程がきつくあきらめました。

今日は岩舟山ふもとのパティスリーエドに二時間かけてケーキを買いに行ったのですが 実は太平山神社に参拝したかったのだと気づいて 大平山に。

葡萄畑のほうから御山に登りました。紫陽花が色とりどりに咲いていました。いつも静かなお宮ですが 今日はにぎやかで参拝客がひきもきらずでした。境内にはくぐると無病息災だという茅の輪が設置されていました。

まず、杉の木にお参りし手を触れると 東京大空襲を語っていらいざわめいていたこころとからだが鎮まりました。 .....あの日はここからも赤く燃える空が見えたよ いのちが燃える火が見えたよ....と声が聴こえました。.....それから本殿 摂社末社 をくまなくご参拝 奥宮を遥拝しました。

星宮に祀られているのはミカボシカガセオさまだとわたしは思っています。禰宜さんにたしかめたところ そのようなおはなしでした。天井には龍の絵が描かれているようです。 奥宮には天一目大神 この神は東国に安寧をもたらす神さまです。

7/6の「語り継ぐ戦争と平和」が御心にかなうように 伊勢 瀧原宮 伊雑宮(なぜだか このお宮が気になります)のご参拝がゆるされるように祈りました。

パティスリー・エドに館林美術館のバルビエ展のチラシがありました。行ってみたいなぁ..... ここのケーキ バナナタルトとかチーズケーキとか とても美味しい。パウンドケーキが有名だそうですが パウンドケーキはわたしのほおうがおいしいと思います。

 



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とても個人的なコンサートがありました。長野からそのまま駆けつけました。

奈良裕之 ⇒ こちら

わたしがはじめて奈良さんの”音”に会ったのは7.8年前のことです。たしか 表参道のちかくのちいさなカフェのようなところ 30人くらいでぎっしりの場所でした。

演奏がはじまると同時に 雨が降りはじめ 終わったらやみました。先日 池上 実相寺でも雨もよい この日もそうでした。

わたしは友人をふたり誘い なごみ というお店にいきました。今回のコンサートに骨折ってくれた幸手の友人ふたりと奈良さん 6人でお食事しました。

驚いたのは奈良さんがとても若くなられていたことです。

以前は仙人のようだと感じていましたが とんでもない!! 精気みなぎる武道家のようでした。

ゆるぎない 太い柱が立っているようでした。

わたしはいくつか質問をさせていただきました。そしてわたしにとって重要なメッセージをうけとりました。

演奏は 媒体 となるということ.... これは語りでいつも感じ また目指していることです。 

では どうすれば よき媒体となれるか 奈良さんはこういい切った。 「委ね切る」

わたしにかけているのはまさにこのこと ゆだね 「きる 」 その覚悟がまだまだ甘いのだと思いました。

すべて流れのままに ..... 否定しない ..... そして 後継者を育てようとは思わないということ。

これらのことばが わたしを揺さぶりました。

演奏会は太い蝋燭を三本灯して 夜 おこなわれました。12名ほどの 贅沢な会でした。

ちいさなお子さんがひとり 広間がうれしくて いったりきたりタタタタタと走っていましたが

奈良さんは 「だいじょうぶですよ。演奏がはじまるとねてしまうでしょう」といい そのとおりになりました。

わたしは委ね切る ことにしました。 ..... そして 蛇になって脱皮をはじめていました。

あとで聴いたはなしでは 奈良さんはわたしとなおみちゃんの間で ものすごい勢いで太鼓と銅鑼を

叩いていたそうです。わたしは踊りだしたくてうずうずしていましたが ゆだねきるのがたりないのか

そこまではできませんでした。

あとでシェアのとき 奈良さんは 踊ってもかまいません といいました。

すべてに意味がある。 このとき 奈良さんの 音 が身体と魂を揺さぶったことも 前宮をたずねたことも。

 

 



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たいせつなことを書き忘れていました。

前宮 大神神社 大斎の原に共通するものはなにか・・・

前宮のご神体  守屋山

大神神社 ご神体 三輪山

大斎の原 ご神体 熊野川 (これは勝手にわたしが感じていることですが 元宮の禰宜さんもその可能性を語っておられました)  (大斎の原は熊野川・音無川・岩田川の合流点にあった)

◎ご神体が自然であること

◎水とのかかわり 三輪山 初瀬川、北は巻向川 に区切られている。

◎三輪山 守屋山には巨石

◎木  (大斎の原では洪水で巨木は流されたようです)

◎龍 龍蛇神

◎感じる氣は父性的なあたたかさ 

ひとそれぞれに 霊籍(ひせき)があります。わたしがことに上記の三つのお社に深く感じるものあるのは その霊籍によるのか それとも多くの方々もそう感じるのかわかりません。けれど 懐かしくもとおく離れることを余儀なくされたふるさとを思うように焦がれ あくがれる地であることは間違いありません。



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