今回の11号はあまり思い入れがない歌ばっかりですが・・・
1.帰って来たヨッパライ/ザ・フォーク・クルセダース 1967年12月発表
「なんじゃこりゃ?!」というのがはじめて聴いたときの感想。67年12月発表ということは、私の耳に入ったのは翌68年小学校6年ではなかったか。
たとえばこの歌に何らかの深い意味が隠されていたとしても、それを読み取ることはできず、或いは反体制であるといわれてもよくわからなかったはずで、ただ単になんだか変な歌がでてきたなあ、と思っていただけであった。
つまりはこの歌をそのまま受け止めていただけであって、新しさとか思想とか面白さなんてぜんぜん感じていなかった・・・そんな時期も”おぢさん”にもあったのである。
2.海の底でうたう唄/モコ・ビーバー・オリーブ 1969年12月発表
よくもまあこういう歌を選んできたなあ、と感心している。
この3人「モコ」「ビーバー」「オリーブ」のラジオ番組「パンチ・パンチ・パンチ」は聴いていた。この番組は「ちょいっとエッチ」なのが売りであった。したがって、ちょいと背伸びをしていた中学生であった。
当時から父が読んでいた「小説新潮」と「小説現代」を隠れて読んでいた、少年だったのである。
で、この歌であるが知っているのだが歌えといわれれば歌えない、そんな歌なのである。
ちなみに、私は「ビーバー」のファンだったような気がする。
3.かもめ/浅川マキ 1969年7月発表
浅川マキは「アングラの女王」といわれていた、のだそうだ。
東北の田舎の片隅にいて「アングラ」を想像するのは非常に困難である。
「前衛」といえば「前のほう」で前衛芸術というのは前のほうの芸術なのか、とか、アングラといえば地下にもぐるという印象であって、つまりはあまり世の中にとって必要のないもの、不真面目、わけのわからないもの。
という風にしかとらえられなかった。
浅川マキを知ったのはしたがって高校生になってからで、フォークソングが幅広く世間に認知されてきた頃である。その頃にはアングラも前衛もマスコミで紹介されていたと思う。
「かもめ」は悲しい男のお話で、ああ自分もこんな悲しい男であったなあ、と時々思い出しては、♪かもめ かもめ♪と口ずさんでいたのであった。
高校生の私は、時に「悲しい男」でもあった・・・・んだと思う・・・
4.若者たち~空にまた陽が昇るとき/ザ・ブロードサイド・フォー 1966年7月発表
アングラや前衛にあまり興味を持たなかったが、それ以上興味を持たなかったのがこのようなカレッジフォークであった。
社会派とはいえ、なんだかいいとこの人たちからみた社会派であって、現実の世の中はこんな歌では救えないドロドロしたものだと、思っていたのである。
この歌が出た頃はまだ小学生であって、何の感慨も持たなかっただろうが、後に成長(無事に成長したか、まっすぐなのか、横に成長したかの判断はおいとく)し、「きれいな歌」になんだか反感を持ったのであった。
あてもないのに、どっかへいくなんて、金持ちしかいない、と思っていたのであった。
そして、そんな若者にはなりたくない、と思っていたのであった。
このことからも、無事とかまっすぐとか成長していないことは確かである。そして心も体も横に成長してしまったのであった。
5.海は恋している/ザ・リガニーズ 1968年7月発表
実はこの歌「コミック・ソング」だとずっと思っていた。
「ケメコの歌」なんかと同じだろうなんて思っていたのだから、ヒドイ。
それもこれも、あの台詞が悪い。最後の「だって俺泳げないんだもん」というのが原因である。
それで、この歌がコミック・ソング出ないことがわかったとき、あの台詞が非常に「おしょすい」(恥ずかしいの方言)ものに感じられたのであった。
とはいえ、よく友人たちと歌っていたが・・・
今回、このリガニーズに、後の「猫」の主要メンバーである常富喜男、内山修がいることを改めて確認したのであった。
6.さとうきび畑/森山良子 1969年9月発表
近年いろんな人というか沖縄関係の人たちがよく歌っている歌である。
で、実は私はこういう歌も苦手なのである。
戦争反対!
というメッセージの濃い歌は苦手である。
戦争は反対である、反対であるがこういう風な歌にしてしまうと「なんだかなあ」と思ってしまうのである。
まして、おばさんたちのコーラスグループが、こういう歌をうたっているのをきくと「なんだかなあ」度が上がってしまうのである。
こういう歌をひとりで聴くのはいいが、みんなで聴くとかみんなで歌うというのが「ダメ」なんだと思う。なんだか体と心が痒くなってしまうのである。
追伸
普段使っているパソコンが壊れてしまい、ちょいと気落ちしているのである。
昨夜は8時頃に眠ってしまい、また爆睡してしまった。近頃やたら眠いのである。そして今日は一日「小説新潮」を読んでいたのである。
1.帰って来たヨッパライ/ザ・フォーク・クルセダース 1967年12月発表
「なんじゃこりゃ?!」というのがはじめて聴いたときの感想。67年12月発表ということは、私の耳に入ったのは翌68年小学校6年ではなかったか。
たとえばこの歌に何らかの深い意味が隠されていたとしても、それを読み取ることはできず、或いは反体制であるといわれてもよくわからなかったはずで、ただ単になんだか変な歌がでてきたなあ、と思っていただけであった。
つまりはこの歌をそのまま受け止めていただけであって、新しさとか思想とか面白さなんてぜんぜん感じていなかった・・・そんな時期も”おぢさん”にもあったのである。
2.海の底でうたう唄/モコ・ビーバー・オリーブ 1969年12月発表
よくもまあこういう歌を選んできたなあ、と感心している。
この3人「モコ」「ビーバー」「オリーブ」のラジオ番組「パンチ・パンチ・パンチ」は聴いていた。この番組は「ちょいっとエッチ」なのが売りであった。したがって、ちょいと背伸びをしていた中学生であった。
当時から父が読んでいた「小説新潮」と「小説現代」を隠れて読んでいた、少年だったのである。
で、この歌であるが知っているのだが歌えといわれれば歌えない、そんな歌なのである。
ちなみに、私は「ビーバー」のファンだったような気がする。
3.かもめ/浅川マキ 1969年7月発表
浅川マキは「アングラの女王」といわれていた、のだそうだ。
東北の田舎の片隅にいて「アングラ」を想像するのは非常に困難である。
「前衛」といえば「前のほう」で前衛芸術というのは前のほうの芸術なのか、とか、アングラといえば地下にもぐるという印象であって、つまりはあまり世の中にとって必要のないもの、不真面目、わけのわからないもの。
という風にしかとらえられなかった。
浅川マキを知ったのはしたがって高校生になってからで、フォークソングが幅広く世間に認知されてきた頃である。その頃にはアングラも前衛もマスコミで紹介されていたと思う。
「かもめ」は悲しい男のお話で、ああ自分もこんな悲しい男であったなあ、と時々思い出しては、♪かもめ かもめ♪と口ずさんでいたのであった。
高校生の私は、時に「悲しい男」でもあった・・・・んだと思う・・・
4.若者たち~空にまた陽が昇るとき/ザ・ブロードサイド・フォー 1966年7月発表
アングラや前衛にあまり興味を持たなかったが、それ以上興味を持たなかったのがこのようなカレッジフォークであった。
社会派とはいえ、なんだかいいとこの人たちからみた社会派であって、現実の世の中はこんな歌では救えないドロドロしたものだと、思っていたのである。
この歌が出た頃はまだ小学生であって、何の感慨も持たなかっただろうが、後に成長(無事に成長したか、まっすぐなのか、横に成長したかの判断はおいとく)し、「きれいな歌」になんだか反感を持ったのであった。
あてもないのに、どっかへいくなんて、金持ちしかいない、と思っていたのであった。
そして、そんな若者にはなりたくない、と思っていたのであった。
このことからも、無事とかまっすぐとか成長していないことは確かである。そして心も体も横に成長してしまったのであった。
5.海は恋している/ザ・リガニーズ 1968年7月発表
実はこの歌「コミック・ソング」だとずっと思っていた。
「ケメコの歌」なんかと同じだろうなんて思っていたのだから、ヒドイ。
それもこれも、あの台詞が悪い。最後の「だって俺泳げないんだもん」というのが原因である。
それで、この歌がコミック・ソング出ないことがわかったとき、あの台詞が非常に「おしょすい」(恥ずかしいの方言)ものに感じられたのであった。
とはいえ、よく友人たちと歌っていたが・・・
今回、このリガニーズに、後の「猫」の主要メンバーである常富喜男、内山修がいることを改めて確認したのであった。
6.さとうきび畑/森山良子 1969年9月発表
近年いろんな人というか沖縄関係の人たちがよく歌っている歌である。
で、実は私はこういう歌も苦手なのである。
戦争反対!
というメッセージの濃い歌は苦手である。
戦争は反対である、反対であるがこういう風な歌にしてしまうと「なんだかなあ」と思ってしまうのである。
まして、おばさんたちのコーラスグループが、こういう歌をうたっているのをきくと「なんだかなあ」度が上がってしまうのである。
こういう歌をひとりで聴くのはいいが、みんなで聴くとかみんなで歌うというのが「ダメ」なんだと思う。なんだか体と心が痒くなってしまうのである。
追伸
普段使っているパソコンが壊れてしまい、ちょいと気落ちしているのである。
昨夜は8時頃に眠ってしまい、また爆睡してしまった。近頃やたら眠いのである。そして今日は一日「小説新潮」を読んでいたのである。