尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ゴルバチョフ、オリヴィア・ニュートン=ジョンー2022年8月の訃報①

2022年09月07日 23時12分28秒 | 追悼
 2022年8月の日本は猛暑だった。だからかどうか、有名人の訃報もかつてなく多かった。ソ連のゴルバチョフ元大統領の訃報がもっとも重大だから、今回は外国人の訃報から。しかし、日本で報道された外国人の訃報は少なかった。ヨーロッパでも猛暑だというが、訃報は少ないのだろうか。もちろんそうじゃないことは、ウィキペディアの「訃報 2022年8月」を調べると判明する。しかし、有名企業の社長や五輪の銅メダリストなどは、その国の人には別だけど、日本では報道する必要がないわけだ。

 元ソ連大統領、ソ連共産党書記長、1990年のノーベル平和賞受賞者、ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフが8月30日に死去した。91歳。内外で非常に多くの論評がなされ、今後もなされるだろう。もっともソ連崩壊は1991年末だから、すでに30年以上前である。学校で生徒に教える立場の教員でも、同時代体験としては知らない人が多くなっている。「ソ連」を知らなければ、第二次世界大戦後の世界を理解出来ないだろう。若い人には戦後史がどう見えているのだろうか。僕が生きてきた中で、ゴルバチョフは同時代の外国人政治家として最も重要な人物だったと思う。ゴルバチョフに関しては、今後も真剣に考えて行く必要がある。何だかんだ言われるが、僕はこの人は非常にすごい人だと思う。若い頃から苦楽を共にしたライサ夫人が1999年に白血病で急逝した後も、20年以上生きて活動したのである。そんなことが出来る高齢男性は非常に稀ではないか。
(大統領当時のゴルバチョフ)(晩年)
 ゴルバチョフは1985年3月にソ連共産党書記長に就任した。その後、11月にレーガン米大統領と会談、軍縮交渉などを確認した。その時点でソ連はアフガニスタンに侵攻中であり、翌86年4月にはチェルノブイリ原発事故が起きた。このような内外の苦難を打開するために、「ペレストロイカ」(立て直し)、「グラスノスチ」(情報公開)を進めていった。この難しいロシア語は、当時を生きていた人なら全員言えるだろう。その後の推移は他で調べて貰うとして、ではゴルバチョフのような人物がどうしてソ連共産党の最高幹部になれたのだろうか。それこそが不思議というべきだろう。

 ゴルバチョフ時代のソ連に関しては、僕も強い関心を持ち評伝や関連書を当時読んでいた。出身は南部のスタヴロポリ地方で、農民の子どもとして生まれた。農家で働きながら、好成績により市当局の推薦でモスクワ大学法学部に入学した。宿舎にはチェコから留学していた、後の「プラハの春」の理論的指導者ムリナーシがいて影響を受けたという。卒業後、検察庁を受けたが不合格で、故郷に戻ってスタヴロポリの党組織に勤めた。結局、これが彼の人生を決めたのである。故郷で順調に出世していき、1966年にスタヴロポリ市党第一書記、1970年にスタヴロポリ地方党第一書記になり、1971年には40歳でソ連共産党中央委員になったのである。これは沈滞するソ連農業を打開するリーダーが必要とされていて、また同郷のKGB議長、アンドロポフの引きがあった。
 
 1978年に中央委員会書記に抜てきされたのは農業担当としてだった。そして、1979年には政治局員候補となった。82年11月に長く政権を保持したブレジネフ書記長が75歳で死去し、後継にアンドロポフが就任した。改革派として地位を上げ、アンドロポフの後継とも目されたが、84年2月にアンドロポフは急死した。保守派のチェルネンコが後を継いたが、就任時から病身で1年あまり後の85年3月に死去した。まだ54歳だったゴルバチョフは指導部の中で最年少で、後継就任は必ずしも決定的ではなかった。高齢指導者の状況をよく見極めて、自分が最高指導者になる意思がないグロムイコを最高議会議長に推すことで、チーホノフ首相ら守旧派に勝った。人生には権謀も必要である。この時点ではゴルバチョフは共産党とマルクス主義を疑ってはいなかっただろう。
(ノーベル平和賞受賞)(広島を訪れて献花)
 28年間外相を務めて「ミスター・ニエット」と呼ばれたグロムイコの後継外相には、世界的には無名だったシェワルナゼを抜てきした。シェワルナゼはグルジア党第一書記で、スタヴロポリ地方とは管轄が隣同士で以前から盟友だったのである。スタヴロポリで農業専門とみなされて順調に出世しながら、後の同志を見極めていたのである。そして、漸進的に改革を進めソ連社会を変えていった。しかし、やがて「保守派」とのあつれきを強めていく。今までの強権政治が終わることで、封印されてきた民族紛争が噴出した。そして91年8月に保守派のクーデタが起こった。ゴルバチョフ夫妻はクリミアの別荘に軟禁され、生死も不明だった。現代史でもっとも緊迫した数日間だったが、それを打ち破ったのは当時ロシア共和国大統領に当選したばかりのエリツィンだった。

 これを直接のきっかけにしてソ連共産党の権威は失墜し、実権はエリツィンに移った。そして年末にエリツィンらが集まって、連邦解体を決定したのである。現在、ロシア国内ではゴルバチョフが「ソ連崩壊をもたらした」と批判されることが多い。しかし、ソ連を崩壊させたのは、直接にはエリツィンだし、歴史的に一番責任があるのはブレジネフだろう。葬儀も国葬にならず、ウクライナ侵攻中で外国首脳は集まらなかった。マスコミは「寂しい葬儀」と書くけれど、プーチンなんか来なくて良かった。市民数千人が参列したというから、勇気ある人は沢山いるのである。テレビニュースではモスクワから中継して市民の批判的な声を伝えた。しかし、元大統領を外国人記者に批判出来るのはゴルバチョフがいたからなのである。

 僕が思うに、現代史の真に重大な転換点1989年5月の北京だったと思う。ゴルバチョフは中国を公式訪問し、趙紫陽総書記と会談した。その時、天安門広場には胡耀邦を追悼し、自由を求める学生たちが集結していた。結局、中国は天安門広場の学生たちを武力で弾圧し、以後ソ連崩壊を「反面教師」として、政治的自由と報道の自由を敵視するようになった。しかし、ソ連と中国が改革派の指導者に率いられて、ゆっくりと社会民主主義的な改革を共に協力して進める「もう一つの歴史」は不可能だったのだろうか。それは歴史の中に幻を求める夢想に過ぎないのだろうか。
(葬儀の様子)
 イギリス出身の歌手、オリビア・ニュートン=ジョン(Olivia Newton-John)が8月8日に死去、73歳。1948年にケンブリッジで生まれたが、父の仕事で5歳でオーストラリアに移住。65年にオーストラリアのオーディション番組で優勝し、賞金でイギリスに戻ったという。66年にプロデビューするが、最初はクリフ・リチャードのバックコーラスをしていて、来日公演もしている。しかし、歌唱力とルックスで注目を集めるようになり、74年の「愛の告白」が全米1位、グラミー賞を受賞した。75年にアメリカに移住して、「そよ風の誘惑」(Have You Never Been Mellow)が大ヒットになった。僕が一番覚えているのはこの曲だが、今回久しぶりに歌詞付きで聞いてみたら、内容的にも英語の勉強のためにも若い人に聞き継がれて欲しいと思う曲だった。
(オリビア・ニュートン=ジョン、若い頃)
 78年の映画『グリース』でジョン・トラボルタと共演して大ヒットし、ゴールデングローブ賞主演女優賞にノミネートされた。その後も映画に出ながらヒット曲を出し続けた。80年代になるとロック色を強めた「フィジカル」が大ヒットした。僕は僕は特にファンだったわけではなく、映画も見逃した。日本では尾崎亜美杏里のために書いた「オリビアを聞きながら」(78)でこれからも知られるだろう。そんなにヒットしなかったのに、持ち歌にしている人が多い曲だ。その後結婚を機に一時音楽活動から遠ざかるが、環境保護運動に熱心に取り組んだ。92年には乳ガンを公表し、以後病気と闘いながらコンサートを続けた。来日公演も多く、震災追悼公演も行っている。最初は美形で明るいヒット歌手という印象だったけど、芯の強さを持った女性として生き抜いたと思う。
(晩年)
 イギリスの絵本作家、レイモンド・ブリッグズが8月9日に死去、88歳。子ども向けのイラストレーターとして活躍し、78年の絵本『スノーマン』が評判となってアニメ化もされた。核戦争の恐怖を描いた『風が吹くとき』(82)もアニメとなり、日本でも高く評価された。フォークランド戦争を批判する絵本を出すなどサッチャー政権には不評だったという。
(スノーマンと)(「風が吹くとき」)
ウォルフガング・ペーターゼン、12日没、81歳。ドイツ、アメリカの映画監督。1981年の「U・ボート」が大成功して、ハリウッドの超大作に進出することになった。エンデの大作の映画化「ネバー・エンディング・ストーリー」(84)を監督。その後の「第五惑星」は不評だったが、クリント・イーストウッドが主演した「ザ・シークレット・サービス」(93)で成功。「アウトブレイク」(95)、「エアフォース・ワン」(97)等アクション大作を得意とした。
アン・ヘッシュ、14日死去、53歳。87年からテレビ「アナザーワールド」で活躍してエミー賞を受けた。その後映画に進出し、『ウワサの真相/ワグ・ザ・ドッグ』等に出演した。女優としては大成しなかったが、私生活ではバイ・セクシャルを公言して、女性と交際したり男性と結婚したりしたことで知られた。8月5日に住宅に突っ込む交通事故を起こして脳死状態になった。臓器提供を希望していたため延命措置がなされていたが、提供先が見つかって14日に延命が終了した。
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