尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

キース・ヴァン・ドンゲン展を見るーフォーヴィズムからレザネフォル

2022年09月13日 22時27分15秒 | アート
 パナソニック汐留美術館に「キース・ヴァン・ドンゲン展」を見に行った。26日までだから(水曜休み)、早く行かない。日時予約制が面倒だが、近くで映画を見た後に寄ることにした。日時予約は15分刻み、日時のみ予約で、チケットは窓口で買うというのにちょっと驚いた。映画館だとクレジットカード決済で、チケットを買うのが一般的だけど。

 キース・ヴァン・ドンゲン(Kees Van Dongen、1877~1968)と言われても、何となくどこかで聞いたような気もするけどレベル。日本では44年ぶりの本格的展覧会だそうだけど、前回の記憶は全くない。オランダに生まれて、パリで活躍した20世紀前半の画家である。強烈な色彩でフォーヴィズムの一員となった画家だという。フォーヴィズムと言えば、マティスルオーヴラマンクなどを思い出すが、キース・ヴァン・ドンゲンは今見ると強烈と言うほどの印象はない。むしろ美しい色彩で描かれた女性や風景が懐かしい感じがする。「泰西名画」の香りである。チラシにある絵《楽しみ》(1914年)はフォーヴィズム時代の代表作。
(キース・ヴァン・ドンゲン)
 キース・ヴァン・ドンゲンはロッテルダム近くで醸造業を営む家に生まれ、ロッテルダムの美術学校に通った。その時に最初の妻ジュリアナと出会っている。1899年にパリに移住して、新聞や雑誌のイラストを仕事にした。1901年にジュリアナを呼び寄せて結婚、長男は早世したが、1905年に娘のドリー(本名はオーガスタ)が生まれた。その後、次第に画風がフォーヴィズムに近づき、評判を高めていく。1910年にはピカソに誘われて、モンマルトルの共同アトリエ兼アパートとして有名な「洗濯船」に引っ越している。ここは20世紀美術界の「トキワ荘」みたいなところで、多くの画家、詩人が住んでいた。1908年には(当時認められていなかった)アンリ・ルソーを讃える夜会をピカソが開いたことで知られる。
(《私の子供とその母》1905年)
 1914年の第一次大戦直前にロッテルダムに帰郷していたため、そのままパリに戻れなくなってしまった。1918年の終戦後にパリに戻るが、妻との関係は破綻して1921年に離婚している。そしてヴァン・ドンゲンは肖像画家として人気を得ていく。それは素晴らしい出来映えだと思うけど、同じような絵が多くて次第に飽きてくるのも事実。パリやドーヴィル(ノルマンディーの海浜リゾート)の首飾りや指輪をした裕福な女性が愁いを秘めた眼差しで佇んでいる。それはまさに「レザルフォル」Les Années folles、狂乱の時代)を象徴している。アメリカでは「狂乱の20年代」(Roaring Twenties)と言われた時代である。
《女曲馬師(または エドメ・デイヴィス嬢)1920~25》《ドゥルイイー指揮官夫人の肖像、1926》
 パナソニック汐留美術館はジョルジュ・ルオーを収蔵していて、ルオー展示室があった。それを見ると、やはりルオーの方がスゴいと思ってしまう。結局、狂乱の時代に飲まれてしまったか。この時代にパリで活躍した画家は沢山見てきたわけだが、この人は真の一流とまでは言えないかなと見ているうちに思ってきた。でもフランスの風景や人物を見ることが快感なのである。それが「魅惑の巴里」というもんなんだろう。前半は赤が多く、後半の絵は緑を多く使っている。キレイだという意味で、見応えはあった。

 見たい展覧会は多いけど、見逃すことが多い。人気の展覧会だと混んでるのが嫌だったのである。フェルメールが日本に来るたびに行ってた時期があるが、「真珠の耳飾りの少女」の展覧会は、「真珠の耳飾りの少女を見る多くの人々の後頭部」という絵柄として僕の中で記憶されている。しかし、最近はコロナ禍で案外空いてて、美術館は狙い目かなという気がする。調べるとシニア割引のあるところも多いし。次はゲルハルト・リヒター展に行かなくては。
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