小説新潮に連載されていた、海堂尊の「マドンナ・ヴェルテ」が2月号で最終回となった。
この物語は「ジーン・ワルツ」の姉妹編というべきものなのだろう。
ジーンワルツと並行している物語である。
ジーンワルツも小説新潮に連載された小説で、私がはじめて読んだ海堂尊であった。
産科医の曽根崎理恵が主人公で、日本の産科の状況や、お産というのは実は高いリスクを伴うものであること、そして主人公理恵の人生についても描かれていた、感動の物語であった。
ジーンワルツという題名は、ジーン(遺伝子)が3つの組み合わせでアミノ酸になるという、ことからつけられたらしい。
さて、このマドンナ・ヴェルテは、曽根崎理恵とは別の視点から描かれている。
ジーンワルツの最後では、5人の妊婦が同じ日に次々と出産をするというヤマ場がある。
そして、このマドンナ・ヴェルテにおいても最終回はその出産の場面である。
ジーンワルツの最後に明かされる謎から、この物語が書かれているので、詳しく説明をするとジーンワルツの興味が半減してしまうので、物語の内容を詳しく説明することはできないが、ジーンワルツが出産ということを大きく取り扱ったものに対して、このマドンナ・ヴェルテは個人のつまりは妊婦やその家族の視点から「子を授かる」ということと「子を育てる」ということについて描いたものだといえる。
子供が欲しい、ということだけではなく、その子供に対して親としてどのように責任をとっていくのか、ということを考えなければならないらしい。
そういう世の中になったんだろう。
私は、結婚をして子を授かりその子を育てるというのは、人としてのごくあたりまえの事柄、と捉えていたのである。
しかし、現代は違うらしい。
それもこれも子供が少ない、結婚しない、といった社会環境からなのかもしれない。
子を産み育てる、ということが難しい世の中というのはいかがなものか。
そんなことを考えさせられたのである。
結論はでなくても考えるということが必要。
だから読書ややめられない。
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この物語は「ジーン・ワルツ」の姉妹編というべきものなのだろう。
ジーンワルツと並行している物語である。
ジーンワルツも小説新潮に連載された小説で、私がはじめて読んだ海堂尊であった。
産科医の曽根崎理恵が主人公で、日本の産科の状況や、お産というのは実は高いリスクを伴うものであること、そして主人公理恵の人生についても描かれていた、感動の物語であった。
ジーンワルツという題名は、ジーン(遺伝子)が3つの組み合わせでアミノ酸になるという、ことからつけられたらしい。
さて、このマドンナ・ヴェルテは、曽根崎理恵とは別の視点から描かれている。
ジーンワルツの最後では、5人の妊婦が同じ日に次々と出産をするというヤマ場がある。
そして、このマドンナ・ヴェルテにおいても最終回はその出産の場面である。
ジーンワルツの最後に明かされる謎から、この物語が書かれているので、詳しく説明をするとジーンワルツの興味が半減してしまうので、物語の内容を詳しく説明することはできないが、ジーンワルツが出産ということを大きく取り扱ったものに対して、このマドンナ・ヴェルテは個人のつまりは妊婦やその家族の視点から「子を授かる」ということと「子を育てる」ということについて描いたものだといえる。
子供が欲しい、ということだけではなく、その子供に対して親としてどのように責任をとっていくのか、ということを考えなければならないらしい。
そういう世の中になったんだろう。
私は、結婚をして子を授かりその子を育てるというのは、人としてのごくあたりまえの事柄、と捉えていたのである。
しかし、現代は違うらしい。
それもこれも子供が少ない、結婚しない、といった社会環境からなのかもしれない。
子を産み育てる、ということが難しい世の中というのはいかがなものか。
そんなことを考えさせられたのである。
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