読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

おゆき -東慶寺花だより- 井上ひさし オール読物4月号

2007-06-13 22:24:19 | 読んだ
6年ぶりに再開された、井上ひさしの「東慶寺花だより」である。
「東慶寺」とは鎌倉にある、「駆け込み寺」とか「縁切り寺」と呼ばれている寺である。

従って、このシリーズはこの東慶寺に駆け込む女たちのそれぞれの物語である。、その門前には、トウケイジの御用宿、柏屋、松本屋、仙台屋、が3軒あり、ここに駆け込む女たちの離婚話に関係のある人々が泊まり、寺役所の裁定を待つのである。

3軒のうちの柏屋に信次郎という医者のような居候がいる。この信次郎が物語を進めさせる役目を負っている。
従って、信次郎の視線による物語が展開されるわけである。

さて、今回の「おゆき」は<癪>の症状がでて、本当は円覚寺の医僧・清拙和尚がその手当てに当たらなければならないのだが、あいにく出張をしているということで信次郎が手当てをするのである。

そうすると<癪>の原因は、どうも「妊娠」にあるらしい、ということがわかる。しかし、おゆきは妊娠の原因となる出来事に覚えがない。尼寺に入っているのだから、まったくそのとおりなのである。
さて、本当の原因は?そしてその解決策は?というのがこの物語の骨子である。

もうすでにシリーズは終了していたと、いつのまにか終了していたと思っていたら「待望の再開」だそうで、なんと申し上げていいのやら・・・
以前もこのシリーズは好んで読んでいたので嬉しいのではあるが、なにしろ、井上ひさしである。
次回はいつなのか、まったく検討もつかず、待ち望んでいると待ちぼうけを食わされるので、表面上は冷静に振舞おうとしているのである。

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日本の司法を変えた15大事件 夏樹静子 オール読物連載

2007-06-12 23:55:36 | 読んだ
2007年1月号のオール読物から隔月で連載されている。
平成21年度からスタートする裁判員制度にちなみ、これまでの日本の裁判を振り替えてみようではないか、という、誠に時宜を得た企画でありまして、なんと申しましょうか・・・そんな、田舎の議員さんみたいな前ふりはやめて、本題へ入るのでありまする。

第1回は「大津事件」明治期、ロシアの皇太子に切りつけた警察官の裁判でありまして、つまりは「司法権の独立」のきっかけともなった事件、ということでありました。

ロシアの皇太子に切りつけた、という事件が、司法という方角からみると、このようになるのか、という、面白さがありました。
また、司法権の独立、というものは、明治期の「やるぞ!」とか「日本を作るぞ!」という意識があふれていたところから生まれたものである、ということがわかるのであります。

第2回は「大逆事件」で、幸徳秋水らが天皇の命を狙った、ということから、あれよあれよという間に死刑になってしまうという事件であります。
これなどは、時代の流れとか感覚とかに司法も流されることがわかる例ですなあ。

司法権は独立しているけれど「正義」というのはその時代の感覚によって変わっていくものである、つまり絶対的な正義などありはしない、ということがわかるのであります。

第3回は「昭和の陪審制度」ということで、昭和のはじめ頃には「陪審制度」が日本に存在したという、お恥ずかしながら初耳のことであります。
当時は、ある程度選考があったようで、そういう意味では真っ当な判断がされたこともあるようだが、難しい込み入った事件での判断は難しいということがわかる。

あと12回あるようだが、3回読んでみて、なかなか面白い。
裁判というのは、真実をあらわにすることによって正義の判断をするわけであるが、何が真実なのか、何が正義なのか、ということがよくわからなくなってきている世の中で、うまく機能するのだろうか。

また、いわゆる多民族国家は、陪審員制度(裁判員制度)は考え方の調整機能ということもあるのだろうが、単一民族である日本においても、いよいよ個々の考え方の調整が必要になってきたんだなあ、という感慨も覚えたのであった。


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夜の底は柔らかな幻 恩田陸 =オール読物連載中=

2007-06-11 18:48:35 | 読んだ
2006年の9月号から隔月連載されているものである。
恩田陸の作品ははじめて読む。

<在色者>の有元実邦(ありもと みくに)が主人公である。<在色者>とはどうも超能力者らしい。
有元実邦は警部補である。たぶん日本の警察の警部補なんだと思うのだが・・・そのあたりはよくわからない。
そして彼女は極秘任務を帯び「途鎖国(とさこく)」という密入国厳禁の国に入り、極秘任務を遂行しようとする。

2007年の5月号で、第5回目なのであるが、やっと2部に入ったところで、たぶんこれから極秘任務を果たそうと超能力を駆使し超能力を持つ相手と戦うのであろう。

第1部の最後で実邦は
「かつて私の夫だった男を殺しにいく」
といっている。

ともかくなんだかよくわからないのである。登場人物たちは実邦の味方、完全なる敵、味方らしい者、そしてなんだかよくわからない者が交錯して登場し、それぞれが「在色者」なのか、また「在色者」であってもその能力には強弱があるらしく、混乱してくる。
しかも、隔月連載。今後も相当苦労しながら読んでいかなければならないと思うのだが・・・おもしろい、のである。

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諸田玲子 2006年オール読物から

2007-06-10 21:08:52 | 読んだ
昨日に引き続き、2006年のオール読物を片付けながら読んだもの。

「唐変木」  2006年1月号
「かってまま」2006年4月号
「生き腐れ」 2006年9月号

いずれも江戸時代の庶民の人情話である。
そしていずれもの物語にも「おさい」という名の女が登場する。
「おさい」という女を軸とした連作なのである。
(ということが、今回続けて読んでやっとわかった)

<唐変木>は「おせき」という女が、昔なじみの岡っ引き「利平」の前でこれ見よがしに「掏摸(すり)」を働くという話。
それは、一人息子がからんで、そして「おさい」は「おせき」と一緒に暮らしている「みなしご」である。
おさいが、おせきと利平の仲を取り持って・・・

<かってまま>
おらくは乙吉の妻であるが、いいとこのお嬢さんで、家事は手抜きで遊んで歩いている。
その家の隣に「おさい」という若い女が引っ越してきて、以来、不思議な殺人事件が起きる。「おらく」には直接関係のない事件であったが、ある日、乙吉とおさいが親しげに話しているのを見てから・・・

<生き腐れ>
「みょう」は盗賊の娘で14歳であるが、その格好は「地獄から迷い出た幽鬼さながら」である。父親の喜兵衛は冷酷無慈悲な盗賊の頭領である。喜兵衛は盗みに入る前に「みょう」の住む家にくる。その父親が来る前に願哲という貧相な坊主を「みょう」は助ける。
父の喜兵衛は「おさい」という女を連れて家にやってくる。おさいは願哲にみょうを救ってくれと頼まれる。このままではみょうが生き腐れるというのである。
さて、願哲とはどういう男なのか、そしておさいとみょうは・・・

このあと、12月号で「おさい」と「みょう」が登場する<けれん>で物語は完結する。このことは12月31日のブログで書いたのだが、連作と走らず「鶴屋南北を主人公とした小説」などとしている。
じつは「おさい」という女の物語であった。

いずれ文庫本にでもなったら4編を続けて読むとまた別の思いを抱くであろうと思う。

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村松友視・伊集院静 オール読物から

2007-06-09 22:07:59 | 読んだ
ここ数週間、気持ちも体もあわただしく落ち着かなかったが、やっと肩から力を抜くことができるような環境へ戻りつつある。

というわけで、部屋の中に散らばっている本を片付けようと思ったのである。
で、2006年のオール読物1月号から2月号までを箱詰めすることにした。

ちょっと話は変わるが、オール読物などの本を片付けるのに2リットルのペットボトルが6本入る箱を使用している。寸法が丁度なのである。
もうひとついえば、そのうち、これら箱詰めした本を並べておける場所を確保したい、と強く思っているのである。

箱詰めをする前に、目次を見たら読んでいないものがいっぱいあって、読んでみようと思ったのである。従って、本日朝に箱詰めをしようと思ってはじめたのに、終了したのが夕方になってしまった。

で、今回紹介するのは、村松友視(視の偏は「示」そのものである)と伊集院静で以下の作品。

・古備前    伊集院静 2006年3月号
・あかぎ坂   村松友視 2006年5月号
・むしかご   伊集院静 2006年8月号
・浅野川園遊会 村松友視 2006年8月号
・キリストの涙 村松友視 2006年11月号

一言で言えば「大人の小説」というカンジか。

伊集院静の2編はいずれも料理人が主人公である。
<古備前>では
「この学校には子どもがこわして困るものは何ひとつ置いていません」

「うちの店にあるものでお客様と店の者がこわして困るものは何一つありませんよ」
というセリフがいい塩梅であった。
<むしかご>では
店の常連客の「心遣い」が身に沁みる。

いずれも「古くさい男たち」が登場するが、颯爽と時代の先端を行く男や、謎を解く男たちもいいが、こういう男が日本を支えている中にいるのか、と思うとなんだか安心する。

ただ、この料理人たちは非常にすばらしいらしいのだが「タバコ」を吸うのはいただけないと思う。

村松友視の3篇はそれぞれ違った設定である。
<あかぎ坂>は東京神楽坂の「たまねぎ屋」という居酒屋が舞台。
<浅野川園遊会>は金沢が舞台。
<キリストの涙>は神戸そしてジャズが舞台である。
それぞれ趣のある物語で、読後感は爽快である。
大人の恋、が描かれていて、大人の恋というものは、自身の問題、社会との関わりなどから複雑な動きをするものだということが、なんとなく感じられる。

さて、両氏の小説を読むと、この二人はエトランゼなんだなあ、と思うのである。登場人物たちとの距離が、そう思わせるのである。
その距離感が「いい」と思うのである。

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花世の縁談-新・御宿かわせみ- 平岩弓枝 オール読物6月号

2007-06-07 23:38:13 | 読んだ
久々に、ゆったりとした気持ちで本を読むことができた。

さてさて、今回の新・御宿かわせみは「花世の縁談」である。

花世は麻生家の長女である。
麻生家は、神林東吾の兄・通之進の妻の実家にして、東吾の親しい友・天野宗太郎が、東吾を慕っていた七重の婿になり、明治維新の折、宗太郎と花世以外が惨殺される事件に遭った。
そして、その捜査をしていた畝源三郎も何者かに殺されている。

新・御宿かわせみは、神林東吾が、幕末乗っていた船が行方不明になり、東吾も行方不明になったこと、そして、麻生家の事件が、全体を貫く「謎」となっていて、それを核としながら、小さな事件が起きる、という構造になっている。

それで、今回は「花世の縁談」なのである。

縁談そのものは「嫁」に行くことができないことと花世にその気がないことから、父の宗太郎が断ったのだが、その断った理由というのが、花世が通っている女学校のカロザス婦人のところで知り合った、外国人の医者ローランドと近頃いつも一緒にいるからだ、という噂が出て・・・

確かにローランドは花世を好きなようである。(千春の証言)
しかし、もう一人花世を好きな幼馴染がいるようで・・・

今後の展開に期待である。
いつの時代であっても、物語の中に「恋」がないと、物語はあまり面白くないので、これからは、先に述べた「二つの謎」と、いわゆる御宿かわせみ2世たちの「恋」も、物語の核となっていくのではないだろうか。
いや核となってほしいものである。

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レンタル彼氏 酒井あゆみ 幻冬舎文庫

2007-06-04 21:36:34 | 読んだ
酒井あゆみの書くものは面白い。
何が面白いのかといえば「人」とは何かということがわかりそうだからである。

何故彼女はそのような行動に出たのか、何故そのような行動をとらざるを得なかったのか、ということは、通常「興味本位」ということで、忌み嫌われたりする。
酒井あゆみが聞こうとすることも、見ようによっては「興味本位」である。
しかし、インタビューを受け入れ、突っ込んだ話をするということは、その人たちが酒井あゆみの何かを認めたということなんだろうと思う。

酒井あゆみの書いたものを「興味本位」という視点からだけでも読めると思う。
真剣に書いたものであるが、そのような危うさがあるところが、そして実はその危うさが「本質」だったりする。

というようなわけで、幻冬舎文庫にある「東京夜の駆け込み寺」「眠らない女」「人妻風俗嬢」「セックスエリート」と読んできたのだが、今回の「レンタル彼氏」については一気に読めなかった。

13人の女性が登場し、いわゆる「男を買う」ことについて色々述べているのである。読みたびに、いいようのない空しさに包まれ、社会の堕落ということばが渦巻き、「何を言いやがる!」という怒りがこみあげ、なんともいえず不愉快な気分になるのであった。

「お金を払った関係」「割り切った関係」で、彼女たちは何を得ようとしたのか?
そこが最も知りたいところである。

著者は真摯に対応している。しかしその真摯な対応が実は彼女たちに「うそ」をつかせていると思うのである。
あるいは彼女たちも説明できないことなのかもしれない。
共通しているのは罪悪感はあるとしながら「でもこうしなければならない私なの」という、こちら側から言わせれば勝手な物言いである。

だから読後感がすごく悪くなってしまったのかもしれない。

「世も末」という感想がいちばん似合うのかもしれない。
「幸福」とはなんなのだろうか。自立した女というのは自由にお金を使える人を指すのか。楽しければなんでもいいのか。

人と人のつながりが本当に希薄になってきていることが実感できる。そして、これから日本はどうなっていくんだろうか、少子高齢化よりも根の深い問題なのかもしれない。

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熊沢天皇事件論争 歴史読本7月号別冊付録

2007-06-03 18:11:11 | 読んだ
歴史読本7月号は「検証 後南北朝秘録」である。
その別冊についていたのが「熊沢天皇事件論争」である。

熊沢天皇というコトバがあることは知っていたが、それが何のことなのかよくわからなかった。何しろ南方熊楠と熊沢天皇の区別がよくわからなかったくらいだから・・・

というわけで、別冊を読んだわけである。
次の作品というか論文が載っている。

・自称天皇はどうして生まれるか     瀧川政次郎  昭和32年文藝春秋
・系図の偽作に就いて          渡辺世祐   昭和26年日本歴史
・皇統に関する熊沢一派の俗論を筆誅する 村田正志   昭和26年日本歴史
・熊沢天皇 吉野巡幸記         瀧川政次郎  昭和25年文藝春秋

の4編である。

戦後いわゆる「自称天皇」がずいぶん出たらしい、そのほとんどが南北朝時代の南朝の子孫であると言う。

我こそは天皇家の正統である南朝の子孫である、というのが概ねの主張。
これが、その出典資料の真偽やこれまでの研究などから大論争になったということらしい。

戦後、いわば「何でもいえる」という時代になったことから、先祖代々伝わった伝承である「我こそ天皇家の正統である」ということを世間に向かって話し出す人々が出てきて、それをGHQが利用したのが熊沢天皇。
(熊沢氏の先代は明治時代から政府などに対して、申し立てをしていたが、世間に知られるようになったのが戦後ということ)

で、一端言い出したら引っ込みがつかなくなって、専門家たちからはヤイノヤイノいわれ、その反駁をするが、資料が怪しい・・・

天皇家にまつわる話は明治以来タブーにされ、なおかつ現在の皇統とは別の「南朝」が正統とされたことなどから、研究者たちもその研究成果を明確に表すことができなかった、と思う。
それが、この騒動によって、研究の成果を語ることもでき、さらなら研究も行うことができ、ある面ではイイコトだったようにも思える。

南北朝時代に分かれた家系の人がある日突然「私が正統なる天皇である」というのは、普通に考えておかしいと思うのであるが、天皇の戦争責任とか色々なことと重なって、こんな騒動になったと思うのである。

ひとつ気になっていたことを知ることができてよかったと思うのである。
そして、この論文の並べ方もよかった。
特に最後の「熊沢天皇 吉野巡幸記」は、熊沢天皇の人となりがあらわれていて面白かった。

それにしても、その後の熊沢天皇はどうなったんであろう。

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青春のうた 第35巻 1980年代前期④

2007-06-02 11:44:25 | 読んだ
1 初恋/村下孝蔵 1983年2月

この歌は、三田寛子(中村橋之助夫人)がうたっていたのを聞いて「おおっ!いいなあ」と思い、村下孝蔵を知るきっかけとなったものである。

ところが、当時はすでに「歌」に対する思い入れが相当に薄れてきて「いいなあ」とは思うものの積極的に、たとえばCDを買うとか、ラジオをチェックするとかはしないで、たまたまよく聞こえてきたものを気に留めているくらいであった。

だから、村下孝蔵はいいなあ、と思っていても、断片的に知るだけであって、いずれそのうちなんかの機会があったら、じっくりと聞いてやろうと思っていた。

そうこうしているうちに、月日は流れ、村下孝蔵は亡くなってしまった。
残念である。
亡くなったってCDはあるのだが・・・なんというか「出会い」にきっかけがなかったという、すれちがい、みたいなものを感じるのである。

で、この「初恋」なのであるが、まだ「よく歌えない」のである。
メロディーが繊細で<流す>ところがないほど一つ一つの音が意味をもっているような感じがするのである。

だから、
♪放課後の校庭を走る君がいた♪
からラストまでの部分が、すごく沁みるときがあるかと思えば、
♪好きだよといえずに 初恋は 振り子細工の心♪
の部分がなんだかいやに涙を誘う時もあり
出だしの
♪五月雨は緑色 悲しくさせたよ一人の午後は♪
が輝いて聞こえるときもある。
そのときそのときの心情によって聞こえ方(受け取り方)が違うのである。

いい歌だなあ、と思うのである。でもナカナカ歌えない。

2 メモリーグラス/堀江淳 1981年4月

かわいい男の子が出てきちゃったなあ。
というのが、この歌を聴いたときの第1印象であった、と思う。

それから、若い女の子が「水割り」を飲む時代になったのか、とも思った。
女の子が「水割り」で恋を捨て去ろうとする、そんな時代になったのか、というかすかな驚きがあった。

それまでの歌の世界では、若い女の子が酒で何かを紛らすようなことはなかった、ように思える。
この歌をきっかけになのか、社会がすでにそんな状況にあったのか、よくわからないが、女の子が酒を飲んで何かを紛らわすことがおおっぴらになったんだなあ、と、今聴いても思うのである。

3 もしもピアノが弾けたなら/西田敏行 1981年4月

この歌もいい歌だけど、西田敏行にしか歌えない歌だと思う。
自分で歌うのは、たとえ誰も聞いていないとしても、なんだか「恥ずかしい」のである。

「池中玄太80キロ」というテレビドラマのパートⅡの主題歌である。
このドラマは見ていた。
西田敏行ふんする「池中玄太」の義理の娘3人の長女役を杉田かおるが演じていて、杉田かおるも「パパと呼ばないで」の<ちーちゃん>から脱皮したなあ、よかったなあと思っていたものだ。(ちなみに「3年B組金八先生」で中学生が妊娠するという役をしていたらしいが、これは見ていない)

今の杉田かおるを見ると「鳥の詩」よりもこの「もしもピアノが弾けたなら」を思い浮かべる。
そういえば「パパと呼ばないで」の石立鉄男が亡くなったと今朝の新聞に出ていた。まだ若いのになあ・・・杉田かおるは弔問に行くのだろうか・・・

なんだかわき道にそれていくばかりであるが、一曲の歌から思いが広がっていく、という典型のような感想であったのだ。

4 スローなブギにしてくれ(I want you)/南佳孝 1981年1月

この歌の第1印象は「キザ」であった。
映画の主題歌であったことからそういう印象もあったのだろうが、なにしろ、この詩のような世界は、なんだか「むずがゆい」のである。

のであるが、歌ってみるとこれが意外に「いい」のである。
♪Want you 俺の肩を抱きしめてくれ 生き急いだ男の夢を憐れんで♪
という出だしが、なんだか「いい」のである。

それまで、この歌のようなコード進行の曲は歌ったことがなかったので、新鮮であったことや、メロディーもわりとすんなりしているのではないか、なんて、つきあってみたらいいヤツだった、みたいな曲である。

5 う、ふ、ふ、ふ、/EPO 1983年2月

1970年代後半から80年代にかけて、なんだか正体不明な歌手というかアーチストみたいなのが出てきたように思える。
その人たちは、人間の真情を歌ったり、まったく非現実的なことを歌ったりした。

それは、売る、ための戦略だったのか、それとも世の中の基準みたいなものが膨張していって、それまで基準のなかにいた人たちから見ると「混沌(カオス)」した部分が増殖したような感じがしたのではないだろうか。

私にとってもなんだかわけのわからないものが増えてきているなあ、という感じがしていたのであるが、このEPOという人もなんだかよくわらからい人のような木がしていたときに、この題名「う、ふ、ふ、ふ、」である。

とはいうものの、日本語とメロディーは均整がとれているし、よく聞けば歌詞だってマトモである。

よく言えば「日本の美しさを保っていた」といえるし、悪く言えば「日本という呪縛から逃れ切れていない」といえるような気がするのである。

で、この歌は私にとってどうだったのか?ということであるが、それほど気に留めたような覚えはなく、聞き流していた、ような気がするのである。
というか、1980年代以降は、歌をジックリ聞いていられるような私的環境でもなく、世の移り変わりは早く、歌を含めて社会の広がりが激しくなったので、ついていけなくなってきていたのである。

そんななかで耳にとまった曲をかすかにというかわずかに覚えている、そんな気がするのである。

6 悲しい色やね/上田正樹 1982年10月

この歌もいい歌だと思う。
思うのだが「苦手」である。

ひとつには、いわゆる「こてこて」に代表される大阪のイメージが私にとっては苦手なのである。
なんだか「しつこい」と思うのである。

この「しつこい」という気持ちには若干の説明がいると思う。
私もタイプとしては「しつこい」と思う。と思うゆえにできる限り「しつこさ」を隠そうとしている。

しかし、世の中にはそれを隠そうとしない、あるいは「ウリ」にしているものもある。
そういう部分に対して、なんだか拒否をしてしまうのである。

この「悲しい色やねん」は心情としてはよくわかる、よくわかるがそこまで言わなくてもいいんじゃないのか、という気持ちと、メロディーの粘っこさが相俟って、なんだか苦手なのである。

もしこの歌詞が大阪弁でなかったら、どうだったのか、と思ったりもするが、大阪弁でなければこの歌は成立しないんだろう、と思い直したりする。

何度もいうが、この歌はいいとは思う、でも「苦手」なのである。

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