『気流の鳴る音』で思わず時間を取ってしまったが、『カルロス・カスタネダ』をようやく読み終わった後で、何を読もうかなと思って『死者と霊性』という岩波新書を読んだ。末木文美士(すえき・ふみひこ)編で2021年8月に出された本である。1年間放って置いたが、何となく『気流の鳴る音』につながるような気がして、この機会に手に取ってみた。末木氏他4人の気鋭の論客による討論の記録だけど、案外手強かった。しかし、「死者」をめぐる思想的討論から、未だ読んだことがない思想史の話になっていく。

僕は歴史が専門だから、社会科系の中では「倫理」に当たるような分野に弱い。哲学や宗教などの原典には読んでないものが多い。この本はまさにその分野の本で、正直言ってよく判らないことが多い。末木氏以外で討論に加わるのは若松栄輔、中島隆博、安藤礼二、中島岳志の4氏だが、『中村屋のボース』を書いた中島岳志氏以外は読んだことがない。だけど、元々は仏教史研究者である末木文美士氏の書くものが面白いと思っていて、僕は注目してきた。2020年には同じ岩波新書の『末木文美士「日本思想史」を読む』を書いている。この本も末木氏の名前を見て買ったのである。
21世紀になって、アメリカで同時多発テロが起こり、続いてアフガニスタン、イラクの戦争、「イスラム過激派」によるテロなどが起こった。日本では1995年に阪神淡路大震災、オウム真理教事件があり、2011年には東日本大震災、福島第一原発事故が起こった。内外で日常生活が突然断ち切られる事態が起こり、世界は「大量死」に直面した。そして、この討論が行われた2020年は世界的な新型コロナウイルスの大流行によって、社会が止まる事態に直面した。中島岳志が「岡江久美子の死」を論じているが、まさに親密な関係にある家族でさえ「看取り」が適わないような死が日常化してしまったのである。
(末木文美士氏)
そのような「大量の死」を社会はどのように受けとめるべきか。これは戦争の時には誰もが考えなければならなかった問題である。この本でも何度も論及されるが柳田国男は戦争末期に『先祖の話』を書いていた。だが、戦後思想は長いことこれらの問題と真剣に取り込んでこなかった。そのような問題意識を下敷きにして自由に討論しているが、丁々発止すぎて僕には付いていけないところも多かった。しかし、この本を1年置いておいたことで、まさに「安倍元首相の国葬問題」と重なってしまった。この本では政治と宗教をめぐる問題、弔うことの意味を問い直している。「旧統一教会問題」とぶつかって、時事的な意味も増してしまった。
しかし、直接的に時事的な問題、コロナ禍をどう考えるかというような本ではない。もっと長いスパンで人類史を考え、「死者」を思想的にどう位置づけるべきかという問題が考えられる。この本はほとんど書評などが出ていないと思うけど、今まで論じられたことがない視点が続出して、面白いけど理解が難しい。ここでは2点だけ書いておきたいと思う。
一つは19世紀末に活発に活動した「神智学協会」の重要性である。後にオカルトに近づき、あまり評価が高くなかったが、「あらゆる宗教は究極的には一つである」と考えて、シカゴで万国宗教会議を開いたりした。そこにはインドの宗教指導者や日本の仏教関係者も参加していた。後にインドに移って、インド独立運動の中心となった「国民会議派」とも深く関わっていた。この神智学から別れたのがシュタイナーの「人智学」だった。今までの思想史を塗り替える視点である。
もう一つ、中島岳志氏が論じる「死者の立憲」という問題。安倍政権が進めた「選挙絶対主義」、国会では論議せずに選挙で勝ったから全権委任を受けたかのように憲法解釈を変更する。そういう政治は「生者の民主主義」だという。今現在の選挙に参加した人で何でも決めて良いとする。これでは死者は浮かばれないという。憲法は97条で「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」とされている。
「人類の多年にわたる自由獲得の努力」という過去の人類は、もはや亡くなっているのである。その亡くなった人びとから「将来の国民」に「永久の権利」として「信託」されたものとされているのである。人類、及び国家は過去があり、現在があり、未来がある。死者たちによって作られた憲法に書かれた「永久の権利」は、未来へつながっていくものである。つまり「死者」を想定しないと「立憲主義」は成り立たないというのである。今まで聞いたことがない発想だが、安倍政権が進めた「壊憲」に対する非常に深い批判ではないかと思う。「国葬」論議を考える時に、ちょっと違った観点からヒントになる本かもしれない。

僕は歴史が専門だから、社会科系の中では「倫理」に当たるような分野に弱い。哲学や宗教などの原典には読んでないものが多い。この本はまさにその分野の本で、正直言ってよく判らないことが多い。末木氏以外で討論に加わるのは若松栄輔、中島隆博、安藤礼二、中島岳志の4氏だが、『中村屋のボース』を書いた中島岳志氏以外は読んだことがない。だけど、元々は仏教史研究者である末木文美士氏の書くものが面白いと思っていて、僕は注目してきた。2020年には同じ岩波新書の『末木文美士「日本思想史」を読む』を書いている。この本も末木氏の名前を見て買ったのである。
21世紀になって、アメリカで同時多発テロが起こり、続いてアフガニスタン、イラクの戦争、「イスラム過激派」によるテロなどが起こった。日本では1995年に阪神淡路大震災、オウム真理教事件があり、2011年には東日本大震災、福島第一原発事故が起こった。内外で日常生活が突然断ち切られる事態が起こり、世界は「大量死」に直面した。そして、この討論が行われた2020年は世界的な新型コロナウイルスの大流行によって、社会が止まる事態に直面した。中島岳志が「岡江久美子の死」を論じているが、まさに親密な関係にある家族でさえ「看取り」が適わないような死が日常化してしまったのである。

そのような「大量の死」を社会はどのように受けとめるべきか。これは戦争の時には誰もが考えなければならなかった問題である。この本でも何度も論及されるが柳田国男は戦争末期に『先祖の話』を書いていた。だが、戦後思想は長いことこれらの問題と真剣に取り込んでこなかった。そのような問題意識を下敷きにして自由に討論しているが、丁々発止すぎて僕には付いていけないところも多かった。しかし、この本を1年置いておいたことで、まさに「安倍元首相の国葬問題」と重なってしまった。この本では政治と宗教をめぐる問題、弔うことの意味を問い直している。「旧統一教会問題」とぶつかって、時事的な意味も増してしまった。
しかし、直接的に時事的な問題、コロナ禍をどう考えるかというような本ではない。もっと長いスパンで人類史を考え、「死者」を思想的にどう位置づけるべきかという問題が考えられる。この本はほとんど書評などが出ていないと思うけど、今まで論じられたことがない視点が続出して、面白いけど理解が難しい。ここでは2点だけ書いておきたいと思う。
一つは19世紀末に活発に活動した「神智学協会」の重要性である。後にオカルトに近づき、あまり評価が高くなかったが、「あらゆる宗教は究極的には一つである」と考えて、シカゴで万国宗教会議を開いたりした。そこにはインドの宗教指導者や日本の仏教関係者も参加していた。後にインドに移って、インド独立運動の中心となった「国民会議派」とも深く関わっていた。この神智学から別れたのがシュタイナーの「人智学」だった。今までの思想史を塗り替える視点である。
もう一つ、中島岳志氏が論じる「死者の立憲」という問題。安倍政権が進めた「選挙絶対主義」、国会では論議せずに選挙で勝ったから全権委任を受けたかのように憲法解釈を変更する。そういう政治は「生者の民主主義」だという。今現在の選挙に参加した人で何でも決めて良いとする。これでは死者は浮かばれないという。憲法は97条で「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」とされている。
「人類の多年にわたる自由獲得の努力」という過去の人類は、もはや亡くなっているのである。その亡くなった人びとから「将来の国民」に「永久の権利」として「信託」されたものとされているのである。人類、及び国家は過去があり、現在があり、未来がある。死者たちによって作られた憲法に書かれた「永久の権利」は、未来へつながっていくものである。つまり「死者」を想定しないと「立憲主義」は成り立たないというのである。今まで聞いたことがない発想だが、安倍政権が進めた「壊憲」に対する非常に深い批判ではないかと思う。「国葬」論議を考える時に、ちょっと違った観点からヒントになる本かもしれない。