尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

私立大宰相の時代

2014年02月19日 23時18分51秒 |  〃  (安倍政権論)
 安倍内閣論のスピンオフとして、総理大臣の出身大学について。世の中に出れば、どこの大学を出たかなんて二の次、三の次の問題だと思うから、その時点の首相の出身大学くらいは知ってたと思うけど、時系列的に調べてみようなどと思ったことがなかった。でも「安倍内閣のいま」を考えようと思うと、「安倍晋三という人のこれまで」を考えないといけないと思うようになった。どこの学校を出たかなどを見てるうちに、いろいろ考えるところがあり(それは次回以後に書く)、過去の総理大臣の出身大学を調べてみたわけである。

 ところで、「総理の大学」と言えば、そりゃあ東大でしょう、特に東大法学部が一番多いに決まってるでしょとまず思った。田中角栄は小学校だけ、後は早稲田の弁論部出身が時々いるだろうけど、圧倒的に東大が多いんじゃないか。では、過去四半世紀にわたって、東大出身の総理は何人いただろうか。過去25年ほどと言えば、ほぼ「平成」なる元号の時代ということになる。「平成」という紙を掲げた小渕官房長官の竹下内閣から、どんどん内閣の賞味期間が短くなって行って、なんと17人もの総理を輩出している。安倍晋三氏を2度と数えれば、延べ18人とも言える。

 その17人の中で東大を出たのは、なんと宮沢喜一、鳩山由紀夫のたった二人だけなのである。鳩山(由紀夫)は工学部だから、東大法学部出身総理は20年以上出ていない。細かいことを言えば、宮沢以前の総ての総理は「東京帝国大学法学部」を出ている。新制教育制度になって65年以上も経つが、実は「東京大学法学部卒業の総理大臣は一人もいない」とも言えるのである。

 もちろん「総理大臣には東大法学部出身が多い」という思いこみの根拠はある。戦後の総理大臣を見て行けば、圧倒的に東大出身が多いのは間違いない。平成になった竹下内閣の前、1987年に退任した中曽根内閣までの約40年間を見てみれば、幣原喜重郎から始まり、吉田茂、片山哲、芦田均、(吉田茂)、鳩山一郎、(石橋湛山をはさみ)、岸信介、(池田勇人をはさみ)、佐藤栄作とほぼ東大出が続く。その後も福田赳夫、中曽根康弘が東大。9人もいる。皆、東京帝国大学法学部。(吉田茂、鳩山一郎は、法学部ができる前の東京帝国大学法科大学の出身。1919年に法科大学が法学部、経済学部に改組された。)吉田、佐藤、中曽根と長く務めた首相が多いので、戦後40年ほどの間で、約30年近くが「東大宰相の時代」だったのである。(なお、1960年~1964年の池田首相は、広島県竹原の出身で、熊本の五高を出て京大法学部を卒業した。帝大法学部出身という意味では、東大を出たのと同じようなものだろう。)

 最近を見る前に簡単に戦前を見ておきたい。明治大正期には、そもそも大学を出た総理が少ない。大学を出るのではなく、「大学という制度を作った」人々なのである。初めて大学卒業者が総理になったのは、1924年の「護憲三派」の加藤高明首相。(その時代は日本に一つしか大学がなかったので、東京もつかないただの「帝国大学」だった。)以後。若槻礼次郎、浜口雄幸など政党内閣期の首相には東大出身者がいた。また、敗戦直後の東久邇首相が最後になるが、陸軍大学校、海軍大学校出身という「軍人首相」がたくさんいた時代だった。だから、「首相と言えば東大法学部」というのは、戦後の占領期、高度成長期に作られた通念だったということになる。

 竹下以後の出身大学を見てみる。竹下登(早稲田)、宇野宗佑(神戸商業大学=現神戸大学を学徒出陣で中退)、海部俊樹(早稲田)、宮沢喜一(東大)、細川護熙(上智)、羽田孜(成城)、村山富市(明治大学専門部法学部)、橋本龍太郎(慶應)、小渕恵三(早稲田)、森喜朗(早稲田)、小泉純一郎(慶應)、安倍晋三(成蹊)、福田康夫(早稲田)、麻生太郎(学習院)、鳩山由紀夫(東大)、菅直人(東京工大)、野田佳彦(早稲田)となる。
 これを見れば、ホント、私立大学出身の首相ばかりではないか。ちゃんと国立大を出たのは、宮沢、鳩山以外には、菅直人だけである。一方、早稲田が6人、慶應義塾が2人。人数では差があるが、小泉が5年やってるから、年数の差はそれほどない。

 ところで、これをどう読むかということになるが、一言で言えば「自民党内の権力構造が変わった」ということであり、また「日本社会の学歴構造が変わった」ということでもある。戦前から戦後にかけ、東大を出て官僚になり、その後で地元に戻って選挙に当選し政治家として大成するというパターンがあった。東大を出ているということは、「郷土の誇り」であり、選挙民も喜んで担いだという面があるだろう。戦後になって、そのパターンが池田、佐藤で完成する。

 だけど、1993年の細川内閣成立以後の、自民党一党支配崩壊後の政権では権力構造がガラッと変わった。それまでは自民党内で派閥を作り総裁をめざすというプロセスがあった。一方、細川、羽田、村山と誰を担ぐか誰にも判らなかったような時代を経て、自民党内でも「最大派閥の長が総裁になる」という時代が終わったのである。党内世論や「選挙に強い」という人気などが重視されるようになった。しかもほとんどが二世、三世議員である。(親が国会議員だった首相は、羽田、橋本、小渕、小泉、安倍、福田、麻生、鳩山と8人もいる。)

 二世議員では「東大を出る必要がない」ということだろう。「身を立て名を挙げ」の段階は、すでに祖父や親の時代に終わってしまい、「郷里の名誉を担って最高学府に進む」などと意気込む必要もない。むしろ、必ず選挙で当選しなければならない以上、「エリート臭」「官僚味」「がり勉」など東大が「負のイメージ」になる場合さえあるだろう。小選挙区の相手候補が、苦学して東京の夜間大学を出て、郷里に戻って市役所に勤務、市長に見込まれ後任となり、選挙区の隅々まで知り尽くしている…なんてタイプだったら、東大を出て中央官僚を務めたなんて過去はかえってジャマになる。

 すでに「親の地盤」がある以上、一生懸命勉強して東大に入るより、卒業生の組織が大きな私立大学の方がずっと有利ではないか。もはや大学の中身としても、有名私立大学は国立旧帝大にそん色ないし、選挙に出るときのイメージも悪くない。逆に考えれば、せっかく東大を出たのに、泥臭い政界に足を踏み入れる人も少なくなったのかもしれない。学者としてブレーンとなり社会を動かす方が面白いとか、大企業に入って国際ビジネスの世界で活躍するとか、そういう方が東大を出た意味があるという時代になったということでもあるだろう。二世議員の親からしても、子どもが東大に入れば、学者になるとか企業で出世を目指すとか言い出しかねない。私立大学を出て、卒業後に数年間民間企業に勤め、その後親の秘書となるというのが、親からするともっとも望ましい子どもということになる。そういうわけで「私立大宰相の時代」がやってきたということだ。

 ところで、これらの顔ぶれを見て行けば、何となく大学ごとのイメージがあるような感じがするのではないか。早稲田は、在野とは言えないが、「庶民派」というか、「官僚的でそつがない」の反対のタイプ。竹下、海部、小渕、森など、そんな感じではないか。もっとも森元首相などは「そつがあり過ぎ」だったと思うが。慶應は橋本龍太郎と小泉純一郎と言えば、周りを気にせず我行かんというタイプ。明治が三木武夫と村山富市というのも、何となく共通性がある。ところで、安倍首相の成蹊大学とは何なのか、という話は次回以後に。
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映画「アメリカン・ハッスル」

2014年02月19日 00時48分13秒 |  〃  (新作外国映画)
 アメリカ映画「アメリカン・ハッスル」を見たので、その感想。新作映画を見ても、あまり記事を書かないことが多いんだけど、今回は面白かったので簡単に。今年度のアカデミー賞で最多の10部門にノミネートされている。前哨戦のゴールデングローブ賞では、ミュージカル・コメディ部門の作品賞、主演女優賞、助演女優賞を受賞した。アカデミー賞の作品賞は、ゴールデングローブ賞のドラマ部門作品賞の「それでも夜が明ける」の方が強いと思うけど、男女主演、助演で4人がノミネートされた演技部門では誰か受賞するかも知れない。僕はごひいきのエイミー・アダムズの主演女優賞受賞を期待するが、ここはまだ(主演賞を)取ってないケイト・ブランシェットが、ウディ・アレンの新作「ブルー・ジャスミン」でノミネートされていて、日本公開前なので見てないけど、評判がすごくいいようだ。(今年は二人の他に、またまたまたメリル・ストリープがノミネートされている。他にサンドラ・ブロック、ジュディ・デンチ。)
 
 ところで、「ハッスル」(hustle)の意味だけど、言葉自体はハッスルしろよとか日本でも日常語で使うが、「ハスラー」と名詞化すると昔の映画の印象が強く「ビリヤード・プレイヤー」のことだと思い込んでいる人がいる。動詞では本来は「急ぐ、てきぱきとやる、張り切る」などの意味らしいが、名詞では「やり手」というところから、詐欺師、ばくち打ち、売春婦などの意味が主にアメリカで使われているようだ。チラシでは「詐欺」と書いてるけど、まあ要するに「だまし合い」というような感じの映画。一言で言えば、FBIと詐欺師が組んでおとり捜査をする話である。

 時代は70年代、実在した事件は1979年だと言うが、作中でデューク・エリントンが死んだと出てくる(1974年)。しかし、カーター政権(1976年の大統領選で当選、1977~1981)ということになってるから、まあその時期に起こった「アブスキャム事件」という政治スキャンダルの裏事情を描いた映画である。この事件は、FBIの秘密捜査官がアラブの富豪に扮して、おとり捜査で上下両院議員を捕まえたという事件だという。この映画では、最初に天才詐欺師とその愛人が捕まり、捜査官が起訴の代わりにおとり捜査への協力を求めたという事情が出てくる。アトランティック・シティにカジノを開いて雇用を増やそうと訴える市長を、アラブの富豪がカジノに出資するという与太話で引っ掛ける。パーティが開かれるが、そこに予想外のマフィアの大物が出張ってきていて…。そのパーティに連れて行ってもらえない詐欺師の妻が、どうしても連れて行けと迫り、パーティで思わぬ展開が…。

 こうして刑務所を避けるためやむを得ず始めた計画が、愛人との関係もギクシャクし、FBI捜査官はその詐欺師の愛人にひかれていって、妻が出てくるは、マフィアも出てくるはで、どんどんどうしようもない展開になって行き、最後の最後にどうなるか。というだまし合い映画だけど、「スティング」のような「きれいなだまし」ではなく、70年代アメリカの現実はもっとドロドロした誰が生き抜けるか判らない展開となるのであった。この妻が精神的に不安定で、周りの思惑を考えずに自分の感情で話をこじらせていくあたりが絶品。ジェニファー・ローレンスは去年アカデミー主演女優賞を(最年少で)取ったばかりだけど、連続で今度は助演賞を取るかもしれない。去年も精神的に不安定な役だったけど、今度も「そううつ」というか、神経症的な役柄を実にうまく演じていて見事。まだ若いのに、すごい女優だと思う。1990年生まれである。

 映画に限らないが、物語というものは、事前の予想を裏切りどんどん坂道を転がるように思わぬ展開をしていくのが、一番面白いと思う。もっともそれも脚本に書いてある通りなんだろうけど、実際に演じるのは俳優だから、俳優の身体性により納得もすれば、不満を覚えるときもある。今回はこうして事前に「思わぬ展開」と書いておいても、見るときは俳優を見てるから、改めてその時に「エエッ」と思えるに違いない。とにかく、とかく世の中はなるようになるしかない。詐欺というのは細部まで完璧にやらないといけないということだけど、FBIは所詮お役所で予算とかいろいろ自由にならないのである。

 監督、脚本はデヴィッド・O・ラッセルという人で、「スリー・キングズ」「ハッカビーズ」などを作り、ボクシング映画の「ザ・ファイター」で成功した。アカデミー賞で助演の男女優賞を取った。その映画で助演男優賞を取ったクリスチャン・ベイル(バッドマンなどをやった人)が天才詐欺師、その映画で助演女優賞にノミネートされたエイミー・アダムズ(その映画は助演女優賞に二人ノミネートされ、受賞はメリッサ・レオという人だった)が詐欺師の愛人役。一方、ラッセル監督が次に作った「世界でひとつのプレイブック」はアカデミー賞に8部門でノミネート。特に男女、主助演賞に4人がノミネートされ、ジェニファー・ローレンスに主演女優賞をもたらした。その相手役で主演男優賞にノミネートされたブラッドリー・クーパー(「プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ」の警官役や「ハングオーバー」の花婿の友人役など)がFBIの捜査官で、前半は詐欺師と愛人と捜査官の3人で進むが、後半から詐欺師の妻ががぜん生き生きしてくる。以上の俳優4人と監督はアカデミー賞にノミネート。

 70年代の風俗や音楽がいっぱいなのも嬉しい。冒頭に「名前のない馬」が流れるが、これはアメリカという名前のグループのヒット曲。市長がパーティで「デライラ」を熱唱するのも懐かしい。あのトム・ジョーンズの大ヒット曲。オイルショック以後の、「アラブの富豪」が欧米を席巻していた時代も今では考えられない時代相である。特に訴えるテーマがある映画でもないけど、ただよく出来たドラマで、こういうのがハリウッド映画の粋ではないかと思う。
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