尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

現代日本の葬送儀礼の激変ー国葬ではなく「国民追悼会」へ

2022年09月30日 23時01分00秒 | 社会(世の中の出来事)
 「国葬」問題は政治的に起こったので、政治問題として考えるのは当然だろう。だけど、そういう問題は多くの人が書いているので、ここではちょっと違った観点から考えてみたいと思う。それは「葬儀とは何か」であり、現代日本では急速に「葬送儀礼が変化している」という問題だ。3年近く続くパンデミックにより、葬式も大きく変わった。というか、基本的に「冠婚葬祭」が無くなった。まあ絶対ではないけれど、多くの人を集める儀式というものが敬遠されるようになった。

 しかし、そこに「遺体」がある以上、何かをしなければならない。何もしなければ犯罪になってしまう。だから「近親者だけで葬儀を営む」ことになり、相当の有名人でも家族葬が終わってから公表されることが多くなった。その代わりに「後日お別れの会を開く予定」とされることもある。先月の訃報からピックアップしてみると、森英恵稲盛和夫古谷一行各氏など「お別れの会」をやると書かれている。(三宅一生氏は葬儀、お別れの会ともにやらないと出ているが。)

 実際に9月29日にさいとうたかを氏のお別れの会が帝国ホテルで開かれたというニュースがあった。『ゴルゴ13』の作者である。2021年9月24日に亡くなったので、約1年後の会だった。また作家、元東京都知事の石原慎太郎氏のお別れの会は、6月9日に渋谷のセルリアンタワー東急ホテルで行われた。亡くなったのは2月1日だったから、4ヶ月後という開催は現在では早い方だろう。この会を検索すると、実は安倍元首相が発起人を務めていたことが判る。参列者は5千人と出ている。何と安倍首相「国葬」の4300人より多いではないか。しかし、ホテルに5千人が座れる大ホールはないだろう。これは献花だけに訪れた人も含んでいるんだと思う。
 (前=さいとうたかお、後=石原慎太郎のお別れの会)
 この二つの会の会場を見ると、大体似ていると思う。「国葬」も同様だけど、もっと大掛かりである。それは今回の「国葬」が実はその本質が「お別れの会」だったということだろう。我々の身近な場合、葬儀の多くは仏教式で行われる。そしてほとんどの場合は会場に遺体が安置されている。安倍氏の場合も、「家族葬」が増上寺で営まれた。公開の場での犯罪で亡くなったし、現役の公人だから、秘密にしておけるものではない。だから、この家族葬にも国会議員は参加していた。通夜も行われ、著名人が焼香に訪れている。一般人も献花出来る場が設定され、全部で2500人ほどが参加したという。野党からも参加していた。
(増上寺前に棺が到着)
 これだけの規模の実質的葬儀が行われていた以上、改めて「国葬」を開く意味がどこにあったのか。三権の長がこぞって弔辞を読み、重々しく献花をする。全部終わるのに、4、5時間掛かる。それじゃ、欠席する人も多くなる。よくその場で倒れる「二次災害」が起きなかったものだ。もはや時代に合ってない儀式だったのである。どこかのホテルで簡素に行えば、もっと早く出来ただろう。仏式で葬儀を行った以上、もはや「故安倍晋三」は存在しない。「戒名」になっているはず。四十九日法要が終われば納骨するのが本来の形なのに、「国葬」のために遺骨が自宅にある。おかしなことだらけである。

 一方で、新聞を見ると「家族で葬儀を営んだ」あるいは「近親者で営む」と出ている訃報も多い。中井久夫市田ひろみ三遊亭金翁各氏などである。マスコミで訃報が報じられる有名人なら、かつては新聞に葬儀の日時と場所が掲載されていた。仕事上の関係者の親などの訃報を見たら、駆けつけるわけである。まあ、それは政財界にそれなりの知人がいる人の場合だけど。でも、その告知を見て、関係者以外が葬儀に参列することも可能だったのである。故阿奈井文彦さんに著名人の葬式を訪ね歩いた「アホウドリ、葬式にゆく」(1976)という本があるぐらいだ。

 この「家族葬」方式はコロナ禍で促進されたが、恐らく元に戻らないだろう。安倍晋三氏のような現役でかつ公衆の面前で死亡したようなレアケースを除き。何故なら高齢化がどんどん進むからである。超有名人ならともかく、一般人の場合、仕事を引退して20年、30年経てば、家族以外に葬儀に参列する知人も少なくなる。本人が90代、あるいは100歳越えとなれば、子どもが先に亡くなることも多い。残された家族も大きな葬儀をやりたくない。現役バリバリの子どもがいるということが、今までの通夜、通夜振る舞い、翌日の葬儀、火葬という続く一連の葬送儀礼の前提条件である。大都市では皆が参列する葬儀は少なくなるだろう。

 そういう大きな葬送儀礼の変容に沿ってなかったことも、「国葬」への違和感につながったのではないか。それでも著名人は時々が亡くなるわけである。「お別れの会」をやって欲しいという声が出る人はあるわけだ。そういう会を国が設定することは許されるか。国家が関わることではないとも言える。現に石原慎太郎氏の場合、国家が関わらずに出来たのだから。しかし、「ノーベル賞」「国民栄誉賞」などを受けるような人の場合、簡素な形なら「国営お別れの会」があっても許されるかもしれない。例えば緒方貞子氏や中村哲氏などはその候補だったのではないか。
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