著者は1960年生まれの哲学者、である。
従って、この「メタフィジカル・パンチ」は哲学書なのだ!エヘン!
というぐあいに「哲学」と聞いただけで、なんだか「権威」が目の前に迫り「へへぇー」と這いつくばってしまうしまうのである。
「メタフィジカル」(metaphysical)とは「形而上学的さま」とか「形而上の」という意味である。
といってはみたものの、そもそも「形而上」とは何か?
というところから始まるのだから「哲学」に対する認識の低さこの上ない読者なのである。
では「形而上」とは
<哲学で、時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては認識できないもの。超自然的、理念的なもの>(大辞泉)
なのである。
であるが、この説明わかりますぅ?
つまり、我々は通常「形而下」(=存在するものの中)において考えたり行動をするのだが、しかし、我々は、例えば「愛」とか「死」とか存在しないものまたは認識できないもの(=形而上)についても含めて生きているといえる。
で、我々(もしかしたら私だけ?)はこの形而下と形而上をごったまぜにして考え生きている、ゆえに、グチャグチャな生き方をしている。
多分、哲学者たちは、この境界を明確に認識でき、なおかつ形而下の問題なぞ問題ではない、と考えているに違いない。
と、この本を読んで思うのである。
人間が人間らしく生きるには「形而上」における考え方を身につけないとならないらしい。金や財産があるとかなんて人としての幸せには関係ない、と言い切らないと形而上には行かないらしい。
さて、本書は著者がち著名な人物たちを評論しているものであり、最後には著者が最も好きな「小林秀雄」に対して手紙を書いている。
ところが、こちとら自慢じゃないけど、この本に取り上げている人物をよく知らない。だから、評論といったって一方通行のようなものなのである。
それでも、時々或いはところどころに「フーム」とうなるようなものがあって、感心したりしているのである。
というわけで、2005年3月に購入し、時々読んでやっと読みきったのである。
著者の架空対話集「帰ってきたソクラテス」「ソクラテスよ、哲学は悪妻に聞け」が面白く、そのノリでこの本を読もうとしたが、いささか勉強不足であった。
追伸
「世に棲む日日」(司馬遼太郎)第3巻を読みつつ「小説新潮」や「オール読物」をチラホラ読んでいる。
従って、この「メタフィジカル・パンチ」は哲学書なのだ!エヘン!
というぐあいに「哲学」と聞いただけで、なんだか「権威」が目の前に迫り「へへぇー」と這いつくばってしまうしまうのである。
「メタフィジカル」(metaphysical)とは「形而上学的さま」とか「形而上の」という意味である。
といってはみたものの、そもそも「形而上」とは何か?
というところから始まるのだから「哲学」に対する認識の低さこの上ない読者なのである。
では「形而上」とは
<哲学で、時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては認識できないもの。超自然的、理念的なもの>(大辞泉)
なのである。
であるが、この説明わかりますぅ?
つまり、我々は通常「形而下」(=存在するものの中)において考えたり行動をするのだが、しかし、我々は、例えば「愛」とか「死」とか存在しないものまたは認識できないもの(=形而上)についても含めて生きているといえる。
で、我々(もしかしたら私だけ?)はこの形而下と形而上をごったまぜにして考え生きている、ゆえに、グチャグチャな生き方をしている。
多分、哲学者たちは、この境界を明確に認識でき、なおかつ形而下の問題なぞ問題ではない、と考えているに違いない。
と、この本を読んで思うのである。
人間が人間らしく生きるには「形而上」における考え方を身につけないとならないらしい。金や財産があるとかなんて人としての幸せには関係ない、と言い切らないと形而上には行かないらしい。
さて、本書は著者がち著名な人物たちを評論しているものであり、最後には著者が最も好きな「小林秀雄」に対して手紙を書いている。
ところが、こちとら自慢じゃないけど、この本に取り上げている人物をよく知らない。だから、評論といったって一方通行のようなものなのである。
それでも、時々或いはところどころに「フーム」とうなるようなものがあって、感心したりしているのである。
というわけで、2005年3月に購入し、時々読んでやっと読みきったのである。
著者の架空対話集「帰ってきたソクラテス」「ソクラテスよ、哲学は悪妻に聞け」が面白く、そのノリでこの本を読もうとしたが、いささか勉強不足であった。
追伸
「世に棲む日日」(司馬遼太郎)第3巻を読みつつ「小説新潮」や「オール読物」をチラホラ読んでいる。