E・H・カー『歴史とは何か 新版』(What is History?、岩波書店、2022)を、つい読みたくなって買ってしまった。買った以上は読まないともったいない。で、読んだんだけど、相当後悔した。本体価格2400円、370頁を越える本を、いまさら僕が読まなくても良かったと思う。いつもはそういう本はスルーするんだけど、この本に関しては考えるべき点が多いので、書き留めておきたい。この『歴史とは何か』という本は、1962年に清水幾太郎訳で岩波新書から出版された。もう非常に有名なベストセラーで、70年代ぐらいまでは歴史を学ぼうとする学生なら大体読んでいると思う。僕ももちろん読んで、大影響を受けた本である。
それが新しく訳し直された。訳者の近藤和彦氏は、元大洋ホエールズの野球選手じゃなくって、イギリス史が専門の歴史学者である。岩波新書に『イギリス史10講』があるが読んでいない。著者のカーは生前に第2版を出そうとして、未完に終わったという。その草稿も掲載されている。さらに自伝や詳細な補注まで付いていて、詳しすぎるから注はもう読まなかった。これはもともと6回に渡る講演の記録で、カーはところどころでくだけた表現、内輪受け的なエピソードを披露している。近藤氏はそこで原文にはない、[笑]という文字まで入れている。テレビの視聴者参加番組で、観客に拍手を求める合図をしている感じ。ここが笑いどころですよって示すとは、実に斬新な訳だと事前には思ったけれど、読むとやり過ぎ感も感じるところだ。

著者のE・H・カー(1892~1982)は、『危機の二十年』(岩波文庫)や大部のロシア革命史3部作(『ボリシェヴィキ革命』『一国社会主義』『ロシア革命の考察』で、みすず書房から分厚い本が6冊出ている)で知られる。すべてE・H・カーとなっているが、イニシャル部分は「エドワード・ハレット」だと今回知った。元はイギリスの外交官で、ソ連寄りと見られて次第に居づらくなったらしい。1936年に辞任して外交を論じるが、戦時中は情報省に務めた。戦後は研究者として人生を送ったが、年譜を見ると女性問題でずいぶん苦労したことが判る。ずっとロシア革命史を研究した人である。
つまり、E・H・カーは日本で普通の意味で言われる「歴史学者」とちょっと違っていた。何しろ1950年代に1917年のロシア革命を研究しているのだから、日本の感覚だとまだ歴史ではない。今で言えば、80年代、90年代の問題である。日本で言えば、中曽根政権から小泉政権あたりまでを研究対象にする。世界ではレーガン政権とかイラン・イスラム革命、湾岸戦争からイラク戦争などである。日本では「政治学」とか「国際関係論」などと呼ばれて、法学部に置かれることが多いだろう。「歴史学科」にも現代史はあるけれど、まだ高度成長期あたりまでしか扱わないことが多いのではないか。そのことは読んだ当時は全く意識しなかった。僕にとって「ロシア革命」は歴史以外に何物でもなかったからである。
(E・H・カー)
昔読んだときにどこに影響されたのだろうか。それは以下のような部分だった。今回の訳文で言えば、「歴史とは、歴史家とその事実とのあいだの相互作用の絶えまないプロセスであり、現在と過去とのあいだの終わりのない対話なのです。」「過去は現在の光に照らされて初めて知覚されるようになり、現在は過去の光に照らされて初めて十分に理解できるようになるのです。」
つまり「すべての歴史は「現代史」である」のだ。これが判るか判らないかで、単なる歴史マニア(歴史上の「事実」のコレクター)か歴史研究者かが分かれるだろう。今まで教えた中でも、歴史が好きという生徒はかなりいた。中には織田信長の誕生日はいつかなどと聞いてくるのもいる。そんなものを知るわけがない。知りたければスマホでWikipediaを検索すれば済む。(天文3年5月12日〈1534年6月23日〉だった。)そんな些事はどうでもいいから、「織田政権の日本史における意義を論ぜよ」などと聞き返したいところだが、もちろん「人を見て法を説け」である。いやあ、すごいねえ、そんなことまで知ってるんだ、先生も知らなかったよと答えておくわけである。
(岩波新書版『歴史とは何か』)
前回の訳者の清水幾太郎は、刊行当時は「進歩的文化人」の代表格と見られていただろう。60年安保の時、雑誌「世界」に「今こそ国会へ」という論文(というか檄文)を書いた人である。しかし、僕の時代には文春から出ていた保守系誌「諸君!」で日本核武装論を論じる右派になっていた。戦時中は戦争を鼓舞していたから、2度「転向」した人である。それはともかく、訳文自体は判りやすかったと思う。でも、多分高校生から大学生で読んだはずだが、こんな難しい本がホントに判ったのかと疑問に思う。判らないところは飛ばして読んで、判ったところだけ記憶出来るのも若さの特権だ。
歴史は「確定された事実」の集積だとする詰まらない実証歴史学者がいっぱいいた。一方で、歴史は「下部構造に規定された上部構造の変革という階級闘争」だとするマルクス主義者がいた。カーは両者と違う見方を示しながら、「歴史は偶然か必然か」「歴史は個人が変えられるのか」「歴史は進歩しているのか」などを論じていく。これらは今でも考えるべきテーマだと思うが、扱う人物が古すぎる。ヘーゲル、マルクス、フロイトはいいが、モムゼン、マイネッケ、ギボンなら名前を知ってるけど、他にもう忘れられた歴史家がいっぱい出て来る。
しかし、当たり前だけど、ハンナ・アーレント、ミシェル・フーコー、フランツ・ファノン、ウォーラーステインなどは出てこない。フェミニズムやアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの歴史研究の動向も出てこない。ロシア革命は視野に入っていたが、すでに起こっていたアジア、アフリカの独立革命は論じられていない。もちろん、当時の段階でうっかり毛沢東やスカルノ、ナセルなどを論じていたら、今では読むに値しない本になっていたかもしれない。
でも「あらゆる歴史は現代史である」なんて、僕には今さら当たり前すぎる。今「歴史とは何か」を問うならば、僕にとっては隣接諸学との関連性を考えることなしには済まない。文化人類学、民俗学、社会学、考古学、地理学、経済学、社会心理学、宗教学などなど。また従来の「歴史」から疎外された人々をどのように「私たちの歴史」に組み込んでいくかも大問題。僕の若い頃には映画史そのものが「学問」の対象ではなかった。今では映画史の中で隠されてきた「女性映画人」の役割が研究されている。まあ、そういう問題である。
「歴史とは何か」という問いそのものに、バイアスがあった。「同性愛者にとって、歴史とは何か」「ハンセン病患者にとって、歴史とは何か」「琉球王国にとって歴史とは何か」…様々なヴァリエーションがある。それが今になって判ってきたことで、もう僕にはカーの本は役立たない。しかし、これほど立派な翻訳もないし、初学者には一度は挑むべき本ではないかと思う。
それが新しく訳し直された。訳者の近藤和彦氏は、元大洋ホエールズの野球選手じゃなくって、イギリス史が専門の歴史学者である。岩波新書に『イギリス史10講』があるが読んでいない。著者のカーは生前に第2版を出そうとして、未完に終わったという。その草稿も掲載されている。さらに自伝や詳細な補注まで付いていて、詳しすぎるから注はもう読まなかった。これはもともと6回に渡る講演の記録で、カーはところどころでくだけた表現、内輪受け的なエピソードを披露している。近藤氏はそこで原文にはない、[笑]という文字まで入れている。テレビの視聴者参加番組で、観客に拍手を求める合図をしている感じ。ここが笑いどころですよって示すとは、実に斬新な訳だと事前には思ったけれど、読むとやり過ぎ感も感じるところだ。

著者のE・H・カー(1892~1982)は、『危機の二十年』(岩波文庫)や大部のロシア革命史3部作(『ボリシェヴィキ革命』『一国社会主義』『ロシア革命の考察』で、みすず書房から分厚い本が6冊出ている)で知られる。すべてE・H・カーとなっているが、イニシャル部分は「エドワード・ハレット」だと今回知った。元はイギリスの外交官で、ソ連寄りと見られて次第に居づらくなったらしい。1936年に辞任して外交を論じるが、戦時中は情報省に務めた。戦後は研究者として人生を送ったが、年譜を見ると女性問題でずいぶん苦労したことが判る。ずっとロシア革命史を研究した人である。
つまり、E・H・カーは日本で普通の意味で言われる「歴史学者」とちょっと違っていた。何しろ1950年代に1917年のロシア革命を研究しているのだから、日本の感覚だとまだ歴史ではない。今で言えば、80年代、90年代の問題である。日本で言えば、中曽根政権から小泉政権あたりまでを研究対象にする。世界ではレーガン政権とかイラン・イスラム革命、湾岸戦争からイラク戦争などである。日本では「政治学」とか「国際関係論」などと呼ばれて、法学部に置かれることが多いだろう。「歴史学科」にも現代史はあるけれど、まだ高度成長期あたりまでしか扱わないことが多いのではないか。そのことは読んだ当時は全く意識しなかった。僕にとって「ロシア革命」は歴史以外に何物でもなかったからである。

昔読んだときにどこに影響されたのだろうか。それは以下のような部分だった。今回の訳文で言えば、「歴史とは、歴史家とその事実とのあいだの相互作用の絶えまないプロセスであり、現在と過去とのあいだの終わりのない対話なのです。」「過去は現在の光に照らされて初めて知覚されるようになり、現在は過去の光に照らされて初めて十分に理解できるようになるのです。」
つまり「すべての歴史は「現代史」である」のだ。これが判るか判らないかで、単なる歴史マニア(歴史上の「事実」のコレクター)か歴史研究者かが分かれるだろう。今まで教えた中でも、歴史が好きという生徒はかなりいた。中には織田信長の誕生日はいつかなどと聞いてくるのもいる。そんなものを知るわけがない。知りたければスマホでWikipediaを検索すれば済む。(天文3年5月12日〈1534年6月23日〉だった。)そんな些事はどうでもいいから、「織田政権の日本史における意義を論ぜよ」などと聞き返したいところだが、もちろん「人を見て法を説け」である。いやあ、すごいねえ、そんなことまで知ってるんだ、先生も知らなかったよと答えておくわけである。

前回の訳者の清水幾太郎は、刊行当時は「進歩的文化人」の代表格と見られていただろう。60年安保の時、雑誌「世界」に「今こそ国会へ」という論文(というか檄文)を書いた人である。しかし、僕の時代には文春から出ていた保守系誌「諸君!」で日本核武装論を論じる右派になっていた。戦時中は戦争を鼓舞していたから、2度「転向」した人である。それはともかく、訳文自体は判りやすかったと思う。でも、多分高校生から大学生で読んだはずだが、こんな難しい本がホントに判ったのかと疑問に思う。判らないところは飛ばして読んで、判ったところだけ記憶出来るのも若さの特権だ。
歴史は「確定された事実」の集積だとする詰まらない実証歴史学者がいっぱいいた。一方で、歴史は「下部構造に規定された上部構造の変革という階級闘争」だとするマルクス主義者がいた。カーは両者と違う見方を示しながら、「歴史は偶然か必然か」「歴史は個人が変えられるのか」「歴史は進歩しているのか」などを論じていく。これらは今でも考えるべきテーマだと思うが、扱う人物が古すぎる。ヘーゲル、マルクス、フロイトはいいが、モムゼン、マイネッケ、ギボンなら名前を知ってるけど、他にもう忘れられた歴史家がいっぱい出て来る。
しかし、当たり前だけど、ハンナ・アーレント、ミシェル・フーコー、フランツ・ファノン、ウォーラーステインなどは出てこない。フェミニズムやアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの歴史研究の動向も出てこない。ロシア革命は視野に入っていたが、すでに起こっていたアジア、アフリカの独立革命は論じられていない。もちろん、当時の段階でうっかり毛沢東やスカルノ、ナセルなどを論じていたら、今では読むに値しない本になっていたかもしれない。
でも「あらゆる歴史は現代史である」なんて、僕には今さら当たり前すぎる。今「歴史とは何か」を問うならば、僕にとっては隣接諸学との関連性を考えることなしには済まない。文化人類学、民俗学、社会学、考古学、地理学、経済学、社会心理学、宗教学などなど。また従来の「歴史」から疎外された人々をどのように「私たちの歴史」に組み込んでいくかも大問題。僕の若い頃には映画史そのものが「学問」の対象ではなかった。今では映画史の中で隠されてきた「女性映画人」の役割が研究されている。まあ、そういう問題である。
「歴史とは何か」という問いそのものに、バイアスがあった。「同性愛者にとって、歴史とは何か」「ハンセン病患者にとって、歴史とは何か」「琉球王国にとって歴史とは何か」…様々なヴァリエーションがある。それが今になって判ってきたことで、もう僕にはカーの本は役立たない。しかし、これほど立派な翻訳もないし、初学者には一度は挑むべき本ではないかと思う。